水の都と称される都市にはそぐわない乾いた空気が喉の奥を刺激する。まるで無数の針を飲み込んだような。唾液を絞り喉元を擦るなまえの表情は強ばり眉間には深い皺が寄せられている。
もう時間が無い。市民の避難指示、市街中心兵の配備、クロードの的確な指示のもとやれることは全てやり尽くした。しかし遠方から刻一刻と近づいてくる不吉な音にまだやり残したことがあるのでは?そんな不安に駆られなまえの足先はウロウロとさ迷っている。クロードを疑っている訳では無い。学生の頃から周囲から一目置かれるほどのキレ者で常にあらゆる状況を想定し練り上げられた策は幾度も最悪の状況を打開してきた。そんな彼が大胆にも帝国軍をリーガン領都デアドラの奥へと侵入を許し迎え撃とうとしているのは恐らく凡人には想像のつかない秘策があるからだとは思うが、グロンダーズ平原の戦い以降同盟軍も物資も大きく削られている。いくらリーガン家の財とクロードの手腕あれど数で押し潰しに来る帝国軍相手に満足に立ち向かうこと出来るのだろうか。帝国軍を引きつけるためとはいえでデアドラが誇る港の端で待ち構えて、このまま追い詰められて皆で仲良くあの世行きの結末だけは回避したいところだが。さぁて、どうなる事やら。全ては盟主様の手腕次第、いや人望次第?

「クロードくんってば、本っ当に人使い荒いよねぇ。しかもディミトリくん達が助けに来てくれるからそれまで踏ん張ってくれ!って。いつものクロードくんなら神頼みとか人任せとか絶対にしないのに」

グッと結紐を締め直し勇ましくフライクーゲルを血に立てるヒルダ。一見気合いを入れ直したようにも思える行動であるが実際は立てたフライクーゲルの柄に顎を乗せ人使いの荒い盟主様の不満を吐き出すだけという、なんとも戦場にそぐわない腑の抜けた態度はヒルダらしいといえば微笑ましいものだが。仮にも女神が与えし英雄の遺産を顎置きのような扱いをしていいのか不敬に当たらないのか疑問である。

「それだけ追い詰められてるってことだよ。同盟領も次々に帝国派に鞍替えして、半帝国派は遅かれ早かれ帝国軍もしくは帝国派の同盟領に侵攻されていた。クロードは多分帝国の一手一手を慎重に先読みしながら領地を明け渡す覚悟でディミトリ陛下に救助を要請したんじゃないかな。随分荒んだ様子だったけど、向こうには先生がついているからきっと大丈夫だって信用して。とはいえ、一度は武器を交えた相手に救助要請を求めて、助けに来てくれると思う?」

眉間に皺を寄せ遠くを睨みつけるように目を細める。あの列を成してやってくる豆粒の大群みたいなのが帝国軍だろうか。顔を前に突き出し額に手を添え日差しを遮る。ゾロゾロとデアドラ中心街を目指してやってくる赤い大群の中にクロードが期待する青の旗など一つも見えないのだが。クロードは王国軍が来てくれると本気であてにしているのだろうか。王国軍…青獅子の学級に所属していた現将軍達は皆優しくて聡明で助けてくださいと頼めば見返りを求めず手を貸してくれる人ばかりではあったが、グロンダーズ平原での彼らを見て限り、助けてくれるどころかこれは好機であると襲いかかられる可能性も捨てられない。いくら人徳者の先生が着いていても飢えた獣のような王様に騎士道を説いたところで…

「アイツらなら絶対に来るさ」

どこから来るのかその自信は。迎え撃つ準備は整ったようで、市街へと向かうジュディットさんと同盟軍を見送りながらいよいよかと重たい腰をあげる。追い詰められているのはこちらだというのにクロードはまだ援軍が来ることを諦めていないといわんばかりに不安が残る曲がった背中を叩く。俺を信じろと余裕気な笑みを浮かべて。
既に防衛線では帝国軍との激しい戦闘に突入し突破されるのも時間の問題。時期に矢の雨が頭上を飛び市街は赤く染まるというのに。彼はまだ王国軍が助けに来ることを前提にした作戦で帝国軍を撤退させるつもりだ。

クロードは彼の目で見てきたディミトリ陛下と先生の腕と器を信じていると赤い旗の先を見つめ、今更引くに引けないし、いっちょやってやりますかとフライクーゲルを肩に担いだヒルダは珍しくやる気である。同盟領の未来を背負った頼もしい若者が橋を塞ぐように並ぶ。その少し後ろで頼りなさげに俯く女は未だ彼らの隣に並べずにいる。

彼らの強さは重々承知しているし、クロードのように彼らの救援を信じたいとは思っているけれど…既に故郷の村を焼かれ家族も奪われ、帝国軍の残虐さとそれに至るまで誰一人として助けてはくれなかった人の薄情さを痛いほど思い知らされたなまえにはどうしても彼の待ち望む希望さえ裏切るのではと爪先に転がる小さな石ばかりに目を留めてしまう。信じることほど難しく疑うほど簡単なものはない。戦いの匂いが濃くなるにつれ火に巻かれ一人娘の名を呼ぶ掠れた両親の声が頭の奥で増幅する。ああ、あの時に戻れたら。助けてくれと喚き立てる薄情な貴族を見捨て一直線で村人たちを助けに行っただろうに。

「そんなに俺やディミトリ達が信用ならないってんなら一つ賭けでもするか?」

クロードは人が良すぎる。自らを猜疑心の塊と言いながら結局最後は人に運命を委ねようなんて。人差し指を立て自信満々に口端を上げるクロードになまえはポカンっと目を丸くしたがクロードの提案を噛み砕きのき込んだ次は呆れたとため息をついた。

「賭けたところでお互いに生き残らないと意味が無いのに?」
「遊び心のないやつだなぁ。状況をどう捉えどう運ぶか考えは人それぞれ。なまえのように悲観的な考えをする奴もいれば俺みたいに楽観的いや、希望的に考える奴もいる。まぁ俺の場合は秘策打開策と色々と手を残した上での考えだが…運命の定めに翻弄され同じ場所に留まるもの同士、騒ごうが黙ろうが追い詰められた状況じゃ迎う結末は皆同じ、だろ?」

そうかもしれないけど…でもまあ、来るとこまで来てしまったことだ。助けに来てくれようか来れまいが腹を決めて後悔だけはしないよう構えておくか。計りようのない運命に不安がっていても好機と死は一瞬のうちに迫ってくるもので、いくら抗ったとしても私達は運命の奴隷で受け入れるしかないのだから。

ディミトリ君たちが来なかった時はクロード君に何してもらおうかな〜とちゃっかり2人の賭けに割り込み骨の折れそうな頼み事を考えるヒルダに盟主様はもうげんなりと顔を歪めている。もちろんヒルダはディミトリ達が来ると信じて賭けに乗っている。所為退屈潰しみたいなものである。あまり無茶言うなよと頭を掻きながらクロードはなまえと向き直る。お前はどうする?とわざとらしく肩をあげるクロードになまえは相手はクロードだからなぁ〜と呟きつつ顎に手を添えた。ほんの少し目を瞑ると涎が垂れる料理や煌びやかな服が頭の中で一杯になるが、急に頭を過った白い花嫁衣裳にわずかに頬を赤らめた。
いやいや、いくらなんでもこれは重すぎる。もし私が言われる立場ならドン引きだ。…でもクロードと向き合って話すのもこれか最後になるかもしれないし、かと言って命を賭けた勝負事につまらないことを頼むのも…もし生き残った時惜しいことをしたなぁと後悔するのも嫌だし…。こうしてうじうじと悩んでいる間にも敵はどんどん攻め入ってる。ここは無駄に時間を消費するよりも当たって砕ける覚悟で全部生きているうちに吐き出しておいた方がいいかもしれないとなまえは口をきゅっと結び顔を上げた。これは死ぬ(仮)前の思い出作りみたいなものだ。嫌ならこの記憶だけ切りとってもらっても構わない。ただ、どうしても伝えたかった。学生の頃から今に至るまで苦しい時も泣きたい時も幸福を感じていた時もいつだって貴方が傍にいてくれたこと。上手く言葉では伝えることが出来ない私だけど本当に感謝してる。だからどうか最後まで…

「もし王国軍が助けに来なかったその時は…クロード。私の最後を看取って、図太く生きて欲しい。そして私が貴方のために力を尽くし散っていったことを忘れないで欲しい」

人は二度死ぬと誰かが言っていた。一度目の死は心臓が止まった時、そして二度目は人に忘れ去られた時。たとえ私の心臓が止まってもクロードが生き延びてくれたら、私は彼の記憶の中で生き続けることができる…なんて、やっぱり重いかな。だって私たちは特別な関係ではないし、クロードは盟主様だから既に私の知らないところで彼の特別になった女性がいるかもしれない。もしそうだとしたら私は二人にとって邪魔者になるけれど、記憶の中に残るくらい許して欲しい。だって私の未来は数時間後続いているかさえ分からないのだから。

「こうして会話できるのもこれが最後になるかもしれないから。命を天秤にかけた賭け事ぐらい重たい見返りを求めてもいいでしょう?」

どうか貴方の記憶に割り込む私を許して欲しい。首を傾け薄っぺらい笑顔を向けるなまえにクロードは一瞬彼女は何を言ったのか零れ落ちそうなほどに大きく目を見開いた。なまえはなまえで自らの発言を振り返り徐々に恥ずかしさが込み上げてきたのか、耳の先まで赤く染まった顔がやっぱりいいと背を向け返事も待たずに逃げ出そうとした。しかしなまえに思考がまとまるよりも先にクロードは細い手首を掴み引き止める。なまえと心地よい低音が名前を呼ぶ。きっと迷惑だったんだ。クロードの呼び掛けになかなか振り返れないなまえであったが、もう一度名を呼ばれグルンっと視界が乱れた先には柔らかい翠の中に怯えた女が映っていた。まるで瞳に焼き付いたように女は翠によく馴染んでいる。口を開きかけたクロードになまえは思わず手を振り払いこれ以上の言葉は不要だと口を押えにかかるが、伸ばした手はクロードによって容易く1つに纏められる。予想外の出来事にあわあわと狼狽える顔へクロードは柔和な笑みを浮かべて今度こそと口を開いた。

「そうだな。それじゃあ俺の読み通り、王国軍が助けに来たその時は…なまえ、アンタの残りの人生全て俺が貰っていく」

グリグリと腹の硬い指が左の薬指の付け根を撫でる。とりあえず予約ってことで。そう言ってクロードは懐から銀色の輪を取りだし流れるような動作で薬指に通した。やっぱり大きいよなぁと顎に手を添え首を捻るクロードを前に私は一回り大きな指輪が通る薬指を呆然と見つめていた。これってまさか…

「もう!クロードくんったら本っ当に雰囲気とか乙女心とか分かってないんだから。こんな雑な告白で喜ぶ子がいると思ってるの!?見てよ、なまえちゃん吃驚して固まっちゃってる。それに“祈りの指輪”って…もっとちゃんとした指輪作ってなかったの!??」
「仕方がないだろ!?告白しようにもお互いに忙しくて会おうにも会えなかったんだよ。会えた時にはこんな状況だし、指輪の事だって指の大きさも分からなければ乱世の時代に武器以外を作ってくれる鍛冶屋がいなかったんだよ。そういうことなんだ、なまえ。悪いが今はそれで勘弁してくれ、な?」

5年前からずっと時間はあったでしょっ!?と珍しく怒っているヒルダにポカスカと叩かれているクロード。緊張感はどこへやら5年前のような騒がしいやり取りが繰り広げられている中、なまえの視線は指から滑り落ちそうな指輪に釘付けである。指に嵌められたものが婚約指輪ではなく戦闘補助の指輪でも、なまえにとって大事なのは指輪の価値ではなく誰が嵌めてくれたか、それだけである。
クロードが私にくれた指輪。嬉しさのあまり喉の奥から歓喜の叫びが飛び出しそうになるがここが戦場であることを思い出し急に表情から色が消えた。もしかしてこの指輪はヒルダと比べて私の体力が紙であることを心配して渡してきたのでは…もしそれが事実ならぬか喜びにも程がある。
なまえは指輪が抜けないよう薬指をつまみながら恐る恐るクロードに声をかける。戸惑いを表すように眼は右へ左へと激しく揺れている。

「ねぇ…クロード。これって、私の思い違いじゃなければ、その…期待してもいいってこと?」

下から見上げながら真意を問うなまえにクロードは返答を返そうとするが、遠くから息を切らして走ってくる兵に気づくと真剣な表情を浮かべ兵と向かい会う。

『報告。西方より王国軍が接近しています』
「そうか。わかった。皆持ち場に着いてくれ。これより王国軍と連携し帝国軍との戦闘を開始する」

王国軍には手を出すなと指示を与えたクロードはほら見ろと言わんばかりに鼻を鳴らし得意げな顔で胸を張った。

「な?言っただろ?彼奴らは来るって。そういうことで賭けは俺の勝ちだな。指輪、ちゃんとしたやつを贈るまで失くすなよ?」

人に見せつける趣味はないんだと唇を寄せる代わりにコツンと額がくっつく。ちょっと唇を突き出せば重なってしまう距離に心臓の鼓動が騒ぐ。「絶対に死ぬなよ。無理だと思ったら後ろに下がれ。いいな」としつこく確認を取ってくるクロードに私は分かったと力強く頷く。あまりにも急すぎる展開に本当はまだ頭が混乱していたけれど、勝利の先に待つ幸せのため。相棒の飛竜に飛び乗り空へ飛び上がったクロードの真下、ニヤケ顔を押し殺し勇ましく剣を抜くと正面からやってくる敵兵を睨み地を蹴った。
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