36.5度。平熱。頭痛も咳も目眩も薬と睡眠のお陰ですっかり治った。喉の痛みも蜂蜜効果でバッチリだ。
気温2桁を下回る早朝。実家に別れを告げ母と共に舗装が悪い道をガラガラとキャリーケースを引いて歩く。雨が降りしきる公園で子供じみた癇癪を上げ糸師凛と口論し、風邪をひき完治するまでの4日間、頭痛に悩まされながらもこの先の人生を回らない頭で真剣に考えた。
暴君と喧嘩している間にも再認識したが、これ以上誰かに振り回されて生きる人生はもう嫌だ。この人生論は変わらないし変える気もない。もしこの軸がブレれば今度こそ私はただのお人形だ。
実家を出て仕事見つけお金稼ぎながら適当に暮らすつもりだった。だが良い仕事先が見つかりそうな気配はなく、フランスからわざわざ帰国したアスリートからは戻ってこなければ殺すぞと脅されているため当初の計画を実行に移すには何かとハードルは高く、自力で頑張ったところで結局この先も鬱々とした他人が整備した人生を歩むことになる予感がした。だから私は色々と考えた結果、糸師くんの元に戻ることにした。尽くすためではない。私が幸せを掴むための踏み台として今度は彼を私が利用するために。
だいぶ早く家を出てしまったらしくバスを待つ人は誰一人としていなかった。すぐ目の前のコンビニで珈琲を買い空港行きリムジンバスの乗車待機列の先頭に母と並んで待つ。バスが来るまでの17分間。見送りなんていらないと前日まで渋った娘の言葉を無視してここまで着いてきた母はどんな気持ちで私に話しかけていたのだろう。薄情な娘と思われても構わないからコンビニあたりで別れの挨拶をしてさっさと家に帰って欲しかった。私は母親との会話が心の底から苦手だった。『愛情』なんて綺麗な言葉で隠した『猛毒』を愛と呼べるほど狂った大人になりたくはないのだ。

「本当に今日行くの?日程ずらしてもいいんじゃない?だって向こうの冬はこっちより寒いんでしょう?雪降るって聞いたよ」
「せっかく貰った航空券無駄にするのは悪いし、雪くらい日本でも降るよ」
「でもぉ」
「リムジンバスもう行くね。向こう着いたらまた連絡する」

一分一秒でも早く母親と離れたかった。親不孝者と縁を切られる事を心のどこかで願った故の本心なのかもしれない。
じゃあねと手を挙げそそくさと係の人にキャリーケースを預ける淡白な態度に母は私の名前を大声で呼んだ。バスのステップの上で振り返る私へ母は少し寂しそうな顔をして言った。

「くれぐれも凛さんに迷惑かけたらダメよ。有名人は特に色んな誘惑が多いだろうし、嫌なことがあってもグッと我慢して許してあげることが夫婦が長続きする秘訣よ。って、私が言わなくても大丈夫か。名前はお母さんの自慢の娘なんだから、向こうで元気にやるのよ」

海の向こう側に移住する娘の身を心から案じているのか、それとも娘越しに金と名声を背負った鴨を逃がすなと釘を刺したのか。ポケットに入れたままだった実家の鍵を母親に投げる。どうか貴女が親心を捨ててないことを祈ります。

「…うん。じゃあ、元気で」

パスポートを握りしめ故郷の景色にサヨナラを告げる。小腹飯に買った地元産の具入りおにぎりは米は冷えて固いし海苔はベチョベチョで、値段の割に具はそれほど詰まってなかった。けれど今まで食べたどのおにぎりよりも『美味しい』が詰まった味がした。

***

『到着ロビーのsim自販機の横』

入国検査を通過し自分の荷物がベルトコンベアで運ばれてくるまでの間に彼から1つ通知が入っていた。何処かで見たことがある文面に『今預け荷物待ってるところだよ』と返信し、回ってきた自分のキャリーケースを受け取った。到着ロビーを抜けゴロゴロとキャリーケースを引いてsim自販機が視界に入る3連ベンチに腰掛けた。移動時間が長く下ろしっぱなしの両足が少し痛い。けど歩けないほどでは無い。
スマホのパスコードを入れ通知を確認するが糸師くんから連絡は無い。スマホから顔を上げ自販機に目をやると背の高い不審人物は見当たらず、チョコレートバーを頬張る男性が1人スマホをあたっている。最後に会った時はスリムだったのにたった4日見ないうちになんとまぁ貫禄のある体型に増量し髭も生やして。面舵いっぱいの路線変更に全国の糸師くんファンが泣くだろうなぁ…と前と同じくだりを繰り返したところで、しれっと真横に座っていた待ち人のスマホに向け可愛いスタンプを張りつけた。

「お久しぶり、です」
「4日前にあったばかりだろ」
「それは、そうだけど」
「呆けてんじゃねぇ。行くぞ」

黒いキャップ帽子で顔を隠し現れた糸師くんは組んだ長い足を解くと流れるように私のキャリーケースを引いて駐車場に向かい歩き出す。前の私はここで数メートル先を歩く彼に置いていかれそうになって焦って早歩きでついて行こうとしてた。
彼に続いてベンチから腰を上げる。どうせ早歩きしでも肩を並べて歩けないだろう。フランスのお土産でも眺めながらゆっくり歩こうと糸師くんから視線を逸らした途端額に硬いものがぶつかり、それが糸師くんの背中だと認識すると同時に差し出された手に私は目を丸くした。

「ん」
「え」
「はやくしろ…嫌ならいい」

この人は本当に糸師凛なのか。置いていかれる前提で物事を考える私の頭を差し出された掌が大きく揺さぶる。
顔色を伺いながらおずおずと手を重ねると少し強く握られる。相変わらず目つきは悪いが手は湯たんぽみたいに温かい。もしかして私まだ熱があるのかもしれない。だってこんなにも私に都合がいい優しさをくれる。少しゆっくりとした歩調で手を繋いで空港内を歩く。いつも前を歩いていた人が隣にいる。なんだかすごくむず痒い。

車窓から眺める見覚えのある景色はタクシーから眺めた景色よりも鮮明に色づき、車を降りて見覚えのあるマンションを見上げるともう戻ってくることはないと、目に焼き付けた景色を前に懐かしさを呼び寄せてなんだか夢を見てるみたいだ。
エレベーターを降り彼の部屋の前で立ち止まる。扉の前、いつかの私がポストに投函した鍵を受け取り家主に促されるまま鍵穴に差し込む。90度右に回し、カチャンっと解除したドアノブを下げ恐る恐る敷居を跨ぐ。この部屋は相変わらず懐かしい香りがする。不本意だが実家より落ち着く。

「お、お邪魔します」
「ただいま、だろ」

上から目線な言い方がかなり癪に障る。けれど彼が『ただいま』が正しい台詞だと台本を訂正したので、言われた通り台詞を読み上げる。

「…た、ただいま。です」
「ん」

靴を脱ぎ家主に続いて室内へお邪魔する。毎日部屋中を行ったり来たりしていたのでどの扉がどこに繋がっているか知っているはずなのに、両足は見知らぬ室内を歩くように慎重にフローリングを踏む。
リビングダイニングに入ると彼は握ったままのキャリーケースを私に返し、部屋に運んでこいととある一室に向けクイッと親指を指した。そこは数週間前まで私が使っていた部屋で立ち入ることを拒むように施錠されていた。私物は殆ど持って帰るか捨てるかで借りた時同様殺風景な部屋に片付けたはずだ。鍵を開け中に入ると覚えのある殺風景な部屋の端で見覚えのあるぬいぐるみが置かれていたことに私は驚きのあまり言葉を失った。だってどう見ても場所をとる大きなぬいぐるみを彼が捨てずに取っておいたなんて信じられない。私の事は邪魔になったとあっさり捨てたくせに。
キャリーケースを部屋に置きリビングに戻る。無音の中キッチンに立つ糸師くんはいつか見た光景を再現するようにマグカップを2つ握っている。

「珈琲でいいか」
「あ、ありがとう」

彼が入れてくれるのか。キッチンに消えた凛が戻る合間名前はソファに座り部屋の様子をぐるりと見回す。物の配置に変化はなく、そこそこ清潔が保たれている。連日大きな試合に出場し家事に手が回っていたとは思えないくらいだ。ハウスキーパー…を雇う人には見えないし、おそらく私が帰る日に合わせ部屋を掃除したのだろう。他人のために慌てて掃除する糸師くん。唯我独尊クズ男が他人のために休日を費やして動く姿は想像できないが彼なりに頑張ったのだろう。

「ん」
「ありがとう」

珈琲を注いだ私用のマグカップを見て察した。この人意外とものを捨てられないタイプなのかも、と。
珈琲をちびちびと飲みながら対面に座る糸師くんへチラッと視線を向ける。4日ぶりの再会とはいえ雨の日に言いたいことを包み隠さずぶつけてしまった事もあり、気恥ずかしさもあって視線を合わせずらい。だがいつまでも避けて暮らせはしないと高を括り、名前はマグカップをローテーブルに置き背筋を伸ばす。

「えーっと、まずはその、これからの生活について話し合いませんか」

雨に降られたあの日。糸師くんの頑固さに根負けしもう一度だけやり直してもいいと口約束してしまったが、やはり最低限お互いの条件付けは必要だ。
これから生活するにあたって改めてルールを決めましょうと提案をもちかける名前に、凛は名前の提案を一度突っぱね、懐から取り出した4つ折りの薄いA3用紙を広げボールペンを横に添えた。

「書け。話はそれからだ」

シワを広げテーブルを滑るように突き出されたA3用紙に名前は目を丸くする。空欄が目立つ半分の用紙にさっさと記載しろと視線で圧をかける凛に名前は膝に手を置いたまま瞬きを繰り返す。

「…これ、婚約届ですよね」
「他に何に見えるんだよ」
「考えが極端過ぎませんか」
「お前が責任取れって言ったんだろ。だから約束通り責任取るんだよ」

確かに言いましたけども。やることが極端すぎるというか。
気恥しそうにそっぽを向く凛に名前は口を引き攣らせる。これが恋人同士なら涙を流してボールペンを握っているだろうけど恋人にも満たない私達にはだいぶ早すぎる。飛び級もいいところだ。

「…と、とりあえず一旦保留で」

ボールペンに触れず結婚届を突き返す。その直後糸師くんのこめかみの青筋がプッツンした。

「はあ!?っざけんな。今のは頷くとこだろ!?責任とれって迫ったくせに今更やっぱ保留でなんてぬりぃこと言ってんじゃねぇよ!!」
「お、横暴すぎて無理」
「あ゛ぁっ!?」
「威圧感で押し通そうとするのも無理!」

嗚呼、これよくドラマで見る大喧嘩1歩前の言い争いだ。
両耳を塞ぎソファの端に縮こまる。両親の喧嘩を見て育ってきた名前にとって喧嘩は天変地異にも等しく、この緊迫感ある場の雰囲気にはとてもじゃないが耐えられない。勢いあまって『実家に帰ります』と不意に出そうになった言葉を慌てて口を塞いで抑える。しかし「実家」とまではっきり発してしまったがために名前は冷や汗を流して凛の様子を伺い、凛も口をつぐみバツが悪そうな顔をした。
今のは私が悪かった。
名前は元の位置へ座り直し結婚届と再度向き合う。そしてボールペンを握り記載事項を一読すると『婚約届』の文字を2重線で消し『恋人届』と書き換え、納得した顔で空欄部分を順に埋めた。

「結婚の前に、まずは恋人から始めませんか?お互いのことをよく知らないと結婚しても上手くいかないと思うんです。貴方の言った通り、私は自分にも他人にもあまり興味ないんです。これまで色々と諦めて生きてきたもので。多分人間関係もどこかのタイミングで諦めちゃったんだと思います。でも、糸師くんと出会って捨てられて、拾われて、これまでの私じゃダメだって気づいたんです。恋とかまだよく分からないけど、これからひとつずつ君のことを知って好きになりたい。良い所も悪い所も。それで君にも知って欲しい。私の良い所と悪い所。折り合いがつかなかったらちゃんと喧嘩してその日のうちに仲直りしたり、そういう基礎的なことをちゃんと学んで、それからでも結婚を考えるのは遅くないと思うんです。あ、安心してください!仮に糸師くんがどうしようもない過ちを犯した時はグーじゃなくてパーで叩くので」
「どこを安心すんだよ」
「それと、また私を捨てたくなったら…慰謝料一千万で手を打ってあげます。自己都合で捨てた女を自己都合で拾ったんです。今度は高くつきますよ」

書ける欄は全て埋め糸師君に返す。役所に提出したところで受理されないただの落書き用紙となってしまったそれを彼は二つに折ると憑き物が落ちた顔を鼻で笑った。

「はっ、おまえはそれっぽっちの女でいいのかよ」
「え…もしかして、安い?」
「さぁな」
「え、何その曖昧な回答。じゃあ…2?」
「1も2も大して変わんねぇだろ」
「え、うそ。怖っ、もしかしなくとも富豪?」
「富豪じゃねぇ」

サッカー選手って想像以上にお金持ちらしい。海外で自宅を持ってるあたり普通では無いと思っていたが一千万をそれっぽっち発言はちょっと庶民には理解できない金銭感覚だ。そういえば口座に振り込まれた額も馬鹿みたいに丸が多かった。本当にThe庶民な私を恋人に選ぶ気なのか。それでいいのか!?
糸師君の考えは読めない。が、形ばかりを優先し後回しにして価値観や金銭感覚、趣味嗜好の諸々をこれから時間をかけて私達は擦り合わせていくのだろう。

「じゃあ改めて、よろしくお願いします」
「おう」

横暴だけど悪い人じゃないと思う。
少なくとも今の私は、あの日、自分の命を捨ててまで彼を突き飛ばした決断に後悔はない。

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