鳴上悠は完璧人間なのか?
「あ、そうだ。これ、悠君に。実はねぇ、この前ジュネスの帰り道にレジ袋破れちゃって。たまたま通りがかった悠君に助けて貰ったのよぉ〜。これは私からの感謝の気持ちってやつね。拾ってくれるだけでいいって言ったのに家まで運んで貰っちゃって。悠君って良い男ねぇ。イケメンだし、誰に対しても親切だし、私の旦那とは大違いだわ〜」
八十稲羽市に越して来て数ヶ月が経った。都会生活から一転田舎生活に移ることへの不安や不満は一切なく『なまえもきっと気に入るから』の言葉を信じて2年間お世話になった6畳半のアパートを解約し片道切符片手に新幹線に飛び乗った。なぜ数ある田舎の中で八十稲羽市に越したいと力説したのか、初めての彼氏に浮かれていた私は彼の真意など気にもとめず、仕事を辞め八十稲羽市への移住を決めた。当然八十稲羽市へ移住する旨を両親に話した時は相手が鳴上君じゃなければ平手打ちしていたと耳が痛い小言を言われたが、今は元気にやっているのかと娘の活躍を遠くから応援してくれている。たぶん鳴上君が上手く懐柔したのだろう。抜かりないなあの人。
八十稲羽市に住み初めてからほどなくしてなぜ彼がプレゼン資料まで作って力説したのか周囲の人間を介して理由を知った。それは職場の人から商店街、はたまた大型スーパー『ジュネス』の店員まで。鳴上悠の彼女という肩書きに反応し声をかけられる。話題はいつも同じだ。鳴上悠宛のお礼と親切にされた内容。それと褒め言葉。こんなに町民に好かれたら八十稲羽を定住先に進めた理由もうなずける。いかにも人に好かれそうな人だと妙に気配りが上手いことや話のネタが豊富な事から感じていたが、選挙並みに市民からの認知度が高い人物は鳴上悠ただ1人だろう。
良い男、イケメン、私もそう思う。
誰に対しても親切、そこが素敵だと思ってる。私にはもったいない。それはそうだね。
でも、
「漢の中の漢って印象っスかね。あの人にかかればできねぇことはねえっつーか」
「鳴上君ってすっごい器用なの!昼休みとかよくお手製弁当持参してきたりしてたよ。あ、あと運動神経も良かったかな〜。ま、あたしには適わないけどさ」
「天は二物を与えずとはいうけど、アイツは例外なんじゃね?って何度思ったことか。どんだけ前世で徳を積んだんだろうな。顔よし、器量よし、悔しいけどまさに完璧な男だよな〜悠は」
鳴上君をよく知っている友人も口を揃えて言う。鳴上悠にできないことは無い。運動神経抜群で、手先が器用で、言葉に謎の力を感じる。今まで出会ってきた人の中で鳴上悠は群を抜いて多才な人だった。でも、
鳴上悠は完璧じゃない、と私は思うのだ。
才能への嫉妬とかじゃなくて、私から見た鳴上悠という人物は少なくとも『完璧』という仮面の裏で変顔しているような子供っぽい人で、オムライスの上にケチャップで文字を書かなかっただけで駄々をこねる困った人でもある。出会った頃の鳴上君が襟元までネクタイを締めるような人だとしたら、今の鳴上君は上半身裸で唐突にカバディを始める台風のような人といったところか。想像の斜め上をいく奇人。見てて飽きない人。同棲早々取り決めたルールに異を唱え恨みっこなしのじゃんけん勝負で負けた途端唐突に始まった死にかけの蝉のモノマネもとい26歳本気の悪足掻きを目撃した時のことはまだはっきりと覚えている。私は一体何を見せられているんだろうと手足の長い人が床に寝転びバタつく姿ははっきり言ってシュールだった。いつの間にか冷静に戻った鳴上君に背中をさすられながら噎せるほど笑ったあの日。あの日を境に私の中で完璧じゃない鳴上君が確立されたような気がした。
それからというもの鳴上君の奇行に驚くことはなくなり、まぁいつも通りかと受け流せるくらいには私の生活に鳴上君が入り込んでいる。奇行と表現したけれどその内容は風呂上がりに女装姿で現れたり、テレビに映るアイドルに向かって「俺の方が可愛いしカッコイイし体当たり系もいける」と真剣な表情で呟いたり、その程度である。26歳本気の駄々をこねる姿以上に驚くことは未だない。だが驚くことは無いが気になることが1つだけ。
「鳴上君、今日は一体なにをしてるの?」
「なまえを吸ってる」
「そっか…」
蝉のように背中に張り付いて豪快に首元の匂いを吸う完璧人間らしい彼が自身の行動のギャップの差に疲れていないかという事だ。夕食を終えソファでウトウトと船を漕いでいた頃、長い足でソファを跨ぎ滑り込むように背中を陣取った鳴上君は説明もなしに肺いっぱいに私の首元を吸い始めた。ほぼ奇襲に近い鮮やかな身のこなしだった。おかげで私は膝の上で手を丸め一方的に吸われ続けている。
「ねぇ、私まだお風呂入ってないから汗臭いと思うし、できればお風呂上がりに吸って欲しいなーって」
「安心してくれ。なまえは汗臭くないし柔軟剤のいい香りがする。吸えば吸うほど一日の疲労が回復していくんだ。多分なまえの匂いが直接頭に作用しているからだろうか。一生吸ってたい。癒される…」
「…そっか」
どうか私の体臭が合法的な匂いでありますように。の前に、直接頭に作用する体臭とは一体何なのか。鳴上君の発言に沢山の疑問符を飛ばしながら与えられる擽ったさから逃げるように首を傾け肩に擦り付ける。擽ったいよと腕を叩いて抗議した途端に首元に生温かく湿ったものが首筋をなぞり上げ、挑発的な灰色の瞳と目が合った。にぃーっとわんぱく小僧のような笑みを浮かべる鳴上君に私は再度腕を叩き薄らと浮いていた両足を鳴上君の足の甲へ下ろした。
「鳴上君、私お風呂に入りたいからそろそろ離してくれない?」
「やだ」
やだ、とは?
「お風呂から上がったら好きなだけ吸っていいから」
「聞こえない」
いや、聞こえてるじゃん。
「…い、一緒にお風呂入りたいって言っても?」
「あらっ!なまえったら大胆ね。さっ、お風呂お風呂」
「なんて都合のいい耳なんだろう…」
膝裏に腕を回し軽々と抱き上げた鳴上君はとても溌剌とした様子でそれを見上げる私の気分は一児の母になったよう。たまに彼が使うようになったオネェ言葉に苦笑いを浮かべ、美しく流れる重たい前髪を指で払う。
「どうした?」
「んー、ちょっとね」
ずっとお洒落だと思っていた1房跳ね上がった前髪の寝癖に意図せず笑いが毀れた。やっぱり鳴上悠に完璧は似合わない。
「八十稲羽市の人達が鳴上君は完璧人間だってよく言ってるけど、それほど完璧な人じゃないんだなーって」
「幻滅したか?」
「まさか。ちょっと手がかかる方が私は好きだよ」
でも今日はちょっと食べ過ぎたお腹出てると思うからお風呂はまた別日にしよう。土日とかいいんじゃないかな?無理とは言ってないし、ちゃんと代替案を提示したつもりだった。しかし鳴上君は何も言わずニッコリ笑うと素敵な長い足をせかせかと動かして風呂場の扉を閉めた。
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