序章

 「伊吹いぶきおきな

 見舞いに来たのにも関わらず長居をしてはかえって体に障る、と腰を上げようとした時のことだった。
 幼子の小さく掠れた声が己を呼んだ。本名ではなく、この幼子だけが呼ぶ名である。

 「もう、帰るのか」

 顔色の悪い幼子が寝具に横たわったまま此方を見上げている。その眼差しがどこか縋るような色を滲ませて、どうにも憐れを誘う。
 ちらりとあるものを確認する。
 幼子の体から発光するように立ち上っている白い靄は、ここに来た時よりも確かに薄くなっていた。

 「翁」
 「…もう眠った方がよい」
 「眠くない」
 「だが、生気が薄い」
 「大丈夫だ」
 「われに穢れを背負わせるつもりか」
 「またそれか。私といえど、もう暫し話した所で死んだりせぬ」

 くいっと着物を引っ張られ、腰を落とすように求められる。
 どうするべきか、と考えていると幼子がくすりと笑った。

 「翁は神であらせられるのに、優しいな。ただの人の子の言葉に斯様なまでに悩んでくれる」
 「……優しい?」
 「眉間に皺が寄っておる。私の体のためを思うか、私の我儘を叶えるか、迷ってくれている。それが嬉しい」

 無垢な笑みを浮かべた幼子は繰り返す。

 「伊吹の翁がもう暫しここにいてくれたら、私はもっと嬉しい」

 着物を引っ張る幼子の力がぎゅっと強くなる。幼子の精一杯の強請りに、ついに負けた。
 上げかけていた腰を戻し、ならばせめて、と横たわった幼子の腹に掛布の上から手を置く。
 置いた手のひらに意識を集中させ、幼子に分け与えるために気を集めていく。集まるにつれて、手のひらがじんわりと熱くなっていく。
 腹にあたるその温もりが心地良いのか、幼子はほう、と息を吐いた。

 「翁の手は温かいな」
 「気を送りこんでいるゆえ」
 「それもあるのだろうが」

 私はいつも思うのだ。
 一拍の間を空けて、幼子はうとうとと呟いた。

 「翁は人にあらず。であるのに、人のようだ、と」

 手に向けていた顔を上げる。
 見えた幼子は今にも眠ってしまいそうだった。それでも、幼子は目を瞑ったまま話し続ける。

 「幽鬼は酷く冷たいのだと前に陰陽の者が言っていた。そして、翁は神だが鬼、だ。鬼とは幽鬼だ。ならば何故、翁の手は温かいのか。まるで人のように血が通っている。私はそれが不思議でならない」

 なあ、翁。何故だ。

 その声に恐れはなかった。畏れはあれど、恐れはなかった。それどころか、どこか期待するような色さえあった。

 その時、己にはその色が幼子のどういった想いを指し示しているのか分からなかったが、分かったところでどうしようもできなかっただろう。

 「坊」

 気の循環を続けたまま幼子の名を呼ぶ。

 「はい」
 「吾は鬼ではない。鬼となるほどの穢れを身に受けておらぬ。出鱈目を申すな」
 「けれど、翁の額には角が生えているではないか」
 「生まれ落ちた時より、この身には角がある。吾は穢れを食らう神の体から生まれた。故に角がある」
 「翁を生んだ神は穢れ神なのか」
 「否。穢れを食らうたとて神は穢れぬ。穢れを食らい、人の罪を腹にため込み、穢れに全身を覆われたとて、それでもなお穢れぬ。この角はその身にため込まれた穢れが零れ落ち、痕を残したもの。鬼の角の生まれ方と同じではあるが、この身が穢れておらぬ以上、吾は鬼ではない」
 「…よく分からんが、その角は赤子の体に現れる痣と同じようなものということか」
 「近いものだ」
 「では、鬼神でないのなら翁は何の神なのだ」

 どうにも納得しきれない幼子が胡乱気に隣に座る美丈夫を見上げる。

 そういえば、神であることは伝えていたが、何の神であるかは教えていなかったか。
 得心し、じっと此方を窺う幼子に向かって口を開いた。

 「吾はかの伊吹大明神いぶきだいみょうじんたる八岐大蛇ヤマタノオロチの折れた牙より生まれし蛇神、伊吹童子いぶきどうじである」

 術で隠していた左目の横に生えた鱗と赤く染まった瞳を見せながら、ついと神は微笑んだ。





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 伊吹童子は神である。
 生まれた時代は遥か昔、神話の時代である。

 伊吹童子が生まれ落ちて初めて目にしたのは目を回して気絶している親の姿だった。その親が、古事記にも記されている八岐大蛇である。
 気絶をしていた理由というのが、後に天叢雲剣あめのむらくものつるぎと呼ばれるようになる大剣が運悪く頭の上に落ちてきたことが原因であったそうだ。
 天照大御神の持ち物であったそれは、天から落ちてきたこともあって凄まじい威力を発揮した。この時代に隕石という概念はなかったが、それもかくやという勢いだったらしい。
 生きていたことが奇跡とも言える八岐大蛇は、その時自慢の牙が折れてしまった。

 その牙から生まれいでたのが、この伊吹童子であったということだ。

 この時代、神の体の一部から新たな神が生まれることは珍しいことでは無い。最高神たる天照大御神も伊邪那岐が右目を洗った時に生まれたとされるほどである。

 人々に恐れられる化け物である八岐大蛇は、一方で豊穣と健康を司る蛇神としての一面もあった。そのため、こうも簡単に伊吹童子が生まれてしまったのだった。
 神の名を伊吹大明神という八岐大蛇から譲り受け、伊吹童子と名付けられた子は八つ頭の親の元ですくすく育った。

 『吾のあかかがち』

 慈悲のない化け物と呼ばれる八岐大蛇であったが、意外にも我が子には情をかけた。親譲りである赤い目をかがちホオズキにみたて、幾度もあかかがち、と伊吹童子に呼びかけた。

 しかし、あの夜から伊吹童子の世界は変わってしまった。

 『母が欲しいのか?』

 きっかけは、我が子が人里の母子の姿を物欲しそうに見つめていたことに気付いた八岐大蛇が、それまでは供物といえば酒や動物の肉しか求めなかったというのに、初めて人を捧げるように言ったことだった。
 自分の嫁にするために、というよりも、伊吹童子に母というものを与えてやるためだった。母となるなら若く、美しく、賢い女がいいだろうと、里の長の娘を望んだ。

 しかし、事の顛末はそう上手くはいかなかった。

 八岐大蛇の嫁となることを悲しむクシナダヒメを自分の嫁にするため、天上界にて暴れ散らし追放中だったスサノオノミコトが八岐大蛇の前に現れたのだ。
 スサノオノミコトが持ってきたいくつもの桶に満たされた酒を飲み干し、酔って眠ってしまった八岐大蛇は荒くれ物とはいえ武辺に秀でたスサノオノミコトに硬いうろこに覆われた太い首もあっさりと切り落とされてしまったのだ。

 後の世まで語り継がれる八岐大蛇伝説、その夜である。







 ああ。なんということだ。
 酔った父達が次々と頭を地に伏せ、眠っていくのが見えた。供物もまだ全て受け取っていないというのに、あれでは放っておかれたあの男が憐れである。
 今夜の供物はいつもとは違い、特別なものであると言っていたのは他でもないそこで眠りこけている父達であるというのに。
 仕方がない、と父の代わりに供物を受け取ろうと木々の陰から出ようとした時、男が腰に提げていた剣を鞘から抜いた。

 「何を…」

 何をするつもりだ、と言うはずだった言葉は途中で途切れた。
 男が剣を振りかぶり、父の首を一つ切り落とした。

 「あ…ぁ」

 男は迷うことなく次々と残りの首を切り落としていく。
 男の凶行から目を離せないまま、ほんの僅かも体が動かせなかった。男の誇らしげに上がった口角に指先が冷たく、胸が苦しくなった。呼吸が上手くいかず、ひゅっ、ひゅっと音が鳴った。
 親が殺されていく光景に恐怖で凍りついた幼い神が動けるようになったのは、八つあった首が全て切り落とされ、血の海となったそこを男が去ってからだった。

 震える足で血だまりに沈む父の体に触れる。落とされた頭は安らかな寝顔のままだった。冷たい鱗はいつも通りなのに、その下にいつも感じていた血潮の流れる音や動きが感じられない。

 「ああ…ぁ、何故っ、父上…!っちちうえ…!」

 父は、儚くなってしまわれたのだと理解し、目から溢れたものが頬を落ちる。

 しかし、いつまでもそうしてはいられなかった。伊吹童子の遠くまで聞こえる耳は、先ほどの男が人里に辿り着き、父を殺したことを伝える声を拾っていた。
父を殺した男を褒めたたえる声が聞こえ、里の者も片棒を担いでいたのだと気づく。

 許すものか。
 決してこの所業を許すものか。忘れるものか。
この屈辱、未来永劫、忘れることはない。
 許さない。絶対に。

 肩が上下するほどに荒々しくなっていく呼吸に何度も深く息を吸う。鋭く伸びていく爪と牙を己の身に突き立て、その痛みで正気を保つ。抑えようのない怒りを無理矢理抑え込む。

 仇をとりたかろうと、幼く未熟である己では父と同じ道を行くことになると分かっていた。
 あの男は自分の所業を証明するために里の者を引き連れてすぐにここに戻ってくるだろう。

 生きること。それが今、己ができる全てだった。

 流れる涙を拭い、よろめきながら崩れ落ちて地につけていた膝を上げる。

 形見に、と父の鱗を一枚剥がす。
 それを懐に隠し、早く逃げようと足を踏み出した時、足元を這うものに気が付いた。

 「なんだ…」

 それは黒い蛇だった。生まれたばかりのような小ささで、鱗がつやつやと輝いている。蛇はつぶらな目で此方を見上げていた。

 『あにうえ』

 高い、子どものような声がした。思わずひゅっと息を吸った。

 『あにうえ』

 まさか。

 『ちちうえ、しんだ』

 まさか。この蛇は。

 『われ、ちのなかからうまれた』

 流れ出た父の血から、また新たな神が生まれたというのか。

 『あにうえ。われもともに』
 「…あ、にと、共に行きたいのか」
 『ゆく』

 その応えにまた頬に水っぽいものが伝う。
 舌足らずな子どもの声で、己を兄上と呼ぶ小さな黒蛇へ手を差し伸べる。きっとその手は震えていた。
 黒蛇はその手に乗り、しゅるしゅると腕を伝って肩から懐にぽとりと落ちると、安心したようにそこにあった父の鱗を抱き込んで体を丸めた。

 『ちちうえのにおいがする』

 そう言うと、小さな弟は静かになった。眠ってしまったようだった。
 懐を優しく押さえて、父の尾の方へ向かう。
 己が生まれるきっかけになったあの剣が父の尾に隠されている。人間達に奪われてしまう前に己が手にしたかった。

 「あった」

 予想通り、父が死に、剣は尾から出てきていた。地面に落ちていたそれを拾い上げ、父の死骸を振り返る。

 「…父上、ご冥福を」

 応える声はなかったが、伊吹童子は素早く踵を返し、人の声がするのとは真逆の方向へと走った。



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 父を亡くしてから、およそ千年以上生きてきた。小さかった弟はいまや立派な大蛇である。
 この平安の世で伊吹童子は薬師として山で暮らしていた。ある時、とある屋敷の病弱な子息を丈夫にできないか、と知り合いの修験者が打診してきた。伊吹童子が神であることを知ってなお、気安い付き合いをしてくれる珍しい男だった。

 それに応え、辿り着いた屋敷の子息というのが鬼舞辻無惨という幼子だった。

 幼子は本当に体が弱かった。豊穣と健康を司る伊吹大明神の子とはいえ、元の体が弱すぎて手を加えるには不安があった。神の力にも限界があるのである。
 せめても、と己が作った薬を飲ませた。体を丈夫にする程ではないが、薬で人の体に必ずある気の流れを安定させることで病を寄せ付けないようにしたのだ。

 「伊吹の翁」

 初めて出会った幼子は、その場で伊吹童子のことをそう呼んだ。修験者が伊吹童子は長い時を生きた爺様だと説明したかららしい。
 翁と呼ぶには若すぎる見目をしていたが、只者ではないと思わせる老獪な雰囲気が翁と呼ぶに相応しいと思った、というのはその後に聞いた幼子の言だ。
 虚弱な体を持つこと聞いていたため、気も弱いものと勝手に決めつけていたが、なんのことはない。幼子は幼子であるのに、既に世を見下す傲慢さを身につけていた。

 「よく来られたな、翁」

 幼子は聡明だった。そして、自らの体を呪っていた。ただ、弱く、思うままに動かない幼子の体をほんの少し軽くしてくれる伊吹童子には一目置いていた。

 「翁」

 鼻の曲がるような血臭が屋敷を充満していた。
 最初に伊吹童子が山で嗅ぎ取ったのは修験者の血の臭いだった。この幼子のいる屋敷の方角から臭ってくるものだから思わず駆けて来た。そして、ここに来るまでの間にも次々と違う血の臭いが増えていった。

 過去の記憶が蘇るようだった。

 だが、人外である伊吹童子の五感は凄まじく良い。屋敷に入る前には全てを悟ってしまっていた。

 誰が殺され、誰が殺しているのか。
 ただ一人を除いて、屋敷の者が全て殺されてしまったのだということを。

 壁に、床に、天井に、至る所に飛び散り、水溜まりとなった赤いものを踏みつけ、この惨状を引き起こした者の元へ向かった。

 そして、見てしまった。

 屋敷の侍女の腕に齧り付き、肉を貪る無惨の姿を。

 「私は健康になったぞ、翁」

 そう己に血の染まった口で微笑む、鬼の姿を。




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 「あの古物はまだ生きているのか」

 暗い屋敷の上座で、上等な着物を着た美しい男は呟く。
 仄暗い両目の奥には、じっとりとした苛立ちと殺意が渦巻いている。
 長い黒髪を総髪にした男の神。額に二本の角、体の至る所に蛇の鱗があり、赤い目という人にない異形の姿をしていながら、己に従うことのない古い鬼。

 「…翁」

 鬼となり、丈夫になった体に喜んだ無惨の手を振り払った冷たい男。
 この己が敬意を抱くに値すると慕っていた男に拒絶された。去っていく背中に戸惑いが通り過ぎた後には取り残された孤独と憎悪だけが残った。

 「蛇神の味はさぞ美味だろうな」

 いつの日か、あの男の友を鬼にした時にどさくさに紛れて口にした血の味を思う。

 神の血は酷く甘かった。

 「神を食らえば、太陽の光も克服できるだろうか」

 にい、とつり上がった口許はかつて鬼になって初めての食事の後にあの男に笑いかけたものと似ていた。