寝台に眠る綺麗な人を昨日の私が『カクちゃん』と日記の中で呼んでいた。だから今日の私も昨日に倣って「カクちゃん」と耳元で囁き肩を揺する。目覚めさせる行為に罪悪感を感じさせる子供のような健やかな寝顔。眉間に皺が寄る度に肩にかかった上掛けが乱れ露となる彫刻のような肉体がカッと顔を赤面させる。起きる気配のない男性の肩をもう一度揺する。すると『カクちゃん』が似合わない綺麗な人は枕に頬を擦り寄せながら放り出した右手でシーツを複数回叩いた。呼ばれているのかと思ったけれど、何かを探しているといった方が正確なのかもしれない。不機嫌に唸りながら血管の浮き出た細長い指がシーツをなぞる。そうしてできた皺の山をカクちゃんは引きちぎるように握り潰したかと思えば、目にも止まらぬ速さで起き上がりベッドサイドから寝顔を眺めていた私を腕の中に閉じ込めた。酒焼けのような掠れた声が私の名前を呼ぶ。肌から直に伝わる湯たんぽのような温もりに照れつつ胸板に手を挟み「痛いよカクちゃん」と抗議するが、彼は腕の力を弛めはするが離してはくれなかった。両足をベッドに上げてカクちゃんの上に跨る。毎朝こんなことしてるのかなぁと昨日までの自分を疑いつつぎこちない動作で「おはよう」と寝起きの頬にキスを贈るとカクちゃんはまだ眠そうな目を満足気に細め胸に顔を埋めた。

「はよっ…今日は早いんだな」
「いつもの私は寝坊助なの?」
「どうだっけな。少なくとも昨日は9時まで爆睡してたらしいぞ」
「ええっ!?…そうなんだ。覚えてないや」

朝、弱いのかな。私。なのに今日は6時前に起きて朝ごはんまで完璧に作ってしまった。昨日の私はさぞかし早寝したのだろう。
どこに置いたらいいか分からない両手をカクちゃんに倣って背中に回してみると指の腹にプツプツとした凹凸を感じた。少し上下してみると凹凸は歪な線状を描いており、少しづつ指の腹に当たるそれが瘡蓋である事に気づいた。くすぐったいと笑われて背から手を離した。こほんと咳払いして朝ご飯作ったんだよと声をかけるとカクちゃんは胸に顔を擦り付けながら「卵焼き、味噌汁」と朝食のメニューを見事言い当てるものだから私は驚いて目を丸くした。スンスンと服の袖を臭う。味噌汁の匂いはまだ分かるけど卵焼きの匂いなんてするかなぁ。レ点のように元気よく跳ねた後ろ髪を撫でながら「冷めちゃう前に食べよう?」と起床を促せばカクちゃんは背を伸ばすと私を抱いてベッドから降りた。欠伸を噛み殺しながらカクちゃんはぺたぺたと裸足でフローリングを歩く。首に腕を回して抱えられた私へカクちゃんは寝ぼけ眼のまま顔中にキスを贈る。これだけなら甘えん坊だなぁの感想だけで終わるのだが、さりげなく胸やおしり、足を堪能しているあたりこの人は甘えん坊と言うよりも顔の良いムッツリだ。

『朝7:30に朝ご飯。ご飯、卵焼き、味噌汁。カクちゃんには昨晩の余ったおかずを出すこと』

冷蔵庫の中には日記に記された通りラップがかかったお皿が一枚冷やされていた。唐揚げが6つ。そのうち2つは衣が剥がれかかっていて、市販にしては低いクオリティに首を傾げる。なんとなく手に取った調味料を適当に卵と混ぜて焼いた卵焼きと味噌を溶いて具を放り込んだ呼び名通りの味噌汁。どう作れば正解なのか分からないけどカクちゃんはどれを口に運んでも「美味い」と褒めてくれる。料理上手だとも。出されたものをぺろっと食べあげて「俺の嫁は胃袋を掴むのが上手いな」とカクちゃんが喜んでくれるから今日の私も懲りずに卵を割る。カクちゃんはおだて上手だから、想像と感覚で混ぜ合わせたごっこ遊びに近い創作料理も以外にいい線いってるのではないかと調子に乗ってしまいそうになる。

『一番左の壁掛けに掛けたスーツはアイロン済み。明日のネクタイは赤地に菱柄の』

カクちゃんの指示通りに私がネクタイを締め、どこかパッとしない仕上がりをカクちゃんが手直しして忙しい朝の準備が終わる。正直私が手を出さない方が二度手間にならないと思うのだけど、カクちゃん曰く「なまえが結びたいって言い出したんだろ?」と身に覚えのない恥ずかしい事実に喉が絞まった様に口篭った。いつの私がそんな我儘を言ったのだろう。覚えてないやと呟いた私にカクちゃんは笑いながら「毎朝結んでくれてありがとな」と私の頭を撫でスーツの上着を脇に抱える。その一連の動作や立ち姿に見惚れているうちに前髪から覗く額に柔らかい感覚が落とされパタンっと玄関扉が閉まる。どうやって私はこの人の奥さんになれたんだろう。外から鍵がかかり内側からチェーンを掛けながら昨日の私と同じように指輪が嵌った薬指を不思議な気持ちで摩った。

『朝のうちに洗濯と掃除を終わらせる。色移り注意!明日のお昼はペヤングを食べる!』

お掃除に取り掛る前にまずはカレンダーの前で立ち止まらなければならないらしい。らしい、と他人事のような言葉を使ったのは分厚い日記帳の1ページ目を書き記した私が大きな文字で『カレンダー確認!記念日を忘れない!!』と上下の枠線を超え色つきのペンで叫んでいるからだ。どうやらこの日の私は結婚記念日の存在を認知していなかったらしく、ケーキを買って帰ったカクちゃんをご飯、鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、豚汁で出迎えてしまったことを酷く後悔しているようだ。元気の無い文字が『エビフライでもハンバーグでも作ればよかったなぁ』とケーキの感想を添えて未練がましく書き綴っている。よっぽど記念日を忘れてしまったことがショックだったのだろう。だから同じ間違いを繰り返さないために次の日の私から今日に至るまでの私が毎朝欠かさずカレンダーの前に立ちどまり予定を確認しているというわけだ。

今日は2017年10月11日水曜日。天気は曇り。洗濯は明日の自分がするだろう。カクちゃんのお見送りが終わると今日の私の一日が始まる。多分、やることは昨日と同じ。1ページ目を書き込んだ私の指示通りに動けば部屋の清潔は保たれる。

「よし、やりますか!」

腕をまくってエプロンの紐を締め直す。一件片付いてるように見えてもテレビのお掃除のプロが言うように目に見えない埃やゴミが沢山あるはずだもの。
日記を開いて深呼吸。そうだなぁ。

まずは…

『まずは乱れたベッド周りの清掃を行うべし。溜まった小さなゴミ袋の口を締めより大きなゴミ袋の中へと入れる。木曜日の朝にカクちゃんへ渡すこと』

「お菓子のゴミばっかり…んー、この包み紙見覚えがあるような…ま、いっか。こっそり食べてたとしてもカクちゃん怒らなさそうだし」

『部屋中の床をフローリング用のモップで磨いてマットは全て掃除機をかけるべし。目線はやや上に。掃除中自分より長い髪を見つけても気にしてはいけない。仕事の付き合いは断れないもの。良き妻は黙って片付けるべし』

「最初の1ページってもしかして姑の人が書いてたりしてない?私こんなこと気にする人だっけ…ま、いっか」

そういえばカクちゃんのご両親ってどんな人だっけ。そもそもカクちゃんって本名なんだろう。日記の中で私はカクちゃんとしか呼ばないしカクちゃん不在の今彼の本名を知る術がない。運転免許証…保険証…あ、アルバム。アルバムなら家のどこかにありそう。お掃除が終わったら探してみよーっと。今があんなにイケメンなんだからきっと10代のカクちゃんもイケメン、もしくは可愛かったに違いない。…ますますなんで私のような平平凡凡がカクちゃんと結婚できたのか不思議だ。

『朝のうちに洗濯と掃除を終わらせる。色移り注意!明日のお昼はペヤング食べる!』

昨日の私はテレビに強く触発されたようで“焼きそば”ではなく“ペヤング”と商品名を名指ししている。カップ麺よりフライパンで作る料理が好きだったはずなのに、どうしてだろうね。昨日の私も今日の私も無性にペヤングが食べたくて仕方がないらしい。
やかんに火をかけている間に食器を洗って日記のメモ欄に書かれた開扉を開ける。私が勝手と頼んだのか、それともカクちゃんの好物なのか。軽く10食分ストックされたペヤングに瞬きしながら整然と並べられたペヤングの建造物を削った。フィルターを剥いで、お湯を注いで、少し待ったらお湯を捨てる。フライパンを使う料理よりも作業的で、時間に縛られていて、まるで理科の実験みたい。手順通りに作ったら誰でも同じ味になる、しかも凄く美味しい。昨日の私が今日の私の昼ごはんを指定するだけはある。そうだ、もしカクちゃんが手料理を残したり外食を勧めてきたらペヤング作って夕食に出そう。私の創作料理よりと比べたら美味しさは遥に勝っているし、それにすごく懐かしい味がする。量的にはまだお腹に入りそうだけど、一人で食べるのが寂しくもったいないと思ってしまう。

「カクちゃんと半分こ…なんてね」

人の食べかけなんて幾ら優しそうなカクちゃん でも嫌な顔はするよね。というか食べかけなんて貰うくらいなら新品作って一個食べた方が衛生面的にも満腹度的にも満足するだろうし。私がペヤング半分譲られる側としたらちょっと戸惑うかも。気持ちは嬉しいけれど、真意が掴めない行動はちょっと。でも、どうして急に1人分の焼きそばを半分こなんて考えたんだろう。変なの。お腹、まだ空いてるのにね。

「ご馳走様でした」

手を合わせてペヤングに関わった方々と買ってくれたカクちゃんに感謝を込め小さくお辞儀をする。さて、お昼ご飯はこれでおしまい。これから私がしなきゃいけないことは…えーっと。

『お昼が終わったら夕食の献立作り。明日のカクちゃんのお昼は中華らしいから夕食は久しぶりに丼物にしよう!』

「丼物かぁ…親子丼、天丼、牛丼…うん、豚丼にしよう。玉ねぎとネギと生姜がよくきいた豚丼がいいかな」

この家にレシピ本は無い。あっても私が存在を忘れてしまうから。だから舌に記憶された味覚とイメージを頼りに作っていく。豚丼を作るからにはまず豚肉を常温で解凍して、それからよく味を染み込ませるため生姜液に長く漬け込んでから火を通して…あれ、卵っていつ使うんだっけ。そもそも卵って火を通さないべき?それとも半熟で止めるべき?豚丼を作りたいのに親子丼のイメージが邪魔をして、豚肉に味をつけたあとどう手を加えたら…

プルルルル…プルルルル

「電話?でんわ…あっ、そういえば」

テーブルの上に開いた日記を手に取りパスコードのかかっていないスマートフォンを耳元に添える。

『毎日お昼頃にカクちゃん電話がかかるから3コール後に受話器をとること。カクちゃんが話すまで声は出さないように!!』

ビックリマークが2つ。過去の私はなにかカクちゃんの機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろうか。
4コール目に画面をスライドして黙って声を待つ。もしもしと呼びかけたい気持ちを抑えテーブルの角を人差し指で叩いて空白の時間を埋める。プツンっと線が繋がるような電子音が鳴ったのはマグカップに指をかけてすぐの事だった。

「…俺だ。昼飯は食べたか?」
「カクちゃん!うん、さっき食べたよ。今日のお昼はね〜ペヤング」
「お前ほんと好きだよなそれ。昨日も食べてたぞ?」
「そう、なの?…んー。じゃあ明日は違うの食べようかな」
「おう、そうしろ」

栄養のあるものを食べろよと子を思う親のような事を言うカクちゃんに私は笑いを零しながら日記のメモ欄に『明日はペヤング禁止』と走り書きする。
スピーカーから騒がしい声がして、カクちゃんは食事中?と尋ねるとカクちゃんは「まぁそんなとこだ」と煮え切らない返しをした。もしかして上司の方と食事中だったりするのだろうか?だとしたら声が上擦っていた理由に納得がいく。
困ったことはないかと聞かれて豚丼の卵はどう調理すべきかと相談するとカクちゃんは声を震わせながら食べる前に割って混ぜるのが正解だと教えてくれた。なるほど、ユッケと同じ立ち位置というわけか。
他に問題は無いかと聞かれて、そういえばカクちゃんに聞きたいことが幾つかあることまでは思い出せたが、肝心の内容が少しも思い出せない。首を捻っても頭を叩いても何について悩んでいたかさえ忘れてる。中身の無い封筒みたいだ。あったけど忘れちゃった!1日も経たずに忘れちゃうくらいだしさほど大事な内容でもなかったと思い出す努力もせずけろりと答えればカクちゃんは「そうか」と一言安心したような声音で呟き、かろうじて聞き取れる音量の舌打ちをした。

「悪ぃ、仕事に戻らねぇと。8時頃に戻るから大人しくしとけよ。腹が減ったら先に食べてていいから」
「はーい。お仕事頑張ってね」

通話が切れたスマートフォンを心臓に添えて妙なむず痒さにそわそわしながら上唇と下唇の収まりの良い位置を探す。ちょっと声を聞いただけなのに顔が熱い。風邪をひいたのかななんてベタな勘違いはしない。私がカクちゃんの事を自分の心臓と同じくらい大切で必要に思っていることは日記を見返したら否定も疑念を抱く余地すらないもの。

約束の8時になっても玄関扉が開く気配はなし。8時頃と言ってたから8時ぴったりに帰ってくることは難しいと思うけど。

「まずい…」

待つのは得意だと思う。けれど食事を前に待てをするのは不得意だ。8時くらいに出来上がるようにしようと逆算しながら料理をしたはずがかれこれ30分は生姜の匂いと空腹を相手に闘っている。初め丼にはカクちゃん8枚、私4枚とお肉をよそっていた。しかしちょっとだけならと箸で摘んでいるうちに4枚が3.8枚、3枚、2.5枚と減っていき、気づけば白ご飯がチラチラとお肉の隙間から覗いてる。手が止まらない、1枚手を着けてしまってから箸を置くタイミングを完全に見失ってしまった。
料理上手な自分が憎らしい、早くカクちゃん帰ってきてと2枚目も胃に収まりついに3枚目を箸で摘んだその時

「ただいま...何やってるんだ?」

つまみ食いの現場をバッチリと見られ冷や汗を流す私をカクちゃんは少し驚いた顔で「ただいま」と脇に抱えた上着を椅子にかけた。

「腹が減ったら先に食べてていいって言ったろ?」
「言ってたっけ…」

卵のことしか覚えてないやと肩を竦めながらその卵を割らずにつまみ食いしていた私をカクちゃんは「まぁそんなこともあるさ」と握り潰した方が早そうな腕を使わず丁寧に日々を入れ卵を割った。

「美味いな」
「本当に?」
「おう。つまみ食いするのもわかる美味さ」
「もう!」

大きな口を開けてガツガツと食事を書き込むカクちゃんの見事な食いっぷりを見ながら喉を詰まらせないようちまちまと肉を割いて500円玉程の白ご飯を摘んで口に運ぶ。男の人ってどうして朝から晩まで山盛りの食事量を平気で胃に詰められるのだろう。白ご飯ならおかわりあるよと伝えるとカクちゃんはお肉を端に避けて丼からはみ出す量の白ご飯をよそう。炊飯釜にお肉をのせた方が早いのではないだろうか。

「あっ、悪ぃ。明日のことなんも考えてなかったわ。後で炊いとく」
「ううん。明日はパンにするから炊かなくても大丈夫だよ」

お茶碗一杯で限界が来る人間からしてみたら山のようによそいさら地のように平らげる様子はパンダを見ているような気分でつい不躾に見つめてしまう。だからカクちゃん白ご飯食べ過ぎとか後で炊いておかなくちゃとかそういった不満や心配事は一切考えていない。沢山食べて凄いなーくらい。あと全部食べてくれて嬉しい、とか。

「どうした?俺の顔になにかついてるか?」
「ううん。何も。ただカクちゃん見てたら幸せだなぁーって」
「なんだよそれ」

照れてる?と薄ら赤い頬に尋ねてみるとカクちゃんはご馳走様と手を合わせさっさと席を立ってしまう。空の皿を抱えて台所へ向かう背中を見送っているとふと、外ハネした黒髪から真っ赤な耳が覗いてることに気づき口がゆるんだ。なるほど、カクちゃんはとても照れ屋さん。後で日記に書いておこっと。

「カクちゃんお風呂一緒に入ろぉー」

赤い耳が可愛かったから冗談半分で彼のムッツリを刺激するようなお誘いを持ちかけてみるとゴンッ!と台所から鈍い音が響く。顔の造形に見合わずとんでもない助平さんだ。角に脛をぶつけ蹲っているカクちゃんへ洗いっこする?と聞いてみると凄い剣幕な顔で軽々しくそんなこと言うな!と怒られた。毎朝ベタベタ体を触る癖に洗いっこが嫌とは、カクちゃんの性癖はよく分からないと思った。

寝台に上がり仕事の資料?に目を通すカクちゃんの横で枕を机に見立てて今日の出来事をA罫の15行に要約して書き留める。何か面白いことや珍しいことがあればいいのだけど。自然と昨日と同じような文面になってしまったことになまえは溜息をつき閉じた日記帳を枕の下へと潜らせた。

「書き終わったか?」
「うん。でも書いてる内容は昨日と同じだから紙が勿体ないね」
「勿体なくはないだろ?なまえがちゃんと生きてる証拠だ」

これも生きてる証拠だぞと冷えた生白い足を伸ばしてピットリと湯たんぽのような足に絡めるとカクちゃんは背に腕を回してグッと引き寄せた。互いに体の一部を交換したみたいに心臓の音が重なる。衣服から香る柔軟剤の香りと心地よい温度に気を抜いたら瞼が落ちてしまいそうだ。まだ眠りたくない。まだ忘れたくない。足先をパタパタと動かしてみたり大して面白くもない話を振って時間を稼いだり。とんとんっと背中を叩く大きな掌になまえは顔を振ってお返しとばかりに背中を強く叩いて抵抗してみせる。寝たくない。まだ今日の私を終わらせたくない。無理に話を長引かせながらもうつらうつらと舟をこいでいるとカクちゃんは体勢を変えてわざと下げた上掛けを肩まで引き上げた。

「寝るのが怖いか?」

…カクちゃんには全部お見通しか。

「…だって寝たらまたカクちゃんの事忘れちゃうから。カクちゃんだけじゃない。掃除した事、食べた物、カクちゃんとどんなお話したのかも。目が覚めてもし自分の名前が思い出せなくなったらどうしよう。私、お払い箱?」

捨てられたくない。カクちゃんと一緒にいたい。でもこのままカクちゃんの傍にいることがカクちゃんの邪魔になるなら離れるしか道はない。少し隙間のある薬指に嵌った指輪を弄りながら壁のような胸板に頬を寄せる。するとカクちゃんは握っていた資料を置いてランプの灯りを消すと振るえた手を握りポンポンっと2度あやす様に背中を叩いた。暗闇に浮かぶ左右非対称の虹彩から向けられる視線になまえは戸惑いながらも視線に促されるまま瞼を下ろす。大きな手が私の左手を掴んだ。硬い指の腹が緩んだ薬指の指輪を根っこに捻りこんだ。

「馬鹿なこと言うな。たとえ何一つ思い出せなくてもお前を思う俺の気持ちは変わらないだろう?お前は安心してここで気楽に過ごせばいい。俺の帰りを待ってくれたらそれでいいんだ」
「うん……うん」

もし私の頭がポンコツじゃなかったらカクちゃんに何度も聞き返すようなめんどくさい子にならなかったのになぁ。
記憶、どうやったら戻るんだろう。

「なまえ」

カクちゃんのためにも早く

「愛してる。だから」

思い出したいなぁ。

「何も思い出すな。何も。なにも」
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