2 cups of coffee
男が好んで注文するのは程々の苦味と芳醇な香りを特徴とする銘柄だった。店員が白いカップを届けると、男は湯気がゆらゆらと薄い線を描くうちに一口飲む。少し冷めて丁度良い温度になった頃には何度もカップを口に運び、無地の底に茶色い輪が残される。ソーサーにスプーンは添えられていない。男はいつも、砂糖もミルクも入れないからだ。
今朝も開店して幾許か経つと、来店した男は定位置である二人掛けの席に腰を下ろした。メニューを開くことなく注文を済ませると、持参した本を開き、黄ばんで変色したページを丁寧な手付きでゆっくりと捲る。活字の続きを渇しながらも、滑らかな陶器を彷彿とさせる指先が優しく紙を労わる様は、男にだけ別の時間が流れているように錯覚させた。そこには余裕があった。
店員が黙って男にカップを届ける。数日に一度の頻度でトーストを齧っているが、今日はコーヒーだけのようだった。男は口を開くことなく、視線だけを上げて礼を伝えると、細い取っ手に指を掛けた。コーヒーは静かに男の喉を流れ落ちる。
私が座るのはいつも窓際の二人掛けの席だった。正面は通路で、朝日の届かない奥の席に落ち着く男の様子が良く見える。窓は単調な柄のレースのカーテンが控えめに覆うのみで、勢いを失くした日光が適度に背中を温める。本を痛めたくない男が決して近寄らない位置だった。
自分のコーヒーが空になったところで、男もコーヒーを飲み終えたようだった。カップの存在は忘れ去られる。古びた本だけが男の意識を独り占めするのだ。
私も本に挟んでいた栞を頼りに、次の章へと意識を沈める。先日買ったばかりの真新しい本だった。数日前まで男が読んでいた分厚い小説で、作者は既に無くなった国の隠れた文豪だ。幼少から禁欲的な規則に従ってきた修道女が、欲望のままに暮らし自由を謳歌する強かな悪党と仲良くなる。在り来たりだが、二人の言葉と行動が生々しく、胸を衝く物語は現代においても数多くの人間に愛されている。結末を知ってしまっていても、交わされた会話、訪れた展開、二人が辿った軌跡を望ませる魅力があった。
男と私の本の好みは概ね似ているが、合わないこともある。男が読む本を追い掛けて手に取っていくと、意表を突く掘り出し物に出会うこともあれば、そのつまらなさに首を傾げることもあった。果たして男は面白いと感じたのだろうか。文字を追う姿勢は淡然としており、内面が窺えたことはない。
店内に会話はなかった。客の出入りを告げる鈴も取り付けられていない。時折、注文と会計の声が囁くように響くのみで、敏感な聴覚は沸騰した湯が空気を昇らせる音さえ拾った。表の路地の砂利を車がにじる。
貴方はそうして私を遠くから見ている。貴方は何もかもには興味を持たない。私が特別であることはわかっているけれど、隣で微笑んではくれないのだわ。修道女は遥か遠くに男を捉え、悲嘆に暮れて独白した。
可笑しかった。つい顔を上げると、男は私と視線を交わらせ、口端に笑みを浮かべた。飾り気のないシャツとスラックスを纏った肢体が、久方ぶりに立ち上がって暗い通路をこちらへと歩いてくる。私の向かいの椅子が引かれた。
「ジャイ子はいつもオレを遠くから見ている」
「ええ。誰でもじゃないわ。クロロが特別だからよ」
「せっかく向かいが空いている席に座っているのに」
「一人で本を読みたい気持ちはわかるから」
「二人でもいいから、ここを紹介したんだろう?」
「一人でもいいから、ずっとお互いに何も言わなかったんでしょう?」
返事はなかった。クロロは悪戯っ子のように笑うと、手を挙げて店員を呼んだ。腰を折る実直な店員に二杯のコーヒーを追加で頼んでいる。彼が好きな銘柄と、私が好きな銘柄だった。