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「イザナっ! 鶴蝶っ!」

折り返し電話で要件を確認したところ、私たちの予想が見事的中した。

『お二人の意識が戻りました』

その言葉を受けた時、私と万次郎くんは喜びのあまり目を見開き、その場でハイタッチをしてから抱き合った。全力のハイタッチによってジンジン痛む両手が、夢ではないことを教えてくれて、私の目からは涙が溢れ出た。

すると、泣いた私に気づいた万次郎くんが、バッと勢いよく私から離れると「泣くのはまだはえーだろ」とうっすら涙を浮かべた笑顔で言い、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

それからは安全運転で、でも飛ばせるだけ飛ばして、病院に向かった。駆け込むように病院に入ってナースセンターに行けば、もう顔見知りになったナースさんが駆け寄ってきて、すぐに二人の病室まで連れて行ってくれた。

「よかった……っ。本当に、本当によかった……!!」
兄貴イザナも、カクチョーも……起きンのおせーよ」

数週間眠っていた二人は、ぼんやりとした瞳で私たちの方を見た。だけどイザナの瞳だけは、ぼんやりとしているはずなのにどこか鋭さもあって、「あぁ、私の知っているイザナの瞳だ」と思い、少し安心した。

よかった、二人とも生きている。もうあの無機質な心音と、微かな呼吸音だけが二人の命の証明ではないのだ。そう思ったら安堵と喜びで視界が滲んだ。

「お二人とも、ずっとお見舞いに来ていたんですよ」

目が覚めた二人に、ナースさんがそう声をかけた。数週間使っていなかった喉は上手く音が出せないらしく、微かに口を動かすだけだったが、鶴蝶が「ありがとう」と言っていたのは分かった。
対してイザナは黙ったまま私と、私の隣にいる万次郎くんに視線を向けるだけだった。

「もう少ししたら、リハビリも始まります。その頃には二人も多少喋ったり、指を動かす程度はできるようになると思いますよ」
「あのっ! ……二人のことを助けてくれて、本当にありがとうございます」

私はナースさんに頭を下げてお礼を言った。本当は二人の手術をしてくれた先生や、HCUで二人の担当をしてくれていた方々にもお礼を言いたかったけど、それは難しいことを分かっていたから、今目の前にいる、顔見知りになるほど私たちの対応をしてくれたナースさんだけでも、お礼を言いたかったのだ。

ナースさんは優しく微笑んで「お二人が、患者様が目覚めることを信じて、ここに通っていたおかげでもありますよ」と返答した。

「あの、少し触れても大丈夫ですか?」
「えぇ。あまり乱暴にしたり、力を込めて握ったりしないのであれば、平気ですよ」
「ありがとうございます」

イザナと鶴蝶の身体からは、すっかり包帯は取り去られており、今は少々血色の悪い腕が、点滴のために捲られた袖から見えていた。

私は、まずイザナの手にそっと自分の手を重ねた。血色が悪いことで何となく察してはいたが、彼の手は私の手よりもずっと冷たかった。だけど、その冷たさの中に確かな温もりも感じて、彼が今、ここでちゃんと生きているのだということをようやく実感できた。

思えば、こうしてちゃんと彼に触れるのは初めてだった。こんな風に彼に触れることになるとは、今までの私は夢にも思わなかっただろう。

「イザナ……おかえり」

イザナのぼやけた瞳を見つめてそう言うと、彼はほんの少しだけ眉を顰め、少しだけ目を細めた。見慣れた表情をする彼を見て、生死を彷徨ってから帰ってきても、彼は彼なのだと思った。それが何だか嬉しくて、堪えていた涙が溢れた。

私は持ってきていたハンカチで涙を拭って笑った。きっとイザナのことだ、今の私の顔に対して「不細工」と言って鼻で笑うだろう。

その後、私は万次郎くんと入れ替わり、そのまま鶴蝶のところへと行った。そして先ほどイザナにしたのと同じように、血色の悪い手にそっと自分の手を重ね、「鶴蝶、おかえり」と言葉をかけた。鶴蝶はほんの少しだけ目元を緩め、ぎこちなく「ただいま」と口を動かした。

* * *

「二人って、いつ喋れるようになんだろーな」
「分からないけど……やっぱり一週間くらいはかかるんじゃない?」
「一週間、か……。なげーな」
「でも二人が目を覚ますまで、私たちは数週間待ったんだよ? それに比べたら、早い方じゃないかな」
「……それもそっか」

あの後、ナースさんに「二人とも目が覚めて間もないので、申し訳ないですが本日の面会は、ここまででお願いします」と言われたため、仕方なく二人で帰路に就いた。

二人は明日にもHCUから一般病棟に移るらしい。ナースさんや先生方の粋な計らいで、二人は同室の、それも隣同士のベッドになるそうだ。本当に良かった。

「次の見舞いさ、なんか持ってく?」
「まだ二人とも何も食べられないと思うし、手土産はもう少し後がいいんじゃないかな」
「そっかー。じゃあなんか食べられるようになったら、なんか持ってこーぜ」
「そうだね」

病院のエントランスから外へ出て、万次郎くんのバイクが停まっている場所へと向かう。ふわりと吹く柔らかな春の風が、病院の敷地内で咲き誇る桜の花びらを攫って、宙へと放り出した。放り出された花びらたちの舞を見ながら、万次郎くんと二人でゆったりとバイクまで歩いた。

二人が春になったところで目覚めるなんて、まるで越冬した植物のようだ。なんて思った。生命の息吹を感じるこの頃に目覚めるのは、偶然にしてはあまりにもドラマチックに思える。
早く元気になりますように――。二人がいるHCUの病室がある方を向いて、そう祈った。

◆◆◆ ◇◇◇

「おせぇ。何してたんだよ」
「今日も来てくれてありがとな、ナマエ。それにマイキーも」

イザナと鶴蝶が目覚めて一ヶ月程経った。二人はまだまだ本調子ではないようだけど、会話をしたり、多少なら腕や手を動かすことができるようになっていた。そしてリハビリも開始していたので、病室からの出歩きも車椅子に乗ってならできるようになっていた。

私と万次郎くんは、いつものように二人のベッドの間に置かれた丸椅子に座って、二人に声をかけた。

「仕方ねーじゃん。今日は受付が混んでたんだよ」
「ごめんね、遅くなって。でも、今日も元気そうでよかったよ、二人とも」
「知るか」
「イザナ、二人の見舞いを楽しみにしてたんだ。許してやってくれ」
「鶴蝶、何適当なこと言ってんだよ。殺すぞ」
「はいはい、そこまで。あんまりカッカしないの。傷に響くよ?」
「というか、オマエもオマエだ。なんで、よりにもよって万次郎コイツと一緒に来てんだよ」

どうやらイザナの怒りの矛先は、鶴蝶から私に切り替わってしまったようだ。筋肉量が落ち、少し細くなってしまった彼の手が、私の腕を力一杯掴む。握力なども、まだ万全には戻っていないので幾らかマシではあるものの、やはり痛いものは痛い。

「だって一緒に行く人、万次郎くん以外いないし。万次郎くんだって、イザナと鶴蝶のこと、ずっと気にかけていたんだよ?」
「オレはそんなこと頼んじゃいねぇ。それから、いつの間にそんな仲良くなってんだよ」
「そんな怒んなよ兄貴イザナ。傷に響くぜ?」
「あ? テメー……」

万次郎くんは楽しそうに笑っているが、イザナは今にも殴りかかりそうな勢いだ。この場をどうやって収めればいいのか、と私が必死に考えていると、後ろから鶴蝶の声が聞こえた。

「あー……あのさ、マイキー。悪いが、オレちょっと外出たいから、手伝ってくんねェか?」
「えー、なんでオレなんだよ。そういうのはナマエの方が――」
「万次郎くん、お願い。私はイザナの怒りを鎮めておくから。ね?」
「……仕方ねーな。いいよ、手伝ってやる」
「悪いな、助かる」

鶴蝶の見事な助け舟により、万次郎くんは鶴蝶と共に病室を後にすることとなった。私が鶴蝶の方を振り返ると、鶴蝶は一瞬こちらを見て口端を一瞬上に上げた。本当に気が利く子だ。後でお礼を言っておかなくちゃ。

鶴蝶と万次郎くんが病室を出たことで、必然的に私とイザナの二人がここに残った。もちろん他のベッドにも患者さんはいるけど、カーテンで仕切りられ、他の患者さんからは見えないようになっているせいか、なんだか二人きりになったような気分になった。

「あんまり怒らないでよ、イザナ」
「…………オマエ『も』、万次郎アイツのところに行くのか」
「え?」

その声はあまりにも弱かった。弱くて、か細くて、消えてしまいそうにさえ思えた。
びっくりした私は、自分が腰掛けていた丸椅子をイザナのベッドの方へと引き寄せて座り直し、私の腕を掴む彼の手に空いている自分のもう片手を添えた。

「誰が万次郎くんのところに行ったのかは分からないけど、私はずっとイザナの傍にいるよ」
「……ハッ。口では何とでも言えるだろ」

私の腕を掴む彼の手の力が緩まった。私は彼の手の中から腕を抜き、そして彼の両頬を私の両手で包んで私の方を向かせた。

馬鹿だね、本当に。私はずっとずっと、イザナに心が囚われたままなのに。今更イザナ以外の人なんて見向きもできないのに。

両頬を包まれて私の方を向けられた彼の瞳には、不安と諦めの色が見えた。今までの私の言葉や言葉に込めた想いが、彼に一切伝わっていないのは分かっていたけど、まさかこんなにも伝わっていないなんて。そして欠片も彼の心にも記憶にも残っていないなんて。流石に少しだけ悲しい。

でも、伝わっていなかったのなら。心にも記憶にも欠片として残っていないのなら。また伝えればいい。何度だって伝えるよ。伝わるまで。その心か記憶のどこかに、欠片でも残ってくれるように。

「イザナ。私はずっとずっと、イザナのことが大好き。愛してるんだよ」
「……そんなの、口でならなんとだって言えるだろ」
「ならこれからは行動でも示すよ。イザナにちゃんと伝わるように」

そう言って私は彼の薄くカサついた唇にそっとキスを落とした。ちなみに今までは彼に触れることなど一切なかったので、彼に触れるのは目を覚ました時に彼の手に触れた時以来だ。そして何だったらこのキスは私のファーストキスでもある。

「愛してるよイザナ。今までも、そしてこれからも。イザナが死んでも私が死んでも、ずっとずっと愛してる」

イザナはほんの少し目を見開き、その宝石のようにキラキラと輝く薄紫の瞳を震わせた。少しは彼に私の気持ちが伝わった、ということなのだろうか。

私がそっと手を離し、彼の顔を解放する。その場の勢いもあって一連のことをしたけど、今になってだんだんと恥ずかしくなってきた。あぁ顔が熱い。恥ずかしくて彼の顔も見られないから、自然と顔を下げて両手でパタパタと顔を仰いだ。

「ナマエ」

彼の口から私の名前が呼ばれた。名前を呼んでもらったのなんていつ以来だっけ。いや、初めてかもしれない。思わぬ出来事にびっくりしつつも、ゆっくり顔を上げた。視線の先には心做こころなしか優しげな表情をしたイザナの顔が見えた。

彼には失礼だけど、彼がそんな優しい顔をするなんて初めてで。驚きもあったけど、こんな風に優しい顔ができるようになったのか、と思ったら勝手ながら凄く嬉しくて、どんな顔をすればいいのかも、どんな言葉をかければいいのかも分からなくなり、変な表情のまま、黙って彼のことを見つめた。

そんな私に、イザナはそっと片手を伸ばしてきた。伸ばされた手は私の頬を優しく包む。彼特有の、ほんの少しだけ低い体温を感じて、なんだか泣きそうになってしまう。

「どう、したの……?」

黙ったままの彼に声をかける。彼は黙ったまま、私の頬を包む手の親指の腹で優しく頬を撫でた。そして――

「やっと、分かった」

そう言って彼は私の頬から手を離し、私の後頭部に手を持っていくと、そのまま自分の方へと私の頭を引き寄せた。あっ、と思った時には、既に彼の綺麗な銀糸のまつ毛と、薄く伏せられた紫水晶の瞳が視界に広がっていた。

キスをされたのだと気づいたのは、彼の顔が離れてからだった。

「なっ、あ……」
「ふっ、マヌケな面だな」

イザナは小さく笑いながらそう言った。こういうところは本当に変わらない。でもそこもまた愛おしいのが事実でもある。

これが世で言う『惚れた弱み』なのだろうか。

「オマエがずっとオレの横でうるせぇから、覚えちまっただろーが」
「どういうこと……?」
「……『愛してる』、ナマエ。死んでも、オレの傍から離れるな」

その言葉を受けた私は、身に余るほどの驚きと喜びで、感情がぐちゃぐちゃになってしまい、それが涙となって止めどなく溢れ、流れ落ちていった。

「ったく……。オマエ、そんな泣き虫だったのか?」
「ちがっ……! いざなが、きゅうにそんなこと、いうから……!」

私が必死に手で涙を拭っていると、その手をイザナが掴んだ。唐突に掴まれたことで固まった私だったが、涙が溢れ落ちるのは止まらず、なおも涙が頬を伝っていく感覚がした。

「これから、オマエは全部オレのモノだ。髪の毛一本であろうと誰にも渡さねぇ。それと、他のヤツの前では絶対泣くな」

彼が私の頬を伝う涙を指で拭った。その手があまりにも優しくて、胸がキュッと苦しくなった。

「そのぶっさいくな泣き顔も、オレだけに見せろ。……オマエの涙だってオレのだ。だからその涙を拭うのだって、オレ以外はぜってぇ許さない」
「私の涙くらい、私も拭っていいでしょう?」
「……仕方ねぇな。トクベツに許してやるよ。でも、他のヤツらは絶対許さねぇ。鶴蝶であろうと、万次郎アイツであろうとな」
「分かった。じゃあ、イザナが泣いた時は、私が涙を拭ってあげる」
「あ? オレは泣かねぇよ。オマエじゃねぇんだから。……あぁでも――」

そこで彼は言葉を切った。そして彼の手がそっと私の顎を掬い、親指の腹が私の唇をなぞる。その時の彼の表情が、今まで見たことがない、優しい表情だから思わず顔が熱くなる。

「オレに触れることは、いつでもオマエにだけ許してやるよ。ナマエ」

そう言って彼は、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
彼らしいその言い回しと表情に、私はまたうっすらと、今度は嬉し涙を滲ませたのだった。