1-1
これは、二人が入院していた期間のとある一日の話。
◆◆◆ ◇◇◇
二人が目を覚まして一週間ほど経った。目を覚ましたとはいえ、長いこと眠っていたこともあり身体の筋力がまだ戻っておらず、あまり長くは話せなかった。
今の時期は学校が春休みに入ったことで、朝からお見舞いに行くことができた。そのため、バイトがある日はバイト前に、バイトがない日は朝からお昼ごろ辺りまで、二人に面会をしに行っていた。
やっぱりようやく目を覚ましてくれた大好きな人、そしてその人の大切な『家族』には、少しでも多く、少しでも長く、会って姿を見たいという気持ちが生まれるのは間違っていないと思う。やっと『生きている』ことを証明してくれるのが、機械ではなく、本人たち自身に変わったから。
もっとたくさん触れたい。触れたいというのは決してヤラシイものではなくて、単純に手に、彼の頬に、髪に、触れたかった。触れて伝わるそのぬくい体温を、彼らが今ここで生きていることを示す温もりを、感じたいと思ったのだ。
「おはよう。イザナ、鶴蝶」
病室に入って二人のベッドの方へと向かえば、少しだけ首を動かして鶴蝶がこちらを見た。それに対して微笑みを返した私は、二人のベッドの間を進み、置かれていた丸椅子に腰掛けた。視線をくれた鶴蝶の方を向いて、肩にそっと触れた。鶴蝶は言葉の代わりに、まだ少しぎこちない笑みを返してくれた。次にイザナの方を向けば、彼はほんの少しキュッと眉間に皺を寄せ、私の方を見ていた。
「ごめんね。そんなに怒らないで」
冗談気味にそう言って頬に触れれば、彼の眉間の皺が消えた。どうやら少し機嫌が直ったようだ、よかった。
「今日はね、天気が良くて過ごしやすい日なんだ」
イザナの髪に少しだけ指を通す。彼の髪は相変わらずサラサラで、きっと世の女性は羨むだろう。私だって少し羨ましいくらいだ。でも実際にこの髪質になりたいかと言われたら『いいえ』と言うかもしれない。
彼の、イザナの髪だから、好きなのだ。自分の髪であっても、他の誰かの髪であっても駄目なのだ。他の誰でもないイザナの髪だから、好きなのだ。何度見ても、指を通しても、触れても、飽きなんて一切来なくて、むしろ愛おしさが胸に溢れるのだ。
「本当に、サラサラだよね」
「……うぜぇ」
いつの間にか掛け布団の下から伸びてきていた彼の手が、何度も髪に指を通す私の手を掴んで止めた。掠れた声に、まだ少し弱い握力。まだまだ本調子ではないけど、彼らしさは既に元通りで何だか嬉しさから思わず笑ってしまいそうだ。
「イザナの髪、好きだからさ。つい触りすぎちゃった、ごめんね」
私はイザナの髪から指を抜き、サラリと頬をひと撫でする。少し前まで大怪我をして入院し、ずっと眠ったままだったというのに、髪質も肌質も綺麗なままなんて、一体どうしたらこんな風になれるのだろうか。
そういえば、と胸の内に浮かんだ、一つの事実であり思ったこと。私がイザナの髪質や肌質、体温を知ったのはここ最近のことだ。それまでは触れることすらほとんど許されていなかったから、匂いしか知らなかった。逆に言えば、今も一番記憶に残っているのは匂いだった。特別強い匂いでもないのに、彼とすれ違えばすぐに分かり、その度に胸が苦しいくらい高鳴ったのを覚えている。
昔どこかの誰かが言っていたことを思い出す。『匂いが好きだと感じる人は、遺伝子のレベルで運命の人である』と。もしそれが本当なら、彼は私にとって遺伝子のレベルの運命の人、ということになる。彼がどう思っているかは分からないけど、私にとってはそれくらいに愛おしい人だ。もしも、彼も似たようなことを思ってくれていたら――
「……オイ」
服の袖口を引っ張られ、同時に少し掠れた小さな声が聞こえた。そこでわたしの広がり続ける思考が、拡大を止めた。我に返った私が、袖口を引っ張る手の主――イザナに視線を向ければ、顔いっぱいに不機嫌を表して私の方に見ていた。
「ごめん、ちょっと考え事しちゃった。何か欲しい?」
「みず」
「分かった。ちょっと待ってね。多分もう少ししたらナースさんが来るから、その時にベッド、起こしてもらおう。そしたら準備するね」
声をかけてから少しして、病室にナースさんがやってきた。このナースさんは二人が運ばれてきてから今に至るまで、ずっと担当をしてくれているらしく、今では顔見知り程度の関係にはなっている。
「おはようございます。今ベッドを起こしますね」
そう言ってナースさんはテキパキと二人を含めた、病室内の人たちのベッドを順々に起こしていった。そして各患者さんたちの体調のチェックをしたりして、病室を出て行った。
「お疲れ様」
そう声をかければ、イザナはフン、と鼻を小さくならした。鶴蝶の方にも声をかけようと後ろを向くと、鶴蝶がこちらをぼんやりと見ていた。そんな様子が珍しくて、こちらも返すように一瞬見つめてしまったが、やがてお互い我に返り、ピクリと体を揺らして小さく笑い合った。
「鶴蝶がぼーっとするなんて珍しいね。どうかしたの?」
「いや、なにも……。ただ、『いいな』と、思っただけだ」
そう言った鶴蝶の瞳がとても穏やかで優しいものだったので、私はまた少しだけ驚いた。いつもは鋭くて力強く、そして冷たさを感じる瞳だった。でも今はどれもが和らいでいて、私たちよりも少しだけ幼い、年相応の雰囲気の瞳となっていた。
「鶴蝶、年相応の雰囲気になったね」
「どういうことだ?」
「そのままの意味。前はほら、イザナもだったけど、二人とも鋭くて冷たい雰囲気だったから」
仕方ないことではあるけど、でもあの頃の二人は二人ぼっちのようにも、孤高の王とその背だけを見て追う従者のようにも見えた。でもどちらにしても、横で見ていただけにすぎない私からすると、とても寂しくて、果てしない孤独を感じていた。こんなこと、二人には絶対に言えないから、私の心の内にしまっておくけど。
「そうだ、鶴蝶も水飲む?」
「あぁ。たの――」
そこで鶴蝶は思い切りむせた。おそらく少し喋りすぎてしまったのだろう。私は慌てて彼の方へと駆け寄り、近くの棚の上に置かれた水差しを手に取った。水差しを持っていない手で彼の背をさすり、そっと水差しを口元へと近づける。少しだけ落ち着いた鶴蝶が少し口を開いたので、そのまま水差しの口を彼の口の中へと差し込んだ。
「っはぁ、ありがとな。助かった」
「よかった。ごめんね、無理させたね」
「いや、大丈夫だ。それより……」
鶴蝶が覗き込むようにして私の後ろに視線を向けた。不思議に思って彼の視線の先に顔を向けると、そこには明らかに不機嫌なイザナの顔があった。これはいけない、完全に怒っている。
「ごめん、行ってくるね」
「あぁ」
鶴蝶用の水差しを棚の上に戻し、イザナの方へと戻る。誰がどう見ても怒っていることが分かる表情をしていて、今にも首根っこを掴まれそうな予感さえした。
「イザナ、ごめんね」
そう声をかけると、イザナの眉間の皺が少し深まった。どうやら選択肢を誤ったらしい。私が次の手を考えていると、彼は小さく舌打ちをして私に鋭い視線を向け、一言言った。
「水、さっさとしろ」
私はイザナの左手側――窓側にある棚の上に置かれた水差しを取るため、椅子から立ち上がり、窓側へと回った。
多分、おそらく、もしかしたら――。イザナが怒っている理由は、私が彼よりも先に鶴蝶に水を飲ませたからかもしれない。なんて考えたけど、実際そうでなかったら恥ずかしい勘違いだ。だけど、そうであったら少し嬉しいと思ってしまう。
そんなことを考えながら水差しを手に取り、体を少し屈めて、飲み口を彼の口元に近づけた。しかし彼は真一文字に口を結んだまま一ミリとて開いてはくれず、こちらに視線だけを向けていた。
「どうしたの?」
「オレより下僕の方を優先したんだ、わかってるよな」