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イザナと鶴蝶が退院してしばらく経った。二人はどうやらもう不良の世界には戻らないらしい。理由は教えてはくれなかったけれど、二人には申し訳ないが私としてはとても安心した。
私はまた元の日常生活に戻った。平日の日中は学校に、放課後はバイトに行き、土日にはイザナのところに顔を出す。変わったことといえば、学校やバイト終わりにイザナが迎えに来てくれるようになったことと、顔を出す先が天竺のアジトからイザナの家になったことくらいだ。
「お待たせ!」
「さっさと帰ンぞ」
言葉や声色はぶっきらぼうだけど、差し出された手にそっと手を乗せると優しく繋いでくれる。歩き出せば歩幅やスピードを合わせてくれる。たまに荷物が多い時は少しばかり持ってくれる。そういう細かいところに彼の優しさを感じて、その度に私の胸は暖かくなった。
まだまだツンケンしたりトゲトゲしているところはあるけれど、それでもだいぶ優しくなったんじゃないかと思う。丸くなった、というとイザナが怒るので言わないでおいているけど、おそらくこの言葉が一番正しいだろう。イザナはだいぶ丸くなった。
「オマエ、またオレに対して『丸くなった』って思ってただろ」
「えっ」
「顔に書いてあんだよ」
不機嫌な表情でそう言うイザナ。最初の頃だったら多分言葉と一緒に結構な力で頬をグイッと摘まれていたと思うが、最近はそれも少なくなった。……やっぱり丸く、いや優しくなったと思う。
呆れたように彼がため息を吐いた直後、私のバッグに入れてある携帯が鳴った。取り出して見ると、エマちゃんから電話がかかってきていた。
「ちょっと出るね」
「さっさと終わらせろ」
一緒にいる時間を邪魔されると大体いつもこんな感じでむすっとする。これは最近分かったこと。可愛いなぁ、なんて思いながら私は電話に出た。
「はい、もしもし」
『あっ! ナマエ、今大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ。どうかしたの?」
電話の内容は『今週末にイザナと鶴蝶の退院祝いを佐野家でする』というものだった。言われて気づいたが、そういえば二人の退院祝いをまだできていなかった。でも多分、鶴蝶は了承してくれるけどイザナは首を横に振るだけだろう。
だけどこれはイザナと万次郎くん、そしてエマちゃんがちゃんと話せるチャンスなのではないか?
「分かった。ちょっと交渉してみるよ」
『ありがとう! 一応予定時間は――』
エマちゃんからお祝いパーティーの予定時間を聞いてから電話を切る。「おまたせ」と声をかけてイザナの方に視線を向けると、あからさまな不機嫌顔でこちらを見ていた。こういうところは歳に見合わずで可愛いなと思う。
「誰と何の話だったんだよ」
「エマちゃんから、イザナと鶴蝶の退院祝いを今週末にしようと思ってるから、来ないかって話だよ」
「ぜってぇ行かねーからな」
「そう言うと思ったけど、行ってみない?」
「行かねぇって言ってるだろ」
イザナは私の手と繋がっている手にギュッと力を込めると、そのままズンズン歩き出してしまった。ううん、これは完璧不機嫌だ。困った。こうなると彼の扱いはちょっと大変になる。別に扱いなどは何ら苦ではないものの、説得するのが難しくなる。
これから向かうのはいつもと変わらず彼の家だろう。さて、家に着くまではまだ時間が少しある。この間に何かいい案が浮かべばいいのだけれども。
* * *
結局いい案は浮かばないまま彼の家に着いてしまった。彼が玄関のドアを開け、私を引っ張って中へと入れた。
私が入り一拍置いてから後ろで扉がバタンと閉まる。私がいつもの癖で扉の鍵を回そうと上半身を扉の方へと捻ったその時だった。
「……祝いなんざ、オレとオマエと鶴蝶の三人だけでいいだろ」
一足先に靴を脱いで部屋に上がっていたイザナがぽつりとそう呟いた。これは貴重な彼の素直な言葉だ。
「お祝いはしていいの?」
「……オマエがしたいならな」
どうやらお祝いはしてもいいみたいだ。まずは第一段階はクリアだ。あとは何とかもう一押しできることを私が言えたら、何とかできるかもしれない。
「私はしたい。でも、ど――」
「
「頑なだね」
鍵をかけた私は、靴を脱いで部屋にお邪魔しようと思ったが、イザナがその場に立ったままなので上がりたくても上がれない。なのでとりあえず彼の前で立ち止まる。彼は真っ直ぐ私のことを見つめるだけで、動くことも口を開くこともない。……うん、これは多分本当に行きたくない、という意志の現れだろう。
「どうして二人とは嫌なの?」
「……
「そう……」
「それに……」
珍しい。イザナが言い淀むなんて。いつもはあんなにもハッキリと、堂々とモノを言っているのに。どうしたんだろうか。
私が気になって彼に声をかけようとした時、私の口から言葉が出る前に彼が私のことを苦しいくらいに抱き締めた。急だったので少し驚いたものの、私は抱き締め返して彼の背中をゆっくりと撫でた。その胸につっかえている言葉を、想いを、私に聞かせてほしい。そんな想いを込めながら、私は彼の背中を撫でた。
「オマエはオレのだ。誰にも渡さねぇ」
「うん、そうだよ。私はイザナの……」
ここで今度は私が言い淀んだ。私はイザナの何だろう? モノ、というのは少し違う。というより、私はイザナの『所有物』になりたいわけではない。理想を言うのであればそう、イザナの『恋人』になりたい。
確かにこれまで恋人らしいことはしてきた。言葉にするには少し恥ずかしいことも……無きにしも非ず。だけど私はここで肝心なことに気づいてしまったのだ。
私は、イザナからたった一度だけ『愛してる』と言われたが、それ以外はずっと『所有物宣言』ばかりしかされていなかった。
私が変なところで言葉を止めてしまったせいで、イザナが私を抱きしめる腕に力を込めた。彼の腕から与えられるものが苦しいから痛いに変わってきた、これは怒ってるな。そりゃそうだろうけど。
「イザナは……私のことどう思ってる?」
聞いてみたくて、でも聞いてはいけないような気がして、ずっと聞けなかったこと。それを私はついに言葉にしてしまった。きっとイザナはこういうことを聞かれるのは好きじゃない。そういうのは総じて『面倒臭い』と思うだろう。だから多分、返答の言葉としては「は?」からの「めんどくせぇ」とかだろう。
これはマイナス思考ではない。勝手に隣にいた時からずっとイザナのことを見ていて、そこから得た情報とかから推測したに過ぎない。だから決して、彼に本当に好かれているのかとか、やっぱり私の想いは報われないままで終わるんじゃないか、なんていうマイナス思考から至った結論ではない……ないはず。
「……オマエ、オレがどうとも思ってねぇヤツに対して、こんなことするとか思ってんのかよ」
少しの怒気を孕んだ声。その直後、私の後頭部が思い切り掴まれたかと思うと、食べられてしまうのではないかというくらい性急で、激しい口付けが私の唇を襲った。普段なら多少は呼吸をする余裕をくれるのに、今はそんな余裕も隙も一切与えてはくれない。そのうち呼吸のタイミングを失ってしまい、乱れて酸欠になり始めた。ダメだ、頭がクラクラしてきて体に上手く力が入らない。
脚の力が抜け始めたところでようやく解放された。酸欠の影響で生理的な涙が浮かんで視界がぼやけているが、視線の先にいる彼の顔が不機嫌度マックスなのは分かる。
「い、ざな……?」
「オマエはオレの
「わたしは、イザナの『モノ』になりたいわけじゃ、ない……」
「ならこう言えばいいか? オマエはオレの『嫁』だ、って」
いやそれはぶっ飛びすぎじゃない? なんて冷静な言葉がふわりと頭の中に浮かんで消える。そういえば不良たちの内では、恋人のことを『嫁』って言ってた気がするな。確かそう、蘭に「ナマエは大将の嫁なんでしょ」なんてこと言われた気がする。ようやく酸素が回り始めた頭で考える。そういえば万次郎くんも私のこと『イザナの嫁』って言ってたっけ。……あぁ、そういうことか。
理解できていなかったのは私だったようだ。だけど、私も全部が分かるわけではないからこれからもこうやって直接的な言葉にしてくれたら嬉しいな、とも思った。そうやって言葉にしていくこともまた、彼が愛や好意を受け入れられるようになる一歩だと思ったから。
「ちょっと恥ずかしいけど、それがいい。……ありがとう、イザナ」
「ここまで言わねぇとわかんないのかよ、オマエ」
「うん。でも人間って皆そんなもんだよ。私の推測にも限度がある。だからこれからもたまにでいいから、今見たいに言ってくれると嬉しいな」
そう言うと、彼はふん、と鼻を少し鳴らしてから私を腕の中から解放した。そして数歩廊下を進んだ後でこちらに視線を投げて「早く来い」と一言言った。私は急いで靴を脱ぎ、一足先に正面にある脱衣所へと向かう彼の背を追った。
* * *
二人でソファに腰掛けて、適当に夕方のニュース番組を垂れ流す。私はこのゆるりだらりとした時間が好きだ。
だけどその時間に浸っている場合ではない。私のお祝い会交渉はまだ終わっていないのだから。
「あのさ」
「あ?」
次に続けようと思った言葉が中々喉元から出てきてくれない。これを自分で言うのは中々恥ずかしいもので、しっかり腹をくくってから声をかけるべきだったなと少し反省をした。
隣に座る彼が次の言葉を待っている。私はその場で小さくゆっくりと呼吸を一回すると、喉元でつっかえていた言葉を発した。
「お祝い会、やっぱり一緒に行きたい」
「……だから、オレは――」
「わ、私をイザナの『嫁』としてっ! 二人に紹介するって、名目で行くとかはどうかなー……なんて」
言ってしまった。ついさっき彼から言われたとはいえ、やはり自惚れているんじゃないかとか、自意識過剰なんじゃないかとか、そういう意味の言葉が頭の中で次々に飛び交う。正直恥ずかしすぎて今すぐにでも撤回したい。「やっぱりナシ!」と言いたい。だけどここで私が撤回してしまったら、万次郎くんとエマちゃんの二人と、イザナが話す機会を失ってしまう。交流の機を失ってしまう。そう考えて羞恥から生まれた撤回の言葉たちを必死に飲み込んだ。
羞恥から泳いでいた目でちらりとイザナを覗き見る。彼はさっきまで窓の外を見ていたのに、いつの間にか私の方に視線を向けていた。おかげでバッチリ視線が交わってしまった。これはもう蛇に睨まれたカエル状態だ。視線を外すことができない。
「へぇ?」
至極面白そうだ、と言わんばかりの声色。あ、これは楽しんでる。
嫌な予感がする。こういう時の予感というのは、大概当たるものだ。
「なら、行ってやってもいい」
そっと頬に手が添えられ、優しく親指の腹で頬を撫でられる。こうやって触れられるのは心地よくて普段はとても好きだが、今に至っては少し緊張する。何せ彼の表情が楽しそうだと言わんばかりのものだから。
「アイツらに教えておかねぇといけないよなぁ。オマエが誰の女なのか。じゃないと、アイツらがベタベタオマエに引っ付くからな」
彼の嫉妬心は同性にも向けられることを今知った。うーん、これは難しい。エマちゃん、とっても可愛くて妹みたいだったから会うと必ずハグしてたんだけど、それもできなくなってしまうのか。ちょっと寂しいな。
「万次郎くんはともかく、エマちゃんともハグするのはダメなの?」
「当たり前だろ」
「エマちゃんにはもうドラケンくんがいるのに?」
「関係ねぇ」
「私の一番はいつだってイザナなのに?」
たとえ万次郎くんとハグしようと、それは弟を可愛がることと同じこと。特別な感情なんてない。エマちゃんに至っては更に、だ。仮に私が女の子も恋愛対象だったとしても、ドラケンくんと結ばれた彼女を取るような真似などする気はない。
二人とも可愛い弟と妹のようなもの。いつだって私が一番好きな人も、愛している人も、イザナだけだというのに。意外と心配性なんだろうか。それとも実は私に信頼がない、とか……?
「私は二人の家族でもなんでもないけれど……万次郎くんもエマちゃんも、可愛い弟と妹みたいに思っているだけだよ。私が恋愛として一番好きなのも、愛しているのも、イザナだけだよ」
恥ずかしいけど、言葉にしなければ伝わらない。身を持って知っているからこそ、私は自身の羞恥を我慢して彼に精一杯の愛を伝えた。
彼は大きな瞳を瞬かせた後、ふい、と視線を私から外してしまった。どことなく耳の先が赤い気がする。……もしかして、照れてる? もしそうなら悶絶するくらいは可愛い。
「でも、イザナが嫌だと思うことは極力しないようにはするね」
「そうしろ」
視線は相変わらず外されたまま。でも耳先の赤らみはまだあるように見える。あまりの可愛さに私は思わず彼に抱き着いた。
急に抱きつかれたのにも関わらず、イザナは持ち前の体幹の強さでバランスをほとんど崩すことなく私を受け止めた。思えばイザナもイザナで細身だけど、身体にはしっかり筋肉がついてて、しっかりしてるんだよなぁ。なんて呑気なことを思う。
「イザナ」
「……なんだよ」
「大好き。週末、鶴蝶も一緒に佐野家に行こうね」
そう言えば、イザナは私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてから「分かったよ」と答えてくれた。