ジュース一本買うお金すらなかった。
今日も実りのなさそうな面接会場を後にし、近くのベンチでスニーカーに履き替える。踵に何枚も重ねて貼った絆創膏が半分剥げてズレていた。ストッキング越しに位置をずらしてその上から靴下を履くが皮がズレているようで気持ち悪いし土踏まずの筋が無理やり引き伸ばされようにピンッと張って痛い。
最寄り駅はない。家の近くまで線路が伸びていれば歩かなくて済むのに。この浮腫んだ足で自宅までの長い道のりをこれから歩いていくのかと思うと気は滅入るし、鉄球のような足を引き摺る時間がとても苦痛で仕方がない。
今日の面接会場から自宅までは歩いて27分ほど。夏の暑さは少しずつ引いてはいるが、乾燥した空気の中では数分歩いただけで喉が渇いた。鞄から水筒を取り出し飲み口をひねる。しかし傾けた水筒からは水が一滴も落ちず、たった500mlしか入らない水筒を恨んだ。思えば最終面接の緊張感から朝ごはんが喉を通らず行きに水筒の半分を飲み干して空腹をしのぎ、面接直前にも異様な程の喉の乾きを満たすため全て飲み干してしまっていたことをすっかり忘れていた。
喉が渇いたまま家に帰ろうか。いや、たまには少しだけ贅沢してもいいよね。私頑張ってるし。
名前はちょうど前方に備え付けられた2台の自販機で足を止めラインナップを眺めた。やや増加気味の体重を思えばここはお茶か水の2択。でも就活頑張ってるし、ご褒美と思うと今日くらいは好きな物を選んでもバチは当たらないはず。自販機2台分をラインナップを一通り目を通し、いつも気になっていながらも手を出さなかったナタデココ入りのヨーグルトジュースに狙いを定め財布を開く。しかし78円しか入ってない財布の中身に名前は天を仰いだ。
そうだった。一昨日の面接会場の交通費で財布がすっからかんになったんだった。学生時代はアルバイトしていたから気づかなかったが就活は地味に出費が痛い。特に交通費とか小腹がすいた時の食費とか、細々とした雑費諸々が地味に痛手だ。
仕方なく自販機を諦めatmを求めて少し歩いた先のコンビニに立ち寄る。正確な預金残高は覚えていないがジュース1本くらいは難なく買えるはずだと名前は久しぶりにキャッシュカードを差し込みパスワードを打った。そして想定外の0の桁数が表示された預金残高に唖然とした。身に覚えのない大金だ。少なくともこんな額を貯金した覚えはない。そういえば数日前に役所が振込間違いを起こして大問題に発展したとニュースで報道されていた。まさか私が巻き込まれた?
一銭でも手をつけたら社会的に殺されるヤツかもしれないと繊細な危機感が反応し、即座に取引を中断しコンビニから脱兎のごとく離れる。結局所持金78円のまま喉の乾きは満たせなかった。
「疲れた」
時刻は16:25。ズタボロの踵を引きずりながら近くも遠くもない道を歩き、いつもの寂れた公園で、いつもの錆れたブランコに腰かけ、くたびれたスーツの上着を膝に置いた鞄の上に乗せた。家は200メートル先にある。直ぐに家に帰って自分のベッドへ倒れ込みたいけれどこの時間帯はまだ母が家にいる。この姿で鉢合わせなんてしたら就活がバレ芋蔓式に彼と破局した事も知られてしまう。この際私の就活状況はバレでいい。だが破局は何としてもまだ隠し通しておきたい。彼には充分過ぎるほどに迷惑をかけてしまっているので縁が切れた後も足を引っ張る愚か者になることだけは避けたい。
ブランコに座った途端に疲れと共に緊張感も肩から滑り落ち、深く息を吐いた直後、あ、そうかと先程の謎の大金の出処に検討がついた。お前は不要だ宣言をされた際に糸師凛のプライベートをマスコミに流さぬよう彼が私の信頼を買ったんだった。
長くいい思いをさせてもらった恩返しとして彼の私生活事情は頼まれずとも墓まで持っていくというのに、金額の高低に関わらず『口止め料』として払われた事で彼にとっての私はお金で機嫌を取る必要のある人間で、3ヶ月弱彼と過した日々も生まれた感情すらも全てがハリボテだった事を思い知らされた気分だ。
喉が渇いて口の中が粘ついている。でもまだ家には帰れない。口座には糸師凛の口止め料が振り込まれており、元の残高が分からないため下手に手を出すことが出来ない。口止め料を少し拝借する?いいや、金を払わなければ信用ならない人物だと思われていたことが癪だ。絶対に手をつけてやるもんか。
財布には78円を残し、ポイントカードとキャッシュカードのみ。ジュース1本買えずにしょぼくれてたのは小学生以来だ。中学生になると流石にジュース一本買う余裕はあった…100円もくだらない小さな缶ジュースだったけど。
お金が欲しい。誰にも文句をつけられない自分だけのお金。働き口を探して母の目を盗みいそいそと就活を始めてみたが2週間がすぎても全く手応えを感じず、履歴書に存在する謎の空白期間とたまに自由が効かなくなる両足に雇い主達は皆渋い顔をしてお祈りメールを送り付けてくる。まるで欠陥品はこの世に不要だと自分の存在を否定されているような気分で何もかもが嫌になる。真っ黒なスーツも、履き心地の悪いパンプスも、毎日必死になって自分の良い所を捻り出し思っても無い言葉を並べるセルフプロデュースも。鏡に映る顔色の悪い女は社会のピースにハマれず居心地が悪そうだ。どうかその女が自分じゃありませんようにと祈っても、提出した履歴書の顔写真は鏡に映る女が引きつった笑みを浮かべているものだから死にたくなる。
こんな筈じゃなかった。
私の人生はもっと輝いていて絵に描いたお手本のような人生だったはずだ。平均並みの収入を稼いで、心打つ風景を沢山目に焼き付けて、いずれは家庭を持って慎ましく余生を過ごすはずだった。これはなんだ。何一つ思いどおりになってない。仕事と母親にメンタルを折られ、いそいそと人生の幕を下ろす準備をしていた矢先にちょっとした人助けをきっかけに人生も情緒も弄ばれて、少しは良い方向に進んでいると調子に乗った途端に邪魔になったから要らないと捨てられてゴミ箱の中で足掻いてる。足掻いたところで焼却炉行きからは逃れられないのに、まだ這い上がろうともがく自分の姿が滑稽で惨めだ。この道の先には希望がない。今更足掻いたところで一発逆転に転じるイベントは起こらないし、理想は理想のまま儚く散っていくだけだ。
立てた踵を傾けてブランコを軽く前後に揺らす。『ブランコを漕いで遠くまで飛べた人が勝ちね!』と危険を顧みず前に向かってピョンっと飛んでいた頃の自分はどこに行ってしまったのだろう。履いている靴はあの頃とさほど変わらないはずなのに、今の私には立ち漕ぎする勇気すらでない。大人になれば今よりもっと楽しくて自由になれると思った。けれど実際はあの頃よりも重い荷物を沢山背負って、ブランコから飛び降りることもできなくなった。
お気に入りの鞄にお菓子とゲーム機と家の鍵を突っ込んで空を目指してブランコを漕いでいた昔の私。膝に乗せたリクルートバックにスマホとお財布とクシャクシャになった面接先のパンフレットを詰め込んだ姿を見たらあの子はなんて言うだろう。
嫌だなぁ。この人生に希望はどこにも無い。
足に張り付く自分の影の薄さを眺めているとボタボタと涙が降り始めた。何故泣いているんだろう。感情のラベル付けをする前の真っ白な涙を名前は掌で受け止める。
どうしよう。この涙の止め方を私は知らない。悲しければ楽しい事を。辛ければ楽な事を。反対のことを思い浮かべれば涙なんて止まるのに、ラベル付けされてない涙はどう処理すればいいか前例がないため手の付けようがない。
良い歳して公園で泣くなんてみっともない。止まれ。楽しいことも幸せなことも何を想像しても止まる気配がない涙に名前は涙が止まるボタンを探し両足を叩く。感情でどうにもならないならば痛みに訴えるしか方法が思いつかなかった。そもそもこの足さえちゃんと動けば新しい仕事先なんて向こうから山のようにやってくるはずだ。支えの要らない足さえあれば。突然電源が落ちない足さえあれば!
…いや、少し違うな。
あの日、夜を照らす鮮烈な光の先へもう一歩踏み出していれば、糸師凛に感情ごと人生を狂わされることもなかった。
あの日、もう少しだけ前に飛び出していれば。
「おい」
この地区の住人はほとんどが年配者で子供なんて数える程しかいないしこんな寂れた公園で時間を潰す物好きは私くらいしかいない。一通りの少ない寂れた公園のブランコで背を丸め俯く就活敗北者にわざわざ声をかけるなんて頭どうかしてる。その上あの人によく似た声が頭上から降ってきて未練がましい自分を平手打ちしたくなる。誰が声をかけようが涙に濡れたみっともない顔を見せたくなくて化粧ごと涙を袖で拭いナンパ者を追い払う言葉を考える。遊ぶなら繁華街へどうぞ、なんて安っぽい言葉を握りしめ片袖を汚した惨めな女は口元を引締め顔を上げる。そしてた自分を覆う大きな影の正体に驚嘆し乾いた笑いが零れた。最悪だ。どうやら私は悪い夢でも見ているようだ。テレビ越しで一方的に視線を送ることしか出来ない有名人が目の前にいる。今ってヨーロッパで大きな大会の真っ最中なんでしょう?なんで貴方が日本にいるの。
「そのへんにしとけ。痣になってる」
無駄に長い足を折り曲げ、膝丈スカートのすぐ真下から浮き出る青紫色の痣を心配するその人は突如異国の住まいから追い出した人物とは思えない献身ぶりを見せる。頭でも打ったのだろうか。それとも女神の池に落ちたとか。縁を切った赤の他人の愚行を心配するなんて傍若無人な君らしくない。
特徴的な下まつげは深く被った帽子の影で隠し、鍛えた体のラインをダボッとした服装で誤魔化している。普段の彼なら選ばない系統の格好だ。それに夕暮れ時のニュースから彼が私用でこっそり日本に戻って来たことはしっていたのに、彼が意図的に再会を望んでここに来たことを私はちっとも嬉しいなんて思わなかった。むしろ…絶望していた。こんな姿をこの人に見せたくなんてなかった。あなたなしでも生きられると気丈に振る舞いたかった。
「なん、…日本に帰ってきてたんですね。空港から遠い片田舎でばったり再会するなんてお互い災難ですね。それとも、まさか会いに来てくれたとか?…なんてね」
どうしてあらゆる方面で絶賛傷心中に空気も読まず現れたのだろう。捨てられた後の姿を笑いに来たとか?それとも大金を振り込んでもなお私のことが信用できず彼の私生活を口外してないか釘を刺しに来た?
自分しか信じられないなら最初から他人の人生に割り込んでくんな。仏頂面の勝ち組には分からないでしょうが、負け犬にも負け犬の誇りがある。せめて笑顔だけは絶やさぬように強気でいようと必死に笑顔を取り繕っていることをこの人は知らないのだろう。無理に笑顔を取り繕うことがどれほど気力を持っていかれることも。
ブランコを繋ぐ鎖から手を離しカバンを握り締める。この場を離れたがっている気持ちを察した彼は俯いた顔を覗き込むように顔を近づける。
「お前がいないとダメだった。戻ってこい」
戻ってこい?
ははっ、勘弁してよ。
聞き間違いかと疑いたくなる馬鹿馬鹿しい命令に乾いた笑いが漏れた。
「…冗談ですよね」
「冗談言うためにわざわざクソ田舎まで来ねぇよ」
クソ田舎って。
こういう所が私達合わないんだろうね。
「そう、でしたか。御足労おかけして申し訳ありませんが、彼女役をお探しでしたら他を当たって下さい。日本が誇るサッカー選手なら私の代わりなんて腐るほどいるでしょう?」
捨てたくせに。急に掌をひっくりかえしてやっぱり必要だったって何様のつもりなんだ。雑用係が欲しいなら家政婦を雇えばいい。女が欲しいなら適当に引っかければ済む話だ。なんでよりにもよって私を再指名するんだ。信頼を金で買取ったくせに。
お願いする立場のくせに自分の頼みは叶うと信じて疑わない王様のような目が気に入らない。選ぶ側の人間は選ばれる側の気持ちなんて考えたこともないのだろう。選ばれるためにいつも必死で、選ばれた後も捨てられないようにと媚びへつらって、常に他人中心に回る不条理な立場の苦労を彼は知ろうともしない。だからこんな馬鹿げた話を持ってきたのだろう。
嗚呼、嫌いだ。1発殴ってやりたい。
「追い出して悪かった。反省してる」
謝罪なんていらない。謝るくらいなら私の前に現れないで欲しかった。ようやく貴方に向ける感情の矢印が消えて赤の他人に戻りかけていたのに、嫉妬と殺意の矢印が糸師凛に刺さってしまいそう。
「謝罪も反省も必要ありません。だって糸師くんが言ったんじゃないですか。お互い一人でいる方が気楽だって。貴方に言われて確かにそうだなぁって納得したんです。だって君と離れても私には何の喪失感となかったんです。寂しいなんて気持ちは微塵もなかった。サッカー馬鹿の為に教えてあげますよ。貴方が私を必要だと勘違いしてしまったのはカバンにつけたキーホルダーを無くした時と同じなんです。たいして大切でもないのにいつもあったものが無くなって、その無くなった喪失感を埋めようとしているだけなんです。糸師くんには名誉もお金も人脈もある。失ったら別のもので代用すればいいんです。無くした物と同じような新しいものを買えばいいんですよ。誰だって落し物として拾われた傷だらけのものよりも傷一つない新しい物の方が嬉しいでしょ?」
「お前それ本気で言ってんのか?」
「本気ですよ。この空気で冗談言えるほど馬鹿じゃないです」
もういいよ。
どんなに我慢しても歩み寄っても結局私は誰とも分かり合えない。社会も、友達も、母親も、勿論貴方とも。誰かの為を思う度に自分の身が削れていく。期待に応えようと藻掻く度に期待に押しつぶされ沈んでいく。意地になって浮上しても水面から眺める空は常に曇天で、落ち着いて足を伸ばせば実は沈むほどの高さではなかった。私の人生はそんなことの繰り返し。努力も期待も貢献も、割いた時間の分だけ痛いしっぺ返しが返ってくる。そのくせ手を抜いた途端に千載一遇のチャンスが通り過ぎていく。思うに私の人生は案外単純で、歩くうちにあれよこれよと律儀に全てを拾って抱えてしまうから小さな小石にいつも足を取られてしまうのだと思う。割に合わない人生を少しでも巻き返し小さな幸せを抱いて適当に行きたい。だから私は決めた。不必要なものを全て捨てることを。全部。全部だ。地元も。母も。人間関係さえも。就活さえ上手く行けば全て捨てるつもりだ。だって重たいんだもの。この足じゃ何も持って運べない。だから例外なく全て捨てる。勿論、糸師くん。君も要らない。
ブランコから腰を上げ糸師くんの真横を通り過ぎようとしたら腕を掴まれた。片腕で掴めたことに糸師くんは分かりやすく驚いていた。私も驚いた。まさか自分の腕がおさまるほど彼の手が大きいなんて思ってもみなかった。少し同じ時をすごしたのに彼の手の大きさも知らない。私の他人への興味なんてこんなもんだ。誰かと共存して何年も一緒に暮らすなんてできっこない。
「何処に行く気だ」
「自分の家に帰るんです。そろそろ帰らないと母に隠れて就活してることバレるので。糸師くんもそろそろ帰った方がいいですよ。ここ、夜になるとすごく暗いので」
ここらに住む人しか知らない寂れた公園は勿論街頭なんて気の利いたものは無い。それに彼がここに来たってことは恐らくアポなしで実家を訪れ母親から私の居場所を聞いてきたのだろう。まったく余計なことを。余計なことを母に吹き込んでいなければいいが。老い先長くないというのにあまり期待させるようなことを言ったら母が可哀想だ。
掴まれた手を強く振り払い実家のある方向に向かって歩く。着いてこられたらどうしようかと内心ハラハラしていたが、糸師くんは公園の中で去っていく背中に期待を込めた呪いの言葉を刺した。
「ちょっとでも戻ってくる気があるなら明日の3時にここに来い。…待ってる」
待ってる。待たれてもなぁ。
「明日は雨が降るそうですよ。スポーツ選手って体が資本って言いますし、雨に打たれて風邪をひかないようにしてくださいね。じゃあ、さようなら」
二度と彼と再会しませんように。
背中に刺さる視線を無視して彼を公園に置き去りにする。すると公園の入口を通り抜けると同時に背後から脅迫状を叩きつけられる。
「来ねぇならお前ん家に押しかけて無理やり連れて帰る。逃げられると思うなよ」
自分勝手な人だ。やれるもんならやってみろ。その時は遠慮無く警察を呼んでやる。
何をそんなにムキになって私を必要とするのだろうか。代わりなんていくらでもいるし、代わりどころか彼のスペックをもってすれば上位互換を選び放題というのに、私には彼の思考がちっとも理解できない。
顔と金と名声だけの暴君と三ヶ月ちょっと一緒に暮らし、居心地の良さを感じていた自分がいたなんて今となってはとても信じられない。時たまに見せる彼の人間性が…いや、違うな。無意識のうちに彼のお金に惹かれて脳が誤作動を起こしていた。そう理由づけて割り切ることにした。可哀想なんて思わない。どうせ3日後にはケロッとした顔で私の代わりと仲良くやっているに決まっているからだ。
選ぶ側の人間はいつもそうだ。
選ばれる側の不安など知ろうともしない。