終わりの季節
おおよそハンター文字に統一された世界において、この失われし言語について研究している人間など私くらいなものだろう。学部生が気まぐれに尋ねてくることはあっても、それは暇を持て余した雑談のひとつに過ぎない。
だからこそ奇妙なまでに端正な顔をした男が「この本に書いてある文字を解読してくれないか」と私の研究室を訪れた時、彼が学部生でないことは明らかだった。日々実験が行われているような研究室とは違い、私達の研究室は室長である教授の不在を、無意味に博士課程まで進んだ人間が日替わり当番をしている。金曜日はちょうど私の担当の日で、その男、クロロ=ルシルフルが現れたのもちょうど金曜日のことだった。窓の外に見える銀杏の木は、もうずいぶんと葉を落としていて、彼と出会った季節が冬であったことが私の印象に残った。
クロロが持ってきた本は、私が未だ存在すらも知らない本で、しかしながら私が研究している言語で書かれていることは間違いなかった。興味深いのは確かだが、私は次の学会に発表する論文で手一杯なのである。
「それ、あなたが読む必要のあるものなの?」
素っ気なく聞けば、クロロは「どうだろうな」と曖昧な返事を寄越した。私は個人的にその本に興味があったけれども、あまり読む気もなさそうなクロロのためにわざわざ翻訳してやろうとも思えなかった。
「読んでいるふりをしていればいいじゃない」
「だがオレにはこの言語は読めないんだ」
「それでわざわざ、読める私のことを探したの?」
クロロは否定も肯定もせず「また来るよ」と一言だけ言い残して研究室を去った。
それからというもの、毎週金曜日になると、クロロは研究室にやって来た。本の解読をしろというわけでもなく、ただただ私の研究室で読めるはずのない本をぼんやりと、愛おしそうに読んでいるふりをしていた。
雪が降り積もる季節になっても、手がかじかみ白い息が漏れる季節になっても、金曜日になるとクロロは必ず研究室にやって来た。
「ねぇ、まだ読んでいるふりをしているの?」
「最初に読んでいるふりでもしてろと言ったのは、ドラ美のほうじゃなかったか?」
からかうように言われると、全くその通りなので私は素直に降参のポーズをとった。
「そうね、じゃああなたに良いことを教えてあげる。その本の言語を、私は確かに読解することが出来るけれど、ここからずっと北にある王立図書館に、その本の写本が遺されているわよ。あなたが持っている本は貴重な本だけど、とても抜けが多いの。その本の研究を本当にしたいなら、王立図書館にコネでも作って頭を下げて見させてもらうことね」
私の話を聞くと、クロロはどこか納得したような顔をして「そうだな」と一言だけ呟いた。
半月程が経った頃、北にある王立図書館が幻影旅団に襲撃されたと新聞で読んだ。大学の研究室や王立図書館などは近しいものに感じるが、未踏の地である北に対して、あまり深い同情の気持ちは湧かなかった。ただ少しだけ、幻影旅団に盗まれたらしい写本を私も見てみたかったという気持ちだけがぼんやりと心の底に残った。
そのような事件も忘れ去られようとしていた小春日和の頃、久しぶりでありながら相変わらず金曜日にクロロは研究室へとやって来た。
「久しぶり」と変わらぬ調子で言った私に、クロロは「写本のほうは文字が薄くてより読むのが困難だったよ。よければお前にやるが」と何食わぬ顔で言った。
「なんのこと?」
「見ないふり、か。ドラ美らしいな」
それからもう二度とクロロが研究室に来ることはなかったが、今でも私の手元には、見ないふりを続けるべき誰かの盗品が保管されている。