底なし沼とはまさにこの事か。

「おお〜癖になりそう」

緩いゼラチン質に腕を突っ込みバタバタと動かしはしゃぐ15歳。それを静かに見下ろす15歳の目はびっくりするほど冷ややかだ。

「もういいか」
「いや、もうちょっと。おお…見て見て肘まですっぽり」
「…」

気難しい顔してる。自分の影を玩具にされたらそんな顔にもなるか。私も自分の獲物で遊ばれたら心の中で静かに舌を打つだろうし。影から埋めた腕を引きあげるとズルんっと指先に影が張り付き、それが雫のようにポタポタと指先から滑り落ち元の肌の色に戻る。変な感じだ。濡れたような感触を感じていながら引き上げた手に潤けた跡はなく擦り合わせた指の腹は薄い凹凸の感触しか感じない。

「満足か?」
「んー、まぁそこそこに」

この影の先はどこまで続くのか?とか、若干ひんやりしているのはなんで?とか。未知に対する興味は尽きないが、そろそろ伏黒くんの機嫌が悪くなってきたから信頼関係を崩さないためこの辺で踏みとどまっておくとしよう。でも、いいなぁ。私もかっこいい技とか可愛い式神が呼べたら毎日ケツ叩かれて任務に行くこともなっただろうに。飼い主と違って玉犬は私が何を求めているか心得て偉いねぇ。お利口に伏せてしっぽを振るその愛くるしい姿に鼻の下を伸ばし、差し出した掌に乗せたしなやかな前足に悶える私に伏黒くんは「もういいだろ」と無慈悲に玉犬を影にしまった。

「私の癒しが!」
「玉犬はセラピードッグじゃねぇ」

そんなことわかってるけどさ、普通の犬じゃ背負った疲労は取れないんだよね。

「いいなぁ。私も式神欲しい。ね、一日だけでいいから今度玉犬貸してよ」
「無茶言うな」
「呪具貸してあげるから」
「安物だろ」

分かってないねぇ伏黒くんは。価値の高さだけが強さを図る指針では無いのだよ。安物だからこそ加減なく振り回せるし、壊れてもまた買えばいいやで済ませられる。それが安物の利点だぞと自慢げに話す私なんて見向きもせず、つまらなさそうな顔には『帰りたい』の4文字が浮き出ていた。ドライな人だ。それじゃモテないぞ。

「伊地知さんあと5分で来るって」

ちょっとは帰りたい欲抑えてくれないだろうか。そんなに私と組む任務は嫌か。私は伏黒くんとの任務が決まるといつも心の中でガッツポーズしていると言うのに、楽ができるラッキー!と呟きながら。東京の郊外に立つ廃墟ビルの前、2人分の影が夕日に照らされ長く帯のように伸びている。手持ち無沙汰にスマホを当たる現代っ子の傍らで長い影と先程の戦いに遊び心を擽られつい両手を結び真ん中指と人差し指の距離を離す。玉犬!なんちって。いまいち犬のシルエットに見えない影にもぞもぞと指の角度を調整しながら見えそうで見えない犬に目を細めていると何を馬鹿やってるんだと本家が訝しげに痴態を眺め下手くそなシルエットを鼻で笑った。この野郎…

「そんなに気になるか」
「まぁ、手を突っ込みたくなるほどには」
「…」

自分で聞いておいて勝手にストレス感じないで欲しいんですけど。スマホごと両手をポケットに突っ込んだ伏黒くんは何がそんなに楽しいんだと自分の影を見つめている。彼にとっては私が抱く興味関心など到底理解できまい。たぶん私が呪具を感覚で振るっているのと同じ。自分の体の1部となったそれに興味も関心も抱かないくらい長く人生に寄り添ってきた。だから今更新鮮味など感じないし、全て当たり前の領域に達したんだろう。

「ね、この影ってどこに繋がってるの?」

自分の影に指を立てると伏黒くんは気を利かせて指を影に招き入れる。もしバランスを崩して影に落っこちたらその場合はどこにたどり着くのだろう。もしかして、辿り着くというよりも影の中を漂うとか?伏黒くんは知ってる?と尋ねてみると彼は視線を逸らして少し俯いた。握られたくない秘密が詰まっているのか、ならいいよと私は両手を上げるが、思考し、スっと目を細めた伏黒くんは一瞬だけ別人に見えた。

「覗いてみるか?」

試すような一言。いつもなら見たい見たいと珍しく乗り気な少年の提案に飛び跳ねているところだが、どうしてだろう。踏み越えてはならない一線が見える。

「んー、今はいいや。もし快適だったら帰って来れなくなるかもしれないし」

心理を覗く時心理もまた覗き返してる的なことを誰かが言ってたし、仲間とはいえ他者との距離感は心得ている。
伊地知さんが来たよと話を逸らす私に伏黒くんはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。お腹空いたからファミレスに寄ろう!と直帰したい1名の意見を切り捨て伊地知さんに近いファミレスまで向かってもらうよう伝え車に乗り込む。伊地知さんの車が迎えに来てからずっと黙りこくって、なんだか機嫌が悪そうに見える。そんなに直帰したかったのかい?と弄ってやろうかと思ったが彼の機嫌が悪い理由が私の空腹と無関係なことは分かっている。私は生まれつき耳が良かった。だから小さな独り言もつい耳についてしまうものだから、伏黒くんが呟いた「残念だ」の言葉に込めた真意に誤って触れないよう当たり障りない会話でそれとなく影の深さを測るのだ。
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