──壁から見える水槽の中で、優雅に泳ぐ熱帯魚の尾鰭がひらりと揺らいだ。
店の中からどこからでも眺めることができる大きな水槽。壁沿いに端から端まで区切られることなく水が繋がっているそれが、まるで水中にいるかのような錯覚を生む。
それでいて、それに僅かの恐ろしさも感じない理由が木を基調とした内装だろう。冷たい海の中にいると感じさせながら、木の暖かみに囲まれる安心感。水槽から漏れる淡い青い光が店内を薄く照らして、見惚れるような幻想的な雰囲気を醸し出していた。
その中にたった一匹しかいないその子が、わざわざ自分のところまでやってくる。ガラス越しに何かを訴えるかのようにこちらを見つめてきた様子に、餌の時間が迫っていることに気づく。
これが終わったら餌をやるか、と思いながら、目の前のグラスを一つ一つ丁寧に拭きあげていく。
ここは「アクア・バー」。
オーナーの私と、たった一人の従業員が経営する小さいながらも自慢の店である。
水の城
残りあと一つ。
最後のグラスを水槽の中でじっと待っている子に向けて見せる。
「ほら、ティアラ、これで終わりだ。すぐ終わるから、もうちょっと待っててな」
言葉の意味は分からないだろうが何となく伝わったのか、ティアラという名の熱帯魚はこちらから視線を外し、また優雅に泳ぎ出した。
単純なヤツめ。
どことなく上機嫌そうに見える可愛らしい反応ににやけつつ、手の動きを再開する。
「…オーナー」
「ん?」
グラスを拭く手を止めて振り返ると、声をかけてきた壮年の男──この店唯一の従業員であるバーテンダーが私の方を見て眉を顰めていた。
「客の前ではあまり話しかけないようにして下さいね。傍から見ていたら、ただの変な人です」
「相変わらず古いな、エリックは。今時、そんな奴は山ほどいるさ。犬猫に話しかけるのと同じだよ」
「魚は違うでしょう」
「植物にも話しかける人間もいるんだ。おかしくなんかないよ」
理解できん、という顔をしたエリックは首を傾げただけで返事をし、無言で仕込みの作業に戻った。
この店を開店してから一年。開店当初から雇っているこの男は、たまにこういう前時代的な発言をする。バーテンダーとしては優秀だが、価値観が古くなかなか頑固なので客と話すのには向いていない。
その頭の硬さが原因で客を怒らせてしまい、クビになったところを私が拾った、という経緯があるため、その短所に感謝すればよいのやら、とこういうやり取りがある度に思う。
まあ、基本的に理知的で思いやりのある男なので問題はない。
さっきの発言も「そういうのを見て嫌な顔をする人間もいる。そんな人に変なヤツだと言われたら君が傷つくかもしれない。とても心配だから、やめてほしい」という気持ちを彼流に言ったらああなっただけだ。
まだ14歳の子どもである私に「上司だから」と敬語を外さない真面目君でもあるしね。
「ま、ありがとう。一応、気をつけるよ」
「…そうして下さい」
少し緩んだ口元を見つけて、つい音もなく笑う。いい歳してるくせに反応が素直で可愛らしいんだ、この男。
青い光を反射して輝くグラスを確認して、カウンターに置く。
「さあ、ティアラ。ご飯だよー」
「オーナー」
『あーっと!!ここで───が──を破壊して不意をつき、犯人を捕まえましたー!!』
ティアラの餌やりも終わり、開店準備が整った頃、店内に取り付けた液晶テレビから調子の良いレポーターの声が響いてきた。
どうやら、ヒーローの一人が犯人を確保したらしい。
今流しているその番組はHEROTVが提供する、NEXT能力という不思議な能力を発現した人達による犯罪者の捕物劇番組だ。彼らはヒーローと呼ばれ、シュテルンビルト市民で知らぬものはいない。
誰が捕まえたのかな、と何気なく見上げた時だった。
その画面に写る青いタイツのコスチュームの男に、私の目は釘付けになった。
『本日のMVPは──期待の新人ワイルドタイガーだ!!』
『っしゃあ!ワイルドに吼えるぜ!!』
喜ぶその姿に白と緑の近未来的なアーマー・コスチュームを幻視する。忘れていたはずの記憶が、怒涛のように蘇ってきた。
「ワイルド、タイガー」
冷や汗をかいて湿った額に手をやる。冷たい手のひらが気持ち悪い。
「そういや、そんなのあったな…忘れてた」
シュテルンビルト、HEROTV、ワイルドタイガー。その三つが揃ってようやく浮かんできた言葉は『TIGER&BUNNY』。
「……前世の記憶って、頼りになんないなぁ」
私は呆然とそこに立ち尽くした。
突然だが、私には前世の記憶がある。
今世同様、幼い頃に親が離婚し、母ひとり子ひとりで生きていた。母のことが大好きであったことをよく覚えている。
そして、成人後は建築士として名建築とまでは行かずとも数々の作品を残し、老衰して死んだ。
満足して死んだ。
なんの未練も残さずに死んだというのに、不可思議ながら、今世において私は前世の記憶を持って生まれてしまったのだ。
しかし、それが私の人格に酷く影響を与えたわけではなかった。私は私、という意識が強かったからだ。
そう思えること自体、影響を受けた結果じゃないのかと聞かれれば、否定しきれないのが痛いところだが。
精々が精神年齢が高くなったりだとか、理解力が高かったりだとかはある。なにせ、シュテルンビルトの公用語ではないが日本語を扱えるので、複雑な思考が幼い頃からできたのだ。しかし過去の人格がそのまま出てきているとかは無い。
ただ、女手一つで育ててくれてた母がNEXT犯罪者が起こした事件に巻き込まれて亡くなり、ほぼ天涯孤独になってからは遠慮を失った気がしなくもない。
運び込まれた病院で、虫の息なのに何度も私を呼んでいた姿が蘇る。
悲しかったし、辛かった。でも、そういった時でも前世の記憶は私を立ち止まらせずに前へ進ませた。この世の全ては諸行無常なのだと、母の死さえも移りゆくものと受け入れてしまった。
だが、親というストッパーを失った子どもというのはある意味暴走列車のようなものだった。
前を向けたのは良いものの、母のちゃんと勉強するんだよという遺言に従い、悲しみに任せて猛勉強しているうちにちょっと飛び級しちゃったり、その副産物で13歳で中学を卒業しちゃったりした。
さらに、母の夢を叶えて幸せになるんだよという遺言に従い、勢いだけで叔父を頼りにまだぼんやりとした夢でしかなかったバーの経営なんてものを始めちゃったりもした。未成年なのに。
今思えば、はっちゃけるのもいい加減にしろと叱責したい程の暴走っぷりだ。
当然、酒なんて出せないからエリックを雇った。ただ店の設計は手ずからやった。ちょっとお金が浮いて助かった。手に職は強いと改めて思った事柄だった。
なにより、それらの全部を父からの養育費と母の遺産でやらかしてしまったことが最悪だった。
授業料と生活費とリフォーム代やらインテリア費やらその他たくさん。叔父にも少し借金しなければならないぐらい早くに全額無くなった。
草葉の陰で母は呆れていたことだろう。大変申し訳ない。
幸運にも叔父が建築会社を経営していたため、その会社が所有している空き店舗を貸してもらえた。
さらに、経営が軌道に乗って借金を返しきるまでは賃貸料はただでいいと叔父は言ってくれたのである。
そこそこ良い立地条件の場所を貸してくれたため賃貸料が高めで、一ヶ月目から支払いができるほど、流石に収入は見込めなかったからだろう。
最初の頃は、お金を返せない代わりに経営時間外の時に叔父の仕事を手伝ったりした。店の設計の時にあーだこーだと専門用語を出しまくり、内装外装設備その他もろもろディテールに拘りまくった指示をしていたのが目に留まったらしい。
それなりの売上を出し始めてからは、こうして叔父から声がかからない限りはずっとこちらにいることができるようになった。
『犯人確保のために近くの店の壁を壊してましたが……』
『え!?っい、いや!それは犯人をいち早く捕まえるために仕方なくですね……。あー……その、すんません』
昔のことを回想しているとそんな会話が耳に入った。
液晶画面の向こうでは『TIGER&BUNNY』の主人公の鏑木・T・虎徹こと、新人ヒーロー・ワイルドタイガーがどきまぎと応えている。
その時、とあることに思い至り、血の気が引いた。
そういえば、だいぶ昔に見たアニメであんまり記憶に残ってないけど、確か彼は『正義の壊し屋』とか呼ばれてて、物だろうが建物だろうが、人助けのためなら壊すのも厭わないところが由来だったような。
リポーターの呆れ顔に見つめられてしょんぼりと肩を落としている青年を凝視する。
まだこの青年、デビューしたてで舞い上がってしまい、このような派手なことを仕出かしてしまったのだと思われているが、それは違う。
こいつはこれから10年以上、ある意味、個人経営者ひいては社会人の敵になる男なのだ。
「オーナー」
私は決意した。
この世界が『TIGER&BUNNY』の世界で、後に色々な事件がこのシュテルンビルトを襲うのだと分かっていても尚、それを決意した。誰々が犠牲になるから救済しようとかそんなものは一切頭を過ぎらなかった。
「……オーナー?顔色が」
───今後の事件云々よりも、身近な危険から対処せねば。タチの悪い人間からもそうだが、正義感にかられて物理的な破壊の常習犯になるこの壊し屋から、この店を守らねば。責任者たるオーナーとして。
───もし壊されてしまったら、負債が増えて借金が嵩む。補償がきかないやつもあるし保険だけじゃどうにもならない問題だってある。事態は急を要している。
───動かねば。
かなり悲壮感の漂う決意だった。
ワンハンドレット・パワーという建物の壁なんて豆腐のように壊してしまうNEXT能力から守ろうだなんて、無茶もいいとこだ。人災だが、あれは天災にも等しい。運が悪ければ被害に遭ってしまうだろう。
彼のヒーローとしての信念や姿勢は尊敬するが、それとこれとは別なのだ。
「…………あの」
今、私に残っているのは父が離婚する時に置いていったという小さな宝石と、母が死ぬ時に形見として遺されたマリッジリングと、この店だけ。
両親はお互いのことが嫌いで離婚したのではなかったそうなので、母への弔いの意味も込めてその二つを加工してまとめて鎖に通し、肌身離さずに首からさげている。悲しいが換金したところで端金にしかならない安物だ。
そして、この店。
今ではこの「アクア・バー」は私の生命線であり、生きがいなのだ。
「オーナー、あの」
「ごめん、エリック。後でな。やることできた」
「………………いえ、体調が優れないとかでなければ、それでいいんですが」
14歳の少女が急に険しい顔になれば、誰だって心配するだろう。
何か言いたげなエリックを背に、店を出る。周りを見渡し、人がいないのを確認して、力を込めた。
店の水槽から零れるものと同じものが、全身を包み、そして。
ブロンズステージの一角に位置するビル。その中に「アクア・バー」はある。
この店を開店してからもう7年の月日が経った。
幼かった私も今や成人し、あの頃にはできなかったカクテルの提供もできるようになった。経営も3年目には上手く軌道に乗り、叔父への借金もあと少しで完済する。
ちなみに、エリックは今もここに働きに来てくれている。
「エリック、ベストの裏がめくれてるよ」
後ろ姿を見て気がついたベストの裾のめくれを直してやると、言葉少なく礼を言われた。
彼も四十路を迎え、男としての貫禄が出てきた。仕込みをする手つきも慣れたものである。口下手なのは相変わらずで、それどころか無口に拍車がかかったように感じる。
熱帯魚のティアラも健在だ。ティアラは母が死んだ寂しさを埋めるために飼い始めた子で、今はもう9歳ぐらいになる。寿命が10年以上だと言われるシルバーアロワナという種なので、大事にすればまだまだ生きるだろう。
すぐに行動に移したのが功を奏したのか、ただ運が良かっただけなのか。正義の壊し屋の被害に遭うこともなく、また大きな問題が起こることもなく、悠々自適に営業を続けてこれている。
今や、原作についての細かな内容は忘れてしまっている。しかし、確か『TIGER&BUNNY』とはハッピーエンドな話だった筈で、それは結局の所、直接自分に被害が被らないのなら傍観に徹していてもなんの問題もないということだと思っている。世間の混乱はあるだろうが、解決することが分かっていれば怖くもない。
なによりそんな理屈じゃなく。
──ヒーローがいれば、とりあえずなんとかなりそうな気がするんだよな。
私はいつの間にか、すっかりこの街の住人になっていたんだ。
「オーナー、終わりました」
「ん、ひっくり返してくるから水槽の照明つけといて」
仕込みを終えたエリックにそう言い、店の扉にかけているプレートを返しに店を出る。
扉の方へ振り返って目に入ったシンプルな木目のプレートは、私が手作りした渾身の一作だ。
『CLOSE』の表記になっているプレートをひっくり返し、『OPEN』にする。近くに置いている立て看板の内容も今日のものに書き換える。これで準備は完璧だ。
「よし、あとは…」
「あー、すんません」
客を待つだけだ、と続けようとしたのを突然かけられた声に遮られる。お客さんかな、とそちらを見て言葉を失った。
──え?
なんとなく聞き覚えのある声だとは思いはしたが、まさか。
「ここのバーの店員さんだよな。もう客が入っても大丈夫か?」
男は私の身長に合わせるように少し背をかがめ、そう尋ねた。私は女にしては背が高い方だが、それでも目線は上だった。
ハンチング帽を被ったオリエンタル系の男性。くりくりしたアンバーの目は大きく、意思の強さを感じるはっきりとした眉が訝しげに上がる。
服装はモスグリーンのシャツにベスト。服の上からでも分かるようなアスリートのように引き締まった体をしていて───そして何より、その特徴的な髭が確信を強くする。
念の為、手首を見る。緑のPDAがある。決まりだ。
「あの?」
前世で、色々な作品を見ている時に聞いた声。実際に聞くと少し印象が違うが間違いない。
ワイルドタイガーの中の人だこれ。
「…あっ、ごめん。見たことがない人だったから、少しびっくりした」
「あー、そうか。急に話しかけて悪かったな。ここには初めて来たんだ」
「新顔さんだね。どうぞ。丁度、今、開店したところなんだ。お兄さんが今日一番目のお客さんだよ」
動揺を押し殺して扉を開け、中へ入るよう促す。
かなり予想外だが、お客さんはお客さんだ。犯人逮捕がかかっていないプライベートでの来店なら、かの壊し屋と言えども店を壊すことはないだろう。
「おう、サンキュ……」
店内に入った壊し屋が音もなく息を飲んだのが分かった。
周りをぐるりと囲う大きな水槽から零れる青い光が、自然の中にいるかのような室礼の店内を幻想的に照らし、非現実的な世界に飛び込んだような錯覚を生み出す。
普通のバーではありえない、ミニアクアリウムとも言える内装は初見の人間には壮観だ。1メートル近い大きさである熱帯魚がその中で泳いでいるのにも目が奪われる理由だろう。シルバーアロワナのティアラの銀色の鱗は、光を反射してキラキラ輝くのだ。
ほう、と息を吐いた今日一人目のお客様は店の真ん中辺りまで行くと、ぐるりと店内を見渡した。
「こりゃ…すげぇな。ほんとにここ、ブロンズステージにあるバーか?」
「お客様、こちらへ」
「お、おう、悪ぃな」
エリックに誘導されてカウンター席に着いた彼は、まだ落ち着きなく店内をきょろきょろと見回す。
この店に初めて来た客の大半が同じような反応をする。期待通りの反応を見る度に、設計した甲斐があったと嬉しくなる。
「ありがとう。実はここの設計は全て私がやったんだ。家具とかにもこだわってね。だからそう言ってくれるととても嬉しいよ」
「へー、ってあんたがこれ考えたのか!?若いのにすげぇな。いや、でもこの店、結構前からあった気がするんだけどなあ」
「そうさ、今年で7年目だよ」
そして、私の若さに驚くまでがテンプレだ。
「7年!?店員さん、今、歳いくつだよ!?」
「20歳さ。13歳の時にここをたててね、それからずっと経営してる。ちなみに彼はその頃からの従業員で、よく間違われるけどオーナー兼店長は私な」
「いやいや、流石に13歳で店を経営するとか冗談だろ?」
「自営業を始めるのに年齢は関係ないって、お客さん知ってるかい?」
「知らなかったけど………え、マジで?」
ぽかーん、と口を開けて唖然とする男にメニューを渡す。
「オーダーが決まったら呼んでね。もう決まってるなら先に聞くけど」
「あ、あー、じゃあ」
少し言い淀んだ彼はちらり、と水槽の方を見た。その視線の先には青い世界で悠々と泳ぐティアラがいる。
「そうだな…ブルーラグーンを頼むわ」
「ん、オーケー。エリック頼んだ」
ブルーラグーンは『青い湖』を意味する青いカクテル。その透明度の高い鮮やかな青は、この店で注文される頻度が高い。
エリックがグラスを取り出して作り始めたのを端目に、会話を続ける。彼は気づかせないようにしているようだったが、どこか、纏う空気が暗く、重く、沈んでいるのが気にかかったからだ。
「お兄さん、何か嫌なことでもあった?」
「え?」
「元気づけてあげようか」
突拍子も無い私の発言に目を見開いた彼の返事を聞くまでなく、そのアンバーの目を見つめて力を込める。
私の体が青く発光した。
瞬間、彼は身構えて私との距離を取った。警戒している顔でこちらを見据えてくる客に苦笑いする。
「驚かせて悪かったね。これはうちの特別メニューだよ。そっち、見てごらん」
私が指さした方向につられ、訝しながらも彼が顔を向けると。
「うわ……」
大量の魚、魚、魚。サンゴ礁に群れる小魚。イソギンチャクに住むクマノミ。揺蕩うクラゲ。じゃれ合うイルカと鯨の群れ。海面からのキラキラとした光が店内に落ちて、中にいる人間を照らしていく。
この中で本物なのはティアラだけだ。
「幻覚を、見せるNEXTか…?すげぇ…すげぇな、本当にすげぇよ。…ここに来てから驚いてばっかだ、俺」
綺麗だな、とぽつりと呟いた彼の横顔を見て満足する。さっきまでの陰鬱な空気が少し薄れていたから。綺麗なものを見て、全く癒されない人間なんていないのだ。
「まあ、そんな感じ。私の力が及ぶ範囲内にいる人達、全員に同じものを見せることができる。こういう所でやらないと範囲外にいる人から見るとおかしな集団だと思われるから、外ではあんまりやらないけどね」
「そうだったんだな、身構えて悪かったな。副作用とかはあるのか?」
「基本ないかな。この能力、ほんとに色んなことに使えるんだよね。だから使い方次第ってとこ。あと気にしなくていいよ。最初に驚かされた仕返しみたいなもんだし」
そもそも、私のはそういうこともできるってだけで、幻覚を見せる能力じゃないしね。
「仕返しになってるか?これ。…ってうおっ!?」
近くに寄ってきたイルカに擦り寄られ驚きの声をあげた彼に、エリックが持ってきたカクテルを指さして言う。
「まあまあ、オーダーの品ができたよ。お客様、どうぞ席におすわりになって?」
それからは、男は落ち着きを取り戻して本来の目的を思い出したのか、魚達を眺めながら何杯もアルコールを喉に流し込んでいった。他の客が何人も入れ替わるぐらい時間が経っても、茫洋と魚達の団欒を眺め続けていた。
少し異常に感じるレベルでおかしい。これはあんまり目を離さない方がいいかもしれない。
けれど、開店から時間が経つにつれてそれなりに賑わってきて、それからは忙しくて彼のことを気にする間もなく時間が過ぎてしまった。やっとちゃんと彼を見れてあげられるようになったのは閉店間際になってからだった。
「お兄さーん、もうすぐ閉店だよ」
「んー…」
正確な数は会計をしなければ分からないが、だいぶ飲んだようだ。時々エリックにつまめるものを出させていたから、少しはマシだったはずだが、量も量だったので酔い潰れてカウンターに伏せている。
エリックと一緒にグラスを拭きながら、彼の様子を伺っていた時だった。
「…もっと早く来ればよかった」
意識せず出たというようなくぐもった小さな声が力なく顔を伏せた彼から漏れた。酒で焼けて掠れた声が切なく店内に響く。あの豪快でエネルギッシュなヒーローとは思えない声だった。
「なあ…ここ、7年もやってたんだよな」
「…そうだね」
「くそ、連れて来てやりたかったなあ。絶対喜んだだろうなあ」
その時、ピンと来た。
そういえばアニメでの彼は男やもめだった。そして奥さんを何年か前に病で亡くしていたな、と。
もういないのか。
なんとなく察したのかエリックも眉をひそめ、どうしようかとお互いに顔を見合わせる。ため息をついて、今から言うべきことを考えた。
こういう時にこそ、原作知識は使うべきだろう。
「ねぇ、お兄さん」
「んー…なに」
「お兄さんって子どもいる?」
「……いるよ、娘が一人。まだ小さいけど」
「そっか。あのさ、ここオレンジジュースもあるんだ」
アルコールで頭が回らないなりにも、私の言いたいことが分かったらしい。はっと息を飲んだ気配がした。
「娘さんとまたおいでよ。絶対に楽しませて見せるからさ。そんで、うちの常連になってよ。特別メニューはバリエーション豊かだから、毎回違うものを見せたげる。飽きさせやしないさ」
男が恐る恐る顔をあげる。ストンと感情が抜け落ちたような無表情の中に、ほんの少しの縋りつくような感情を見つけて胸がじくりと痛んだ。しかし、知らぬ振りをする。
この世は諸行無常なんだよ、と彼の死者への後悔に苛まれる姿に多くの死生を見てきた前世の私の心は冷たく呟く。
でも、そうじゃない私もいる。
なんだかんだ、この世界の私はヒーローを愛していたから。毎日他人のために走り回っているこのヒーローはもっと周りに助けられていいはずだ。
だから少しでもいい、彼を───
「これから長い付き合いになるなら、自己紹介しないとね。こっちの店員はエリック・ブラック、私は三木・M(マリア)・穂高、ここのオーナー兼店長。ねぇ、常連候補のお兄さん、貴方の名前は?」
指をさしながらそう聞いた。
しばしの沈黙の後に、ぽつりと彼から告げられた名前に思わず笑みが零れた。
──支えたい。