デスクトップに貼り付けていた退職届は意識がない私の代わりに母と会社側で話し合い提出されており、家賃の安さだけが取り柄だった壁の薄いワンルームは過ぎ去った6ヶ月の間に解約されていた。部屋に残した私物は一時的に実家で保管されていたそうだが糸師凛の登場により私のフランス行きは決定し、もう使う必要は無いと勝手に判断され高い家電品は実家の古家電にとって代わり、私服と化粧品を除いた嵩張るものは全て清掃センターに運ばれていった。アイロン焼けしたワイシャツに毛羽立ったジャケット類は全て紐で縛り、まだ着れそうな服を選別しキャリーケースに詰める。56Lのキャリーケースなら夏服を詰めるだけでスペースが埋まってしまうかもしれないと心配していたが、仕事着の殆どを捨て私服だけを詰めたら冬服どころか化粧品を入れてもスペースが空いた。
私物が少ない。裏を返せば私生活の半分以上が仕事に侵食され自分に割く思考時間がゼロに近い脳死の生活を送っていたということだ。服を整理して驚いた。私、季節問わず4着しか私服を持ってなかったなんて。
ベルトをきつく巻きつけたキャリーケースを引いて歩く。カウンターのお姉さんにスマホを見せ、ほぼキャリーケースの重みが表示された荷物を預け終えると手荷物検査に緊張の出国検査が待ち受けていた。それからまたゲートを抜けると多くの免税店が立ち並び高いか安いかも分からない品を眺める。国際線の空港なんて初めて来たから出来れば色々なところを回ってみたかった。美味しそうなもの、日本の工芸品、高い化粧品。でもお金が無いので本当にただ見て回るだけ。ちょっと味気ないけれど見た事のないお土産に囲まれて幸せだ。ハブ空港を経由しフランスへ。拙い英語で何とかフィッシュorチキンを制し、パスポート検査場では滞在期間にしては荷物が少ないと怪しまれつつも日本のパスポートの優秀さに助けられ無事到着ロビーを抜けた。
空港内は一日中換気しなかった部屋に香水を振りまいたような匂いがする。これが他国の匂いってやつだろう。ついて早々もうカルチャーショック引き起こしそうだ。
よく来たな!的なフランス語が飛び交う家族の群れの隙間を通り抜けると名前はキョロキョロと当たりを見回して不機嫌なオーラを纏う人物を探す。スマホに送られてきた『到着ロビーの自販機横』と素っ気ない文面を頼りにそれっぽい人を探してみるが、到着ロビーから見える自販機横にはチョコレートバーを頬張りスマホをあたる男性しか見当たらない。まさかとは思うが、あの人が糸師くん?2週間前にあった時よりも随分と貫禄のある体型に育っている。おまけに脱童顔を狙って生やし始めたであろう髭はお世辞にも似合っているとは言い難い。まるで無人島から帰還した直後って感じだ。別人と判断するのが普通だろうが、身長や指定場所を考えると彼が糸師凛という線は捨てきれない。一旦声をかけてみて違ったら謝って離れるか。もし本人なら予定通り着いていけばいいだけまし。万が一に備え翻訳アプリを起動し自販機横に佇む男性へとキャリーケースを押しかけた時、首元が引っかかったような息苦しさにすぐさま足を止めた。
「おい、どこ行く気だ。こっちだタコ」
「おわっ!」
いつから背後に!?全く気づかなかった。
襟を摘んで馬鹿な行動を引き止めた探し人は帽子で顔を隠すこともせず『サッカー選手糸師凛』として空港に現れた。変装なしとはなんて大胆な。でも変にコソコソしてない事で周りに上手く溶け込み、通り過ぎていく人々は彼が『サッカー選手』であることもましてや『糸師凛』である事にも気づかず歩き去っていく。日本ではかなり有名人な彼も海外だと知名度が低いのかもしれない。
そんな失礼なことを考えている間に凛は名前よキャリーケースを引ったくりもう数メートル先を歩いていた。
思いやりという言葉をご存知では無いのか。いや、しれっとキャリーケースを引いてくれてる点に関しては彼なりの思いやりを感じるが、こう…もっと言葉と態度に出して欲しい。分かりづらい!
速度をあげると足が痛いから必死に歩幅を広げて距離を詰める。小石があったわけでもないのに蹴躓き転びかけた私を糸師くんはわざわざ足を止めて鼻で笑った。道徳心や思いやりの欠片もない顔だけの男め。足の痛みがなければ脛を蹴って帰国していた。
「ど、どこまで行くんですか」
「街の端」
「それは市街地って事、ですか?」
「いいからさっさと乗れ」
電車とかバスとかで移動するのかと思ったらまさかの自家用車。車の種類やグレードはあまり分からない私ではあるが今から乗り込む車が値の張る新車であることは理解できる。
糸師くんがスーツケースを詰め込んでいる間に後部座席のドアを開けお先に車内へとお邪魔する。シートベルトを締め平たく冷たいベルトに頬をくっつけ車窓を眺める。実家のソファとは比べ物にならない座り心地と写真でしか見た事がない海外の風景に感動する私を他所に、運転手は目的地の具体的な場所も所要時間も説明を省きちゃっちゃかとエンジンをかけアクセルを踏んだ。ハンドルを握った途端今以上に過激な性格に豹変しないか内心ハラハラしながらシートベルトを握りしめていたが、(免許取り立てのような初々しい)ドライビングに耐えること約1時間程で糸師君は車を停めシートベルトを外した。
「高そうなマンション」
「立ち止まんな。さっさと中入れ」
何階建てだろう。口を開けレンガ調のマンションを見上げるおのぼりな貧乏人を置いて凛はオートロックを解除し建物の中へ入った。
この人はいちいち命令しないと伝達できないのか。置いてくぞの一言に名前はショルダーバッグの紐を握り締め、渋々と閉まりかける扉を滑るようにくぐった。これからこの人と同じ空間で暮らしていく。相手がいかに横暴で友達いなさそうな王様でも所詮私はお邪魔する立場で、小さいことで逐一苛立っても仕方がないと頭ではわかっているものの、やはりこの看守と囚人のようなやり取りには心穏やかではいられない。もし私が自身の命を顧みず自由と尊厳の為に声を上げる死に急ぎ野郎なら前を歩くすまし顔に中指を立て『何様のつもりですか』と啖呵切っているところだが…遠い異国の地でポイ捨てされるのは流石にマズイ。苛立っても笑顔。小さい事は心でディスって本人に気づかれないように笑顔で水に流さなくては。そう自身に言い聞かせて降りてきたエレベーターへ大人しく乗りこむ。何階まで上がるのか見忘れてしまったが、10秒以上はエレベーターに乗っていたからたぶん上階。少なくとも私が住んでいたアパートよりは高い。地上からの高さも、家賃も。鍵を取りだし解錠された角部屋へ入る凛に続きペコッと頭を下げ名前も後に続く。いい匂いがする。気取った匂いとかじゃなくて、実家に帰ってきたような落ち着く匂い。
「お、おじゃまします」
「…」
『どうぞ』なり『ようこそ』なりちょっとした一言ぐらいかけてくれてもバチは当たらないのに、無愛想な家主はさっさと靴を脱ぎキャリーケースを部屋の中へと運んでいる。これは愛想云々というよりも、そもそも言葉のキャッチボールが成立しているかどうか怪しい。
脱いだ靴を端によせ広く小綺麗なリビングへ通される。目を惹く大型テレビに絶対1つで十分だろとツッコミたくなる寝そべりがいのありそうなソファがコの字置きで3つ。今見えているだけでも小部屋に続きそうな扉が4つもあるんだが絶対に使い余してると思う。リモコンがテーブルに置きっぱなしという唯一感じられる生活感を除けば遊び心のないモデル展示場の部屋だ。こんな立派な部屋を見せられたら前住んでいた私のアパートが犬小屋に見えてくる。
「何か飲むか」
「え、いいんですか!じゃあコーヒー。ホットでお願いします」
「ん」
いいなぁオープンキッチン。前のアパートもオープンといえばオープンキッチンだったけど3分クッキングのスタジオとして使えるほど立派ではなかった。
部屋に入ってかれこれ5分が経過するがどこに居れば正解か分からず観葉植物の横で立ちつくしている。座ってもいいだろうか。観葉植物の横に棒立ちしチラチラとキッチンに視線を向けると糸師くんと目が合った。何か言われるかと身構えるが何事もなく目を逸らされた。ふぅ命拾いした…じゃない。馬鹿か私は。ここで怯えてどうする。ここで暮らすならもっと図太くないと!と勇気をだして食卓の椅子を引き座ってみたが、面接会場に来たかのような雰囲気に背中が不自然に伸びた。
あまり部屋を眺めても不躾かと思い落ち着かない手元をじっと見つめていると見るからに客人用と分かる小さなティーカップが目の前に置かれる。ミルク、砂糖共になし。ここはブラック一択なのか。いや、それは別に構わないが…液面の色が黒ではなく緑である事はぜひ説明願いたい。
「あの、私と会話する気あります?」
「ちょうど切らしてた。文句があるなら飲むな。乾涸びろ」
「ひかっ!?…文句ないです。いただきます」
コーヒーの粉切らしてたから代わりにお茶を入れたよ!の一言で済むことを彼はわざと油に火炎瓶を投げ込むような言葉を選びすました顔で私の反応を伺っている。これは何かのテストなのか。それとも相手の反応を見て楽しむのが趣味なのか。なんて悪趣味な。だが悔しい事にこのお茶、滅茶苦茶に美味しい。どこの茶葉なんだろう。程よい渋みでが飲みやすい。
「先に言っておくが、俺はお前に期待していない」
背もたれに寄りかかりマグカップを揺らしながらお前の期待値はゼロだと宣言した王様糸師凛に家臣は目を丸くし混乱した様子で王に説明を求める。
「き、急になんの話ですか?」
「急じゃねぇ。ルール確認は何事も基本中の基本だろ。物事の最初には必ず互いの境界線ってやつを決めておかねぇと下手な干渉や詮索はうぜぇ上に気分が悪ぃ」
「まぁ、確かに…?」
言いたいことはわかる。わかるけどね、こうもっと言葉をオブラートに包むことは…この性格じゃ無理なんだろうなぁ。この性格と物言いで団体競技のプロなんて信じられない。
とはいえこの家の主は糸師くんだ。意味深に三本指を立てた糸師くんに私は椅子を引きごくりと息を呑む。
「お前がこの家に住むにあたって守るべきルールは3つだ。燃やすな、壊すな、水浸しにすんな。以上だ」
「…え、それだけ?というかそれって子供でも知ってる当たり前のルールでは。糸師くんって私の事どういう人間だと思っているんですか」
「馬鹿じゃねぇことは認めてやる。が、念には念をってやつだ。いちいち騒ぐな。うるせぇ」
こう見えて私20歳過ぎのいい歳した女性なんですが。燃やすなって、壊すなって。子供じゃあるまいし。
「この3つのルールが守れるならお前はお前自身の世話だけしてろ。無理にできないことを挑戦すんな。俺の仕事が増える」
背もたれに寄りかかりズズッと緑茶を啜る下まつげの王様を引っぱたけたらどれだけ気持ちがスッキリするだろうか。幸先悪い出だしに頭を抱えながら私は恐る恐る右手を上げる。
「あの、質問してもいいですか」
「なんだ」
「どうして糸師君は家を破壊するかもしれないと疑いながらも私なんかと暮らそうとしているんですか」
ピクリと瞼が痙攣した瞬間を私は見逃さなかった。同情して彼氏になったというイマイチ信用ならない経緯はこの際置いとくとして、明らかに人と暮らせなさそうな彼が不機嫌丸出しに他人と暮らそうと画策しているのは何故か。チーム内での罰ゲーム?…いや、ないな。そもそも罰ゲームを素直に従う性格じゃないでしょ。多分。
さぁ、なんて言い訳するんだ糸師凛。マグカップを握りしめて返答を待つ私へ当の本人はあっけらかんと答えた。
「監視だ」
…さいですか。
こうしてギクシャクした関係性の中で同棲がスタートしたわけなのだが。彼は『自分だけの世話だけしとけ(直訳すると戦力外通告)』の言葉通り私が焼いた余計なお節介は容赦なく拒絶した。
「あの、ご飯」
「冷蔵庫にあるもん勝手に食え」
「そうじゃなくて、その。作ったんですが…2人分」
金曜日だからカレー。ちょっと安直だったかなとハラハラしながらまだ注いでない器を手にどれくらい食べるか聞きに来た。しかし彼は鍋のカレーをチラッと見てフンッと鼻で笑った。
「栄養バランスがなってねぇ。こんなもん食えるかよ。俺はいらねぇ。自分で食え」
「えっ…え!?」
カレーは栄養バランスが偏っているのでしょうか。野菜たっぷりなんだけど。人参とか、じゃがいもとか、玉ねぎもたっぷりなんだけど!
それにお肉もちゃんと入れた。豚じゃなくて鶏肉。もしかしてタンパク質が足りなかったのかもしれない。そう思って次の日はカレーにカツをのせてみたが前日と同様栄養バランスを理由に食事を断られた。
食卓に並ぶそれぞれの食事。適当に焼いて塩コショウを振った野菜炒めを食べる私の正面でプラスチックの蓋を開け持ち帰った弁当を黙々と口に運ぶアスリート。栄養バランスがどうとか言う割に弁当の中身は私が食べているものとそう変わらない気がする。
私の作った食事の何が悪いのか。誰かが作った弁当をまるで自分が作ったような口振りで咀嚼し、対面に並ぶ食事をやれ栄養バランスが見た目がと糸師凛はディスる。2日までは許せた。彼の指摘に思い当たる節はあったからだ。ただ3日も続くと流石に和やかに受け流すのも限界で、絶対にこの男をギャフンと言わせてやると密かに怒りと闘志を燃やしていた。見返してやる。初日こそは自分の為に適当にご飯を作り余った分は優しさで分けてあげていたけれど、あんな言い方をされたら私とて溜まったものじゃない。やってやろうじゃないか。君が食べてる弁当よりも栄養バランスが取れている上に見た目が三ツ星レストラン級の完璧な料理作ってやろうじゃないか!!
…と意気込んだまでは良かったが。
「まぁそう簡単にいったら料理人は苦労はしないよね」
今日の夕ご飯は鯖の味噌煮。解凍した三枚の鯖の開きをフライパンに広げ中身に火が通ったら味付けをして盛り付ける予定だった。ただひっくり返す際に身がフライパンにくっ付いて割れ、使い終わった調味料を戻している間に味噌が焦げ、出来上がった鯖の味噌煮はお世辞にも食欲をそそるような見た目ではない。味付けもちょっと濃くて白ご飯があってちょうどいいくらい。こんなものを食卓に並べたら絶対に小姑から『話にならねぇ』と鼻で笑われるに決まっている。最悪『使えねぇ奴は要らねぇんだよ』と家から追い出されるかもしれない。異国の地で一文無し。考えただけでゾッとする。
余分に作った分は別の皿に移しラップをかけ冷蔵庫の一番奥へ押し込む。目に付いたら絶対に小言を言われる。なら見せない場所に隠してしまうのが1番だ。証拠隠滅は明日の昼。遅くなると連絡を受け、さっさと夕食を済ませ風呂に入った。どうせあの人の夕飯は弁当だし練習終わりに外でシャワー浴びて帰ってくるから先に入っても問題ない。そろそろ3軍落ちするダルダルのTシャツと半パンを履きリビングへ向かうと常夜灯の橙色が白色へと変わっていた。どうやら帰ってきたらしい。
「お帰りなさい。それとお風呂先に入りましたぁ、な゛っ!?」
「あ?」
どうせムスッとした顔でお弁当を食べているんだろうなぁとリビングのドアを開け、私の目に飛び込んできた光景に思考が停止した。スンっと匂いを嗅げば消臭したはずの甘い味噌の匂い。無惨にちぎれた元は1枚の鯖の切り身を箸で切り分け白ご飯と共に口に運ぶ。誰が?糸師凛以外に誰がいる。
「い、糸師くん!それ、それ私の!!」
手を伸ばし慌てて静止をかける。しかし彼の箸は止まることなく切り分けた身を口に運び咀嚼もそこそこにごくんっと嚥下した。信じられない。この人正気か?どう見ても体に悪そうな出来栄えを顔色一つ変えずに口に運び飲み込むなんて。
驚きのあまり開いた口を押さえ思考を放棄した名前を他所に凛は食事の手を止めず、ついでに不満をこぼす口も止めない。
「見た目が悪ぃ。焦げ付かないように油ひくなりホイル使え。家庭科で習ったろ。火ぃ通しすぎ、味付け濃すぎ。お前俺を塩分で殺す気か?」
こんもりと積み上げた白ご飯の山に100円玉サイズに切り分けた鯖の切り身をのせ大きく開いた口へ運び咀嚼する。嫌な小姑だ。食卓に並べず冷蔵庫の奥に隠したおかずを勝手に取り出し、温め、口に運び、求めても無い味の感想をグチグチと。
「…文句があるなら食べなければいいのに」
「冷蔵庫開けたらたまたま飯が置いてあったから食ってる。他の選択肢があるならそっちを選んでいた」
「さいですか…いつもの弁当はどうしたんですか」
「買いそびれた」
「そう、ですか」
ああいう栄養士監修の弁当って契約して定期購入するものだと思ったけど、彼の言い分としては“買いそびれた”らしいのでなんの気まぐれか知らないがそういう事にしておこう。風呂上がりに冷たい麦茶を飲むはずだったのに、完食した皿にちょっぴり浮かれた私は喉が乾いたまま汚れた食器を流し台へ運んでいる。自分が食べたものは自分で片付ける。そんな当たり前なルールを破りスポンジに洗剤を染み込ませ泡を立てたのは呆れるほど単純な頭が気まぐれに与えられた優しさに喜びを錯覚したからだ。