汗をかいたグラスをソッと両手で包み込み正面に座る旧友の愚痴に相槌を打ちながら一口。甘くまろやかな酸味と春を思わせる芳醇な香りが
が口いっぱいに広がりドロっとした多幸感が全身にゆっくりと巡っていく。ホッと一息ついてさらにもう一口。すると徐々に気分が昂揚し理由もなく楽しさが込み上げ口角が上がった。
ジャズ風にアレンジされた流行りの曲はcmだったかアニメだったか。耳に残るフレーズを分かる部分だけ鼻歌で協奏しながらまたグラスに1口。雰囲気のいい居酒屋で1杯目に頼んだお酒は生ビールではなく梅酒のソーダ割り。苦いのはあまり得意じゃないし、1年以上前に駅近の居酒屋でたまたま口にした梅酒ソーダの美味しさが忘れられずそれ以降私の一杯目は梅酒ソーダと決めている。
梅自体はあまり好きじゃない。味云々と言うよりも視覚に入った途端唾液が洪水のように分泌されるあの感覚が不快で、だから好きじゃない。特にお弁当なんかで添えられた赤い梅干しは苦手で箸をつける前に梅干し好きの人に譲ってる。だってあれ無駄に酸っぱいし、いかにも酸っぱいですよーというビジュアルは何とかならないものか。
でもお酒は別だ。特にソーダ割りは格別。たとえツマミが油が回った揚げ物しかなくても梅酒ソーダがあれば無限に楽しめるし飲めると思う。
空っぽになったグラスを机から下ろし通路側に寄せる。
は〜美味しかった。あっという間に飲み干してしまった。
酔いが周り少し汗ばんだ頬に両手を当て一息置く。次はどれにしよう。机の端に寄せられたタッチパネルを手に取り矢印ボタンを連打すると宝石みたいに綺麗な写真がオシャレな名前を掲げ左から右へと高速で移動する。
居酒屋に来たらこれは飲まなければ!というものは梅酒を除いて特に拘りは無いかできるだけ飲みやすそうなものがいいな。メニュー画面を行ったり来たりして、カクテルから一旦離れ王道のワインへ。赤以外ならたぶんどれも飲める。白ワインのページを漁り原産国やら甘口か辛口か等星の数を参考にどれを飲もうか選ぶものの結局どれを選べばいいか分からず『店長オススメ!』と宣伝されたスペイン産の白ワインを注文した。
ワイン飲むってなんか意外だわ、なんて今日初めて会った顔にまるで友人感覚で話しかけられたものだから言葉の代わりに笑顔で返し、ワインのついでに注文していた揚げ出し豆腐をツマミにちびちびと飲み進める。梅酒とはまた違った味わい。これが店長のコメントに書かれていた『フルーティー』というやつだろう。1杯どころか1本飲み干せる飲みやすさ。あと2杯追加で頼んでおくんだった。さっきまで手元にあったタッチパネルは隣接したテーブルへバケツリレーのように運ばれてしまった。
揚げ出し豆腐をペロッと完食し、ワイングラスが空になったら隣に座っていた人に梅酒ソーダをもう一杯と頼む。つまみは枝豆。永久機関の完成だ。
周りの人がペアを作って話し始めたのでおひとりさまを楽しむ私はスマホを取り出し寂しくないよアピール。驚いたことに同窓会が始まり既に1時間が経過していたらしい。少量とは言えアルコール度数の高い酒ばかり飲んでいるせいか瞼は徐々に重くなり頭は振り子のようにゆらゆら揺れている。眠い。お腹も膨れたし、後は静かな場所で寝転べば明日の朝まで起きないと思う。これが宅飲みなら店長オススメのワインをもう一杯頼んで寝落ちコースへ直進するところだが、外で酔い潰れた挙句他人に介抱されるなんてみっともない。
眠気覚ましのノンアル2杯で申し訳程度に肝臓を労い誰かが頼んだメインディッシュを前にまた隣の人伝いにジントニックを注文する。メインディッシュにノンアルは流石に味気ない。でもお酒はこれでおしまい。これ以上飲んだら路上で目を覚ますことになる。
ラストオーダーを伝えに来た店員が汚れた皿を次々と片付け、途中で止まっていた私の枝豆も無慈悲に片付けられてしまった。あーあ、楽しい時間ももうおしまいか。つまんないなぁ。
いつ頼んだのか思い出せないバニラアイスだったものを3口までスプーンで啜っていたが、チマチマとした作業が途中で億劫に感じて結局は器に口をつけジュースのように飲み干した。アイスじゃなくてプリンが食べたかった。満足のいくシメじゃなかった事に若干の不満を抱きつつも口の中にベッタリと張り付いた甘ったるさを塗り替えたくて、ちょうど通路を歩いていた店員を呼び止め烏龍茶を頼む。しかし疲れきった顔の店員が「ラストオーダーはもう終わってますよ」と素っ気ない態度で酔っ払いに見向きもせず足早に厨房へと消え、そういえばそんなこと言ってたなぁと膨らみかけた理不尽な苛立ちに蓋をした。
烏龍茶じゃなくてお冷にしとくんだった。ま、いいや。帰りに温かい飲み物でも買って帰れば。
今日はここでお開きですと1人が帰り支度を始める。それに倣い私も転けないよう机に手を付いて立ち上がると、壁に掛けたダッフルコートを受け取った。ちょっと飲みすぎたかも。身体中がポカポカして背中はじっとりと汗をかいている。落ちそうな意識を何とか保ち、切符のように呑み代を幹事に渡し店の外へと出る。ううっ、やっぱり外は寒い。それと呑み代5000円はかなりの痛手だった。人生最初で最後の同窓会といえ1食で5000円消えたと考えると美味しかった酒も食事も急に勿体ないことをしたと、染み付いた貧乏思考がせっかくの楽しい夜をしら消させた。
懐と冬の寒さにブルリと体が大きく震える。美味しかったねと皆が店の感想を語り合う中、最後にお別れをと一番親しかった友人を視線で探す。しかし出だしが1歩遅く、下心丸出しのお調子者に掠め取られてしまい仕方なく集団から離れた場所へ移動し丁度いい帰りの電車を探した。時刻はほぼ深夜帯。丁度いい時間も何もなく、今から40分後に発車する電車を逃せば徒歩で家に帰る羽目になりそうだ。このまま2次会に参戦する手もあるが…カラオケか。美味しいお酒もおつまみも出ないし、マイクなんて絶対に握りたくない。音痴には拷問に近い空間だ。寂しいけど1次会で切り上げるのが賢明だ。遊ぶお金もあまり持ってないし。
半数以上の元クラスメイト達がおぼつかない足取りで夜のネオン街へ繰り出す。親しい友人には「またいつか会おうね〜!」とお別れを言い合い、最後まで友人と話ができなかったモブは誰に引き止められる訳もなく最寄りの駅へ向かった。居酒屋から駅までは徒歩15分程度の距離感で遠くもなく近くもなくといったところだ。途中コンビニが1件。しかしそこを過ぎると街灯は遠感覚で夜の散歩には向かない道に変わる。私も性別上は女だ。懐が寒くとも酔いが回った体ではろくに悲鳴をあげることも出来ないだろうし、身の安全を最優先に考えるべきだと思いタクシーを呼ぼうとした。しかし結局のところ私は歩いて駅まで向かった。同じ駅に向かっているであろう仲間が前方を歩いており、悲鳴さえあげれば助けてくれるかもしれないと勝手に信頼を寄せたのだ。
黒いロングコートに暗めの髪色。あと1m距離が離れたら見失ってしまいそうな色合いだ。高校時代も今日の飲み会も絡みは一切無かったが、後ろ姿だけで前方を歩く人物が誰か分かった。高校時代から彼は有名人だったからだ。同窓会の端の端で苗字も名前も出てこないクラスメイトの話を聞き流しひたすら酒と食事を楽しんでいた私とは違い、彼は会の始まりから終わりまで沢山の人に囲まれていた。彼自身その状況をどう思っていたかなど平凡な私には想像もつかない。だが会いたかった友人とは一言も喋れず、だからといって自分から席を立ち話しかけることもせず、黙って酒と枝豆をつまんでいた身としてはあの楽しげな会話の中心にあたまえのような顔で座り、あまつさえ私の友人すらも容姿と肩書きで奪い取った彼が少なからず妬ましかった。
いと、いとし。そうだ、糸師くんだ。その高身長で私と黒板の間を壁のように塞いだバスケ…じゃなくて、あ、サッカー。そう、サッカー選手だ。今やテレビで引っ張りだこの世界で活躍する名の売れたサッカー選手様。
同じ高校に在籍していたというにも関わらずどうしてこうも人生に差が出るんだろう。人一倍勉強した。人一倍努力もした。なのに私の人生何も報われず、勉強を捨てサッカーに時間を費やした人はお金にも娯楽にも苦労していない。結局人生というものはどれほど努力を積上げたところで生まれ持った才能とそれに適した環境の有無で全てが決まる。『努力すれば報われる』所詮成功者から未来の敗北者に向けた哀れみの言葉だったというわけか。アホらしい。
後方を歩く存在が気になったのか、彼は足を止め視線だけを寄越した。愛想のない顔。視線の威圧感がすごい。明らかに不機嫌そうな顔だったが、私は何を血迷ったのか、空っぽの頭で後先考えずその場のノリで話しかけてしまったのだ。ミーハーだから、物珍しさゆえに妙な勇気が湧いてしまった。踏み込みすぎず、初対面にはならないように。仕事用の笑顔で話しかけ、そして喰らった骨も残らない辛辣な返り討ち。女子の陰口の方がまだ可愛げがあった。相手の気持ちを考えるどころか徹底的に潰しにかかる過激で傍若無人で不機嫌の塊みたいな暴君が放った鈍器に等しい言葉に酔いどころか脳震盪にも似た衝撃を喰らったのは言うまでもない。味わったことの無い心無い暴言の嵐に思考が停止し、彼とどんな話しをしたか全く思い出せない。ただ彼が口を開く度にその眉間に蛇腹のような皺が寄り、『不快』の二文字を遠慮なく叩きつけてくる表情が印象的で、お得意の作り笑顔は忽ち剥がれ落ちていった。
偶然帰り道が同じ方向だった。足も無駄に長いんだしさっさと歩き去ってしまえばいい。けれど1m先が見通せない暗さと酔っぱらいの拙い足を案じ、彼は至極面倒くさそうな足取りで一定の距離を保ったまま私の前を歩いている。
耳にイヤホンを差し込むと彼は歩調こそ変わらないものの振り返る優しさはない。友人以下とはいえ露骨に嫌われるのは少し堪える。もう少し先にコンビニがある。そこでお茶を1本買って時間を潰してから1人で駅まで歩こう。
無音で歩くのが何となく怖くて、私は鞄の中に手を突っ込んで何かを探した。イヤホン…先にスマホだったような。細かい事は覚えてないか、あの時ポーチや財布を払いのけ手に収まるサイズを私は探していた。鞄を漁っている途中でスマホもイヤホンもコートのポケットに突っ込んだことを思い出して、まだ酔ってるなぁと頬を叩きパスコードを解いた直後、背中に突き刺さるハイビームに私は足を止め振り返った。人間の第六感的な、たぶんそういうやつだったんだと思う。バイクの距離感の近さ、振り向き眼を貫いた眩しい光を掌で遮る中で暗闇の中にぼんやりと浮かぶ不自然に腕を伸ばす2人乗りの単車。私のような平凡な人間にとって事件や事故はテレビの中だけの出来事で、当事者どころか傍観者になる確率はきっと1パーセントにも満たないのだろう。妙な胸騒ぎに襲われた途端、勝手に自動妄想される嫌な展開の数々を頭から追い出そうとした。まさか私が当事者になるなんて、と。でも今すぐにでも動かないと一生後悔する予感がして、迫るバイクと彼の間へ割り込むと跳ね除けるように彼を突き飛ばした。全体重を傾けた捨て身のタックルは鍛え上げられたアスリートの体幹を崩し眩しいライトの影に消えていった。突き飛ばされ耳からすっぽ抜けていくワイヤレスイヤホン。地面に擦れる有名ブランドの服や鞄。体を売って働いても一生返せない途方もない大金と努力で磨き上げられた肉体。
同じ人間でもここまで違うとは。まったく逆の素材で形作られた人生の負け犬は心を絶望に浸して美しく崩れ落ちていく非売品を視界の端で見送った。

そういえば貯金、今いくら残ってたっけ。この場合って保険適応範囲だろうか。ああそう言えば先週物欲に負けて7800円の鞄を買ったんだ。今月のクレジットの明細表、たぶん高い。
見たくないなぁ。

猛スピードで距離を詰めてくる唸り声のようなエンジン音。恐らく明日の私は今以上に社会のお荷物になる。場面が変わり目が覚めたらまずは会社に連絡して有給申請を…それか、デスクトップに保存した退職届を思い切って人事部に提出してしまおうか。
善意100%で突き飛ばしても両足が商売道具の有名人に傷害罪で訴えられたりするんだろうか。高額の慰謝料ふっかけられたりして。やだなぁ、今年は貯金を切り崩して夢の国でパーッと遊ぶ予定なのに。
仕事、慰謝料、貯金額。頭の中でお金と仕事が
代わる代わるローテーションし、最後に会いたかった人の顔とか、感謝を伝えたい人とか、そういう感動を誘う走馬灯のようなものは流れなかった。
来週の報告会用の資料まだ作ってなかったけど誰か私の代わりに作ってくれるだろうか。すっかり記憶から零れていた仕事を思い出し余力がありそうな後輩の顔を思い浮かべた直後、劈くタイヤの摩擦音や嘔吐くような濃いガソリンの臭いが衣服に絡みドンっと鈍い音が下半身で響き、コートのリボンが何かに引っかかり横転したバイクが私の両足を掬った。ガガガっ!!と擦り付けるような音を確かにこの耳で聞いた。街灯と街灯の間は暗く、倒れた体の下敷きにされた右腕に張り付く粘着質な液体が血と気づくまでに時間がかかった。
足が動かない。咄嗟に頭を覆った両腕のうち左腕しか温もりを感じない。けれど不思議と痛みは感じなかった。お酒を飲んでいたからだろうか。すぐ手が届く場所にバイクが自分と同じように転がっている。横たわる地面の硬さと冷たさが骨身に染みて、うっすらと香るストーブの香りに温もりを感じるものが次々と頭の中で浮かんだ。エアコン、こたつ、嗚呼やっぱり自宅の薄い敷布団が1番だなぁと考えが落ち着いた後の記憶を私は1片も思い出せない。

黒。黒だった。明暗のないベタ塗りの黒が身体中に張り付いている。どうやってここに来たのだろう。いつから黒の中で揺蕩っているのだろう。ドロリと粘り気のある液体はまるで重りのように底の見えない溝の中へと引きずり込んでいく。体が沈む。何処まで沈むのか不安になったけど、なんか色んなことがどうでもよくて、このまま何も考えずに沈んでしまった方が楽なんじゃないかと体から力を抜いて流れるままに身を任せる。疲れていた。自分らしくいられない鬱屈とした環境に私はほとほと疲れ果てていた。このまま遠くまで流れてしまいたい。そう思ったのが誰かの気に触ったのか、目覚めを促すように真っ暗に覆われた視界が段階的に明度を上げ淡い光が靄のように広がっていく。

温かい。

まるでお日様みたいに温かくて眩しい光に私はそっと手を伸ばし、光の奥に見えた大好きだったおばあちゃんの姿に大きく目を見開いたその直後、錆び付いた瞼を開けた先はおばあちゃんではなく見知らぬ真っ白な天井だった。あの白く温かい光に包まれチョコレートのように溶けたのかと思ったら、急に襲いかかってきた息苦しさに涙が目尻を伝い筋を残した。苦しさが瞼を閉じる前の出来事を少しだけ思い出させ、生きているという事実に私は心做しか落胆した。

人形に意識だけ移した体は指ひとつピクリとも反応せず、左手の小指に添えられたナースコールはそこに存在しているだけ。本来の役目を放棄している。
人が来るまでの間天井を眺めながら焦点を合わせていると暫くして母親によく似た顔立ちの女性が現れ窓際の花瓶の水を替えていた。喪服のような真っ黒な服が真っ白な病室に浮いている。彼女は花束を巻いた新聞紙を破くと花瓶に挿さったまだ綺麗に咲いてる花も一纏めに束にしゴミ箱に捨て、新しい花を同じ花瓶に挿した。彼女は何もおかしい事はしてないというのにどうしてこうも悲しいのだろう。
花の手入れを終え顔を覗き込んできた彼女へ瞬きを繰り返す。すると女性は何度も何度もナースコールを押し、私の名前を叫んだ。花のことを思うと凄く怖い人だと思っていた。けれど私の頬に降り注ぐ生温い雨は彼女が私の母親であることを思い出させてくれた。

6ヶ月。
君は6ヶ月もの間昏睡状態だったと担当医から衝撃の事実を突きつけられ表情筋の動かし方を忘れた名前に変わり彼女の母親は『目が覚めて本当によかった』と涙に濡れた目を何度もハンカチで拭っていた。医者、看護師、母親、警察。目覚めたばかりの鈍い頭を取り囲む人々は容赦なく空白の6ヶ月を報告し、薄っぺらい同情と励ましの言葉を残し病室を去っていく。
嘘みたいな話だと思った。けれど両足と右腕に残る無数の縫い跡が事故の壮絶さを仄めかすものだから信じざるを得なかった。
歩道に単車が突っ込んで跳ねられた。
単車に乗っていた大学生2人は女を跳ねた衝撃でバランスを崩し転倒。擦った膝から血を流しながらひき逃げ犯らは転がった女の鞄を盗み逃走を図るもその場に居合わせた男性が警察に通報し近くのコンビニで御用となった。
跳ねるつもりなんてなかった。鞄をひったくって逃げるつもりが急に女が飛び出してきたから結果的に跳ねてしまった。
反省するどころか遠回しに『お前のせいだ』と理不尽に責任を押し付ける反省の色が見えない犯人の言い分に被害者でありながら名前は一言も返す言葉が思いつかなかった。『巫山戯るな。私の6ヶ月を返せ!』と怒り散らして慰謝料を堂々と請求できる立場でありながら、体に染み付いた謝り癖が耳元で“お前が飛び出したせいだ”と囁くものだから名前の頭の中は“謝罪しなくちゃ”と“死にたい”の2つで溢れかえった。
どうしたら周りに迷惑をかけずコンパクトに生きられるだろう。顎から滴り落ちた汗を引き摺った足の裏が拭い、平行棒を握りしめゆっくりと足を前に出す。
歩く事がこんなに大変な事だったなんて考えもしなかった。カクンッと電池が切れたように右足が曲がり鈍い音を立て体が床に崩れ落ちた。これで通算23回目の転倒からの打撲だ。6ヶ月間ベッドの上で眠り続けた体は完全に初期化され、1つずつ日常の動作を覚え直すにも痛みと疲労は切っても切り離せない。
目が覚めて少し落ち着いた頃に金銭関連の悩みが豪雨のように降り注いだ。お金が無い。正しくは必要最低限の出費を除いて口座に残るお金がない。
中途半端な貧乏人に社会はとことん厳しい。巻き込まれ事故とはいえ空白の6ヶ月分もきっちり入院費を請求されることを知るやいなや名前はベッドから転げ落ち、医療関係者の助言を全て跳ね除けその日のうちからリハビリを始めた。
毎日歩行訓練を2時間。それ以上滞在すると付き添いの看護師が『頑張りすぎても逆効果だよ』と車椅子を押してリハビリテーションから追い出すものだから残りの22時間をベッドか車椅子に体を預け窓から見える生き生きとした景色を眺めて過ごしている。
最近ようやく自力で車椅子に乗れるようになった。値段を理由に個室から4床の一般病室へ移してもらったは良いものの年齢層高めのルームメイトからの弄りから逃げたくて無理して乗れるようにした。たまに座り損ねる時もあるけど時間をかければ自力で対処できる。問題ない。ツギハギだらけのボロ雑巾みたいな両足も右腕もまだ使える。
今日もきっちりリハビリテーションから追い出された名前は居心地の悪い病室に押し込まれ、頼る相手も車椅子も手の届く距離にいないため仕方なく誰かが消し忘れたテレビの音を聴きながらスマホの電源ボタンを押した。昨夜見舞いに来た際に母親から新品のスマホを手渡された。前使っていたスマホは液晶どころかデータごと横転したバイクの下敷きとなり、漏れ出たガソリンで油没し逝ってしまったそうだ。
呆気なく逝った私のスマホの代役として受け取った新品のスマホはcmで宣伝される物と同一でご丁寧に初期設定も済まされている。必要なアプリは全てインストールされてはいるものの登録件数はどれも0件もしくはアカウント作成がスタート地点である。しかし電話帳に1件だけ電話番号のみが登録されており、名前は母の伝言に従い唯一登録された電話番号をタップし耳元に当てた。

『アナタの彼氏からスマホ預かってるわよ。目が覚めたら連絡して欲しいって。体調が良ければ明日にでも電話してあげなさい』

母親が口にした『彼氏』とは一体誰のことを言っているのか。名前は事実確認のため勇気を持ってコール音を鳴らす。1コール、2コール、3コール。次出なかったら時間を改めよう。4コール目。仕事中で忙しいのだろう。スマホを買い与えた正体不明のパトロンの手がかりは掴めないまま一旦退却だとばかりに名前はスマホを耳から離すが、急にコール音が切り替わり事態は一転する。

国際電話?

あまり馴染みのない呼出音だが海外のドキュメンタリー番組を好んで見ていた名前には一発でピンと来た。これはテレビでよく紹介されるロマンス詐欺というやつなのではないか。何が目的か知らないが私の彼氏を名乗り母を難なく懐柔し、詐欺の種をまく。急にこのスマホが曰く付きに思えて知らないうちに犯罪の片棒を担がされているのではないかと不安が押し寄せる。嘘だろ、また私が被害者か。入院費の高さに恐れ慄くちっぽけな貧乏人から搾り取れるお金なんてたかが知れてるだろうに何を期待して私をターゲットに選んだのか。人を見る目が無さすぎる。詐欺向いてないのでは?

「…も、もしもし」

長いコールの後に回線が漸く繋がる。電話越しとはいえ詐欺師との電話越しの邂逅に緊張しない訳もなく、スマホを握る手が震えカバーのついてないボディーには手汗がインクのようにベッタリと指紋を残す。
どうしよう。もし第一声で『ハニー、お金くださーい』なんてお金を要求されたら。ダーリンアイハブノーマニーで通じるだろうか?貧乏人って英語でなんて言うんだろう。
手持ち無沙汰な左手を胸の前で握りしめ、冷静を失わないようゆっくりと息を吐く。緊張を悟られたら付け込まれるだろう。落ち着け、落ち着けと自身を鼓舞し、相手の第一声に名前は耳をすませ、

『やっと起きたのか。いつまで眠りこけ…』

プツっ…ツー、ツー、ツー

想定に反し随分と流暢な日本語に動揺し反射的に通話を切った。び、吃驚した。吃驚して相手の名前も聞かずに切っちゃった。
ど、どうしよう。かけ直すべきだろうか?でももし相手が相当やり手の詐欺師なら言葉で上手く丸め込み財布どころか口座まで掌握される可能性は大いに考えられる。
もう電源切ってしまおうか。曰く付きのスマホを平気で使えるような図太さを私は持ちえてない。面倒事に巻き込まれないよう自衛すべきだ。側面の薄いボタンを指の腹で押さえようとしたまさにその時、暗かった画面に人型のマークが映し出されバイブレーションと共にバカでかい着信が鳴った。

「うぉっ!」

予想だにしない折り返し電話に驚きのあまりスマホが手から滑り落ち毛布の上へ着地する。ぶつ切りしたのがマズかったに違いない。
出るか、切るか。
ここで電話に出たら詐欺師の名前と目的が掴めるかもしれない。電源を切れば何も分からないまま心の安寧と貯蓄関係の安全が手に入る。スマホを握る手が動揺で震えている。病室に響くコール音に同室の患者が自身のスマホから鳴ってないことを確認し、発信源の私のスマホを睨みつけてくる。音を何とかしろ、煩くてテレビの音が聞こえないだろ。刺すような視線に択を迫られた名前はこれ以上コール音は引き伸ばせないと覚悟を決め…着信をブロックし電源を落とした。賢明な判断だったと思う。相手はロマンス詐欺師で人が眠っている間にありもしない事実を母親に吹き込むろくでなしだ。距離をとる、それが正解だ。
サイドテーブルにスマホを置き背中を向けるように寝返りを打つ。それから少し仮眠を挟み、目が覚める頃には母が窓辺の花を取り替えており、その流れでサイドテーブルに置いたスマホに指を指した。

「彼に電話したの?」
「したよ。忙しいから後でかけ直すって」
「あらそう。サッカー選手は大変ね〜試合がなくても毎日練習しなくちゃいけないんだってね。それにフランスは日本よりえーっと…8時間遅れてるんだっけ?スマホ一つで連絡が取れる時代だといっても遠距離恋愛は大変よ?会いたくてもすぐには会えないし、浮気されても気づけないから捨てられないようにアンテナ張っておかないと」
「そうかもね〜」

ふーん。サッカー選手の肩書きで嘘を吹き込んでいるのね。詐欺師にしては随分と突飛な設定で騙そうとしているものだ。医者、商社マン当たりは怪しまれやすいから避けるとして、自営業、会社員、公務員当たりが現実味があり堅実さもアピールできるし騙す肩書きにはもってこいと思うのだが。サッカー選手か。しかも海外で活躍するレベルらしい。調べればバレる嘘で騙そうなんて何を考えてるのか。凡人の私にはさっぱり理解できない。
母は他にどんな情報を持っているだろうか。名前はベッドから体を起こすとスマホを渡した人物の情報をとぼけた振りをして母を突く。

「そういえば私の彼氏のフルネーム知ってたりする?」
「は?」
「その、まだ目が覚めてから記憶が若干曖昧でね。あだ名は覚えてるんだけど、そういえばフルネームなんだっけなーって。特にファミリーネームが思い出せなくて。なんか長くて覚えにくい名前だったよね。確か…えーっと」

マルコリーニとか、カーネルサンダースとか。
チョコレートやフライドチキンの匂いがしそうなファミリーネームを挙げさりげなく母越しに情報を引き出そうと試みた。しかし数秒後私はなんて愚かな質問をしたのだろうと後悔し顔を抑えた。
『まだ寝ぼけいるの?』不思議そうな顔をした母は小首を傾げ言った。

「ファミリーネームって。糸師さんは日本人でしょ?確かに背はすごく高かったけど」
「…は?」

いとし、いとし?…いとしって、誰だ。私の知り合いにそんな苗字の人…いた。1人。1人だけいた。背が高くて無愛想で口が悪い上にミーハーへの当たりが強いサッカー選手のイトシが1人。顔面と肩書きで群がるクラスメイトを明らかに厳選し付き合う人間を決めていた高校時代の元同級生。プリントを渡すぐらいのうっすい関係性で、同窓会の帰りに酔った勢いで話しかけたら容赦ない暴言で返り討ちにされ、元同級生と言う割には苗字しか思い出せない初対面寄りのクラスメイト。友達とも呼べない関係性だ。
暇を持て余した王の戯れか、それとも同姓同名の他人が私の少ない貯金を毟り取ろうと笑っているのか。状況が何一つ掴めないまま降ってかかった面倒事を前に名前は頭を抱える。

「どうしたの大丈夫??頭が痛い?お医者様呼んでこようか?」
「ううんっ!平気だから!!そ、そんな事より糸師君のことで他に知ってることはない?あの人って今フランスにいるの?彼氏ってあの人がそう言ったの!?」
「あら。半年も眠っていたからまだ気が動転しているのね。少し眠ったらどう?この話はまた今度にしましょう」

母に両肩を押され昼間からベッドへ横たわる。眠ればきっと思い出せるわ。母は娘の将来に希望を見出したような様子で名前の足元にまるまった掛け布団を被せ病室から出ていった。爆弾だけ落として去って行ったよ、あの人。
平穏が訪れた病室で名前はサイドテーブルに放置したスマホを手に取り側面のボタンに指を添える。
本人に連絡を取ればこの馬鹿げた夢物語が夢か現実かはっきりするだろう。が、もし母の話が本当だとしたらと思うと電話しづらい。だって相手があのプッツン糸師君だ。キレられる。怒られる。そして私の心は折れる。
彼が何を企んでいるかは知らないが海外在住の、それも名が知れた選手であれば練習なり試合なりと忙しくそう容易く帰国できまい。少なくとも1ヶ月は時間を稼げると踏んでいる。退院日は1ヶ月先の月末に予定されているが意地と我慢で3週間まで縮めれば何とか顔を合わさず退院できるだろう。
それからの生活はこれまで以上に規則正しくタイトであった。よく眠り、よく食事を取り、看護師の目を盗みノルマ以上のリハビリに取り組み一日を終える。
天気がいい日は足の痛みもなく、この頃は手摺に掴まり自力で歩けるようにもなってきた。そして私の計画通り退院日を当初の予定よりもだいぶ前倒しに移してもらい、そろそろ社会復帰について考えなければとゲンナリしていた頃に会いたくもない人物は予告もなしに突然現れた。嫌な予感はうっすらと感じとってはいた。通り過ぎていく患者や看護師の浮き足立った様子に今日はなにか起こりそうだと。
約5メートル先から聞こえてきた理不尽な舌打ちの幻聴。
帽子の影から現れた不機嫌なご尊顔に名前は包み隠さず恐怖の色を顔に張りつけ甲高い悲鳴をあげた。

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