ガルグ=マク風ミートパイにサガルトのクリーム添え。デザートには祝福のゼリー。元来食事に凝る性格ではなかったし、美味しくても不味くても空腹が満たされればなんでもいいやと思っていたけれど。アッシュの手料理と出会ってからは食事も娯楽の一つであると、食器を握る楽しみを知った。
主菜にせよ甘味にせよ彼の作るものは何を口にしても『美味しい』の四文字が自然と口から溢れ出す。大袈裟だと言うのなら一度食べてみたらいいと思う。どこかで食べたことがあるような、懐かしい味がするから。ああ、あまり彼の腕を誉めていると料理人がへそを曲げてしまうかもしれない。けれど分かって欲しい。私には料理人が欲する言葉を持ち合わせていないことを。たとえ名の知れた料理人が腕によりをかけ材料の原型を留めない長い名前の料理を自信満々に出されたとしても、この媚と嘘で鈍った舌を唸らせ錆び付いた食欲をそそることが出来るのは彼が作る料理だけなんだと思う。

黄金色に焼けたパイ生地。少し赤く色付いた中央目掛けてフォークを刺せば溢れ出す肉汁とトマトソースが絡み、酸味を含んだ香ばしい湯気が鼻を擽りながら空っぽの腹を刺激する。
早く口に運んでくれとフォークに絡み付くチーズにもう少し焦らしてやろうと、ちぎれないようにフォークを揺らす。すると思ったよりも長く伸びる糸に感嘆していると正面から聞こえてくる笑い声に恥ずかしさを覚え、くるくるとフォークに巻き付けソースと共に口に運んだ。
お肉の旨味が口一杯に広がり、そのすぐあとに押し寄せてくるトマトの心地よい酸味。舌の上でとろけるチーズは肉の脂っこさを包み込みながら喉の奥へと落ちていき、香ばしい後味が優しい余韻を引く。ああ、たまらない。癖になりそう。

「いつ食べてもアッシュの手料理は美味しいね」

チーズを巻きながら花も綻ぶような笑顔を惜しげも無く振り撒くなまえにアッシュはそんなことないですよと照れ臭そうに頭をかいた。
アッシュがなまえに手料理を振る舞うのはこれで何度目だっただろうか。初めてなまえがアッシュの手料理を口にしたのは実技終了後に半分分けてもらった携帯食料だった。水だけでは耐えきれないと膝を丸め空腹に喘ぐなまえを見かねたアッシュが、あまり美味しくないけれど空腹凌ぎにはなりますよと携帯食料を渡したところから二人の関係は始まった。顔も名前も知ってはいるが話したことは無い。
赤の他人よりも縁遠い人間にどうして優しくできるのだろう。市販ではなく手作りの携帯食料になまえは一瞬質の悪い悪戯を疑ったが、臓器ごと抉るような空腹を凌げるならこの際何でもいいやと腹をくくり口にした携帯食料がそれはもう飛び上がるほどに絶品で。考えるよりも先に『美味しい』の言葉が飛び出したのはいつぶりだろうか。今まで口にしてきたもの全てが霞むほどにそれはもう衝撃がはしるほどの味だったと、今でも唇を嘗めるだけではっきりとあの懐かしい味が蘇る。
食堂の料理も美味しいことは分かってる。けれど何を食べても物足りなくて、勇気をだして一人で歩いている彼に声をかけた。貴方の作った携帯食料が忘れられなくてもう一度作ってくれない?と。さほど仲良くもないのに手料理が食べたいなんて言われたらどう思うだろう。仮に私が作る立場なら料理人に頼んでくださいと断るところだが、彼は心配になるほどお人好しで、考える素振りも見せず二つ返事で了承し携帯食料よりもずっと美味しいものを作ってくれた。
カルボナーラにムニエル。大したものじゃないと彼は言うが数える程しか包丁を握ったことの無い私には十分手の込んだ料理だった。一皿、また一皿と白い山を積み上げていくにつれ胃袋どころか味覚すら料理上手なアッシュに掴まれていく。彼の料理じゃないと食べた気がしないのは、私の舌がアッシュの手料理でしか満足できないように組み換えられてしまったからだろうか。口に物を含む度、アッシュの方が上手く作れる...なんて。照れ屋な彼の事だ。そんな事はないと顔を真っ赤に謙遜する姿が容易に想像つく。

氷を削るようにパイを割きチーズを巻いて口に運ぶ。ほっぺたが落ちそうだと頬に手を添え幸せそうに唸るなまえにそれはよかったと言葉を返すアッシュ。しかしなまえと比べ半分もパイを削りきれていない。勿論アッシュも育ち盛り。なまえと同じ、いやそれ以上に腹の中は空っぽである。しかし自分が作ったものを美味しい美味しいと感想を零し、蕩けそうな頬を押さえる姿を見ていると自然と自分も食べたような気になり満腹感に浸り自然と手が止まってしまうのである。
食べるというよりも食べる姿を眺めてばかりのアッシュをよそになまえは黙々とフォークを刺し、ごくりと噛み砕いた固形物を喉の奥へと大切にしまう。乾いた喉に水を流しふぅと一息ついたようにフォークを置いたなまえは机の上で手を組み感慨深そうに数口しか手についていないアッシュの皿と半分平らげた自分の皿を交互に眺めながらポツリ

「私ね、食事なんて空腹が満たされれば味なんてどうでもいいって思ってたの」

独り言のように吐いた言葉はその笑顔に見合わないほど乾いていた。目を丸くした苗色になまえはふふっと他人事のように微笑み、遠くから聞こえてくる甲高い叱り声にそっと耳を塞いだ。

閑古鳥よりも甲高く薔薇の枝よりも棘だらけ。叩きつけるような声はいつも叱りつけるために私の名前を呼びつける。
紋章を持たない小貴族の末娘として生まれた私は周りの紋章持ちの娘に負けないようにと両親の厳しい教育を受けながら育った。持たざるものとして生まれたのなら、せめて品位だけは磨きなさい。それが母の口癖だった。礼儀に踊りに針仕事。洗練された貴族となるため、縛りの多い生活を送ってきた私にとって食事以上に苦痛な作業はなかった。流暢に味を楽しんでいる暇などない。食事相手を退屈させないようにと真っ白な脳みそから話題を絞りだし相手の表情を伺っていると食事は半分も進まないし、食事を楽しむあまり相手を退屈にさせてしまう。初対面の人と話すのは得意な方ではないし、名前も知らない人と空間を共にするだけでも気が重い。笑顔を絶やさないだけで精一杯というのに、場の雰囲気を盛り上げることなんてできるはずもない。
しかし一流の貴族へと成り上がるにはできなければならない。どんなに愛の冷めた人達でも私にとってはたった一組の両親である。機嫌を損ねたくたい、捨てられたくない。代わりはいくらでもいる世界で、親の期待に応えたい。その一心で私はは自分の気持ちを抑え両親の求める娘になろうと努力した。

背筋を伸ばし自分よりも幾分年上の殿方に頭を下げながら育っていくと自然と愛想笑いが上手くなるもので。相手の顔を具に伺いながら隙をみて皿の上のものを片付ける。ニッコリと笑い絶妙な間合いで相槌を打ちながら相手と同じタイミングで食事を済ますなんて御手の物。決して自分の気持ちは優先させず、相手を楽しませることを一番に。貴族社会に長く揉まれるうち、自然と身についた生き残るための知恵。鼠一匹入り込めない堅苦しい環境だ。閉じ込められて成長していくうち食事は楽しむもの、なんてそこらの子供でもわかることもなまえの頭の中からはさっぱりと消えていた。食事とは将来がかかった第二の戦場。流暢に何が入ってるだの塩が効きすぎてるだの、味を楽しむ余裕はなかった。でも…今は違う。自分の中で失われていた感情が蘇ったかのような、前よりも清々しい気分だ。パイの色味もチーズがこんなに伸びることも前の私は何一つ知らなかった。

「アッシュに出会ってから食事の見方が大きく変わった。…本当にすごく美味しい。毎日食べていたいくらいに」
「まっ、毎日って!!そ、そそそれはどういう意味ですか!?」
「どういう意味って…言葉通りの意味だけど。アッシュ顔が赤いよ?気分が悪いなら医務室に…」
「平気!!平気ですから!!!!」

狼狽し目をそらすアッシュになまえは不思議そうに小首をかしげた。誉めたつもりだったのに、何か気に触ったのだろうか。ハタハタと顔を扇ぐアッシュを眺めながらなまえは肩を竦め再びフォークを手に取ると残り半分のミートパイをペロッと胃におさめた。卒業まで残り半年。アッシュの手料理を食べながらこうしてお話しするのも残り半年と思うと不意に口の中に塩っぱさが広がる。士官学校を卒業したら私は適当な貴族の家に嫁がされる。あまり性格がいいとは言えない夫を支える妻はどれほど苦い汁を啜ることになるのだろうか。

できることならこの優しい時間に溺れていたい…悶々と心をすり減らしながら小さな窓から空を見上げていた日々がもう五年も前のことと思うと、時が経つのはあっという間だと誰かが残した言葉が身に染みる。

大陸全土を巻き込んだ戦争にようやく終止符が打たれた。五年前の穏やかな日々が少しずつ戻っていくことに喜びを感じながら机に肘をつき前掛けの結び目を揺らす背中にふふっと柔らかい笑みが溢れる。
五年前、すっかりと胃袋を鷲掴みにした料理上手な彼は今日も厨房で私のために幸せを作ってくれている。きっと両親は城主が料理を作る姿に目を丸くして「お前はいったい何をやってるんだ!」とカンカンになって怒るのだろう。でも私はもうガスパール領城主・アッシュ=デュランの妻だ。怒られるなんてお門違いだし、家を出た後文通も早々と途切れ、ここ最近は顔も見せていないほどの疎遠状態である。私はもうお払い箱ってところか。家を出てから一年足らず、いい歳してまだ紋章にこだわり続けていた 二人の間に念願の紋章持ちの弟が誕生。両親の関心はすっかりと弟に向き不出来な娘の存在などすっかり忘れてしまったのだろう。あまり良好じゃなかった親子関係。両親が何を企んでいようが家名を捨てた私には何一つ関係はないし、お互い清々しているのでは無いだろうか。私は念願叶って両親の呪縛から解かれ、両親は出来損ないの娘を適当に嫁がせることが出来たのだから。それにしても…

「まさか本当に毎日食べれるなんて、あの頃の私は想像もしてなかっただろうなぁ」

いつの日か大好物だと話した料理がコトリと目の前に運ばれる。「今日はどうしてこのメニューにしたの?」と試すように尋ねてみると彼は照れ臭そうに「なまえはこれが一番好きだったでしょ?」と当然のように返してくるものだから緩んでしまう口許を手で覆い隠す。覚えてくれてたんだ。嬉しいと恥ずかしいが交互に押し寄せるような...なんとも複雑な心境だ。一回しか伝えた覚えないんだけどなあ。
これが五年前なら、あわあわと忙しない反応を見せるアッシュの赤面顔を眺めながら面白い人だなぁと微笑ましく見守っているのだが...五年の歳月を経てこんなにも男前に成長するなんて。
昔のアッシュは小動物みたいで可愛かったとからかうように昔の話を持ち出してみる。するとそういえばそんなこともあったねとアッシュは懐かしむように目尻を下げ、「そういえば」と大事な事を思い出したかのようにグルンっと体ごと振り返った。

「学生時代の頃、君に毎日僕のご飯が食べたいって言われた時は凄く驚いたよ。片想いしてた女の子にまさかあんな大胆な告白を受けるとは思ってなかったなあ」
「うっ…あの頃はまだ私も青かったし、言葉の深い意味を考えていなかったと言いますか。つい口が勝手に動いたと言いますか…」

思い返すだけで顔から火が出そうなほどあの頃の私は無知であった。都合のいい理由を探してしどろもどろに目を泳がすなまえにアッシュは勝ち誇った笑みを浮かべる。鈍感で真っ直ぐに気持ちを伝えるなまえには学生時代さんざん振り回されたアッシュだったが、身も心も成熟し、鈍感だったなまえを十二分に意識させ、今度は自分が振り回している状況が素直に嬉しかった。

向かい合って席に着く。今日もありがとうと微笑むなまえにアッシュどういたしましてと捲った袖をおろす。女神様へと感謝を述べ、芸術的な表面にフォークを刺す。今日もおいしいなぁともっもっと口を動かすなまえは城主というよりもすっかりと主夫が板についた素敵な旦那様を眺めながら、ふとこの幸せの始まりに思いを巡らせた。
焦げるような恋心に声をあげて泣いたのはガスパール領主となった彼が自らの足で縁談話を持ってきたときだった。特別意識することのなかった学生時代、なまえから見たアッシュは奥手で少し頼りないけれど誰よりも人の気持ちがわかるそばかすの似合う料理上手な友達だった。
アッシュは元平民だったそうだがロナート卿の養子として迎えられ、いずれはガスパール家を継いで城主となる期待の星。でき損ないの私とは正反対の人間だった。引き取られる私とは違いアッシュは選べる立場。だからいつか私の家では足元にも及ばない大貴族の美しいお嬢さんをお嫁さんに迎え穏やかな人生を伴侶と共に添い遂げるのだろうなあと、まだ青かった頃の私は幸せそうにお嫁さんの横で微笑むアッシュを想像しては羨ましい人生だとため息をついていた。決められた道を歩くことしか許されない人生に絶望し、足元ばかりを見つめ歩く私には無数の針が刺さったかのように痛む胸の正体がなんなのか分からなかった。
士官学校を卒業し戦争も終わりを迎えると家を建て直す生け贄として顔も名前も知らない有力貴族との縁談が決まった。自分の知らない場所で着実に進んでいく身支度。棚に掛る服は残すところあと一着だけになってしまった。戦乱の世に幕を下ろした英雄の一人として持ち上げられたアッシュの噂は私の家にもしっかりと届けられた。さよならと手を振ってもう五年。もしも君が噂通りの英雄になったのならば、もう私の知るアッシュはどこにも居ないのだろう。瞼の裏であどけない笑みを浮かべた朧気な銀髪の少年。名を呼び駆け寄ろうとしたが、彼の腕は知らない女性の肩に回り、私の肩にも知らない男の腕が回っている。昔は羨んで見えた想像に信じたくないと口のなかに拡がる不快な酸っぱさに気づいた時、彼が最後に作ってくれたミートパイが無性に食べたくなった。アッシュと離れて五年目。刺すような胸の痛みが彼の隣に立つ名も知らぬ女性への身勝手な『嫉妬』であることを理解するにはあまりにも時間がかかりすぎてしまった。

紋章を宿さない娘を嫁にとりたいと手を挙げる貴族なんてそういない。紋章なしに冷たい世界。せめて家のために役に立てと両親が血眼で探し出してきた縁談に文句なんて言えなかった。厳しい教育に決められた道、生まれた頃から周りに流されて生きてきた。黙って笑っていれば安定な生活が送れる。もうあとには引けない。自分の気持ちを押し殺し、ファーガスの寒さに足を擦りながら運び出されていく嫁入り道具を窓越しに眺める日々。仕立てられた道を家族の期待という重い鎧を身に纏い、殺風景な部屋からあとは体を運び出すだけ。気乗りしない結婚だがここまでお膳立てしてくれた両親へ、これが最初で最後の親孝行だと重たい腰を上げたその時、進むだけの人生を阻むように姿を現したのは記憶の中で微笑む少年から幼さが抜けた、押しつけられた心の底で密かに会いたいと願っていた愛らしいそばかすの青年だった。

突然縁談話を持って現れた素性も分からぬ青年に身分ばかりを気にする両親が快く了承するわけもなく帰ってくれと話も聞かずに追い払う。しかし青年がガスパール領主の城主だと名乗るや否やそそくさと目の色を変えた両親はやっとの思いで取り付けた婚約をあっさりと解消し、アッシュとの縁談を快諾した。良物件に逃げられないようにと、両親は前の縁談よりも早々と手続きを済ませ、あっという間に私は家から追い出されてしまった。

「行きましょうか」

少ない荷物を抱えアッシュの手をとった私はなまえ=デュランとしてガスパール城へと身を寄せることとなった。

お伽噺のようにトントン拍子に事が進み、まだこの穏やかな日常が本当に現実なのか信じきれていない。私は長い夢を見ているのではないだろうか。こうしてアッシュと再び会えたのは私の妄想の中の出来事で、いつか目が覚めたら一人になるんじゃないか、幸せに浸るあまり不安になる。結婚間近でまさかの新しく縁談を結びに来るなんて物語の中じゃあるまいし…

「なまえ」

口許にアッシュの人差し指が伸びる。どうしたのだろう。食べる手を止め近づく人差し指を見つめる。口元をなぞる指先。その指の腹についたトマトソースにああ恥ずかしいと布巾を手に取るなまえ。しかし布巾を手にした次の瞬間、なんの躊躇いもなくペロッと舌でソース舐めたアッシュになまえは握ったばかりの付近を落とし、かぁ〜っと赤く染まる頬を両手で覆った。どこで教わってきたのかそんな破廉恥なこと!!

「アッシュは昔と比べて積極的になったね」
「うぇっ!?うーん、そうかな?」
「うん。その、嬉しいんだけど…心臓がもたないです」

両人差し指をくるくるとまわしながら蚊の鳴く声で訴える。無意識だったらしい。舐めた人差し指を見つめたアッシュは漸く自分がとった行動を理解しかのか、久しぶりに見た彼の赤面顔になまえは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
五年ぶりの再会を果たした彼はあまりにも落ち着き払った大人の雰囲気を放っていたため本当にこの人は自分の知っているアッシュ=デュランなのか長く信じられずにいた。無理もない。なまえの知るアッシュは指が触れただけで肩が跳ね上がるほどの恥ずかしがりや。その上微笑ましいほど奥手で余裕な顔が似合わない子だった。それが五年も会わないうちにころっと立場が逆転するとは、あの頃の私に教えたところで信じてはくれないだろう。背もぐんと伸び目線も少し高くなって、指が触れても動じず今日は寒いからと手を繋ごうとするところなんてもう、別人みたい。

パラパラと落ちる耳にかけた短い髪に気づき、机に手を付き身を乗り出す。垂らすと少しだけ幼く見えるのね。本人に言うときっと気にするだろうからとなまえはあえて何も言わず、再び大人っぽく飾ってあげようと髪を梳きながら耳にかけてあげた。これで完璧。はみ出た一本さえ丁寧に耳にかけ、満足気に手を引っこめようとするなまえだが、不意に指先が耳を掠めぴくんっと震えた肩に気を取られ手を止めた。大人びた顔をしても中身は何も変わらない。私の知ってる奥手なアッシュだ。 懐かしい反応になまえは目じりを下げ昔のアッシュは可愛かったと、しみじみと当時の思い出を語っていると徐々にアッシュの頬は風船のように膨らんでいく。ムっと不満げな顔が机から身を乗り出す。明らかに不機嫌ですと皺が寄る眉間になまえは慌てて「怒った?」と機嫌を伺う。何も言葉を返してはくれないが、誰がどうみても怒っていると答えるであろう表情になまえはまずいと視線を落とす。
子供扱いしないで欲しいとつい先日も機嫌を損ねてしまったと言うのに。またやってしまったと繰り返し犯してしまった過ちに額を抑えるなまえの頬にアッシュは表情を崩さないまま手を添える。机越しに寄せられる熱い眼差しに喉を上下することさえ躊躇ってしまう。視界すべてを敷き詰めていく柳色。鼻にかかる吐息が擽ったくて、堪らず目をつぶる。頬に添えた手が目の下をなでた次の瞬間、唇に触れたか細く震えた柔らかい感触に瞼を開けるタイミングを見失った。そっと離れていく温もり。意識が浮き沈みを繰り返し、ポーっと逆上せた頭を冷ますようにゆっくりと席につく。微かに残る感触に頭がクラクラする。自分だけが口付けに酔いしれているのだろうか。火がでそうなほどに滾った顔を隠しながら指の隙間からアッシュを覗き見る。すると雪国特有の真っ白な肌が煮えたぎるほどに赤く染まっていることを知った途端、なまえは心臓の鼓動に耐えきれず赤い耳を塞ぎ体を強ばらせた。
やおら席を立つアッシュになまえは肩を震わせ、耳を塞ぐ手を取り見上げるように膝を立てたアッシュになまえの視線は激しく揺れた。

「僕だって譲れないものはある」

好きな人も、男としての矜持も…。言葉を濁しながらまた縮まっていく距離になまえはあわあわと口をまごつかせるが、真っ直ぐな瞳にすっかり射止められたのだ。今更恥ずかしいなんて言ってられないと、口の端に力を入れ息を止めると幼さが抜けた誠実な騎士へ少しだけ体を前に倒した。
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