「姉さんお誕生日おめでとう!!一日早いけどこれ、私からの贈り物だよ。姉さん前に新しいポーチが欲しいって言ってたから。どう?気に入った??」

ありがとうカイ。凄く嬉しいよ。
色も私が好きな色だね。大切に使うね。

「私的には赤が良かったんだけど姉さんに気に入ってもらわないと意味ないからね!姉さんもし良かったら私の笛の音色、少しだけ聞いてくれない?だって姉さんがお嫁に行ったら私の事あまり構ってくれなくなるんでしょう?」

そうだね。仕事中なら一緒にいられるけど、こうしてカイに『姉さん』として構ってあげられるのは今日くらいしかないかもしれないね。
カイ、少しだけ待っててね。これだけ縫ってしまうから。その後は時間が許す限り、全ての時間をカイにあげる。

「ホントに!それじゃあ笛を吹き終わったらコトブキムラでイモモチを食べに行こっ!あと姉さんに似合う服を見たり、久しぶりに腕くらべもしたいなぁ」

はいはい。そんなに慌てないの。1つずつ思い出を作ろう。忘れられないほど楽しい思い出をね。

「姉さん」

なぁに?

「幸せになってね!旦那さんと睦み合うのもいいけどさ、たまには私のことも思い出してよ?」

たまに?違うよカイ。いつも貴女の幸せを祈って私は生きるよ。だって私は人の幸せを願う事でしか周りの期待に応えることが出来ない無能だから。せめて幼い頃から自由を奪われ続けてきたカイだけは自分の人生を自分の手で切り開いて欲しい。そしていつか、いつか。腐った慣習を全て壊してね。これ以上老いた大人達に子供達が人生を左右され泣きを見ないためにも。

次期長の腹心として育てられたはずが、婚約が決まった途端に私は女として再教育され家から出られない日々が続いていた。明日、私はシンジュ団集落を立ち船に乗る。私の夫になる方は時間に寛容で紳士的な上に人にもポケモンにも優しい方だと村長から聞いている。歳は私よりも10こ上。とても背が高いそうだ。
現シンジュ団の長は私の婚約が決まった直後、夫(仮)の潤沢な資産が団に注ぎ込まれる未来にふんぞり返り、両親は娘が夫に捨てられないよう料理、裁縫、振る舞いに至る全てを私に叩き込んだ。そして先月、ついにもう教えることは何もないと母に認められた。もう草原を駆け回りきのみを丸かじりする少女は死んだのだ。一歩外に出れば周囲の視線を集める隙のない娘は周囲からの憧れと妬みの象徴となり、何をするにしてもこそこそ話は日夜絶えない。きっとカイは幼い頃から時期長として同じような環境に晒されていたに違いない。将来はなまえちゃんのようになりなさい、そう自身の子供に言い聞かせる母親を横目になまえは逆立つ心を厚い布で覆い隠した。
集落一の幸せ者に乾杯!
適当な理由をつけ酒を煽る大人達になまえは幸せの定義とは何か自問自答を繰り返す。誰といても何をしても心に響かない。暗闇の中を引きずり回されているような不安と痛みに心が疲弊する。一人になった途端急に涙が流れ出す。寡黙ににっこりと笑顔を作り人を喜ばせる人生が周囲の考える妬ましくも羨ましい人生というのであれば、幸せとはなんて辛く苦いものだろうと周囲の期待に捕縛された私は静かに嘆くしかない。一生。死ぬまで。

「姉さんこっちよ!」

人生の分岐点は数え切れないほど沢山あった。それこそ私一人の行動でいがみ合う団同士が手を取り合い互いの崇める神を認め合うことだってできたのかもしれない。

「この先に天冠の山麗が一番綺麗に見える場所があってね。オオニューラ様に頼めば一発なんだけど流石に2人はオオニューラ様も疲れちゃうから今日は回り道しよっ!」

でも人生は立ち戻る事が出来ないから私は自分の運命を恨みながらも先に進むしかない。せめて同じ被害者を出さないためにも自身の人生を犠牲にしてカイの笑顔を守らなければ。

「見て姉さんヒメグマよ!この子凄く人懐っこいのね。あ、待ってグレイシア!置いてかないで!!」

この子だけは辛い目にあって欲しくない。
この子だけは用意された選択肢を自由に掴み取って欲しい。
誰の目も気にせず、自分自身の為に。

「カイっ!危ないっ!!!」

その為なら私は何度だって

「姉さん!!」

あなたの踏み台になってあげる。
だって私はヨネさんに認められた貴女の立派なお姉ちゃんだから。


…ザシュッ!!


一瞬の悲劇、一生の後悔。
生死をさまよった3日間。痛みを乗り越え目を覚ました私に掛けられた言葉はおおよそ昏睡状態から回復した人に掛けられるべき言葉でないことは小さい子供でも分かっていたであろう。大人達の額には例外なく青筋が張っており見舞いに来た子供達は大人たちが現れるやいなや一目散に窓から外へと飛び出した。どうして寝床に3日間も横たわっていたのか。理由は大人達の罵倒から状況を全て把握した。3日前、カイと最後の思い出作りをしていた最中、カイが追いかけていたヒメグマがリングマを連れ襲いかかってきた。腰を抜かしたカイを庇って私は顔面、腕、胴回りを負傷。主人の命の危機を察しモンスターボールからレントラー達が周囲のポケモンごと全て追い払ってくれた事で私達はカイを守ることはできたらしい。が、私の勇敢な行動を大人達は誰一人として認めてはくれなかった。それもそうか。顔の半分を包帯で巻き指輪をはめる左手は腕ごと負傷しくの字に固定されている。明日花嫁衣装着ますと伝えたところでこの出で立ちから何人が顔を顰めずに取り合ってくれるだろうか。
傷は深く、完治しても跡はくっきり残ってしまうそうだ。あの時、カイを守り損ねたとしても私は綺麗な顔のままこうして四方八方から責められたに違いない。傷のせいで婚約は破談。シンジュ団が貰うはずだった多額の資金も婚約者と共に大陸の彼方へと消えてしまった。今回の一件で私はカイに悪影響を与えるからと面会することも叶わず、今やシンジュ団の食料と薬を浪費する嫌われ者だ。
一人娘の無謀な行動を非難しながらも唯一両親だけは二度と命を粗末に扱わないでくれと泣きながら私を抱きしめた。久しぶりの両親からの抱擁だった。生きてくれて嬉しいと肩に土砂降りの雨が降る。いっそ死んでくれた方が団にとって都合がよかったと心無い言葉が飛び交う中で唯一心が籠った怒りをぶつけてくれた両親の言葉が私は素直に嬉しかった。嬉しかったはずなのに…どこかに心を置き忘れてしまったのだろう。体を震わせ咽び泣く大人を慰めながら私も泣けばよかったのに、一滴も涙が零れなかった。窓の外に広がる銀世界をぼんやりと眺めながら私は全身の痛みにただただ腕を擦るばかりだった。

縫合糸を抜糸し女としての価値を失った顔は化粧の力をもってしても完璧に過去を隠すことは不可能だった。役立たず。恥知らず。1歩外に出た途端狭い人間関係に虐げられ、耳を脅迫する棘だらけの言葉が胃に物を詰める行為を牽制する。何処に行けば周りの迷惑にならないだろう。やせ細っていく体を心配する両親の目を盗み私は度々集落を抜け出した。
一人になりたい。勿論それは目的の1つだったが、それと同じくらいなまえには集落を抜け出す理由を抱えていた。
最後にカイと歩いた道を辿りながらポケモン達と共に地面に目を凝らして歩き回る。気を失って目を覚ます間に髪が解け結紐が消えていた。身の回りを探しても見つからず、レントラー達も分からないと首を振るばかり。もしカイが拾っていたなら金剛石に顔を顰めながらも人伝かポケモン伝いで絶対に返してくれるはず。だから直ぐに結紐を無くしたと判断し寝台から転がり落ちた。集落中の雪を踏み歩いた。けれどどんなに雪を掃いても見つからなかったのだから思い当たる場所はもうここしかない。顔も妹も輝かしい未来も失った今、狂おしいほど懐かしく愛おしい思い出だけはどうしても手放したくなかった。あれは私の心が詰まった大切な宝物だから。たとえ糸がほつれて泥まみれになっていたとしても私にとってあの結紐は心臓の半分を分け与えたも同然の大切な…

「よぉ、お嬢さん。探し物はこれか?」

砂と小石で敷き詰めた視界に突然割り込んだ一縷の心。糸は毛羽立ち石は所々欠けていたがそんな事は些事。拾ってくれてありがとうございますとなまえは手を伸ばす。しかし喜びのあまり頭が回っていなかったのか、視界の背景が群青色であることに気づきなまえは頭巾を深く被り唇を噛んだ。一向に頭をあげる気配のないなまえに痺れを切らしセキは頭巾に手を伸ばす。しかしなまえが手を弾いた途端、崖を駆け下りたレントラーの突進にセキは体を吹き飛ばされ、野生に返ったように牙を剥いたレントラーにセキは両手を上げた。不躾で悪かった。反省し謝罪を述べるセキから包みを受け取ったレントラーは丹念に匂いを嗅いでから視線に脅えたなまえへと運ぶ。

「ちっと付き合えや。腹も減ってんだろ?」

良い場所を見つけたんだ。
そう言って私の手を引いて歩き出すセキの後ろ姿を眺めていると泣いてばかりだった私を面倒くさそうに引っ張る少年の姿にピッタリと重なった。そういえばセキと出会った場所もちょうどここだった。あの頃と比べセキは頼もしく立派な長に成長した。目尻の化粧も私より上手いし、力任せに手を引くことも無くなった。それに引き替え私は何も成長してない。体に傷を刻んだだけ、前より抱えていた大切なものも減った気さえしてくる。
手を引かれるがまま歩き、言われるがまま彼の隣に腰掛ける。どんよりとした空の下、渡された握り飯に手をつけるが相変わらず上手く喉を通ってくれない。一口咀嚼し水で流し込む。ゴクリと喉を鳴らし再び口を開けようとしたが、空気を食べているかのような虚しい行為になかなか食が進まない。

「食べないのか?」

食欲不振をセキに指摘され家で食べてきたからとなまえは服を膨らませ凹んだ腹を隠した。しかし1年も音信不通だった人間の久方ぶりの外出に失せ物を手に現れた男がこの程度の幼稚な嘘を見抜けないわけがない。頭巾など飾りに過ぎなかった。

「気が済むまで泣いちまえ」

今私がどんな表情をしているか全てを見透かした上でセキは肩に腕を回し抱き寄せる。穴だらけの心を満たす言葉に一度は情けない大人のプライドが邪魔をしドンッと胸を叩き抵抗した。人の優しさを無碍に扱う愚か者など放っておけばいいのに。

「誰にも言わねぇからよぉ」

セキはいつだって私を置いてけぼりにはしてくれない。なんだかんだ言いながら最後は迎えに来てくれる。
優しい言葉に絆されて私は子供のように泣いた。過去の辛い経験を思い出しては涙を流し、両親に迷惑をかけている現状を憂いては嗚咽を零し、握っていたはずの白飯が通りがかったゴンベに奪われただけでもなまえはボロボロと落ちる大粒の涙でセキの服に染みを広げた。
目が覚めてからまだ一度も妹に会えてない。こんな傷だらけの顔じゃ妹に嫌われるかもしれない。生活の中心を担っていた義務が無くなり急に軽くなった体でこの先どう生きたらいいか分からないと蒼色の羽織を握り締め鼻をすするなまえにセキは子をあやす様に優しく背を叩いた。
何をやっても上手くいかない。その上女としての価値も失った。これ以上シンジュ団に迷惑をかけないためにも私は退団すべきだと震える手を握り締め胸に秘めた想いを口にしたなまえにセキは体を起こし深く被った桃色の頭巾に両手を差し込んだ。怯えたように手をにぎりしめるなまえだが、先程のように手を払う様子はない。ゴクリと唾液を喉に押し流し緊張した面持ちで頭巾を払った。セキの頭の中には15歳の髪飾りを贈ったばかりのなまえが記憶されそれ以降のなまえの容姿は白紙だった。ヨネから聞いたなまえの傷の深さは身体ともに相当深いものであることは頭巾を被り常に靴の先を見つめ続ける様子になんとなく予想はついていた。しかしいざ頭巾を取り払い顔の傷を目の当たりにした瞬間、セキはハッと息を呑み思わず口を覆った。

「…酷いでしょう。お願い、何も言わないで。もう散々言われたから」

か細く揺れる長いまつ毛を持ち上げ1年振りに視線を交わす。不揃いの黒髪を耳にかけ力なく笑った女の瞳に光はなかった。
ぞろぞろと戻ってくるポケモン達をなまえはモンスターボールに戻し頭巾を再び被り直す。シンオウ様のお祈りの時間だから集落に帰らないと。袖で涙を頬の筋ごと擦り消し苦しそうに腰を持ち上げる。団の足手まといなんだからせめて時間くらいは守らないと。

「さよならセキ」

顔を隠し泣きながら別れを告げたなまえをセキは許さなかった。

「泣くほど辛い場所なんて捨てちまえ!!」

地が震え木からポケモンたちが落っこちる怒鳴り声になまえの心臓はドンッと臆病に突き上げられた。額に青筋を浮かべた顔など見飽きている筈だった。どうしてこんなに私は怯えているのだろうか。答えは満たされた左胸に問い正せば直ぐに見つかった。

「…っ、わりぃ。軽い気持ちで言ったつもりじゃ」
「ううん。ありがとう…ありがとうセキ」

やっと悪夢から目が覚めたような気がした。例えて言うなら他人に委ねた人生のレールの上に自分の意思で戻ってきた、生まれ変わったような気分だった。捨てる、そっか。私はもう守り続ける必要は無いんだ。伝統も、義務も、居場所も。私、自由なんだ。
今のお前は1人だと危なっかしいから一月に一回文を寄越せと丸まっていた背中を押したセキになまえは受け取ったばかりの髪紐を取り出すときっちりと包帯が巻かれた手首へ軽く巻き付けた。本当は持って帰ろうと思ってた。心の支えとして修復して、また身につけるつもりだった。けれどセキが気づかせてくれたからもう私にこれは必要ない。私は自由なんだ。嫌なら捨てることもできるんだ。それに、私がいつまでもこれを持っていたらお人好しさんは私を気にして無駄に時間を浪費してしまうだろうから、ここで私が終わりにしてあげないといけない。大切な思い出があるから私はセキとの未来をここで捨てる。団のいざこざは私が心配しなくてもこの先はカイが解決してくれる。だからもう大丈夫だね。
引き際は分かってる。
今がその時だ。

「セキ」

もう会わないって思ったらなんでもできる自信が湧いた。たとえ嫌われても、突き飛ばされても、この先使い道の無い唇を持て余して生きる事を課された哀れな女に、シンオウ様、どうか慈悲を。
突然名を呼ばれ顔を上げたセキに私は彼が座ったままで良かったと、肩に両手を置いて唇を重ねた。口紅くらい塗っておけばよかったなぁ。それにしても、ふふっ。変な顔。年相応の顔っていうんだろうか、久しぶりに見れて嬉しかった。ありがとう、セキ。

「皆に慕われる立派な長になってね。一人の友人として応援してる」

駆け足でウォーグルに飛び乗るとなまえは振り返ることなく大空に溶けた。目の前の全てを1枚の布で覆い隠し大地から聞こえてくる声を耳で塞いだ。
嗚呼、素敵な恋だった。そう呟きながらなまえは初めての恋にそっと幕を下ろした。