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「えっと……?」
「普通じゃ面白くねぇだろ。オマエのソレで飲ませろ」
そう言って彼が指差したのは、私の顔。正確に言えば口元だった。私がそっと口元に手を当てれば、彼は愉快そうに口元に笑みを浮かべた。
だがこんな、他にも人がいるこんな場所でなんて無理に決まっている。たとえ二人きりだったとしても無理だ。恥ずかしいことこの上ない。
「む、無理っ! できるわけないよ」
「オマエに拒否権はねぇよ」
「それでも! 無理なものは無理っ」
そう言って屈めていた体を起こそうとしたが、その前に彼が気づいて肩を掴まれ、動きを阻止されてしまった。そればかりか、掴まれた上に少し引き寄せられたことで、彼と私の顔の間がグッと縮まる。
視界には色水の様に透き通って、大粒の宝石の様に美しい薄紫の瞳。その瞳を縁取る銀糸の額縁は、窓から差し込む太陽の光に照らされて少しキラキラと光を反射している。何度見ても飽きることのない、私が愛する彼の瞳だ。
「なら、これで今は許してやるよ」
直後に感じたのは、私の唇に何か柔らかいものが触れたという感触だった。その柔さの後ろには、少しだけ硬さもある……なんて冷静に考えている暇などない。私は今、公然―というのは少し大げさだが―の前で、キスをしているということだ。
向きや角度的にちょうど鶴蝶のいる側からは、イザナが少しだけ首を伸ばし、前にいる私の顔へと自身の顔を寄せ、そして触れるだけのキスをしているのがはっきりと見える。
あまりにも恥ずかしくて、穴があるなら今すぐにでも入りたかった。そんな穴など、世界のどこを探したってないだろうけど。
「相変わらずだな、二人とも」
横で微笑ましい顔をした鶴蝶がそう言った。相変わらず? そんなことないのに。彼はあの頃、自分とイザナがまだ危ない道を進もうとしていた頃から、横で見ていたはずなのに。タイミングによっては助けてくれたり、手当てをしてくれたこともあったけど、基本はずっと見ていただけだった。
でも、見ていたのであれば分かるはずだ。この『バカップル』と呼ばれる部類に該当しそうな行為をする私たちに、『相変わらず』はどう考えても不自然ではないだろうか。抗議をする気持ちはないが、嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちと、少なからずの疑問。それらが入り混じって、私はなんとも言えない気持ちになった。
「そ、それってどういうこと?」
驚きで上手く言葉が出なくて、言葉の頭が少し詰まってしまった。だけど、鶴蝶は表情を変えないまま——だけどどこか少しだけ寂しげな瞳をして——言葉を続けた。
「今も前も、オレからしたらあんまり変わらないと思うぞ。……あの頃からずっと、イザナはオマエにだけ、対応があからさまに違っていたんだからな」
鶴蝶が言うのであれば、それは合っているのかもしれない。でも、本当にそうなんだろうか。比較対象になり得る存在が、私とは立場が全く違いすぎて、比較対象にならない。彼の周りにいることが許されたのは、皆強者だった。
弱者で、何も役に立たない私は、——私が考えたなりの——邪魔にならないところに、そっといさせてもらっていただけにすぎない。そのはずだった。そう認識していた。
だって私には戦闘力なんてない。九井くんのように情報収集力に長けているわけでもない。非戦闘民なんて、誰一人としていないあの場所に、唯一いたあのチームの弱さであり、非戦闘民。それが私だったのだ。
何か手柄を上げていたのであれば別だろうけど、あとは鶴蝶のような存在であっても、また別だろうけど、私はそのどちらでもない存在だった。それなのに『違う態度』を、あのイザナが取っていたのだろうか。
露骨に嫌悪感を出していたのであれば、すぐに気づく。だけどそれを感じたことはなかった記憶だ。ならば一体——
「イザナは、ナマエに横にいてほしかっただけなんだ。それをイザナは言わなかったが。だから、イザナもイザナなりに、ナマエのことを大切にしてたんだよ。今みたいにな」
「そう、なの?」
そう本人に聞いてみたが、当の本人は不機嫌そうな表情をしただけで、何も答えてはくれなかった。
「イザナ、そうだろ?」
「うるせぇ」
イザナはその一言だけ言うと、窓の方を向いてしまった。それを見た鶴蝶は、やれやれといった表情で小さく笑うと、私の方を見て「大丈夫だ」と言った。
本当に大丈夫なんだろうか。胸の内にくすぶり始めた不安が、ようやく生まれた自信をじわりじわりと侵食していく。
イザナは今、私のことをどう思っているんだろうか。私はいつまでもイザナのことを愛するだろうけど、果たして彼は、私のことを少しでも好いてくれているんだろうか。私は、彼の何なのだろうか。ようやく『恋人』として隣に立てたと思ったけど、それは私の勘違いだったのだろうか。
ぐるぐると回る不安が、私の自信を喰らってそんな疑問を生んでいく。もしかしてあの時言ってくれた言葉も、あの時くれたキスも、疑いたくなんてない。だけど、どうしても不安になってしまう弱い自分がいて、我ながらとても面倒くさい人間だと思った。
「イザナ」
そっぽを向いたままのイザナに声をかける。だけど彼は返事もしてくれなければ、こちらを向くこともなかった。流石に少し傷つくものだ。
「こっち向いてよ」
彼のベッドの方へと近寄り、少しだけ体を屈めてそう声をかける。それでも何も反応がなくて、寂しさを感じた私がそっと離れようとした時、突然伸びてきた腕が私の腕を掴んだ。
「どこ行く気だよ」
「特にどこにも……。椅子に座ろうかなって思っただけだよ」
そう返答すると、掴まれた腕が引っ張られた。あまり強くはなかったものの、それでも急に引っ張られたことでバランスを崩した私は、彼の方向へ倒れてしまった。何とか彼の身体に倒れ込む前に、向かい側の、彼の胸のすぐ横についたため、ギリギリ倒れ込むことを阻止できた。
しかし身体が中々にきつい姿勢になってしまい、少しずつ身体が悲鳴を上げ始めていた。しかしあまりにもギリギリの姿勢のせいで、自力では起き上がれない。
「う、ぐ……。イザナ、起きるの手伝って……」
「誰が手伝うかよ」
「いや、だってこのままじゃ――」
プルプルと震えながら私の体を必死に支えていた腕が限界を迎え、肘がカクンと折れた。支えを失った私の体は重力に従い、そのままイザナの体の上へと倒れる。幸いにも、彼の上にかけられていた布団がクッションとなり、そこまで彼にダメージが行くことはなかったようだが、とはいえまだ彼の怪我は完全には治っていない。
身体に障るだろうと思い、慌てて起き上がろうと体を動かした時、背中から押さえつけられてしまった。
「ここにいろ」
「えっ。いやだってそれじゃ――」
「いろ」
有無を言わせないものだった。しかし倒れているとはいえ、今の倒れこんでいるこの姿勢もまた辛いものではあった。
せめてもう少し体を楽な姿勢になるようずらしたいのだが、未だ背中から押さえつけられている辺り、それも許す気がないのだろう。私は諦めてこの姿勢のままでいることにした。
「オマエはオレのだ」
少しの沈黙の後、その言葉が静かに降ってきた。この言葉一つで、さっきまで私の胸の内でじわじわ広がっていた不安が、一瞬で晴れてしまうのだから凄いものだ。いやこれもまた、惚れた弱みというか。
心から愛している人からの言葉だからこそ、不安を吹き飛ばして安心と自信を取り戻させてくれるのだろう。
「ほかの誰にも渡さねぇし、渡す気もない。それは今も昔も変わらない。……だから、勝手に不安になってんじゃねぇよ」
そう言って、イザナは私の後頭部を小さく小突いた。その小突きもかなり手加減されているからか、大して痛みもなかった。
「ありがと、イザナ」
イザナは今も昔も言葉がとても少ない。今はもう少しだけ言葉にしてくれるようになったけど、それでもまだまだ少ない。ずっと隣に――勝手ながら――居続けたことで、多少推測することはできても、それはしょせん『推測』でしかない。だからこそ、たまには言葉にしてほしい気持ちがある。
言葉にするのは何だっていいけど、できれば彼本人が思っていることとか。怒りでも、悲しみでも、楽しみ、嬉しさ……たくさんの感情を、気持ちを、思いを、言葉にして伝えてほしい。私はそう思っている。
目を覚ましてから言ってくれたことが一歩であるなら、きっとこれは二歩目。一歩ずつ、前進している。きっといつかは今よりももう少し、言葉を増やして伝えてくれるかもしれない。
「私は今も昔も、なんなら初めて会ったあの時から、ずっと心を奪われたままだよ。昔から今もずっと、イザナのことが好き。一目惚れだったんだよ」
「へぇ。それ、本気で言ってるのか?」
「うん。最初は興味からだったけど、それがだんだん変わって、今は心の底から愛してるって言える。それくらい愛しているし、私はイザナの……こ、いびと、だから」
最後は自分で言ってとても恥ずかしくなってしまい、尻すぼみとなってしまった。だけど多分、彼の耳には届いていたと思う。だって彼の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいるから。
「なら、不安になる必要もねぇよな」
「それは、そうかもしれないけど……。でも、ちゃんと言ってくれないと不安になる時もあるよ」
「めんどくせぇヤツ。オレの女なら堂々とオレの横に立ってろ」
「……抗争になる前から、私は勝手ながらイザナの傍にいたけど、その頃にイザナが私のことを特別扱い? していたのって、事実なの?」
そう聞き、頭を何とかイザナの方へを向ける。何とか見えた彼の顔は、呆れとも信じられないとも取れる表情をしていた。
「オマエ、気づいてなかったのかよ」
「う、うん。ごめん」
「オレが、戦力として微塵も使えないってことを知っている、それもオレらとは全く違う世界で生きていた人間を、素直に傍に居続けさせると思うか? どんな人間であろうと、使えないヤツは容赦なく潰す。利害と恐怖により繋がっていた天竺だったが、オマエはそれに当てはまらない」
そこでイザナは一度言葉を切り、軽く咳き込んだ。
「水、よこせ」
「わ、わかった。今起きるね」
私は何とか這いずるようにしてベッドの上から退くと、イザナ用の水差しがある方へと向かった。ガラスの水差しを手に取り、その挿し口を彼の口元へと近づける。すると彼は挿し口に口を付ける前にこちらを見て一言言った。
「こんなこと、オマエ以外には死んでも許さねぇ。その意味を考えてみろ。ナマエ」
きっとこれが、今の彼の精一杯の素直な言葉なのだろう。そう考えたら嬉しくて、少し恥ずかしくて、自然と笑みが零れた。