こころ


「しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか。」

私は彼の好きな夏目漱石が書いた『こころ』からその一文を拾って彼に告げた。彼は苦々し気に顔を歪めて、それでも尚私から顔は背けない。恋は罪悪である。


*


それからも、私と彼の関係は一見して変わらない。いや、全く変わらない。私がそれを望んだからだ。だからこそ、彼にああ言ったのだ。私と彼との関係はマネージャーと選手、それだけでいいのだ。

「なぁ、瀬川」
「なに、幸村」

入院中の部長の元へ一番多く訪ねているのは家族を除けば私らしい。それもそうだ、部活で疲れている選手たちは家に帰し、伝言やお見舞いの品を預かって私が代わりに来ているのだから。

「真田たちに来ないでくれと言った時、お前いなかったろ?」
「そうだね、あの日は…みんなが行くからいつもとは逆に私が伝言頼んだんだっけ。」

幸村がいるベッドの脇にオレンジ色の花が揺れる。

「それね、柳が持ってきたんだ。綺麗なガザニアだよね。」

ガザニアの花言葉はたしか、あなたを誇りに思う。柳はそれを知っていて選んだのか、そうでないのか。いくら彼が博識でも、花言葉まで知っていて、それを彼の口から聞いたりしたらきっと笑いが止まらないだろう。柳なら花を買う前に事前に調べそうだ。そんなどうでもいいことを思いながら、幸村の話の続きを無言で促す。

「あの日、瀬川がいなくて良かったと思うよ。」

それは私も思うよ、とは口に出さずに、私は何という言葉を彼に返すのが適切かだけを考える。

「瀬川のことまで突き放してしまったら、多分俺は…」

幸村はその先を言うことはなかった。だけど、大体予想はつく。幸村には、テニスをする場所が必要だった。


*


夕焼けの色が人工芝の上で動き回る。乾涸びてしまいそうなほど照りつける太陽に思わず目を細める。彼らは本当に無敗で3連覇するつもりなんだな、とぼんやりと思うも、私には彼らの覚悟は分からない。彼らとの付き合いも3年目になって、大分理解はしているつもりだけれど、私はコートの上に立つことがないから分からない。私は立海大附属中学のテニス部において、この2年ちょっとの間で起きたことの全てを知っている。私だけが、全てを知っている。幸村が抱えるものも、真田が幸村にした約束も、かつての丸井の悩みも、柳生の葛藤も、仁王の目指すテニスも、ジャッカルの努力も、切原の可能性も、柳の考えも。全てを知っている、だからこそ、先生のあの言葉を柳に言えたのだ。勝つ事が絶対であるこのテニス部において恋は罪悪である。繰り返すけれど、私は全てを知っている。柳が自ら打ち明けた想いと、その行動に出た原因すらも。どうしてこうなってしまったのか、そもそもの原因として私は自らを責めることで諦める様になった。自分を自分で殺すべきだと囁かれた気がした。


*


「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。」

全国大会の決勝が終わり、私達立海は負けた。折角幸村も手術して、復帰したというのに。私のこころごっこは不毛だったのか。でも、神の子を殺さずに済んだのは少なくとも正解だった筈だ。正しさで判断するなら柳にあの言葉をぶつけた時点で間違っていたのだろうけれど。

「しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。」

今、私の目の前に立つ真田は、こころのラストにほど近い文章を暗唱する。私はその言葉に心当たりがあった。

「先生は瀬川、お前だ。」

あぁ、そうだ。あの言葉を言ったのは先生だ。私は柳が先生にならない事を願い、Kに成り得る幸村を救った気でいた。

「全てを知っているが故にお前は死んだ。お前を殺したのはお前じゃなく、テニス部全員だ。そこだけは先生とは違う。」

私は私が消した。その筈だった。

「瀬川も幸村たちも先生やKではない。お前は誰に恋慕の情を向けているんだ?」

真田の言葉に対して、私は1つ瞬きをして首を傾けた。

「私は多分、」



誰も好きにはならないよ。恋とは罪悪なのだから。


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