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 何やってんだ、お前。

 その呆れたような声に酷く聞き覚えがあった。
 静香は今まで手首を掴んで持ち上げていた不良学生をぽいっと投げ捨て、声のした方を振り向く。
 そこには、静香の幼い頃からの付き合いである幼馴染みが今自分がいる路地裏の入口に立っていた。彼は学生服のポケットに手を突っ込んで、先程の声に違わない呆れきった顔をしている。

 「女の癖に喧嘩かァ? 傷つくったらオバサン泣くんじゃねーか。嫁に出せねぇ! っつってよ」
 「…うるさいな、こいつらが突っかかって来たんだよ。女だからって甘くみやがって。こちとら尻軽じゃねぇっての」
 「ははーん、ナンパでもされたかよ。それにしても不運な野郎共だな。よりにもよって、ゴリラ女に声をかけるなんてよ」
 「次、ゴリラ女と言ったら腕ひしぎ十字固めな」
 「けっ、おっかねぇな。事実じゃねぇかよ」

 反論しながらもジリッと足が逃げを打った幼馴染みを見て少し溜飲を下げる。幼い頃からコイツと喧嘩する時に関節技を使っていたから、その痛みを覚えているのだろう。
 お互いに昔から手が先に出るタイプだった。その性質は今も変わらない。ただ、男女の差というものが顕著になってきた頃から、ほんの少しだけ、幼馴染みが手加減をしているのは感じとっていた。彼からすれば、とっくの前に自分は彼より弱い存在になっているだろうに。
 条件反射のようなその幼馴染みの反応が、変わらない彼との関係を示しているようで嬉しかった。
 そんな内心をおくびにも出さず、静香は無表情に腕時計を確認する。夕方の五時になるかならないかの時間だった。

 「…ご飯食べに行く?」
 「いつも通り、お前の奢りならな! オレは払わねぇ」

 発言だけ聞いたらとんだクズ野郎だぞ、お前。
 毎度のことながら、罪悪感の欠片も感じさせない開けっぴろげな言い方に一周まわって笑いが込み上げる。
 実家との縁を切り、安アパートで一人暮らしをしている幼馴染みは常に金欠だ。幼馴染みの縁だ、と支援する気持ちで出会った時に奢ってやるのを繰り返していたら、厚かましいことに金欠具合が逼迫してくるとわざわざこうして静香を探しに来るようになった。

 「分かってる。出世払いだろ」
 「おう。そのうち焼肉でも奢ってやる」
 「さて、何回奢ってもらえば今までの分を返せるのやら。気長に待ってるよ」
 「オレ様にかかれば楽勝よ。来週にでも返してやろうか?」
 「馬鹿、金が余ってから言えよな」

 そんな取り留めのない話をしながら、近くのレストランへ向かった。



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 あの事件・・・・があってから初めて、幼馴染みに出会った時のことを思い出す。
 幼馴染みの姉であり、静香も幼い頃から幼馴染みと一緒に面倒を見てもらっていた京香に、静香はあの事件の数日後に弟に会ってほしいと頼まれた。
 その時には静香も悪い意味で目立つ幼馴染みの起こした事件のことは既に知っていた。なんだかんだ家族想いな彼が兄を貶めるようなことを聞いて冷静でいられるはずがない、そして口より先に手が出るアイツならその事件が起きたのもさもありなん、という感じだった。
 静香としては、今の幼馴染みに下手な慰めは逆効果だろうとあっちから愚痴りに来るのを待つつもりだったのだが、ことはそんな簡単なもので収まっていなかったらしい。

 『ごめんなさい、静香ちゃん。あの子のこと、どうか助けてあげて』

 家から勘当されたのだと、そう言った後に京香はぽろぽろと泣き出した。
 どうすればいいのか分からないと、戻ってくるように説得しても自分を拒絶するのだと滔々と零すその姿が痛々しくて、当時の静香は幼馴染みに怒りさえ覚えた。
 憐憫がなかったとは言わない。幼馴染みの家から近い場所にある静香の家を頼らなかったのにも理解はできる。でもこの優しい京香を泣かせるなど言語道断だった。それに京香が泣いているなら、兄である幼馴染みを慕っていた弟の渡も泣いているに決まっている。

 馬鹿だ。ほんとに馬鹿だなアイツは。

 不良仲間の家に一時的に住まわせてもらっているとその住所を聞けば、ソイツは静香も知っている幼馴染みの舎弟の家だったので、しゃくりを上げかけた京香を母に任せ、単身でそこに向かった。

 一体、どれほど荒れているものかと憂鬱になりながら幼馴染みがいるという舎弟宅に突撃した。静香を見るや否や半泣きで縋り付いてきた後輩に驚いたものの、突然不機嫌な先輩が家に泊めろと言ってきたらビビるのも当然だろうと宥める。
 どうやら、何故ここに来たのかもまだ説明していないようだと、静香の来訪に気づいていながらノンリアクションな幼馴染みに嫌な予感を感じながら彼がいるという部屋へと上がった。

 その後のことは正直思い出したくない。
 静香は全身に青あざを作ったし、唇も切れて暫く口を開ける動作をする度に痛みを感じる羽目になった。勿論反撃はしたが、男女の筋力差がもろに出て手を出すこともできず簡単に抑え込まれる始末。腹立たしいことこの上なかった。
 何度か膝蹴りや関節技を決めてやったので無傷ではないだろうが、なんだかんだケロッとした顔をしていやがったのが頭にきた。子どもの頃から喧嘩ばかりしているガキ大将にとっては、静香のようなとの取っ組み合いなど取るに足らないってか。

 思い出すだけでイラッとする。目の前で遠慮なく注文しまくって腹を満たしている男の顔に熱々のドリアを投げつけたい気分になる。私の財布の中身を空にするつもりか。

 「なんだァ? んな睨んできて。食べてぇのか。しゃーねぇなぁ、ほれ」
 「違う。いらん」

 ミートスパゲティをフォークに巻きつけ、こっちに向けてくる幼馴染みを撥ねつける。そんな拳みたいなデカさに巻かれたもん、お前の口ぐらいにしか入らないっての。
 ニヤニヤしながら突き出してきたのもイラつきに加点する。明らかに静香が食べられないことを分かっておちょくってきている。誰がここを支払うと思ってるんだ。財布には優しくしろ。

 あの取っ組み合いの後、静香は激しい乱闘で散らかりまくった部屋を片付けながら、散々な目に遭った後輩に謝り倒して、最短時間で幼馴染みを家に無理矢理連れて帰った。
 迷惑をかけるだけかけて暴れ回った幼馴染みはその時にはとても大人しく、静香の引っ張る手に時折足を踏ん張って抵抗するも、比較的従順についてきた。
 まあ、多分罪悪感があったのだろうと思う。

 喧嘩の終わりは幼馴染みが静香の顔を殴った時だった。

 殴った後の幼馴染みはぎこちなく固まって、自分の拳と静香の顔を何往復も見た。信じられないとでもいうような青ざめた顔をして、静香に馬乗りになっていた大きな体を退けた。
 それからだ。苦い顔をして、静香の言うことに大人しく従うようになっていたのは。

 「守」
 「ん?」
 「それで終わりな」
 「ふぉう(おう)」

 口いっぱいに丼をかき込む姿は、ちょっと体格がいいだけの普通の男子高校生だ。少しばかり立派な頭のリーゼントが邪魔だが、今どき珍しくないし許容範囲だろう。
 

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 「静香!」

 聞き慣れた、けれど昔よりも深みの増した大人の声が自分を呼ぶ。昔と同じように声のする方へ振り返れば、噂のスキャンダル王がこちらに手を振っていた。
 あの暗い路地裏とは違い、ネオンや街灯の光が溢れる東京の夜。あの馬鹿で孤独だった幼馴染みの傍には、何人もの彼の後輩がいた。

 さて、仕事帰りにちょっと遊んで帰るかと寄った繁華街でまさかアイツと出会すとは、なんとも運がない。
 後輩を置いて歩み寄ってくる幼馴染みは何やら自信満々な様子だ。胸を張って、歩みが軽やか。しかもずっと笑顔。見るからに物凄くご機嫌だった。
 後ろの後輩達が顔を寄せあって静香のことをコソコソとどんな関係なんだと話しているのも気にならないらしい。

 「おいおい、偶然じゃねぇか。こんなとこで会うなんてよォ」
 「そうだね。私もまさかアンタに会うとは思ってなかった。試合の帰り?」
 「おう、今日はオレ様の試合があったんだ。当然、1ラウンドK.O.勝ちだぜ。ちなみに、アイツらはその野次馬1号2号3号な。ほとんど打たれてねぇし、帰りに一杯引っかけて帰ろうって話になってな」
 「なるほどね。まあスキャンダルさえ起こさなければ何してもいいんじゃない?」
 「その可能性はねぇな。少なくとも今夜はな。なあ、お前今から暇か? 今日は試合に勝って賞金が入ったからな。飯食ってねぇなら──」

 ニヤッと、悪戯を思いついた時の顔をした幼馴染みに咄嗟に身構える。この顔を見た後にいいことがあった試しがなかったからだ。

 「焼肉行こうぜ! 俺の奢りでな!」
 「なんだって?」

 思わず聞き返していた。
 え? あの鷹村さんが人に奢る? あの女性何者? てか俺達は? 俺達も連れてってくれるんスよね? という驚愕した三つの顔が幼馴染みの肩越しにこっちを凝視してくるが、静香としてもそちらを気にする余裕はなかった。

 「昔言ったじゃねぇか、出世払いで焼肉奢ってやるってよ」
 「え…覚えてたんだ、焼肉の話」
 「おっ! お前も覚えてたか。おうよ、オレは約束を守る男だぜ! ま、正直に言うと最近まで忘れてたんだがな」
 「だと思った。まあ、気長に待ってて良かったってことかな」
 「で、どうよ。無理なら無理で別の機会に誘うけどよ。とはいえ、また忘れちまうかもしれねーがな」

 意地悪っぽく、でもどこか伺うようにこちらの返事を待っている幼馴染みに、仕方ない、今回は甘えるとするか。
 ニヤッと笑い返した静香に、きっと返事を察した幼馴染みは手を引いて後輩達の所まで連れて行ってくれるだろう。