自らの意思でアビスに降った私を両親はあっさりと見捨て、出来の悪い娘にはなから期待していなかったと華々しい家樹からなまえの名を消した。跡も残さずに、まるで初めから存在していなかったかのように。
アビスの良い所をあげたらキリがない。少し野蛮だけどアビスで暮らす人は皆いい人だし、どこもかしこも暗くジメジメして落ち着く。気取った名前の食事は出てこないし、羊皮紙につらつらと書き綴った文字を覗き込む邪魔者もいなければ心無い言葉を呟く傍観者もいない。換気が悪いため少し酒臭い点は否めないが、慣れたら暮らしやすい地下楽園だと思う。
もっと早くアビスの存在を知っていたら。思い起こされる苦い思い出たちに身震いし、筆を止めた。そしてどこまで書き綴ったのか一段落目に視線を移動させ1文目を読み返すなまえは羊皮紙に落ちた人影に躊躇うことなく羊皮紙を握りつぶし顔を上げる。
「熱心だな」
…吃驚した。てっきりセテスさんの息がかかった刺客かと、肝が冷えた。堂々と足音立てて近づいて欲しいんだけど、頬を膨らますなまえにユーリスは余程なまえの慌てぶりが笑壺に入ったようで、腹を抱えて笑い転げている。笑いすぎ、そんなに面白い顔をしていたのだろうか、私。ムッと口を曲げたなまえは羊皮紙に飛び散った印矩汚れに溜息をつきながらも蛇腹のような皺を丁寧に掌で伸ばしていく。羊皮紙も印矩も筆もアビスでは贅沢品。何一つ無駄にはできない。
「交代の時間?」
「まぁそのつもりだったが、才能ある文筆家様の邪魔をしちゃ忍びねぇなあって」
「茶化さないで」
今日は何の話を書いたんだ?興味津々に覗き込んでくるユーリスは私が書き綴った拙い童話を気に入ってくれているようで、お話がひとつ完成する度に1番最初の読者になってくれる。前はハピやコンスタンツェ、活字が苦手だと愚痴を零していたバルタザールも読んでくれていたのだが、アビスを出てからは士官学校の生徒として忙しい生活を楽しんでいるらしい。
そのため、アビス内の見回りと外の見張りは私とユーリスが交代で行っているが、最近頻繁に姿を見るようになった傭兵上がりの先生の動向から察するにユーリスも近いうちに。あまり考えたくないなあ。静かな場所は好きだけど静かすぎる場所は居心地が悪いもの。
「なぁ、なまえ」
神妙な顔つきで羊皮紙を見つめるユーリスに誤字でも見つけたのかと羊皮紙を覗き込む。するとユーリスは最後の一文に指先を向け悩ましげに唸った。
「これでこの話は終わりか?」
「大筋はね。今このお話の小噺を書いてるところなんだけど、それは物語の途中で起こった出来事だから、これ以上この話に先はないけど…変かな?」
上手く区切りをつけたと思ったんだけど、ユーリスはしっくりこないのか微妙な顔をしてる。
「なんつーか、さっぱりした呆気ない終わり方だなって。ほら、前書いてた鹿の話は割れた大地に種を撒いて大団円って話だったろ?この奈落に落ちた青年が囚われた竜を助け世界を導いたって、なまえにしては在り来りな話を書いたなって思ってさ。お前、いつも二転三転と奇想天外な展開を挟むだろ?」
奇想天外なんて大袈裟だ。なるようにしてそうなった、これが正しい。やさぐれた獅子が友の死をきっかけに奮い立ち大陸を統一したお話も、目に見えぬ呪いに鷲が爪を立て打ち払ったお話も。
「嘘は駄目だと思って」
「嘘?」
また困った顔してる。いいよ、それで。ユーリスは何も知らない方がいい。何も知らずに生きた方が無駄に足掻く必要が無いもの。大地を焼き尽くす炎の海、空から降り注ぐ矢の雨、海からやってくる飛竜の遠吠え。並大抵の想像力じゃとても考えつかない壮大な物語は私の記憶がつくりあげた産物。世界が歩んだ軌跡を濁し綴った思いの丈、いつか『あの人』に渡す真実に余計な文字はいらない。
「こっちの話。見回り行ってくるね」
身支度を整え椅子を引いた私をユーリスはそういえばお前に伝えておきたいことがあったと声を上げて引き留めた。
「俺、士官学校に戻ることにした。見所のあるやつに誘われて少しの間だけな」
ついに、この日が来たのか。薄暗い灯火の下、なにか吹っ切れたようなユーリスの表情に私はこの先に待ち受ける惨劇にひっそりと身を震わせる。今世もこの人に殺されるのか、腰に携えた獲物が臆病な心臓を脅かす。また彼の腕に抱かれて死ななければならないのか…嫌だなあ。4人の泣き顔見るの。
「この際お前も士官学校に戻ったらどうだ?口添えなら俺様から」
「戻らないよ。私は」
突き飛ばすような言葉にユーリスは目を丸くしたが私の心は至って平坦で、ちょっと口調が厳しかったかもしれないと顧みる優しさはいつの間にか枯れ果てたらしい。
戻っても死ぬ、戻らなくても死ぬ、いまいちな終章しか書き綴れない私は歴史が変わる瞬間に立ち会えたことは一度だってない。なのに残された5年と数ヶ月の日々を勉学と鍛錬に励んだところで、私にとってはただの暇つぶしに過ぎず、見知った顔に殺されなければいけない憤りや虚しさはまた目が覚めたあとも心の奥で絶えず煮えている。
アビスの住民の命と引き換えになまえは仲間の手によって処刑される、繰り返される歴史を全て記憶に刻む異端者の複雑な心情など、誰が理解出来ようか。刻々と迫る地獄の足音に自ら迎え打とうなんて馬鹿げてる。選ばれるわけもないのに今更戻ってどうする。それよりも選ばれなかった者は選ばれなかった運命を受け入れ、あの人の手からこぼれた命の叫び、歴史の真実を書き綴り、いつかアビスを訪れたあの人がこの物語を手に取り、惨劇の円環を終わらせるきっかけとなることを小さな命は一心に願うばかりだ。
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