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それから幾許かの月日が過ぎ、イザナと鶴蝶の二人は晴れて退院が決定した。退院時間を聞いていた私と万次郎くんが迎えに行くと、ほんの少し痩せたように見える二人が、荷物を片手に病院の出入り口から出てきた。二人に合図を送るように手を振れば、鶴蝶は軽く手を振り返してくれたものの、イザナは相変わらずむすっとした表情だけを返した。それが彼らしいので、そんな対応もまた、私の知っている彼が帰ってきたのだと実感する要素でしかなかった。
「退院おめでとう! 二人とも」
「おう。二人とも、迎えまで来てくれてありがとな」
「……なんで
「ンだよ。別にいいだろー?
「あ゙?」
「あーはいはい。せっかくの退院日なんだから喧嘩しないの」
相変わらずイザナは、万次郎くんのことを『弟』としては認めたくないようだが、万次郎くんはすっかりイザナのことを『兄』として見ていた。
だけど私と、おそらく鶴蝶も気づいている。万次郎くんから『兄貴』と呼ばれた時のイザナが、表情こそ変わっていないものの、ほんの少しだけ柔らかい雰囲気をまとっていたことに。多分、まだ彼の中で鶴蝶以外の『家族』を受け入れるのに時間がかかっているだけなのだ。慕われること、愛されること、それらにまだ慣れていないだけ。
「今日はオレたち以外にも来てんだぜ」
「オマエら以外にも? でもオマエら以外に、オレたちのことを迎えに来るようなヤツなんて――」
「退院おめでとう! ニィ!」
「二人とも、無事退院できたみたいで安心したわ。退院おめでと」
「……エマ」
「オマエは確か、ドラケン……」
私たちよりも遅れてやってきたのは、万次郎くんの友人であり腹心のドラケンくん、そして彼の彼女さんであるエマちゃんだった。万次郎くんとエマちゃん本人から聞いたのだが、エマちゃんはイザナの妹だそうで、幼い頃に離れ離れになってしまったのだとか。
エマちゃんは万次郎くんからイザナたちを迎えに行く話を聞いた時、「ニィに会いたい!」と言ったので、一緒に来ることになった。そしてドラケンくんは、エマちゃんの『お兄さん』に会ってみたいということで、エマちゃんと一緒に行くことにしたそうだ。
「ニィ、ちょっと痩せた?」
「……なんで、来た」
イザナは困惑の色を浮かべてそう言った。事情を知らない私は、どうにも彼の言葉の真意が分からなかったが、横にいる万次郎くんとドラケンくんの様子を見る辺り、イザナに関することで、エマちゃんに何かあったのは明白だった。
イザナの言葉を受けたエマちゃんは、パチパチとその大きな瞳を瞬かせた後、ふわりと笑って「だって、やっとちゃんとニィに会えるから」と答えた。離れ離れになってしまったとしても、エマちゃんの中にはずっと『ニィ』がいたんだね。
「ニィが、ウチやマイキーのことをあんまりよく思ってないとしても、ウチもマイキーも、ニィのことを『お兄ちゃん』って思ってるよ」
「……ンだよ、それ」
イザナが小さく言葉を漏らした。表情こそ嫌そうだと取れるものだが、これはおそらく嫌がっているわけではない。受け止め切れていなかったり、理解ができていないだけだ。
「……帰るぞ、鶴蝶。ナマエ」
「は? っておいイザナっ! 待てよっ!」
「あっ、待ってよニィ! ニィも一緒に帰ろうよ!」
「ちゃんと受け止めるには、まだまだ時間がかかりそうだね。これは」
「イザナのヤツも素直じゃねーな」
「素直になるのも、これから少しずつ、だよ」
「オイ、ナマエ!」
その場に留まってエマちゃんたちと話をしていると、少し離れたところにいるイザナが、こちらを振り返って私のことを呼んだ。まさかこうやって彼から呼ばれる日が来るなんて。と勝手ながら一人喜んでしまう。入院中、何度も名前を呼ばれることはあったけど、やっぱり慣れないものだ。
「呼ばれたから行くね。またね!」
「またね!」
「気をつけろよー」
「またな」
三人から別れの言葉を受けつつ、少し先にいる彼の元へと駆ける。先に見えるイザナと鶴蝶の表情は穏やかだ。
二人がこれからどうするのかは分からない。もしかしたらまた不良の世界へ戻るのかもしれないし、そうではないのかもしれない。本音としてはもう戻ってほしくないけど、二人の意思が優先されるべきことだから、そういうところでは部外者となる私は、二人の決定に異を唱えることはできない。だけどやっぱり、あんな大怪我をするかもしれない世界に二人が戻らないでほしいと思ってしまう。……もちろんこれは胸に秘めておくつもりだけど。
「おせぇ。さっさと来い」
「ごめんね。エマちゃんがちょっと寂しそうだったから、フォローしてたの」
「……そうかよ」
「いいのか? あんな態度取ったままで。イザナも本当は――ってェッ!!」
鶴蝶の太ももに鋭い蹴りが入った。蹴られた鶴蝶は、その場でしゃがんで太ももを押さえながら悶絶し、イザナはそれを横目に、スタスタと歩いて行ってしまった。流石に鶴蝶を置いたままではいけないので、しゃがんでいる鶴蝶の隣にしゃがんで声をかけた。
「大丈夫? 立てそう? 歩くの大変なら肩貸すよ」
「いや……大丈夫だ……。オレのことはいいから、ナマエは早くイザナのところに行け。じゃないと――」
「ナマエ。オマエ何してんの?」
これは完全にお怒りの声色だ。頭上から降ってきた声の主を見上げると、怒りの色を浮かべた、無表情のイザナが私たちを見下ろしていた。
イザナはしゃがんでいた私の腕を掴み、グッと力任せに引き上げて私を立たせると、腕を掴んだまま引きずるかのように、私を引っ張って歩き出した。いやそんなに引っ張られると、足がもつれて転ぶ――
「わっ!」
「……どんくせぇな」
案の定足がもつれた私は、バランスを崩してその場で転んでしまった。このあとすぐに固いコンクリートとこんにちはをする。そう思って、次に来る痛みと衝撃に耐えようと覚悟を決めていたが、その覚悟は無駄に終わった。というより正しくは空振りした。
私の倒れた体は、イザナによって抱き止められていたのだ。予想外の出来事に、私は大混乱して頭の中はパニックになる。だって私、まだこんな至近距離にいたことがなかったし、何より――今回は事故だけど――こんな風にイザナに抱きしめられることも、ほとんどなかったのに。
ふわりと香るイザナの匂いが、私の鼻をくすぐる。カラン、という聞き慣れたピアスの音がすぐ近くで鳴った。こんな、少女漫画の一コマみたいなことが起きるだなんて聞いていない。こんなの心臓に悪すぎる。
心臓が暴れ回る勢いで鳴るものだから、そのまま勢いあまって口から飛び出してくるのではないかと思い、思わずギュッと口を閉じる。とりあえず、恥ずかしいし早く退いた方がいい、となけなしの理性が叫ぶが、恥ずかしいのにもう少しだけこのままでいたいと思ってしまい、体が動かなかった。
「いつまでそうしてるつもりだ。さっさと退け」
「えっあっ、ご、ごめん」
痺れを切らしたイザナから言葉をかけられ、我に返った私は慌てて退いた。顔の熱さも、早鐘を打つ心臓も、何一つとして収まってはいないので、思わず下を向く。すると私の両頬を、少しだけ冷たいイザナの両手が包んで、そのままグイッと上を向かされた。
「面白いくらい真っ赤だな、顔」
そうやって意地悪に笑うところも、また絵になるのだからズルい人だ。だけどそんなところも好きなのだから、私はつくづくイザナにベタ惚れなのだと実感する。もっとも、ベタ惚れなのは事実だからいいのだけれど。
「その顔、オレの前以外ではするなよ」
そう言った後、イザナは私の両頬から手を離して私の手を握った。そのまま再び歩き出したイザナだったけど、その歩幅もスピードも、さっきとはてんで違って、私に合わせたものだった。
ズルい人だ、本当に。横暴さもあって、オレ様で、素直じゃなくて、言葉よりも先に手が出ることも多々あるというのに、さっきのように抱き止めてくれたり、今のように手を握って私に合わせた歩幅とスピードで歩いてくれる。そういう、些細だけど確かな優しさに、私は本当に弱かった。
側から見れば『恋人としては良いとは言えない』なんて思われそうだけど、でもこれがイザナだ。何よりイザナは、私が勝手に隣で愛を伝えようと必死になっていた時期から、私に手をあげることだけはしなかったのだ。
本当にズルくて、不器用で、愛おしい人だ。
「イザナ」
「なに」
「さっきは受け止めてくれてありがとう」
「……別に」
イザナはこちらを見ずに歩き続けた。ちらりと見えた横顔から、彼が少しだけ照れているのが分かり、また愛おしさが溢れる。
私は、握り返していた手に少しだけ力を込め、半歩先を歩いていた彼の隣に並んだ。
やっと隣に並べた。今までは、私が勝手に彼の隣にいただけに過ぎなかったのに、今はちゃんと『隣に並んでいる』と言える。いつだって見えないくらい遠くにいた彼だったが、ようやく彼の元に辿り着けたような気がした。
「そういえば」
ふと、彼が立ち止まって私の方を見た。ぱっちりと開かれた瞳が、真っ直ぐ私の方を見ている。何度見ても思うことだが、彼の瞳は、意識が吸い込まれてしまいそうな深さと美しさがある。思わずぼぅっと彼のことを見つめていると、彼が言葉を続けた。
「オマエ、
そう言って彼は、空いている片手で私の頬を摘んで横に引っ張った。結構痛い。少しは手加減をしてほしいものだ。だけど、こんな時でも手は繋いだままなんだ、と思ったら可愛いな、と思ってしまう。……可愛いと思ったら思わず顔がにやけてしまったようで、それに気づいた彼が更に頬を引っ張った。痛い痛い。
「見舞いも一緒に来てたよなぁ?
「え、っと……」
『こーしてるの、
不意に万次郎くんの言葉を思い出した。万次郎くんは『こうなる』ことを知っていたから、あの時ああ言ったのか。なんて一人納得する。だけどごめんね、やっぱりバレちゃってたみたい。せめて怒りの矛先が万次郎くんに行かないよう、精一杯頑張るので許してほしい。
「言え。
「どこまで、って……。後ろに乗せてもらったことと、ヘルメット付けてもらったくらいだよ」
「……チッ」
イザナは摘んだ頬を離すと、盛大な舌打ちをした。どうにも気に食わなかったようだ。別にやましいことなんてないと思うんだけど……やっぱり二人だったことが気に食わなかったんだろうか。それも自分が認めていない『弟』となものだから余計に。
未だ痛みと熱を持つ頬を撫でながら、どうしたら機嫌を直してくれるんだろうと考える。色々考えてみた結果、私の出した結論はこれだった。
「これからは、イザナの後ろに乗りたいな。あとヘルメットの付け方、教えてほしい」
「……今はそれで許してやる。でも――」
カラン、と彼のピアスが鳴ったと同時に、すっと耳元に寄った彼が静かな声で私に言葉をかけた。
「オマエが
ボッと顔に火が付いた。いや、もちろんこれは比喩だが、一瞬で燃え上がったかのように顔も、なんなら耳先まで熱くなった。きっと今の私は、顔も耳先も真っ赤に染まっているだろう。だって私の耳元から顔を離したイザナが楽しそうに、満足そうに笑っているんだから。きっとそうなんだろう。
「
「ひゃい……」
* * *
その後、しっかり彼の家に連行された私は、洗いざらいイザナに白状することになった。白状していた時のイザナの顔は……ある意味とても怖かった。きっと生涯忘れることはないだろう。
でも意外だった。イザナがここまで私に対して独占欲というか、執着心というか、そういうものを抱いているとは思わなかったのだ。私は勝手にイザナに一目惚れをして、勝手に心を囚われて、勝手に隣に居座って気持ちを伝えていたにすぎない。つまりは自己満足であり、独り善がりの行動だった。
だから、イザナに冷たくあしらわれるのも仕方のないことだと思っていたし、彼が私の言葉に返答をしないことも普通だと思っていた。どれもこれも覚悟の上だったし、見返りとか返事とか、そういうのも一切考えていなかった。果たして彼は一体いつから、そういう感情を抱いていたのだろうか。
尋問が終わると、狭いソファの上に二人で倒れ込むように横になって、そのまま抱き枕のように抱きすくめられた。下手に体を動かしたらイザナがソファの下に落ちてしまうので、動こうにも動けない。反対に私を抱きすくめる彼は、何も気にしない様子で静かな寝息を立てながら穏やかに眠っている。全く器用なものだ。
「……生きてる」
上手いこと答えが出ないことを考えるのをやめた私は、ほんの少しだけ頭を動かして彼の胸に耳を当てた。一定間隔で脈を打つ心音が微かだが聞こえる。人の心音は安心する、なんてどこかの誰かが言っていた気がするが、なるほど。確かにこれは安心する。それも生死を彷徨っていたイザナの心音だから、余計に。
心音と彼の体温によりだんだん瞼が重くなってきた私は、小さく欠伸を一つしてそっと目を閉じた。心の中でそっと「おやすみ」と彼に声をかけて。
次に彼が目覚めた時、その視界には嬉しいことに私がいて。この音も物も少ない部屋に、部屋の主である彼の呼吸音と私の呼吸音が微かに聞こえて。それだけでどうしてかとても泣きそうになってしまう自分がいることに気づいた。
生き延びてくれたこと、自身へ向けられた様々な好意に目を向け始めてくれたこと、『家族』の存在に気づけたこと、隣に居させてくれたこと……今に至るまでにたくさんの嬉しいことが積み重なっていった結果が原因であることは明白だ。それくらい、どれもこれも私にとっては泣いてしまいそうになるくらい、嬉しいことだった。
彼が目を覚ますのが先か、私が目を覚ますのが先か、どちらが先かは分からないけど、次に私が目を覚ました時には彼のことを思い切り抱き締めよう。そしてこの胸の内に溢れる彼への愛を、有り触れた、でも一番素直で真っ直ぐに表せるあの言葉で伝えよう。
きっと今の彼になら、その言葉に込めた私の想いも伝わるだろうから。これからまたたくさん伝えていこう。
あなたに出逢えてよかった。あなたを好きになれてよかった。あなたを愛してよかった。あなたの隣に居続けてよかった。
今までもこれからも、愛しているよ。イザナ。