星月夜
何かを待っている訳ではない。何かが変わるわけでもない。ただひたすら地面に座り込んで眼球すら動かなかった。固まった視界すら見えず、私の目は何もない空間に呑まれていた。ごうごうと湧き荒れる風が大きな窓一枚に隔たれ、消され、残るのは静寂に包まれた部屋だけだった。時計の針だけが刻一刻と狂う事なく時の経過を告げている。一面に広がる雲が白々と眩しい程に映り込む。
さようなら。
溢れた吐息にのった言葉はガジャンと雑に閉められたシャッター音に掻き消される。自分が放った重い扉は想像以上に煩さい音を立て心を揺さぶった。暗闇の中、音を頼りに時計の元に近づく。カチリ、カチリと一刻一刻が頭上に重く響いていく。彼との時を見守ってきたその時計にそっと手を掛け、私の腕では支えきれずに零れ落ちた。パリパリパリッと音を立て、透明な破片が散っていった。心の割れる音が聴こえ、そしてまた辺りが虚しい静寂に包まれた。
何をしている
そう、幻聴が聴こえてくる。ふと、ドアの方を向いてしまう。いないよ。いないの。彼はもう。目を開けているのか瞑っているのかすらわからなくなるような暗闇の中、脳裏にあの映像が惨たらしく再生される。やめて、痛い。やめて。そんな声は届かない。幻影旅団、団長。初めて知った彼の職業。こんな形で知ることになるとは思ってもみなかった。9月4日ネット上で瞬く間に広まった死体の画像。解体動画。見なければよかった。なんて思っても、もう遅い。
何もない部屋だ。今までクロロと使っていたソファーも、テーブルも、ベッドも、絨毯すら全部消えた。衝動的に消してしまった。それでも、痕跡を確かめるように、ベッドのあった所に倒れ込んだ。途中で貝殻のように砕けた破片が何度も刺さり、足の裏が熱く、そして冷たい血が流れている感覚がした。冷たいフロアに這いつくばり何もない部屋にただ独りぽつねんといる様はあの時と何ら変わりがないただ、どうしようもない虚しさが心から身体から溢れかえってこのまま何も残らず絞り取られてしまいそうな苦さは初めて感じた。
___あの時クロロは私を拾ってくれた。
稀少種として買われ、ずっと閉じ込められて奴隷のような生活を送ってた。毎晩毎晩相手をさせられ身も心も限界だった。気付けば私の手は周りの物を消していた。触るもの全てが消えていった。檻も、机も、ソファーも、一瞬にして消えた。見せびらかすように飾ってあった骨董品も装飾品も全部消した。警備員も、そして家主も触っただけで消えていった。
全ての物から解放された私が手にしたのはどうしようもない虚無感だった。何日もその場から動けずにいた。何もない真っ白な部屋が私を嘲笑うかのように迫ってきて、問う。"お前は何をしたいんだ"。自由を手にしたところでどう生きればいいのか分からなかった。
その時クロロに出会ったのだ。彼は倒れ込む私を見下ろし無言で拾い上げ、外の世界に連れ出してくれた。
___こうして消えてしまうなら、あのまま死んだ方がましだった。
「何をしている」
深く心に通るテノールの声がまた聴こえた気がする。もう幻に惑わされたくない。それでも気付けば私の顔は声の方を向いていた。ドアの隙間から溢れた光が反射して神秘的な碧色を淡く映し出した。
なんで、いるの。
そう思っても、ただ口がぱくぱくと動くだけで言葉にならない。そんな私を気にもせずクロロは窓の方まで歩を進める。途中、砕けた硝子がじゃりじゃりと擦れる音がしたが、お構い無しだ。そして固く閉まったシャッターに手をかけると一気に上まで持ち上げた。眩しく、は、なかった。ただ一面に黒い闇が広がり、煙がかった空の隙間から月明かりが漏れている。
「忘れ物を取りに来たのだが」
振り返りもせずにそう呟くクロロ。急に冷静になった私の頭が警鐘を鳴らした。どうしよう。どうしたらいい?今この部屋には何もない。そもそもこの家はクロロの物だ。それに私は結局のところ盗品の一つに過ぎない。たまに鑑賞されては放っておかれる、そこら辺にあった物と変わらない。それでも彼は私に乱暴はしないから、ここの居心地がよかったから。彼の数多くの仮宿のひとつの此処にたまに来てくれるだけでよかった。それでいいと言い聞かせていた。いつ私が他の物と同じように飽きられるか分からないそんな心配を頭の隅に追いやっていた。どうしよう、追い出されたら。とりとめのない思考が波のように押し寄せる。
「ごめんなさい、クロロ、私、」
捻り出された言葉が続く間もなく彼は私を担ぎ上げると、全開の窓の縁に足を掛け一切の躊躇いもなく、飛んだ。高層ビルの最上階から。底の方にきらきらと星空が広がっている。そこに吸い込まれるように一直線に落ちていった。風を切る音に邪魔されてクロロの言うことが殆ど聞き取れない。ただ、
「忘れ物はお前だ」
その一言が耳の奥でしっかりと響いていた。
目から零れ落ちた雫が上昇気流に運ばれて空高く舞い、漆黒の夜空に星を咲かせた。