糸師くんの家のリビングダイニングには家主の趣味とは到底考えられない高そうな家具が点々と飾られている。例えば私の部屋と隣の客間の約50センチの壁に吊るされた謎の絵画。縦27cm横40cmのキャンバスに描かれた牧場の風景画には牛か馬か判別しづらい生き物が数頭草を食べる姿が描かれている。素人の感想としては新しい牛乳のパッケージか?と首を傾げる題材とクオリティだがきっと目が肥えた人には全く違う絵として見えているに違いない。
私的には牛乳パックを開いて額縁に入れたようにしか見えないが。
ちなみにこの絵の相場価格はなんと丸6桁。右下に紐を適当に垂らしたようなサインを試しに検索したらかなりの大物が描いた風景画らしく、値段を知って以降はこの絵を眺める度に牛乳パックから諭吉の束にしか見えなくなったのは言うまでもない。
絵画の他にもビンテージ物の酒や本物の観葉植物。サッカーのマスコットキャラクターをモチーフにした陶器の置物等々が飾られており、飾られるだけで終わっているためどれも多少なりともホコリを被っていた。サッカー選手がどれほど忙しい生活を送っているか未だ把握しきれていないが、食事、風呂、睡眠を取るために帰宅している様子を見る限り部屋の掃除に割く時間などないのだろう。土日が来ても平日同様ジャージ姿で出かけるし。
流石に糸師くんの自室を掃除する度胸はないが共用スペースは私も普段使わせてもらっているし、掃除しておいた方がいいだろうとハンディーモップを握ったのが運の尽き。すっかり忘れていたのだ。死の淵からうっかり生存してしまったあの瞬間から私の運は底を尽きていた事を。
鬼の居ぬ間に洗濯元い鬼の居ぬ間に掃除をしようと棚のホコリを払っていた。展示品を落として割らないようそれはもう細心の注意を払い丁寧に。しかし花も刺さってない花瓶を両手で抱え一時的に床へ置こうとした時、カクンッと電池が切れたように片足が床に落ち抱えていた花瓶が腕の中から飛び出した。
あ、マズイ。床と接触する寸前まで手でもいいからワンクッション挟んで衝撃を緩和しようと足掻いた。しかし伸ばした手が過敏に触れるよりも早く響いたガラスの高い悲鳴に頭が真っ白に染まって、床に打ちつけた膝皿や床に跳ね返り指に刺さった破片が皮膚に食い込む痛みも何もかもが感情に支配され痛覚を遮断した。
“お前がこの家に住むにあたって守るべきルールは3つだ。燃やすな、壊すな、水浸しにすんな。以上だ”
“燃やすな、壊すな、水浸しにすんな”
““壊すな””
…壊しちゃった。
マズイマズイマズイマズイ!!
床に散らばった花瓶の破片をかき集め大きな破片を取っかえ引っ変えしては割れ目を合わせる。現時刻は19:27。練習に向かった家主が帰宅する23分前の悲劇である。顎から垂れる雫は汗か涙か。今にも命を絶って死にそうな顔がこれも違う、これも合わないと鼻をすすり破片を組みあわせる。元の絵柄が思い出せない時点で部分的な修復すら不可能であることくらい普段の彼女ならわかっていたはずだ。
家のルールを提示した際の凛の無を纏った眼差しが元上司から向けられ続けた存在意義を問いかける視線によく似ていて、気づかないうちにすり替わってしまった。だからこそ彼女は不必要に自分の首を絞め少しでも家主の怒りをおさめようと躍起になった。パズルのああ合わせるように破片を合わせる。指先の痛みもそこから血が流れ落ちている事すら泣きそうな目を必死に見開く彼女は気づいていないのだろう。
あ
「ダメ、 これも合わない…どうしたら!!もうどうしたらっ!!!」
破片の山を踏み割って赤子のように泣き喚いてしまいたかった。
この惨状を彼に見られたら家から追い出される。恋愛目的で彼女にした訳でも無く、はっきりと『監視』を目的に家に呼び込んだ糸師くんに私をこのまま家に置いておくメリットがない。突然電池切れを起こす両足と凡人の域にも満た無い料理。良かれと思って掃除をすれば無様に体のバランスを崩し花瓶を割る役立ずを一体誰が必要としてくれるだろう。
意図せずして(ここ重要)割った花瓶が大手通販サイト内で偶然にも安売りされてないだろうかと諦めの境地の中希望を探してスマホの検索アプリをタップした直後、人生終了を告げる着信音に摘んだばかりの破片が床に落ち更に小さな破片に分かれた。
(はわわわ!!!)
気味が悪いほどのタイミングの良さに盗聴器の存在を疑いたくなる。薄目でスマホを手に取り画面を確認する。確認といっても電話をかけてくる相手など1人しかいないが。気唾を飲み受話器マークを指先でスライドさせ耳元に当てる。今こそ通信機器の発展を恨めしく思った日はない。
「もっ、もしもし…」
「俺だ。今から帰る」
「今からッ!?」
「何狼狽えてんだよ。いつもと同じ時間だろ」
ごもっともです。
「なんかあったか」
「えっ!?あ、いや。まさかそんな!問題ないですっ!!!」
問題しかない。
「声裏返ってんぞ」
「き、気の所為では!?」
察しの天才か?
「今から15分後に帰りつく。話は帰って聞く」
「じゅうごっ!?…あの、たまには遠回りして帰ってきたらどうかな?ほら、いつもと違う景色を見ると帰宅風景のマンネリ化防止になるってどこかの偉い学者さんがテレビで言ってたような言ってないような」
「10分で帰る」ム
「へあっ!?」
終わった。
平静を装えず不自然な態度に勘づかれ糸師くんをいつもより5分巻いて帰ってこさせるとか、私は馬鹿か、馬鹿なのか。
タイムリミットまで残り10分。髪を掻き項垂れるも惜しいとばかりに名前は台所へ走りポリ袋片手に陶器の破片を掬い入れる。プランA花瓶の修復は無理だと速やかに判断し苦肉の策プランBにシフトする。プランB、元々花瓶など存在しなかった作戦、である。
物に溢れたリビングでは無いが普段気に留めないものが消えたところですぐに気づかれることは無いはず。そんな一縷の希望に命を賭け、どうか割れた花瓶が糸師君の記憶に刻まれていませんようにと願いながら掃除機を手に取った直後、玄関から聞こえてきた解錠の音に名前は掃除機を捨て音が鳴った方へ走った。おかえりなさいと出迎えるためでは無い。ドアガードを閉める為である。
やっちゃった…
隠蔽工作の真っ只中にまさか帰ってきてしまうなんて。予定以上の早い解錠音に生存本能が働いた。後先考えず家主の帰宅を拒否してしまった上ここからの動きは何一つ考えていなかった見切り発車の対応。中途半端に解錠された扉の隙間から覗く魔王の恐ろしい眼力に村人Aは口を抑え後ずさる。こんな感じの有名なホラー映画があった気がする。扉から除く迫力のある眼光に心身共々萎縮し、ポケットに突っ込んだほうの手から手斧が出てきたらと本気で想像する程には冷静とはかけ離れた精神状態だった。
「おい、何のつもりだ。今すぐ開けろ」
「い、いやだ…」
「はぁ!?」
高速で上下するドアノブから名前はさらに1歩距離を取った途端、ドンッ!と扉を蹴った鈍い音に肩が跳ねた。イライラゲージがあるとすればきっとMAXどころか振り切っているに違いない。くっきりと額に浮かんだ青筋から目を背けた途端に呪い殺すような声で名を呼ばれる。殺される。名前は捕食者から逃げるようにシッポを丸めリビングへと続く扉へ身を隠した。扉2枚越しに逃げんなと怒鳴られる。だがそんなの知ったこっちゃない。こっちは命がかかっている。今更引き返すことはできない。
「へ、部屋の中の惨状を見たら」
「あ゛?」
そろっと扉の隙間を狭め2cm弱の隙間から魔王と退治する。練習帰りで空腹な上に帰宅拒否され大変ご立腹の様子。だがリビングにはまだ花瓶の破片が散らばり、掃除機は投げっぱなしのままだ。
「へ、部屋の惨状を見たら糸師君は絶対に私を家から追い出します!!ので…絶対に開けたくありませんっ!!せめて10分、時間をくださいっ!!!」
10分あれば少しはマシになる…と思う。お互いの足の裏を守るためにもせめて床に散ったままの破片だけは片付けさせて欲しい。名前の命をかけた嘆願にドアノブの騒音が止んだ。もしかして10分待ってくれるのだろうか。期待して扉の隙間を広げかけた名前に掛けられた言葉は承諾ではなく純粋な罵声だった。
「巫山戯るのも大概にしろよ。いいから中に入れろ自己中イカレ女!」
「じこっ!?…あ、貴方に言われる筋合いは無いです!!こ、このっ、我儘小姑!!!」
「あ゛あっ!?」
怖っ!この人本当にサッカー選手なのか。ヤのつく自営業の間違いじゃないのか。確実に1人は殺った目で睨みつけ根も葉もない罵声を飛ばすサッカー選手(仮)に名前はカチンっときて、負けじと日々少しづつ溜め込んだ苛立ちを1つに丸め帰宅を拒絶させられた可哀想なチンピラに投げ返す。どうだ、参ったか。私も言う時は言うんだ。怒りに痙攣する額の青筋に向けフフんっと勝ち誇った笑みを浮かべ愉悦に浸る名前ではあるが正直この後の展開を何一つ考えていないし、自己都合を押し通す過程で不必要に刺激し生み出してしまった魔王の鎮め方など死を持って収めるくらいしかないと腹を括っている。
「絶対にキレないと約束してくれるならいれてあげてもいいですよ」
そう言い残して再びリビングの扉をソッと締めかけた時だ。
「おい、よく聞けクソ女。ここは俺の家だ。今から3秒以内にドアを開けろ。でないと警察呼んでお前を豚箱にぶち込む」
「はっ!?」
それは卑怯じゃん!
まさかの警察登場に名前は苦しげに扉へ張り付く。
凛に心折れるまで罵倒されるか、フランスの警察にお世話になるか。この先の将来を考えどっちを選ぶべば自分に得か天秤にのせる。そして一目瞭然の結果に舌を甘噛みしながら渋々玄関扉へ近づきドアガードを外した。
魔王の帰宅直後、脱兎の勢いで玄関扉から立ち去る名前を凛はすかさず手首を掴み捻りあげる。針のような冷たい視線が深々と心臓に突き刺さる。言いたいことがあるなら端的にそして一思いに殺してくれ。歯を噛み締め身構える名前を凛はリビングへと引きずり、部屋の荒れ具合を見るやいなや盛大にため息をついた。
「説明しろ。何やらかした」
「か、花瓶を割りました…わ、わざとじゃないんです!!棚の掃除をしてたら足がこう、カクンッて急に曲がって。それで運ぼうとした花瓶が手からすっぽ抜けて…その、ごめんなさい」
丸が多そうな花弁を割っておいてごめんなさいの一言で許されようとは思ってない。ただ自分が犯した過ちはきちんと謝罪するべきだと、目こそは合わせられなかったが誠心誠意頭を下げて謝罪した。
掴まれた手が自由になると彼は散乱した破片に近づき横着気味に腰を曲げ破片を集めた袋を拾った。この角度から表情は読めない。が、玄関扉の攻防と比べ口数が少ない代わりに話しかけづらいオーラを出しているような気がする。もしかしたらお気に入りの花瓶だったのかもしれない。これはもう1回ちゃんと謝っておいた方がいいだろうか。内心アワアワして立ち尽くす名前に徐に顔だけを名前に向けた凛は冷えた視線で名前を睨みつけた。
「馬鹿かお前」
「…返す言葉もありません」
「指」
「...ゆび?」
指...手足合わせて指20本。そして家主が大切にしていた高そうな花瓶は粉々に割れている。なるほど。
「指を売って買い直せ。そういうことですね」
指売るより臓器売った方がお金になると思うけど指の1本や2本で許してくれるなら私も腹括ります。...慈悲としてせめて売る箇所指定させてくれないだろうか。できれば足でお願いしたいんだけど。
「馬鹿かお前。自分の指見てみろアホ」
「えっ?…あ」
視界の真ん中で10本の指を正確に捉え、赤いペンキに手を突っ込んだような有様を認識した途端ドッと痛みが押し寄せる。
「ば、絆創こっ!」
「救急箱、棚の下から2番目」
血が滴らないよう掌を握り合わせ自室へ駆け込もうとする馬鹿を魔王は首根っこ掴んで棚を指差した。棚の下から2番目へ飛びつこうとすると首根っこ掴まれ洗面所へ放り投げられる。これ以上部屋を汚すなの意ということは馬鹿でもわかる。水道で血と花瓶の破片を流しキッチンペーパーで水分ごと拭き取りリビングへ戻ると救急箱が食卓にポツンッと置かれていた。絆創膏一箱とテーピング。リビングを覗くと放置した掃除機は何処にも無かった。
あの人何処行ったんだろ。箱から絆創膏を数枚取りだし1枚ずつ指に巻いていく。まだ開けたばかりでかなりの枚数が入っていた。けれど1本の指に絆創膏を巻き付ける度にどんどん枚数が減っていき、指に巻き付ける度にじんわりと嫌な汗が額に浮かぶ。これ何枚使うことになるんだろ。後で使用枚数分請求されそうな無駄遣いぶりに飛んでくる数々の小言を想像するとキリキリと胸と腹の間が痛くなるし、気が滅入りそう。
「おい」
こんなに気分が落ち込むくらいならフランスの警察にお世話になった方が…いやいや、警察に捕まったら気が滅入るどころか人生が終わる。あ、でもこういう場合って日本に強制送還されるんだろうか。
「おい!」
「へいっ!?」
振り返ると寝間着姿の糸師くんがいた。また気づかないうちに背後を取られた。彼は忍者か何かか。ジットリと絆創膏だらけの手を見つめられ枚数の事を咎められると思いそれとなく手を膝の上へ隠す。彼は救急箱を開け包帯とハサミを取り出すとクイッと顎で命令した。絆創膏何枚使う気だよ阿呆、さっさと手を出せマヌケ。そう言ってるも同然の呆れた顔してる。
「貸せ」
「...すみません」
手当ぐらい自分でできます。そう彼の親切を断ろうと考えたけど下手に意固地になっても意味が無いし、利き手に1枚も絆創膏を無駄にせず巻けるほど器用じゃないことは自覚している。珍しく優しさを分けてくれる王様に家臣は申し訳なさそうに俯いた。
「足の次は指かよ。お前わざとやってんのか?」
「わざと怪我するほど私も馬鹿じゃないです」
急に足の力がフッと抜けて、気づいたら手から花瓶が離れ床で破片を撒き散らしていた。わざとじゃない。花瓶を割ったのも指を切ったのも。
絆創膏同士がくっついて皺を作った手に比べ、利き手は綺麗に傷を覆うように絆創膏が巻かれた。掌はガーゼとテーピングでぐるぐる巻きにされたが日常生活を送るに不便のない可動域を保った巻き方に名前は少しだけ驚いていた。てっきりコルセット並みにギュッと締められるとばかりに。
ただの神経質な暴君かと恐れ怯えていたけれど、実はそうでも無かったり。
「...意外と優しい?」
「なんか言ったか?」
「いえ、何も」
花瓶を割った事件から数日後、弁償のため恐る恐る割った花瓶の金額を聞き出そうと糸師くんに尋ねたところ『ウチに花瓶なんてねぇ』の一点張りに面食らった。他人に気を遣える人だったのか。それとも、もしかして本当に忘れてる?若年性認知症?と心の声がボソッと漏れた途端に下まつげを広げ蛇睨み。どうやら忘れては無いようだ。
彼なりの優しさというやつらしい。
分かりづらくてほぼ誤差みたいな優しさだが。