私が身を呈して守らずとも単騎で前線へ切り込んでいく殿下なら背後からの奇襲など容易く躱していただろうし、躱していなかったとしてもすぐ傍で戦っていた先生が天帝の覇剣で薙ぎ払っていただろうに。物陰から飛び出した兵士を視界に捉えた瞬間、私の足は自然と殿下の元へと駆けていた。危ない。青い外套を守るように両手を広げた直後勇ましい槍の一撃が胴を貫通し地面に膝を着いた。こういう致命傷に近い攻撃はのたうち回るほどの激痛に襲われると思っていたが、もう手遅れなのか、槍が胴に深々と刺さっているにも関わらず不思議とちっとも痛くなかった。四肢の感覚が消え地面に伏せる。霞む景色の中で帝国の旗が次々に地面へ落ちていく様を私は回らない頭でぼーっと眺めていた。嗚呼、ここも王国の勝利か。落ち着いていく足音に耳をすませ、腹に槍が刺さったまま踏み潰された花のように大地に帰る人生の孤独な終わりにボロボロと涙が流れていく。戦功を一つも挙げられず勝手に致命傷を負って勝手に死にかけている役立たずはここで置いていかれるのだろうか。まぶたに重りをつけたような強烈な睡魔に意識をもっていかれそうだ。
「殿下」
私、あなたの事が好きでした。
心の中の虚しい独白。このまま死体に埋もれて静かに腐っていくのかと思っていた。けれど今際の相手を前にし、彼も少しは情をかけてやろうと思ったのだろうか。
「なまえ」
肩と膝裏に回された腕と天馬に騎乗した浮遊感。肺に溜まった血を吐き出すようになまえは大きく咳き込み腹部から滑り落ちた肩腕を振り子のように垂らす。
私の事など眼中に無いかと思っていた。他人の温もりを拒むように言い放たれた『失せろ』とは異なる、まるで5年前を彷彿とさせる優しい声音が絶えず私の名を呼んでいる。今生の別れを悲しんでくれているのだろう。非情になりきれないところを見るとやっぱりこの人は心配になるほど優しすぎた。ああ、寂しい。これが最後になると思うと黙って死ぬ事が口惜しくなって、私は最後の気力を振り絞って瞼を持ち上げた。そしてたった2文字を伝えるために吐血しながらも喉を震わせた時だ。
なまえ
「なまえ…起きたのか。王都は昼間も雪が降るんだ。外で寝ていては風邪をひいてしまうぞ?」
殿下?
「ん?どうした。そんな間の抜けた顔をして。俺の顔になにかついているか?」
「え?…あ、いえ。ついているというかむしろ」
消えているというか。あの目の下に根付いた頑固な隈はどこにいったのだろう。いや、今は隈の事は一旦置いておこう。
「お、降ろしてください殿下!!自分の足で歩けます!」
「お前はアネットまでとは言わないが少々そそっかしいきらいがあるからな。腹の子のためにも担がれておけ。それと、いつまで俺を殿下と呼ぶ気だ?戴冠式にお前も参列しただろ?」
「…そ、そうでしたっけ」
戴冠式に参列?一体何の話をしているのだろう。情報量が多すぎてちっとも頭が追いつかない。そもそも腹の子って何。私と殿下はそういう間柄じゃなかったし、そもそも私は気持ちだって伝えられないまま腹に槍が突き刺さって瀕死して…あれ。
「刺さってない…怪我も治ってる?」
「なにっ、怪我をしていたのか?ならば急ぎ医者に治してもらわなければ」
「ち、違います!!違います!!!怪我を負ったかと思っていたのですがよく分からないうちに治っていて…ゆめ、だったのかもしれません」
槍が体を貫通した時、不思議なくらいちっとも痛みを感じなかったし、大して才能も力もない私が将兵を任されていたなんて冷静に考えればおかしな話だ。特に品行方正騎士然とした殿下が獣のようにやさぐれ誰彼構わず牙を剥き友人どころか先生に向かって失せろと言い放つなんて稚劣な物語にも程がある。妙に現実味のある壮大な夢ではあったが二度と同じ夢は見たくない。
腹に大きな穴は空いてない。それどころか不自然に膨れた下腹部をなまえは凝視し、いつ身篭ったのか覚えのない自身の腹をまるで他人の腹を摩るように撫でる。身篭ってからそこそこ時間が経っているのだろう。時折腹の内でボコボコと暴れるような振動に命を感じ、度々肩を揺らして目を丸くするなまえにディミトリは笑いを零しながら綿を両手で包み込むようになまえを抱き寄せ頬をピッタリとくっつけた。
「すっかり体が冷えてしまったな。部屋に戻って紅茶でも飲まないか?先日大司教に謁見した際に茶葉を1缶ならまだしも山のように押し付けられてな」
お前が好きな砂糖菓子もあるぞ。
耳元で呟かれる艶のある声になまえは顔を真っ赤に染めコクコクと首を縦に振ると落ちないように恐る恐るディミトリの首に垂らしていた右腕を回した。
殿下いや、陛下と2人っきりでお茶会なんて夢みたい。それにもう何節も宮城で生活しているというサラッと告げられた衝撃の事実には驚いたし、お前はいつになったら自分の足で自室に帰れるんだ?と陛下に笑われ自身の記憶力の悪さに顔を覆わずにはいられない。
「もうすぐ雪が降るな」
窓越しに曇った空模様の荒れ具合を予想し暖炉へ薪を一本焚べたディミトリをなまえはぼんやりと夢のような光景を眺めながら手は無意識に左手の薬指に嵌る銀の指輪を抜き差しして遊んでいた。頬を抓っても今度はちゃんと痛みがあったし口に運ぶ紅茶の味も温度も匂いすらはっきりと感じることができている。こっちが現実か。戦争の音もなく、恋した人との間には子供を身篭っていて、陛下は常に優しい顔をして笑っている。前世の私は相当徳を積んでいたに違いない。私の人生における全ての幸福をいっぺんに費やして得た夢のようなひととき。砂糖菓子の甘さすら私を優しく包み込んでくれる。
「それで、5年越しに再会した級友たちと力を合わせて大修道院を根城にする盗賊を倒し無事大修道院を奪還したんです。再会を祝して宴だ!って先生を筆頭に皆張りきって宴の準備をしていたら突然セテス殿が『君たち、宴の前にやることがあるだろ?』って喜ぶ暇も与えず屋根の修復に瓦礫拾いを命じたんですよ?」
「ははっ。夢の中でもセテス殿は真面目なんだな」
「そうなんです。結局一日じゃ屋根の修復も瓦礫拾いも終わらなくて、その日は皆くたびれて宴をする気力もなかったんです」
絶対にあれはセテス殿の陰謀か何かだ。じゃないとあんなに盛り上がった空間に水を差すなんてできるわけが無い。珍しくあのフェリクスもノリノリで酒樽を食料庫から引っ張り出そうとしていたというのに。とはいえ雨漏れの酷い部屋でぐっすり眠れるかと言われたらセテス殿の意見が正しいのでこれ以上は不満を垂れることもできない。
「そういえば私の夢に出てきた陛下は不思議なことにとっても怖い人でしたね。睨みで心臓を射殺すような。目の下に黒い隈が浮かべ、常に独り言を呟き、話しかける度に失せろと睨まれた時はあまりの衝撃に握っていた料理を皿ごと落としてしまったこともありましたね」
「そうか…俺はそんな酷い態度をお前に。すまない」
「あ、謝る必要は無いですよ!私が勝手に世話を焼いて勝手に傷ついただけの話ですから。それに、これは単なる私の夢の話であって実際に陛下がとった行動ではないのですから」
夢で見た陛下はとても怖い人だった。声をかけても無視や『失せろ』と邪険に扱われたけれど、彼の境遇を考慮すると私はどうしても陛下を放っておくことができなかった。嫌がられることを承知の上でとった行動だ。何を言われても自業自得。けれど何があっても根は優しい陛下は私の取るに足らない夢の話ですら表情を曇らせ謝罪の言葉を口にした。
私が見た夢の話があまりにも現実味を帯びた内容でつい自己投影してしまったと肩を竦めて余裕げに小さく笑った陛下に私は内心少し安心していた。真面目な人だからまた自分の事のように重く捉えるのかと思って心配したけれど、ただの取るに足らない夢を軽く捉えているようでほっとした。
「それにしても興味深いな。実は俺もなまえと同じような夢を見たことがあるんだ」
「陛下も?」
奇遇ですねと菓子をつまみ紅茶を口に運ぶなまえにディミトリはお前のようにあまり楽しい話ではないがなと軽く身を乗り出すとなまえの口元についた粉砂糖の欠片を指で払った。
「家族を奪われ、国を奪われ、多くの命を犠牲に不幸にも生き伸びてしまった俺が延々と耳元で囁かれる死者の声に囚われ、恨みを晴らさんが為に復讐鬼となって多くの命を奪い続ける酷い夢だ。仲間からはいい加減目を覚ませと何度も叱責されたが次第に口を噤み敬遠され、誰の言葉にも耳を傾けず戦場を走り回った。その結果俺は復讐も王都の奪還も何一つ達成できないまま一人だだっ広い平原で矢の雨に撃たれ死ぬんだ。不甲斐ない落ちだな」
一眠りで体験した自身の壮絶な一生をまるで他人の事のように涼しい顔で語ったディミトリになまえは眉を下げ自分の痛みのように唇を噛んだ。どうして彼ばかりが苦しい思いをしなければならないのだろう。もっと自分自身を労って欲しいのに陛下は自分の死などちっとも顧みず、同じ平原で死んだ仲間を憂い申し訳ないことをしたと静かに目を伏せるだけ。
「そういえば俺の夢にもなまえが出てきたな。俺を庇って槍に刺され…即死だった。可能であれば二度と見たくない悪夢だ」
お前も俺が殺したようなものだ、悪かった。
頭を垂れるディミトリになまえは再度首を横に振り謝る必要は無いと祈るように固く結ばれた両手を解き手を重ねた。なにもかもただの夢の話。幸福な今を大切に行きましょう?と暗い顔に微笑むなまえにディミトリは少し泣きそうな顔をして存在を確かめるように重なった自身よりも一回り小さな手を指の腹で撫でた。
「なぁなまえ。どうか俺の傍から離れないでくれ。2度もお前を失いたくはないんだ」
部屋の温かさとは反比例した手の冷たさすら愛おしさを覚えるなんて私はだいぶのぼせ上がっているのかもしれない。
「ただの夢を1回として数えるなんて陛下は心配性ですね。私はずっと貴方の傍にいますよ」
私も離れたくない。たとえ共に地獄へ突き落とされようとも、5年も恋心を燻らせた挙句好きな人に命を捧げても死に際ですら自分の気持ちを一言も伝えられなかった酷い夢と比べたら地獄の方がずっと幸せに決まっている。
愛しています。この先も永遠に。
触れるだけの口付けを交わし互いに公務を投げ出して穏やかな茶会に興じている最中、ディミトリはふと思い出したように茶器を置くと肘をつき組んだ指の上に顎を乗せた。
「ところで、菓子は美味かったか?」
前にお前が好きだと言ってた菓子をメルセデスに習って作ったんだと爽やかな笑みを浮かべ味の感想を求めるディミトリになまえは頬を緩めた。
「はい、とても美味しいです」
紅茶で口の中の菓子を欠片も残さず喉の奥に流し込むとゆうるりと顔を綻ばせ、差し出されたディミトリの分も幸せそうに頬張った。
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