心字池の少年


嫌なことは数えても減らない。
だからジャイ子は塗りつぶす。自分のオーラに様々な色をつけて、真っ白なカンバスを塗りつぶしていく。題材はなんでも良かった。が、出来れば黒や灰色の多いものが良かった。
ジャイ子のオーラから生まれる色は、ジャイ子の感情に大きく左右されるらしい。特に、突発的に絵を描きたくなるような気分の時は明るい色を出すのが難しく、風景を描くにしても夜の方が適していた。

「お姉さん、誰?そんなところで何してるの?」

くじら島は風光明媚な土地だ。島の人口は少なく、それに伴って人口の灯りもぽつぽつと建つ家からぼんやりと漏れる程度。人の住んでいるところですら街灯がないのだから、ジャイ子が今いる池の周辺などは手元の文字も読めないほど真っ暗だった。

もちろん、普通の人間なら、の話だが。

ジャイ子はかけられた声に振り返り、訝るようにそこに立っていた少年を見る。念能力者で各地を旅している根無し草の自分はともかく、こんな時間、こんなところに子供がうろついて、怯えもせずに誰何(すいか)してくるなんて妙な話だ。聞くところによると魔獣の類には人の姿に化ける物もいるらしく、自然豊かなくじら島ならそういう悪戯狐がいても腑に落ちるような気がした。

「私はジャイ子。見ての通り、絵を描いてるの。」
「こんな時間に?」
「君こそ、おうちに帰らなくていいの?危ないわよ。」
「オレは森の皆にお別れを言いに来たんだ。」

夜にしか出てこない子もいるから。

そう言った少年は、そのまま臆することなくこちらに近づいてくる。「お別れ?」少年こそが"森のみんな"ではないかと疑っていたジャイ子は、彼の言葉に首をかしげた。

「そう。オレ、明日この島を出るんだ。ハンター試験を受けに行っていいって、ようやくミトさんから許可が貰えたから。」
「ふぅん…。」
「ジャイ子さんはこの池の絵を描いてるの?」

カンバスを覗き込んだ少年は、夜目が効くのだろうか。暗闇で暗い配色の絵を見ても、ただ真っ暗にしか見えないだろう。
第一、この絵はあまり人に見せて喜ばれるようなものではない。ジャイ子はこれでもそこそこ名の通った画家だったが、表に出して評価されているのはどれも明るい気分の時に描いたものばかりだ。

認められる感情と許されない感情。
どちらも確かにジャイ子のものであるのに、価値が違うのはどうしようもない。さすがに少年の前で絵の具を付けずに描いて見せるわけにはいかなかったので、ジャイ子は黙って筆を置いた。

「絵上手いんだね、ジャイ子さん。オレ、水は青とか水色で描くものだとばかり思ってた。」
「ただ青く見える水でも、目を凝らせばたくさんの色が混じってる。赤や黄色や緑、映り込む景色や水底の土の色が混じりあって、そこに一つの色を完成させるのよ。」

感情だって一つではない。時には正反対の想いを同時に抱くことすらある。例えば今のジャイ子は目の前の少年に対して、疎ましさと親しみを感じていた。鬱々とした気分だから一人にして欲しい。でも、この絵を見て好奇心を抱いてくれた彼にほんのちょっぴり嬉しさも感じている。
少年はカンバスと、それから元となった景色を見比べて、ほおっと小さなため息を漏らした。

「ううーん。やっぱりオレにはそんなにたくさんの色は見えないや。きっとジャイ子さんは特別な目を持ってるんだね。」
「特別な目?」
「そう!他の人が気づかないようなことでも気づける、素敵な目。」
「……なんでも気づけばいいってものじゃないわ。」

望まれているのは金になる絵だ。込めた想いは汲み取られることなく、売れたものが良いものなのだと、人々の目の色がそう物語っている。ジャイ子はそれがとても嫌だった。嫌だったけれど、気づいてしまったからには無視できなかった。
求められているのなら__そう、思ってしまった。

「ジャイ子さんは気づきたくないことがあったの?」
「そうね。」
「気づかないほうが幸せだった?」
「……わからない。」

人々が求めている物に気づかなければ、ジャイ子は画家として売れなかったかもしれない。好きなものを好きなように描いて生活していけるほど、ジャイ子は別に天才でもなんでもない。
言葉少なになったジャイ子に、少年は「オレもね、」と語り始めた。

「目には自信があるんだ。今みたいに暗くても結構見えるし、他の人よりずっと遠くの方まで見渡せる。」
「そうみたいね。」
「だからきっと、明日の船で旅立つ時、最後の最後まで見送ってくれるミトさんの寂しそうな顔が見えちゃうと思うんだ。」

ミトさんというのは、きっと少年の保護者か何かだ。先程、ハンター試験を受けに行く許可を出してもらったとも言っていたし、彼の横顔からも大事な人だということが窺える。

船で旅立つ少年と、それを見送る女性の姿。女性はきっと、笑顔で彼を見送るのだろう。泣きだしそうになるのをぐっと堪えて、折角の門出に水をささないよう、頑張ってきなさいと励ます。けれども、出航して船が小さく小さくなったとき、彼女は堰を切ったように寂しさを溢れさせるのではないだろうか。本来ならば見える距離ではない彼女の想いが、目のいい少年には船上から見えてしまうのではないだろうか。
ジャイ子はその光景を想像して、ぎゅっと胸が締め付けられた。

「ミトさん、ずっとオレが試験を受けに行くこと反対してたんだ。それでもオレはこの島を出るけど、だからってミトさんがどんな想いで送り出してくれたかを知らない方がよかったとは思わない。ミトさんは優しいからきっと最後は笑って送り出してくれると思うけど、それだけで全部ってことにしたくないんだ。」
「……。」
「ジャイ子さんの目もよく見えるんでしょ?嫌なことが見えちゃうかもしれないけど、オレは人より多く大事なものに気づける素敵な目だと思う。」

__油絵って、色の上に色を塗り重ねていくんだよね?

少年はそう言って、闇夜の中で眩しく笑った。

「ジャイ子さんは青を青だけで塗らない。こことかまだ、暗い青の下に黄色が残ってるよね。」
「ええ、下塗りをしておくことで色の深みや美しさが増すの。」
「オレね、悲しいことや辛いこと、気づきたくないことって、全部この下の色なんじゃないかなって思ったんだ。」

完成した暁には、下地の色は見えない。だが少年の言葉を聞いて、彼が何を言おうとしているかはわかった。下地の色は大事だ。気づかなくても絵を楽しむことはできるけれど、気づけばより深い色合いを、作者の意図を、感じ取ることができる。
そしてふと、生きるというのもそういうことなのかもしれないな、と思った。ぱっと見て目に見える部分だけが全てではないのだ。あまり好きではないのに評価された絵も、努力なしで描いたわけではなく、構図や塗り方、全てにこれまでのジャイ子が生かされている。これまでのジャイ子が下地となって、評価されているのだ。
自分の目は見えすぎると思っていたけれど、こんな大事なことに気づいていなかったなんて。

「……ねぇ、君。名前は?」

保護者の名前は聞いたけれど、肝心の少年の名はまだ聞いていない。もし彼の正体が悪戯狐だったとしても、それはそれでこの出会いに感謝しよう。

「そっか、名乗ってなかったね。オレはゴン」

彼は明日ここを発つ。ジャイ子もこの島に長居するつもりはない。
時間はあまりないが、今なら明るい色も描けるだろう。
ジャイ子は屈託なく笑うゴンを見ながら、カンバスの中の景色に少年を一人描き足そうと思った。

「ゴンくん、少しだけそうしていて」

それは今まで描いたどんな絵よりも、素敵な絵になる予感がした。