1週間。

私が元の平凡な生活に戻れるまでのカウントダウン。それが1週間。唐突な物語の導入だった。目が覚めたら世迷言を信じた糸師凛が私の彼氏役に名乗りを上げ、彼の気まぐれに巻き込まれるがままフランスへ渡仏。郊外のエントランス付きの立派な高層マンションの一室に身を寄せ、職も探さずのうのうと家政婦もどきな生活を送らせてもらっている。ひったくり犯から糸師くんの選手生命を守った命の恩人の世迷言に、どういう訳か彼はお金と1人時間を浪費してまで私の煩悩に付き合ってくれているが、この通り赤の他人以上友達以下な関係性は彼の気まぐれが終われば私はあっさり切り捨てられるに違いない。
だから初めてフランス生活初日の夜に糸師くんの塩対応と不機嫌な表情から身の丈にあった生活に戻るまでを見積もった。美人は3日で飽きるとかなんとか。だったら命の恩人に対する感謝は1週間前後だろう。人の気持ちなんて時と環境でコロッと変わる。おおよそ彼は他人に全く興味が無い。きっと『お前は用済みだ』とその日の気分で私を切り捨てる未来は想像に難くない。
彼との縁を辿れば高校時代の『よっ!』友にも満たず、1年間同じ空間を共有したクラスメイトAとサッカーで名を売った有名人。それに加えて呑み会帰りに酔いとノリで有名人に話しかけたマヌケと愛想も手心もない一流サッカー選手だ。それが何の奇跡か『かろうじてクラスメイト』から『恋人』に関係性が変わり、だが残念なことに私たちの相性は最悪でまともな会話すら1分も続かない酷い有様だ。共通の話題を振ろうにも思いつかないし、話を振る度に『ふーん』『あっそ』『だからなんだ』の三言で会話を強制終了するため会社用に編み出した笑顔も引き攣る。話を広げる気がないくせに食事時は決まって向かいの席に座り食事する。わざと椅子を横にずらしていてもだ。糸師くんが何を考えているのか凡人の私にはさっぱりだ。
傲慢な王の我儘にはほとほと手を焼かされている。態度も言葉も高圧的で、振り返ればいつも私は彼に謝っている。図体は大人でも中身は小学生。しょうもない意地悪を平気でしてくるわ、機嫌が悪いとがなり声をあげるわ、一緒にいるだけで神経がすり減るまるで爆弾みたいな人。当然ながら沸点も低い。モラハラ亭主関白野郎なので危険物指定されていないことが不思議でならない。そんなモンスターみたいな人とこれから一緒に暮らすだなんて到底考えられない。顔の良さを差し引いても誤魔化しきれない傍若無人振りの洗礼に私は毎晩窓から見える1番明るい星に手を組み心から祈った。神様、どうか1週間と言わず3日くらいで日本に返してください、と。
何にしてと反りが合わない糸師凛との生活にフラストレーションを溜めながらも気づけば1週間が経過した。そろそろ荷物を纏めた方がいいかと思ったが本人からは出ていけ等の指示はなく、日本に帰ったところで無職かつ貯金がほぼ0に近い一文無しのため、温々のベッドに寝っ転がり図々しく居座ることにした。それからまたもう一週間が過ぎる。家から追い出される気配はない。用事があるからと彼と外出した帰りに車窓越しにエッフェル塔を見た。エッフェル塔を間近に見て感動したはずなのに思い出すのは環状線の合流に手間取る糸師くんの焦り顔だった。また1週間が経った。近くの公園に行って高校生ぶりにサッカーボールを蹴った。得意げにリフティングを3回続けて見せた私を一流サッカー選手は鼻で笑いそれはもう癪に障る回数のリフティングを見せつけたものだからなんて大人気ない人なんだろうとドン引きした。こういう所が友達できない理由なんだろうなぁと失礼な事を考えていたら片足で踏んでいたサッカーボールが油を撒いたタイルのように滑り派手に転んで頭を打った。私の人生っていつもこう。幸せと不幸が均等にやってくる。でも頭をぶつけ地面に座り込んだ際の糸師くんの珍しく焦りを滲ませた表情は新鮮でたまにはマヌケに頭をぶつけてみてもいいかなって馬鹿なことを思った。
思えば糸師くんと過した時間は家の中で1人過ごした時間と同じくらい長かった。1週間が過ぎ、もう一週間、一月が過ぎ、気づけば3ヶ月。同居が始まった頃は糸師凛の横暴さに頭を抱え、与えられた部屋に私物を置くことを躊躇った。荷物を増やしたところでどうせすぐに家に帰ると思っていたからだ。でも今だからこそ言える。彼は確かに我儘で横暴な暴君だけどただ口が悪いだけで行動そのものは正しく優しい。それにああ見えて意外といい人だ。私という卑屈な人間の努力を認め、良い方向へ矯正し、3歩先からノロマと罵倒しても決して置いていくことはしないあたり、私にとってはいい人だった。
初めはどうなるかと思っていた暮らしもこの頃は軌道に乗り、常に頭の片隅に仄暗い選択肢がチラついた私にも生活に『楽しみ』を見出す余裕が出来た。スポーツなんて全く興味なかったくせに最近は録画されたサッカーの試合観戦がルーティーンワークになりつつある。
置かれた環境へ徐々に順応し灰色だった世界が色づき始めている。ここで目を覚ましていれば深手を負う事はなかっただろうに望めばなんでも手に入る環境に胡座をかいてしまった。幸せと不幸せの偏った質量が交互に降りかかるハズレマスばかりの人生ゲームに、私はほんの少しでも勝ち逃げできる可能性を見いだして、順調過ぎる暮らしに浸かり危機感がすっかり鈍ってしまっていた。すぐ足元に潜んだ運命が帳尻を合わせるように奈落の底に向かって私の足を引きずり込もうとしている。すぐそばまで近づいていた夢の終わりを私は異変の欠片すら気づけなかった。

「お前が邪魔になった。荷物を纏めて出ていってくれ」

夕飯時だった。お互い会話が得意じゃないから常にテレビの音がよく聞こえていた。ちょうど放送されていた話題が今週一週間のスポーツ特集で糸師くんが所属しているフランスチームがドイツのチームに完敗したというもので、調子悪かったのかなとカメラが切り抜いた選手達の悔しげな顔を眺めながらおかずを箸で挟んだ時、彼は脈絡もなくそう言った。出ていって欲しいと。
急展開に頭が追いつかなかった。聞き間違えたと思いスルーしようとしたけれど、心底邪魔そうな顔がじっと私を睨みつけていたから嗚呼、この日が来たんだと私は箸を置いた。

「…いつ、までに?」
「2日後。日本行きの航空券は既にとってある。明日中に荷物をまとめておけ」
「あ…はい。わかりました…うん」

どうして今になって。それも急に。
食事中はスマホをあたらない彼が珍しく箸を置いてスマホをあたっている。ピコンっと私のスマホが鳴って、糸師くんはスマホをポッケにしまうと休めた箸を握った。
明日までに荷物を纏めて、次の日には日本行きの飛行機の中。フランスの地に降り立ってからずっと身構えていた展開なのに、いざ本番になった途端ずっと温め続けていた毅然とした台詞が一言も思い出せなかった。

「さ!参考までに、りゆう、聞きたい、です。ほら、歳も歳だし、次違う人と同じ理由で別れないための対策といいますか…直せるところは直したくて…次のために」

真っ白になった頭の中でこの息苦しい静寂をかき乱して笑ってお別れできそうな雰囲気に持っていくはずが、咄嗟に口に出た言葉は未練がましさを匂わせる顧客満足度アンケートみたいな言葉。次のために、なんて。貴方の次はいますからねと強がってみせても未練がましい声音が私を惨めにさせる。
彼は眉間に皺を寄せ食事から目を離さない。鬱陶しがられている。質問しなかった方が円満に別れられただろうと質問した後に後悔している。

「直すとかそういう話じゃねぇだろ。俺もお前も一人暮らしの方が居心地が良かった、それだけだ。俺は元の生活に戻って落ちたパフォーマンスを元に戻す。お前は好きでもねぇ男の顔を忘れ帰りたがった故郷に戻る。日本に帰りたがってただろ。少しは喜べよ」
「…そう、だね」

食事の片手間感覚で帰ってくる返答は私の本心からかけ離れているのに、彼の言葉全てに反論する勇気も言葉も持ち合わせていない私は喉の引っかかりを感じながら全てを飲み込むしかなかった。

「その足じゃ仕事探すのも大変だろ。生活費は定期的に振り込んどく」
「いらないよ」
「口封じ代も含んでる。マスコミに私生活を垂れ流されたら溜まったもんじゃねぇし。ありがたく受け取っておけ」
「…わかった」

恋人まではいかなくとも信用できる間柄でありたかった。少なくとも私たちは『恋人(仮)』なんだし、最後ぐらい自分で結んだ関係性くらい守って欲しかった。

「ご飯、美味しくなくてごめん」
「腹に入れば味なんてどうでもいいだろ」

栄養バランスだけはこの家に暮らし始めてからだいぶマシになった。だから彼は気まぐれで渋々同じ食事を摂ってくれていたのだろう。そういえば『美味しい』って言葉を1度も聞けなかった。今日の鯖の煮付けは過去一で上手く焼けたから今日こそはって期待していたのに、結局私は君の足を引っ張り、1人分多くお金を払わせて、彼を苛立たせることしかできなかった。

キャリーケースが行きより少し重い気がする。この家で過ごした糸師くんとの思い出の重さと思えば増えた重さは重いのか軽いのかどう捉えたらいいか。
大きな私物は増やさないよう過ごした。けれど彼の勘違いで私の子になってしまったバカでかいテディベアの処分は少し困って、借りていた部屋に置きっぱなしにした。欲しかったのはテディベアの正面に展示された靴だったし、20過ぎてテディベアって、なんかイタイし…どうせ3日もすれば家主が捨てるだろう。

「お世話になりました」

家主は朝早くに遠征へ出かけたため形だけの感謝を伝えポストに鍵を投函した。これでもうこの家に帰れない。
異国は時間に緩く、予約時間の18分後に来たタクシー運転手は頑なにフランス語で話したがる。空港に着いたら着いたで動画で復習したチェックイン方法に抜けがあったようで、館内放送で呼び出されてまたフランス語で話しかけられ、日本の地に足をつけるまで1人というものがこんなに怖いと思わなかった。呼び寄せたなら最後まで送り返して欲しかった。恨み言は沢山あるのにもう本人に伝える術がないのが何とももどかしく苦い虚しさが口内に広がる。

「ただいま」

連絡もなしに急に実家を訪れた娘の姿に母はたいそう驚いて「帰ってくるなら一言連絡ぐらい入れなさい」といつものように小言をこぼし玄関を開けた。れんらく、あ、そういえばスマホの名義を変えないと。
一人暮らしに戻りたくとも先立つものがなければ何処にも行けない。前に住んでいたアパートは当然ながら引き払っており、貯金は意識を飛ばしている間に5桁まで減っていた。本当は実家に戻りたくなかった。母親とあまり折り合いが良くないし、糸師くんと縁を切っ たと伝えればきっと私に変わって糸師くんの元に向かう。もしくは封書で『娘とよりを戻してくれ』とかなんとか余計なことを始めるに決まっている。私の母親はそういう人だ。だからホームシックを理由に帰ってきたと嘘をついた。いつまで持つか分からないがバレる前に仕事を探して実家を出れば問題ないだろう。

有名人と付き合うというのは捨てられた後も強く跡を引くようで、夕時のスポーツ枠になるとどのニュース番組を回しても嫌でも顔を合わせることになる。1人の暮らしを取り戻してパフォーマンスが元に戻ったのか、フランス対イギリスの試合は同点引き分けだそうだ。引き分けは負けじゃないんだし少しは喜べばいいのにカメラにすっぱ抜かれたあの人は悔しそうな顔を浮かべていた。勝ちにこだわる人の気持ちはわからない。こういう所が相性が悪いひとつの要因だったのだろう。

「あら、アンタの彼氏さん映ってるわよ。あら、間違えた。旦那様だっけ?」

こういう茶化しが1番嫌いだ。親であれ嫌悪感の度合いは他人と変わらない。
サッカーも料理も恋人ごっこも全部時間の無駄だった。二度と貴方の顔なんて見たくありません。母の手元に置かれたリモコンに手を伸ばし4番のボタンを押す。世界で起こったおバカ映像バラエティ番組の面白さは今の私にはちっとも響かなかったが、もう何もかもが馬鹿馬鹿しくて声を上げて笑う私を母は怪訝な顔でテレビの主導権を譲った。

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