※現パロ

嗚呼、失敗したなぁと気付いた頃には身も心も人生も風に晒された濡れ紙のようにボロボロだった。
寒空の下、男物のサンダルを擦りながら脇目も振らずに走るスーツ姿の女はホラー映画さながらの恐慌が面に滲み、何度も何度も背後を振り返っては落ち着け落ち着けと左胸を叩く。
大丈夫、まだ身を隠す時間はたっぷり残っている。薄明かりの月光は黒衣の身を不自然に夜道と同化するよう包み隠してくれる。万が一鋭すぎる勘が働き現に追いかけられている状況だとしてもすぐに捕まることは無いはず。幸い彼は冗談が通じない真面目な人。コンビニでゴムを買ってきますと適当な理由をつけ財布一つで飛び出した私を、恐らく広さを持て余したあの大きな部屋で待ち続けているのだろう。逃げられたことにも気づかずに。

唇にこびり付く他人の温もりと感触に眉を顰め薄皮が剥けることも顧みず強く袖で拭いながら右へ左へと錆びた看板を頼りに見覚えのある角を曲がる。確かここにあったはずなんだけど。数える程しか踏み歩いた事の無い道をうろ覚えの記憶を頼りに彷徨いながら、多分この道だと、明かりの消えかかった街灯が照らす薄暗い路地を抜ける。間違っていたらどうしよう。けれど後戻りするほどの余裕も時間も浪費できない。途方も無い不安を抱えながら女は財布を握りしめる。路上に倒れた酔っ払いを横切り塀に挟まれた一人分にも満たない道へと体を捩じ込む。もしも‘あの人’が見つからなかったらどうしよう。女神様のご慈悲の下、せっかく平和な世界に生まれてきたのだ。せめて今世だけは厄介なことに巻き込まれず平穏に包まれて死んでいきたいと切に願っていたというのに。
室外機の上で踞る黒猫が欠伸混じりに鳴き声をひとつ。ひょいと悪臭を放つ水たまりを飛び越え、喧騒な空間から隔絶された道の先に輝く淡い光に女は感動の声を上げた。…見つけた。しかもこんな夜更けに営業中。数ばかりで勝負する下手なイルミネーションを眺めるよりも感動的で深い感嘆を零すが、こんな所で呑気に立ち止まっている場合では無いのだ。
女は額の筋を前髪で隠し履いていたサンダルが片足どこかで落としてしまっていたことも構わず、藁にもすがる思いで建付けの悪い戸を破壊する勢いで横に引いた。夜も更けたというのに随分仕事熱心なようで、何から文句を垂れようかと指を折る女だったが、戸を引いた途端襲いかかる鼻が曲がるような蒸れた酒の匂いに女はこみ上げる吐気を抑え数歩後退った。
受け付けカウンターには見慣れた男が狭い椅子の上で胡座をかいていた。戸の前には『営業中』の張り紙が貼っていた筈だが、仕事をする気は無いとカウンターに大量の酒缶とつまみを広げ絶賛晩酌中の従業員兼経営者に女は「お久しぶりですね、先生」と地を這うような声で怒りに震えた口端をニコリと上げた。
先生、と呼ばれた人物は女の記憶に生きるかつて先生と呼び慕った人物とは遥かに表情豊かで、突然先生と呼ばれた男は驚いたように目を丸くすると口いっぱいに頬張ったものを慌てて喉の奥へと流し込み口を空にした。

「…記憶が戻ったのか?」
「ええ、お陰様でそれはもうバッチリと」

嫌味を込めて言ったつもりだった。しかし言葉の表しか受け取らない男はそれは良かったなと頷き、祝杯でもするか?とさも平然に未開封の酒缶を差し出すものだから、女はふざけないでください!と怒りを顕にカウンターが反れ曲がる勢いで強く叩いた。すまなかったと男はしょんぼりと肩を落とす。しかし次の瞬間には、紅茶をいれてこようと眉間一つ動かさず席を立とうとするものだから、あの人は私が怒る理由を何一つ分かっていないに違いないと女は肺が潰れるほど長くため息を吐いた。
こんな夜更けに先生とお茶会をする為にわざわざここまで来たわけじゃないんです。やるとしても朝とか昼とか明るい時間でしょう!?なんで夜なんですか。それに私、紅茶よりもテフ…そう、コーヒー派ですから。できればお酒や紅茶よりもコーヒーを出してもらった方が嬉し…いや、そういう話でもなくて!!

「クーリングオフしたいんですけど!今すぐに!!」
「残念だな、期間適用外だ。諦めてディミトリに幸せにしてもらえ」
「なっ!?…せっ、先生は私に大人しく首を捻じきられろと言うのですか!?もとはと言えば先生がもちかけてきた話なんですから私が安全な幸せを手に入れるまで見捨てないでくださいよ!!私貴方の元生徒ですよ!!?国外逃亡の手伝いくらいはしてもらいますからねっ!」

些か規模が大きすぎはしないか?と呆れ顔で酒を煽る先生はこれっぽっちも事の重大さを理解していない。前世では嵐の王と恐れられ、今世では倒産寸前の会社をたった一代で国が誇る大企業へと建て直した若きやり手の社長相手に元社畜の私が太刀打ちできるわけが無い。モンスタートラックに生身で挑むほど無謀な戦いである。彼の記憶が戻らない内はまだ平和だ。愛され、可愛がられ、愛おしげに私の名を呼び口付けをくれる。けれどもし彼の記憶が戻ったら…社会的に殺された後薄暗い路地裏へと引き摺られ行方不明者として処理される運命は不可避である。何度も言うが今世は穏やかに棺へ横になりたいのだ。ならば彼の記憶が戻る前に見つからない場所へいち早く身を隠さなければならない。今も昔も私の図太く生きる質は変わらないのである。
この平和な世界の隅っこで平穏に生きるには亡命くらいしなければ。雑に隠れたところで身元はすぐに割られるだろうし連れ戻される危険性は非常に高い。あらゆる武器が廃絶されたご時世であれど彼には広い人脈がある。連れ戻されたが最後、綺麗に死ぬことは許されないだろう。ふと頭をよぎる彼の本棚の端に挟まった『世界の拷問集』の背表紙。いくら記憶が無いとはいえ、鉄臭い匂いからかけ離れた世界でも背筋が凍りつくあの物騒さは今も現在のご様子。さすが嵐の王。殺意が高い。
ちょっと欲に手を出してしまったばっかりにまさかこんな目に遭うなんて。おばあちゃんが言ってたとおり、堅実に誠実に生きるべきだった。取り返しのつかない失敗を犯してしまったことに漸く気づきその場に崩れ落ちるなまえ。その大袈裟な行動をベレトは他人事のようにカウンター越しに見下ろし空になった酒缶を片手で捻り潰した。人生のどん底で喘いでいますと言わんばかりにえぐえぐと鼻をすするなまえにベレトは参ったなぁと頭をかき、腹は空いてないか?と謎の気配りを働かせハンカチではなく可愛らしい動物のクッキーを彼女の目の前でチラつかせた。本当に女心のわからない先生だ。苛立ち混じりに舌を打ちそうになるも『こら、なまえ。顔は可愛いんだからもっとお淑やかになさい』と頭の中の母に咎められぐっと怒りを抑える。ここで怒鳴り散らしたところで追い詰められた状況は変わらない。冷静さを失っては上手くいくことも失敗する。ポケットに偶然入れっぱなしたハンカチを取りだし自分で顔を拭う。逆鱗に触れまいと退いていくファンシーな袋を女は烏にも負けぬ素早さで奪い取り豪快に封を開けた。夕飯を食べ損なってしまったのだ。腹が立っても涙が出ても空腹には負ける。涙を流しながらボリボリとクッキーを貪る元生徒にベレトは相も変わらず悲観的な子だとカウンターに肘をつく。何が不満だと言うのか、数ヶ月前に受け取った素朴な申請書に目を通しながら困った生徒だとベレトは小さくため息をついた。

若き敏腕社長エーデルガルト=フォン=フレスベルグが経営する大手企業の末端OL社員。それが今世の私に与えられた役目だった。自分で言うのも烏滸がましいが飲み会と称した男漁りに華を咲かせる女性社員よりも私は仕事ができる人間だった。上司から大層私は可愛がられていた為常に定時では終わらないほどの仕事量を笑顔で押し付けられ、高いヒールを慣らし退勤していく華やかなOL達には地味で冴えないが上手く機嫌をとっていれば使える女と気に入られていた。狭く浅い人間関係で満足していた私の手帳に浮いた予定は1つも無い。趣味仕事、特技仕事。夢の中でも仕事仕事からの仕事。クローゼットに仕舞った仕事着兼私服兼寝巻きのスーツは会社へ服従する立派な社畜の証。盛り上がりもなければ落ち込むことも無く、華を添える暇があれば手を動かす起伏のない平坦な人生。無色透明で替えのきく小さな螺子として会社を支える。そんな忙殺とした日々を送っていた私に女神様はにっこりと微笑み人生最大の幸運を運んでくださった。
どういう経由かは知らないが私の働きぶりを小耳に挟んだフレスベルグ社長は平社員のままでは勿体ない人材だと過大評価し、私を名指しで呼び付けた。それからというもの目まぐるしい速さで踵をすり減らした平社員は昇進コースのエスカレーターに乗り瞬きする間に会社を動かす幹部へ就任していた。様変わりした景色に初めは何が起こったのか分からず新品の机を前に戸惑うばかり。あまりの待遇の良さに人違いではないのかと暫く床に座り仕事をしていたがフレスベルグ社長が椅子に座りなさいと言うものだから、社長の意向ならばとなまえは有難く頭を下げ漸く臀部に優しい椅子に腰掛けた。
今までの半分程に減った仕事量と新たに加わった社の指針に関わる重大な会議、それと重すぎる責任感。平の頃よりも仕事への熱量はいっそう増し懐炉さながらに懐も温かくなる一方で物静かな空間には窓の外で蔓延する煌びやかな流行りを告げる鳥達の囀りも層が高くなるにつれて自然と淘汰されてしまった。別に自分の身なりや周囲の彩りがなくとも手を動かし業績を上げればそれでよかった。社長も喜び、会社は潤い、己の存在意義を感じることが出来る。ああ、そうだ。私は誰でもいいから延々と良くやったと認められ必要とされていたかった。体が擦切れるまで、社長が私を必要とし、承認し、何度も何度も繕いながら末永く使い続けてくれたら私はそれ以上は何も望まない…はずだったのだが。

「貴女、仕事もいいけれどそろそろ身を固めたらどうかしら?」

もう私はいらないのかと思った。
多忙の中、わざわざ私の元へ足を運び声をかけた社長が放った凍りつくような一言にこれは遠回しに戦力外通告をされているのかと絶望、今の心情を表すように積み上げた資料の山はタイミングよく雪崩を起こす。足元に手付かずの資料が大胆に散らばる。しかし紙一枚拾い上げる余裕など突然首に縄を掛けられた私にはほんの少しも残っていなかった。

「そっ、それは…私はもう必要ないということですか…?」

下層で働いていた頃、毎日のように耳にした煌びやかなOL達の結婚したい=会社辞めるの方程式が擦り込まれたなまえは怯えたように唇を震わせ目を大きく見開く。そんななまえの不安を切り捨てるかのように社長は重たい溜息をつきながらそうじゃないわと腰に手を当て首を振った。

「勘違いしないでちょうだい。貴女は会社のためによくやってくれているわ。生真面目で仕事熱心な上に要領がいい。私がそう簡単に手放すわけないじゃない。例え他の企業が貴女を欲しがっても譲りはしないわ。なんて言ってもあのヒューベルも目を見張るほどに貴女はとても優秀な人材なのよ?でも、私の目から見ても貴女は些か自分を蔑ろにしすぎだわ。一言で言うなら“働きすぎ”。…正直、貴女にこんなことを言うのはあまり気乗りしないのだけど、師の頼みなら…仕方がないわ」

嫌なら断って構わない。けれどそこの経営者が私にとってとても大切な人だからくれぐれも失礼がないように。しっかりと釘を刺されてから受け取った一枚の名刺。どうやら最近営業を始めたようで場所も辺鄙な場所にあるから客が少ないんだとか。丁度有給も溜まりに溜まって、仕事も少し落ち着いてきたから気分転換のついでにサクラとして行ってきて欲しいと社長に頼まれた私は断るにも断れず無理やり取らされた長い休暇片手に律儀にサクラ要員として少々胡散臭い香り漂う『結婚相談所』の元へと足を運んだ。ごめんくださいと声をかけ建付けの悪い戸を引く。結婚相談所なんてドラマの中だけに存在するものだと思っていた。乾ききった人生にはあまりにも高すぎる敷居。恥を気にせず草臥れたスーツを身に纏い訪れた自分が急に小汚く不相応であり、戸を跨いでもいいのかとレールの上で足をふらつかせる。すると何ともマイペースを絵に描いたような人が現れどうぞお入りくださいと応接室へと案内した。ベレトと名乗った大学生のような顔立ちの男性は幼く気の抜けた見た目とは裏腹にこの結婚相談所を経営する起業家で、従業員は雇っておらず彼一人で運営しているらしい。そういう訳で私を担当する方は自ずと彼になるのだが、古い建物と経営年とは裏腹に彼は相当の目利き腕利きらしく、この相談所を訪れた人は皆素敵な出会いに巡り会いその後結婚し幸せな家庭を気づいているとのこと。誰が聞いても嘘くさい。三流の脚本家でも書かない話だと疑いの眼差しを向けるなまえだが、あのフレスベルグ社長がこの人を大切な人と言うくらいなのだから疑心せず素直に信じてみるべきかもしれないと、騙される覚悟でぽつりぽつりと口を開いた。

慣れない環境の上に圧倒的会話初心者な拙いコミュニケーション能力でもベレトさんは熱心に私の話に耳を傾けてくれた。生まれてからこの歳に至るまで恋愛感情が芽ばえる機会は恵まれてはいたものの人見知りが邪魔をして、たとえ気になる人が相手でも一定の距離を保って生きてきた。だからどんな男性がタイプなのかと尋ねられても一度もそんな議題について脳内討論会は行われたことは無かったし、どうせ実らないからと逃げていた節は大いにある。昔流行ったプロフィール帳、私は異性の好みの枠をなんて書いていたのだろう。まだ齢2桁に上がりたての頃の自分の方がまだ色恋沙汰に敏感だった気がする。社長に勧められ長すぎる休暇の暇つぶしとして結婚相談所を訪れてはみたが担当の人を前にして依然結婚願望なんてこれっぽっちもないし湧きもしない。私も立派な大人だから、冷やかしに来たのかと軽蔑されてしまうから口には出さないけれど。仕方がないじゃないか、自立してから今に至るまでずっと自分の足だけで生きてきたのだから。
お金がある、顔がいい、優しい、どんな条件をつけてもいい。だが末永い幸せを掴むなら自分には無いものを相手に求めると上手くいく。ベレトさんはそう言いながらカリカリとペンを走らせふんわりと笑った。自分には無いもの。なんとなく胸に手を当て考えてみる。自分に無いものは沢山あるがどれも無くて困らないものばかりだ。なまえはウンウンと唸りながら考える。ここに来た当初の目的はすっかりと抜けていた。

「私は…」

ベレトの視線から避けるように俯きながらパラパラと両の指を弾き合わせ視線を彷徨わせる。その表情は草臥れたスーツにはそぐわない開花寸前の蕾のように色づいていた。

「お金も顔も性格も気にしません。そも私自身あまり羨むようなものは何一つ持っていませんから。平凡で仕事馬鹿で社長にも呆れられるくらい飾り気のない地味女。そんな私を幸せにしてくれる人と巡り会えたら…そんな感じですかね」

求めすぎでしょうか?恥ずかしそうに顔をあげるなまえにベレトはそんなことは無いさとペンの先で机を叩いた。任せてくれとベレトは自信満々に胸を張る。彼の手には細々とした文字で空欄が全て埋め尽くされた申請書が完成されていた。

数日待ってくれ。
こういう出会い系関連は軽く一ヶ月はかかるのでは?となまえはその仕事の速さに首をかしげ一抹の不安を抱く。しかしこういった業界の知識は0に等しく、オマケに相手は社長の大切な人であり自称敏腕カウンセラー。どんな相手が連れてこられるのか、夜も満足に眠れぬほど内心不安で仕方なかったが、社長が言ってた通り、嫌なら辞めればいいの言葉を命綱に人生初の危険な体験に身を投げた。

街はこんなに騒がしかっただろうか。社畜には縁の無いお洒落な若者で溢れる道の端をなまえはひっそりと影に溶け込むように肩を狭め足早に目的地へと足を運ぶ。2日ぶりの日光浴。出勤以外の理由で外を歩くのはいつぶりだろう。パジャマ生活から脱出した彼女が身に纏うのはいつも通りの草臥れたスーツで、辛うじて肌に塗りつけた白粉は風に吹かれ5分の努力も水の泡。しかし予定の時間にはギリギリ間に合いそうだ。腕時計をチラチラと気にしながら人波に逆らい数歩先の喫茶店へと歩幅を広げる。『今日の正午、○○街の××喫茶店に来て欲しい』突然送られた一通のメールになまえは急いでパジャマを脱ぎ捨て顔を洗った。確かに数日待ってくれとは言われていたが、まさか今から一時間後に指定の場所に呼び出されるなんて聞いていない。いきなりはちょっと…せめてほんの少しでも時間を遅らせてもらえないかと遅めの朝食を頬張りながら交渉はしてはみたが急なことで申し訳ないが時間通りに来てくれとベレトに押し切られてしまい、迫る約束の時間に冷や汗をかきながら夜勤明けの様な出で立ちで家を飛び出すこととなった。
長い信号機に苛立ちながらもパタパタとすり減った踵を鳴らして喫茶店へと滑り込む。これが大切な商談話なら今頃首が飛んでいたところだ。風で荒れた前髪を直しながら何名ですか?と聞いてくる店員になまえは人を待たせているんですと告げた。すると店員は何故かギョッと目を見開いて下から上までじろじろと不躾に見つめると眉を顰めながらこちらです舌を打ちそうな表情で店内へと案内された。
変、だろうか。上着の皺をピンッと伸ばし襟を整え高そうなアンティークの置物を壊さぬよう足元に気をつけながら店員の後をついていく。喫茶店はもっと静かで落ち着いた場所だと思ってた。レトロで荘厳な内装とは裏腹に店内はヒソヒソと女性特有の耳に着く声が飛び交い熱心に特定方向へと視線を飛ばし合っている。
なにか催し物でもしているのか。老若問わず色めき立ち熱い視線が向かう先へ野次馬気分で視線を這わせる。すると窓きわの席に座る一人の男性にああ、なるほどとなまえは小さく頷いた。女性が騒いでいる理由は彼か。ちょいっと踵を上げ店員の肩越しから見えた黄金を振りかけたような金糸になまえは息を呑んだ。
遠くからでもわかる彫刻のような美しさと上半身だけでも察しのつくルックス。こんな偶然有り得るのか。結婚相談所から呼び出された喫茶店にまさか芸能人がお忍びできていたなんて。流行りに疎くテレビなんてあまり見ないなまえではあるが頬杖をつき窓ガラス越しに外を眺める男が只者でないことだけは彼の纏う空気と周囲の女性達の反応からよく分かる。詳しい職種は知らないが有名な人なんだろう。それにしても有名人にしては顔を隠す努力も無ければ周囲にはカメラも連れもいないとはなんと大胆な人だ。顔面偏差値がこうも高いと逆に顔を隠す方が不自然なのか。すぐ真横を通り過ぎた女子高校生がうっとりと絡みつくような溜息をつく。罪深い人。うっかり恋に落ちる子もいるに違いない。あの顔、ルックスなら何食わぬ顔で何百、いや何千人もの女性を泣かせてきたと言われても百人中百人がでしょうねと素直に返すだろう。とても綺麗な人。光にあてられた天色の瞳が硝子のように輝いてる。
そういえば私の縁結び担当者のベレトさんも彼に負けないくらい綺麗な瞳をしていた。竜胆色の瞳の奥まで覗けそうな深い色。ところで呼び出した張本人は何処にいるんだろう。店員の肩越しにはベレトの姿は見当たらず奥に進むにつれ空席ばかり増えていく。もしかしてまだ来ていないのか、チラチラと時計を気にしながら大人しく店員の後ろを歩いていると急にくるりと踵を軸に束ねた髪を大きく揺らした店員は出会ってまだ一分ばかりの相手に対し親の仇の如く睨みながら『注文が決まりましたらベルを鳴らしてお呼びください。それではごゆっくり』と貼り付けた笑みを残して去っていった。ごゆっくりと言われても…。錆びたブリキの如く首を回す。誰かこれは何かの冗談だと言ってくれ。プラカードを担ぎネタばらしをするなら今がその時だ。早くしなければ恐れ多くも私も無謀な恋に突き落とされた可哀想な女の一人になってしまうじゃないか。
店員に案内された席に呼び出した張本人の姿はなく、代わりに店内中の視線をかき集める顔のいい男性。なんの手違いかと周囲を見渡すがベレトの姿はなく慌てて携帯を取り出そうとするなまえへ机に影が落ちたことに気づいた顔の良い男は頬杖をやめ、座らないのか?と着席を促した。
嗚呼、女神様灰色な社畜人生を急に飾り付けるのはおやめ下さい。こんな周りの反感を買う乙女チックな展開はこれっぽちも求めていません。
外の景色を眺めていた男がようやく視界に入れた人物がよりにもよって自分であることに萎縮しながらもこのまま通路に立っているのも迷惑だとなまえは恐る恐る、いつでもこの夢と現実が煩雑した空間から逃げられるよう通路寄りの席へと浅く腰掛けた。
遠くからでも眩しい顔立ちだが至近距離から見ると美しさを通り越して凶器である。加えて顔の見せ方を心得た品のある仕草。扇のようなまつ毛がこの距離でも鮮明に見えるというのだからこの草臥れたスーツの糸の解れも名も彼の視界に映っているのだろう。こんなことになるならば昨年社長に買って頂いた会食用のスーツを着てくれば良かった。取り返しのつかないしくじりに頭を下げているなまえへ男は机の上で手を組みマジマジと白粉の剥げた顔を見つめている。

「なまえ=みょうじ…で間違いないだろうか?」

名も知らぬ顔の良い相手に自ら名乗る前に名前を呼ばれなまえはたいそう驚き目を丸くしたが困惑しながらも小さく頷いた。なまえの肯定に男は確信したようにふんわりと笑みを零し状況を呑み込めていないなまえへ「ベレトさんから連絡を貰ってきたんだ」と告げた。男が発した『ベレト』の名前になまえはああ、そういう事かと合点がいった。それと同時に自称敏腕カウンセラーは伊達ではなかったが連れてきた相手は大分自分には勿体なさすぎる人だと、目をつぶりたくなるような造形美を前に視線を彷徨わせ皺だらけのスカートの裾を握りしめた。
男はディミトリと名乗った。歳は一つ上。苗字を名乗らないのは名前で呼んで欲しいからだと照れくさそうに頬をかくディミトリにはは〜ん、なるほどねとなまえは心の中で手を打つ。この人、相当の遊び人とみた。女の心を掴むのがそれはそれはお上手なことで。まさかとは思うが…結婚詐欺師?あまりにも身の丈に合わない出会いについ最低な方向へ勘繰ってしまう。疑い深い性分なもので、名前を名乗るもなんの反応も見せないどころか警戒心ばかりが高まるなまえにディミトリは怪しまれていることに気づいているのだろうか。否、おそらく気づいていないであろう。気づいていれば腹の底を覗こうとする女にメニュー表を渡すわけが無い。「決まったか?」顔を上げると何が楽しいのかニコニコと笑うディミトリになまえは苦笑いで返す。この人、少し苦手かも。日陰でひっそりと生きてきた人間にその笑顔はあまりにも眩しすぎる。「どれにしたんだ?」と距離感もはからず覗き込んでくるディミトリになまえは顔を覆い背を反らしながらももう片方の手でメニュー表を指さした。「美味そうだな」と目を細めると通りがかった店員を呼びなまえが指さしたものを2つ注文した。
…この人も同じものを食べるのか。狙ってやったのかそれともたまたまか。深い間柄でもなければここはファーストフード店でもないのに誰彼構わず惜しみなくその顔面を押し付けるディミトリを横目になまえはなんて疲れる人だと冷水を飲み込んだ。
実は会社を起業していると告白された時はやはりそういう人なのかとなまえは食べる手を止め身構えた。しかし会話のキャッチボールならぬドッチボールを繰り返しているうちディミトリの誠実さと冗談が通じない堅物さになまえは少なくとも肯定的であった。不誠実よりかはいい。嘘つきな人も好きじゃない。
誰彼構わず振りまいていた笑顔も彼が友人思いで、無自覚のヒトタラシである事を知ると無愛想な人よりかはずっと良いのでは?とお皿が片付いた頃にはディミトリへの苦手意識はすっかり解け彼への興味心が芽生えていた。彼はどんな人生を歩んできたのだろう。話し上手で気配り上手なディミトリに深い恋の沼に嵌っていることになまえは恐らく気づいていない。
浮世離れと言うよりはたいそう過保護に大切に箱の中で育てられてきたんだろう。頭2つ分上で気まづそうな表情を浮かべたディミトリを横になまえは気にしないでくださいと財布から二人分の代金を支払う。仕事の電話がかかりちょっと席を立った隙にディミトリの姿はなく、店員に呼ばれて向かった先には真っ青の顔で狼狽えていたディミトリがいた。どうやら二人分の会計を済ませようとするもカード対応が出来ないと返り討ちにあったようで、数分前のスマートな面影はどこへやら子供のように慌てふためく成人男性を前になまえは堪らず腹を抱えて笑ってしまった。おかしな人。いつもカードで払っていたからと意気揚々とレジに乗り込んだがまさか硬貨も紙幣も一切持ち合わせていないとか笑うしかない。普段喫茶店なんて来ないからと顔を隠すも髪の隙間から見える耳は赤い。必死に弁明するディミトリになまえはそうなんですねと相槌を打ちながらもフルフルと肩を震わせていた。笑うなと言われて笑わない人なんているのだろうか。こんなに格好良い人が会計一つであんなに慌てるなんて。目の奥がハートマークだった店員もこれには思わずハートを割っていた。恋は落ちるのも冷めるのもあっという間ということか。いいことを学ばせてもらった、後学にさせてもらおう。
羞恥の情に駆られたディミトリの腕を引き喫茶店を後にしたなまえはこの後はどうしたらいいのかと足先を彷徨わせる。異性と出かけたことなんて一度もない。食事だって彼の顔面の良さに緊張してよく味がわからなかったというのにこの後どこに行きましょうか?と提案したところで何処に行きましょう?と返された後の沈黙が怖い。そもここに来たのはベレトさんと話に来ただけでまさか初デートに洒落込むなんて考えもしていなかったのだ。こんな草臥れた仕事着で何処に行こうというのか。せめて今日はお開きにして2度目があるなら彼の隣を歩くに相応しい服を買いに行きたいのだが、「一緒に行きたい場所があるんだが」と掌を差し出し重ね待ちをするディミトリになまえは目眩を覚えた。これはどうしたらいいのだろう。一回り大きな手と己の服装を交互に見合せ、もう少しこの人と居たいかもしれない…と差し出された掌におずおずと自らの手を重ねた。何故もう少しと思ったのかは自分でもよく分からないけれどこれが恋の始まりと言うならせっかくの機会だし勇気を出して一歩踏み出してみるのもいいかもしれない。嫌なら断ればいいだけだし、こんなに面白くて素敵な人そうそう巡り会えないだろう。ぐっと手を引かれ彼の隣に並ぶと指先が絡み合う。掌から伝わる人の温もりと不器用な力加減に心臓がビクンっと跳ねた。さりげなく歩幅を合わせて歩く気遣いに幸せを噛み締めるのは可笑しいだろうか。恋愛初心者な者ですからどうかお手柔らかに丁寧に扱って欲しい。やんわりと繋がれた手を握り返す。ディミトリの隣を歩くなまえは暫く恥ずかしそうに俯いていた。
性格も顔も懐も何もかもが完璧すぎる男に良い意味で振り回されている。頭の片隅では常に結婚詐欺師では?遊ばれているのでは?と身の丈に合わない相手に疑いをかけ続けるなまえだが、人生初のデート終わり「幸せにする」と半プロポーズの告白を受けると遊び相手でも騙されていたとしても幸せにしてくれるならばと結婚願望通りの相手になまえはよろしくお願いしますと広い背に手を回した。幸いにも一人分なら数年養うくらいの貯えはあった。たとえディミトリが詐欺師であれ遊び人であれほんの一時の幸せを金で買うならホストに貢ぐのと同じようなもの。クラブに通っていると思えば痛くはない出費だと、万が一捨てられた時悲しみに沈まぬよう予防線を張りに張り巡らせなまえはディミトリの手を取る。悲観的すぎでは?そう思われるのも無理はない。けれどいくら婚活とはいえモデルをやっていると言われても満場一致で納得する美しい人が何故社畜人生を謳歌するボロ雑巾のolを気に入ったのか分からないなまえにはここまで悲観的な思考でなければ彼の隣など歩けはしなかった。しかしそんな悲観的な思考もデートを重ね手を繋ぎ、嬉し恥ずかしのファーストキスを済ませた頃には少しずつ明るい方へと傾いていた。大きな変化としてはスーツ以外の服を着ることが増えたことだろうか。要りませんと断ったが押し付けられる形で贈られた可愛らしい服に最初は困った表情ばかり浮かべていたなまえだったが褒め上手なディミトリにのせられて彼が喜ぶならと名残惜しげにスーツを脱ぎ高いヒールの靴につま先を滑らせた。ゆっくり、一歩ずつ。動画を見ながら化粧を学び、髪も少しだけ巻いてみたり。仕事用の鞄ではなくお出かけ用の鞄を買ってみたりと蛹から蝶へと徐々に変貌していくなまえに周りが放っておくはずがなかった。過去に地味だ社畜だと馬鹿にした人々は一皮剥けたなまえに感嘆する一方、嗚呼しまったと舌を打ち、腕を組んだエーデルガルトは流石師だわと敏腕カウンセラーを賞賛し見違えるように美しく磨かれた女に幸せそうねと微笑んだ。

はい、とても幸せですと女は満ち足りた表情を浮かべる。

夢物語のような順調すぎる日々。行く手を阻む障害物もなければ理不尽な試練もない平坦な道を私は彼と共に歩く。激務を終え倒れそうな体を引きずりながら家に帰ると大好きな彼がおかえりと言ってくれる。その一言を聞きたくて、いつ仕事を辞めるんだと尋ねてくる彼にもう少しだけ働きたいのと渋ってしまった。もう少し、もう少し。背後から回された逞しい腕をあやしながら寿退社して辞めたいな〜なんて以前の自分では考えられないことだ。早く辞めてくれと肩に顔を填めた彼の眩い髪をかき混ぜもうちょっとだけと我儘を言った日から少し経った夜のこと。今日も今日とて身も心もクタクタで、扉を開けて彼の胸に雪崩込み疲れたと愚痴を零し瞼を閉じようとすると彼はまだ眠らないでくれと頬を撫でた。何をするのだろうか。きれかかった電球のように瞼を擦り見つめているなまえにディミトリは緊張した面持ちで徐にポケットから四角い箱を取りだし「結婚してくれ」と箱を開けた。そう、プロポーズされたのだ。ディミトリに。勿論答えはYESだ。断る理由なんてない。彼からの突然のプロポーズに驚きはしたけれど私はこの素敵な人と結婚するんだと感極まって泣いてしまった。翡翠色の指輪が左手の薬指で輝きポロポロと溢れる涙を掬うように唇が肌を吸い流れる動作で口付けられる。背中に回った逞しい腕が反った背中を手繰り寄せ、息苦しさと羞恥心を紛らわすように広い背中に爪を立てる。あっ、食べられる。激しい口付けに足元がふらつき、スルっと冷えた足の裏と浮遊感に嫌な汗が背筋を冷やす。爪を立てたはずの手が面白いくらいにツルンっと背中から滑り落ちていく。離れていく唇にディミトリが慌てて崩れていく体を引き寄せるも、私のふらついた上半身は仰け反り…

「うっ…」

ゴンッと鈍い音が部屋に響いた。派手に頭を壁にぶつけ床に踞ったなまえをディミトリは膝をついてあわあわと行き場のない手を忙しなく動かす。大丈夫か?怪我はしてないか?すまない、強引だったな。氷で冷やすか?蹲ったまま言葉を発しないなまえへディミトリは矢継ぎ早に声をかけ丸い背を摩る。頭の痛みが引いたのだろうか、ゆっくりと頭を上げたなまえにディミトリはほっと胸を撫で下ろし大丈夫か?と言葉をかけるが…荒波のように揺れる瞳孔にディミトリはゆっくりと不自然に汗ばんだ背から手を退けた。

「なまえ?」

まるで自らの名を思い出したかのようにディミトリに名を呼ばれてなまえはハッと憑き物を落とすように顔を振り立ち上がった。荒い呼吸を甲で押えたなまえは頭を押えながらなんでもないよとディミトリに気づかれないよう机の上に放置した鞄へと視線をやる。飛び出しそうな感情を押し殺しいつも通りを装ってはいるが心臓は握り潰されたように力強く鼓動している。開いた窓から身を投げ出すにはここは高すぎるし包丁も鈍器も馬鹿力の前では簡単に丸め込まれてしまうだろう。
お前がそう言うならと不可解な表情のまま距離を詰めてくるディミトリになまえは悲鳴を押し殺して彼の胸を押す。今までの私なら受け入れただろうけど『今の私』には口付けも抱擁も受けとめられない。背を反らして後退り、寄せてくる唇を掌で覆いふいと首を回して拒絶する。不満げに眉を顰めるディミトリに怯えながらもなまえは必死に逃げ道を探していた。どうにかしてここから逃げないと。ああ、そういえば…肩越しに見えた引き出しになまえは閃いたとディミトリを突き飛ばす。尻もちをつきポカンっと口を開けて見上げるその姿は頭の奥に巣食う膝を着き恨み言を吐き散らす嵐の王に重なり臆病な心臓を締め付ける。
時代も世界も互いの立場も変わったというのに、やっぱりこの人を前にすると手元が狂いそうになる。あの日の私なら躊躇いもなく魔法で…けれど今の世界に魔法はない。自分を守る方法は逃げる以外にはどこにもない。

「あのっ、えと…そっ!そういえば、ゴムきらしてたんじゃないかなーって。私急いでコンビニで買ってくるから陛っ…ディミトリはここで待ってて」

尻もちを着いたまま動かない彼に手を差し伸べる優しさも余裕もなかった。鞄から携帯を取りだしポケットに突っ込むと彼の視界から外れた角度でそっと嵌められたばかりの指輪を抜きとり鞄の奥に隠した。この人に縛られいつ殺されるか分からない恐怖を抱えて一生を過ごすなんてゴメンだ。今も昔も彼の周りには頼もしい友人がいる。私が傍にいなくても私よりもずっと美人で気配り上手で貴方を幸せにする人は沢山いるのだから、どうか私のことはこれ以上放ってください。逃げられたと直ぐに勘づかれないよう鞄は置いていこう。あまり中身の無い財布を脇に挟み焦りが悟られぬようわざとらしくゆっくりと玄関へと向かう。すぐ帰るから。息を吐くように薄っぺらい嘘を残して遠くまで逃げられるように男物のサンダルを履き扉を開けた。すぐに戻ってくるから。扉の隙間が埋まるまで名残惜しげに手を振りガチャんっと扉が閉まると鍵をかけエレベーターのボタンを連打する。元住んでいた家はとうの昔に引き払って、実家は既に彼に知られて帰れない。昔の仲間とは一切交友関係を結ばなかったため連絡先も知らなければ自宅も分からない。エーデルガルトは海外へ出張中。突如忌まわしき昔の記憶が戻り居場所を捨てざるを得ない状況となった今、行くあてなど事件の発端となった結婚相談所しかなかった。

「それで、これからどうする気なんだ?本当に国外逃亡する気か?」
「ええ、私は本気ですよ。だって考えても見てくださいよ。帝国領出身且つ黒鷲の学級に所属、エーデルガルトが教会を否定し無関係の人々を犠牲にすることを承知の上で祖国を守るために教会に反旗を翻そうとする友人の反逆に加担。あれよこれよと罪を重ねタルティーン平原の戦いで顔見知りを次々に手にかけ、陛下を…ディミトリを瀕死まで追い込んだのは私です。彼の記憶が戻ったが最後四肢をもぎ取られ首をへし折られる未来しか見えませんよ…ははっ」

思い出すだけで悪寒がする。ホラー映画を見たあとよりも軽くトラウマで寝付けない。頭を垂れて詫びながら死ねだの、地獄の底で悔いろだの、既に意識を飛ばしてもおかしくはない傷を負いながらも死に際で散々罵倒された挙句不意をつかれ左腕を切り落とされて。生まれ変わった今も左腕がついているか心配になる。プロポーズされて嬉し涙を流した頃が懐かしく感じる…たった数時間前の出来事だけど。もうひと袋ありませんか?空になったクッキーの袋を結びながら晩酌のツマミを拝借し始めるなまえにベレトはやれやれとカウンターの下から未開封の菓子袋を手渡す。

「ディミトリはそんな物騒なやつじゃないぞ、たぶん」
「世界の拷問集を平然と本棚に置いてる人のどこが物騒じゃないのか分からない…」

青白い手で首を押える切れ味のいいなまえのツッコミにベレトは間延びした声で誤魔化した。武器が廃絶された世界線とはいえ物騒な言動趣味嗜好は生まれ変わっても変わらないらしい。実家に門がなくてよかった。変わり果てた娘の首を両親には見せたくない。
パスポートは確か実家に置いていたはず。期限が切れていなければいいのだが。早くもスマートフォンを指でスライドさせ逃亡先を選び始めるなまえにそう先走らなくとも少し落ち着いて考えてみればとベレトは助言を与えるが身の危険が迫るなまえには悠長に茶を啜っていられないと吠えた。

「先生が何を血迷って私と彼をくっつけようとしたかは知りませんし知りたくもありませんけど、幸せな日々だったとはいえ記憶が戻ればもう結構です。今世では私穏やかに暮らして死んでいきたいので、これ以上過去に縛り付けるような真似しないでください」

軽い気持ちで行くんじゃなかった。エーデルガルトの頼まれ事なんて聞くんじゃなかった。空いた薬指を捻るように軽く摘む。これならまだ詐欺師相手の方がマシだったかもしれない。

「…ただのOLに戻りたい」
「『先生』なら手伝ってやれたが、今世の役割は『カウンセラー』だからな。そういう仕様じゃない。諦めて幸せになれ」
「諦めてって…幸せというよりも死合わせな状況なんですけど!?…はぁ、分かりました、もう先生には頼りませんからせめて離婚相談所とか婚約破棄所とかなんでもいいから紹介してください!今すぐに!!」
「縁起でもないことを言うな」

そんな事言われてもこっちは命がかかっている。社会的にも物理的にも。だからお菓子を食べる手を先ず止めて話を聞いて!先生!!可愛い生徒の大ピンチ助けてよ!!!仕様がなんだというのか、先生なら私をOLにクラスチェンジできるでしょう!?私を見捨てないでっ!資格試験させてよ!!
どうにかしてくれと泣きつくなまえにベレトもここまで泣かれると思っておらずやれやれと頭をかきながら張り付く女を引き剥がす。そろそろだろうか。机に放置した明るい画面に表示される『一件のメッセージが届いています』の文字にべレトは開けたばっかりの袋の口を丸めなまえに握らせ、窓の外を見上げる。

「今日は月が一段と蒼いな」

先生は何を言ってるんだろう。月は白か黄色でしょう?

「実はお前の知ってるディミトリじゃなかったりしてな。ほら、迎えが来たからはやく帰りなさい」
「…うそっ」

信じたくはないが、現実が背後に不穏な空気を纏って立っている。何食わぬ顔で缶を煽るベレトは元教え子を騙したくせに何食わぬ顔で早かったなと知りたくもない誰かに声をかけた。左腕を庇うように背を丸めたなまえはなかなか背後を振り返ることは出来ない。だって怖すぎるんだもの。ねっとりと絡みつくような声音で名前を呼ばれてしまえば嫌でも振り向くしかなくて、ぎこちなく振り返った先に浮かべた般若のような笑顔にひゅっと喉から空気が抜けた。

「随分と遠い買い出しに行っていたようだが、ほぉう。お前の言うコンビニはここなのか?」

ひえっ、とても怒っていらっしゃる。手には脱げたサンダルの片足を握り潰し迫力満点の仁王立ち。額の端に寄せた青筋になまえはそそくさとベレトの背後へと隠れようとカウンターを乗り越えようとするも無遠慮に左腕を掴まれつんのめる形で彼の腕の中に閉じ込められた。
死んだ、終わった。血の気が引いた顔は離してくれと藻掻くが上からきつく睨みつけられてしまうと大人しく収まるしかなかった。無理に繋がった手は握り潰されるのではないかと不安になるぐらいに強く汗ばんでもいる。
さぁ帰るぞと靴を履かせリードの如く手を引っ張られる。助けて先生と叫びカウンターにしがみつくが馬鹿力に叶うはずもなく、頼みの綱は元気でなとハンカチをヒラヒラと振る。あの人絶対に巫山戯ている。
ああ、もう最悪だ。…分かった。こうなったら彼から逃げることはしばらく諦めよう。ただどんな手を使っても殺伐のない穏やかな人生を送る為に彼の記憶が戻ることだけはなんとしてでも阻止しなくては。幸いにも掴んだ手をへし折る気配はない。ということは恐らく完全に記憶が戻っていないのだろう。取り返しのつかない状況かと思いきや女神は私にまだ微笑んでいるらしい。これを使わない手はない、ありがとう名も知らぬ女神様。今世は罪を犯さず真っ当な人間でいるよう努めます!
食べかけの袋を握りベレトに見送られながらズルズルと相談所を後にする。片や生気のない目で遠くを見ながらこれからの薄暗い人生設計を組み立てつつズルズルと引きずられていく一方で、美丈夫はああ、そういえばと細い手を掴んだまま満ち足りた表情で振り返った。

「助かったよ先生。また改めて挨拶に行くから」
「ああ、待っているよ」

幸せに微笑む二人の会話内容になまえは全てを悟った顔で己の首に手を回し舌を噛んだ。
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