紫色


部屋中に充満する紫煙が視界を曇らせる。


あんなに憎くて堪らなかった煙草のヤニくささに慣れてしまったのが悔しい。とはいえ仕方がないのだ、私は大人になってしまったのだ。あんなに早く大人に成りたいと願ったのが嘘みたいだ。あの頃の私の様に常に纏わりつくあの独特なにおいを持つ人はそこらに沢山いる。ヘビースモーカーじゃなくたって家に吸う人が居れば少なからずにおってしまうのだ。相変わらずあのにおいは嫌いだけれど、慣れてしまった。

高校の時、私に待ってると告げた彼は元気だろうか。結局私は二度と教室に行く事はないまま卒業してしまった。寧ろよく卒業できた。学校としても追い出したかったのだろう、とは思う。二度と彼とは会うことはないだろうと思うと、あの日のたった数分が夢か何かのようにさえ思える。もし彼があの時私のところに来なければ、今頃私はそこら辺の適度な金持ちを引っ掛けて好きでもないのに結婚でもしてたかもしれない。私は彼を好きになってしまったのだ。
今も彼が好きという訳ではない。彼が話した事は覚えているけれど、彼の姿も声もまともに思い出せそうにない。ただ、少しだけ違うイントネーションだった事だけは覚えている。


「瀬川さんは彼氏居らんの?」

逆ナンされてた人を助けたらナンパされた。色気漂う目の前のこの人を見てもときめかない私は同僚曰く異常なのだろう。人並みにイケメンだなぁ、とは思うけれど好きになることはない。それを同僚はおかしいと言う。目の前のこの人も色気を漂わせ、イケメンだと思う。胡散臭い丸メガネさえも着こなすイケメンだ。けれど、私が思うのはそこまでだ。

「彼氏はいない」

この人は煙草を吸わない人だ。いつからか頭が最初に考えるのはそんなことになっていた。あぁ、どうして嫌いな煙草の事を考えてしまうのか。

「好きな人でも居るん?」
「いない」

この人は私と話して楽しいのだろうか。にこにこ、と効果音でもつきそうな笑顔に胡散臭い丸メガネ、そしてこの東京のど真ん中での関西弁、この人不審者なんじゃないかという疑惑が生まれてくる。

「瀬川さん俺と同じくらいに見えるんやけど、いくつ?」
「女に歳聞くってどうかと思うけど」
「せやなー、俺は今年22やで」
「……同じ」

まるで聞く耳を持たないこの人にどうやって帰ろうかという思考が働き始める。

「瀬川さんは…この近くやと女子大やろか?」

この人はどこまでもわたしの個人情報を知りたいらしい。どうしようかと真剣に悩み始める。

「大学には行ってない、働いてる」

私の言葉に一瞬驚いた様に目を見開いた彼だけど、それをすぐに消して私に微笑んできた。

「瀬川さんの身近に煙草吸う人居るやろ?」

この人は煙草が嫌いな人なのか。だとしたら私が僅かにまとうあの独特のヤニ臭さも彼は気になって仕方が無いだろう。

「父がヘビースモーカーなの」

考えたくもない父のことを思い出して何だかここから立ち去る算段を練るのも面倒になった。はやく帰りたい。

「…瀬川さんも吸うんちゃう?」

私はそれに曖昧に笑って立ち上がる。

「あまり勘のいい男は好きじゃないの」

社会で生きていくために有利な容姿を持っていることは自覚している。そうであるように努力したのだ。あの紫煙によって貴重な学生時代を失ってしまったから、大人になったら自由に生きれる様に。

「でも」

ジッと私を見つめる彼は確か忍足と言ったか。

「キミは私に声をかけてくれた数少ない人だから。感謝はするよ」

彼とは初対面ではない。彼は私を知っていて、逆ナンされてたら私が助けると分かっていて、私と接触した。

「またね」

彼はきっとまた私に会いに来る。例え私が嫌いな紫煙を纏っていようとも。


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