9話
どうしてここにオレの家族が描かれた大きな絵が飾られているのかは分からない。そもそも一体いつどこで描かれたんだ。ルナとマナの姿からしてそう昔のことではないはず。そして何より、どうしてオレだけがいないのか≠ェ謎だった。
「……なんでこんな絵があるのかはわかんねーけど、一旦今は置いとこう。まずはこの部屋の中を調べる方が先だ」
「う、うん」
気にならないと言ったら嘘だ。だがここで気を取られていたら先には進めない。オレは絵の方から意識を無理やりずらし、部屋の中を改めて見回した。
見回して気になったのはやはり、右手奥に置かれたキャンバスだった。何かが書かれているのはここから見ても分かるが書かれているものは上手く見えないので近づくしかない。
「ナマエ、歩けるか?」
「うん」
「よし。じゃあまずはあっちのキャンバスから見てみるぞ」
ナマエの手を引いてキャンバスの方へと近づく。キャンバスに設置された紙に書かれていたのは文字だった。
『疲れたのなら ゆっくりお休み? もう苦しむことも なくなるから』
それは甘い言葉だった。だけど同時に、オレたちにここで死ね≠ニ言っているも同然の言葉だった。
一体誰が何の目的でオレたちをここに連れてきたのかは分からないが、おそらくその黒幕がこの言葉を書いたのだろう。どうしても、オレたちにここにいてほしいようだ。
だが生憎こちらはそんな気など毛頭ない。オレは一度だけそのキャンバスを睨みつけると、あの絵が掛けられた壁の方へと向かった。
「さんにん=c…」
「なんか、そのまんまのタイトルだな」
「うん」
オレの家族が描かれた絵にもタイトルが付けられていたらしく、絵の入った額縁の下のスペースにタイトルの書かれた白い板が設置されていた。
板にはさんにん≠ニひらがなで書かれているだけで、あとは何もなかった。やはりなんでこんな絵があるのかよく分からない。
そのまま絵の隣にある等間隔に置かれた本棚たちを見る。本はもちろん本棚自体も調べて見ると、三つ並んだうちの真ん中の本棚。入っている本が一番少ない背の高い本棚が動かせることが分かった。
パッと見てから想像する本棚の重さ的に、押してなら動かせそうだった。そのため左右のどちらか片方に動かすともう片方には動かせないため、二人で相談した結果、本棚の後ろにある窓を塞ぐように本棚を右側に動かすことにした。
「とりあえずこの部屋は一通り探したな」
「うん。鍵とかヒントとか、そういうのが無かったのは残念だったね」
「まぁそういうこともあるだろ。……じゃあ外に出るか」
一通り見て何も無かったことは確かに残念だったが、何も起こらなかったことに関しては良かったと思う。何せオレもナマエも精神的にだいぶキていたから、こんな小さな空間であの女たちのようなヤツらに襲われたら上手く対応できるとは思えなかった。
一息つけたことでお互い少し落ち着けた。だから再びあの女たちがあちこちにいる部屋に戻るとなっても、きっと上手く逃げることができるはず。そんなことを考えながら部屋のドアノブに手をかけた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「ドアが開かないんだ。オレ、鍵は閉めてなかったよな?」
「うん。閉めてなかった……」
嫌な汗が背中を伝う。その時だった。
ドンドンドンッ ドンドンドンッ
「何っ?!この音っ」
目の前のドアを誰かが強く叩く音がした。
「外からだ。……ドアの前に誰かがいる」
「そんなっ!私たち、ここに閉じ込められたってこと?!」
ナマエが青ざめた顔で叫ぶように言う。どうしたら、と考えていると今度は背後の壁の方から大きな音が聞こえた。
ドンドン、という鈍い音。それはまるで何かを叩いて壊そうとしている音のようで――
ドンッ!
「きゃあっ!!」
「壁まで壊せるのかよコイツらっ!!」
絵の掛けられた壁の右側、窓のない方の壁の下側が外から叩き壊されて穴が開いた。瞬間、この部屋の外を徘徊していたはずのあの女が二人、この部屋に入ってきた。
ナマエはパニックでボロボロと涙を零しながらオレに抱き着いてきた。オレは守るように彼女の肩を抱いた。
女たちは白いソファを乗り越えることも押し退けることもできず、迂回してこちらへやってこようとしてきている。彼女の肩を抱くオレの手のひらにじとりと汗が滲むのが分かった。
なんとか、なんとかしてここから脱出しなければ。脱出ができなかったら、オレたちはここで――
「ナマエ、逃げるぞっ!!」
「でもどうやって!」
「あの穴、あそこから外に出れるはずだっ!」
部屋に入ってきた女たちがソファを迂回し終わりそうなのが見える。今この瞬間に走り出さなければ、きっとオレたちはここで死ぬ。
彼女は恐怖で震えていた。ただの人間ならオレがここで残って何とかできたが、相手は人間ではない。それにオレたちの命は今、片手に握られているバラとなっている。
逃げる道しか、なかった。どれだけ怖くても、あの穴の先にまだあの動く美術品たちがいると分かっていても、ここから出なければいけない。もう十メートルほどまで死が近づいてきているから。
オレはナマエの肩から手を離し、彼女の体を自分から引き剥がした。そして彼女の手を取り、壁に開いた穴に向かって走った。
繋いだ手に力を込める。この手は絶対に離してはいけない、離すわけにはいかない。必ずナマエと一緒にこの場所から逃げて、脱出する。そんな思いを、力と一緒に手に込めた。
何とか穴から外に出たオレたちは、外の空間の変わりように一瞬肝が冷えた。
あの部屋に入る前までは動いていなかったはずの頭のない黒いマネキンたちが、両腕を上げて動き回っている。花瓶とキャンバスが置かれていた部屋と張り紙が貼ってあった部屋の前には、あの真っ白な首だけのマネキンが鎮座していて扉を塞いでいた。そしてもちろん、あの女たちもあちこちで動いている。
終わった、と思った。
これだけ逃げ道が塞がれているのだ、もう逃げ込める場所などない。
両側から頭のない黒いマネキンや女たちがオレたちを探し回るような動きをしている。見つかるのは時間の問題で、見つかったあと襲われるのも時間の問題。
後ろにある穴の奥から女たちが額縁を引きずって這いずる音がする。八方塞がりとはこういうことを言うのだろう。
「タカちゃん……っ」
怯えた声でナマエがオレを呼んだ。そうだ、ここでオレが立ち止まったらオレだけじゃなく彼女も死ぬ。彼女が死ぬことだけは絶対にあってはならない。
オレはふぅっ、とその場で息を吐くと彼女の方を向いて笑った。正直上手く笑えたとは思えないが、それでもオレがビビった顔をしていたら彼女はもっと不安になるから。たとえ下手くそな笑みでも、ビビった顔になっていなければそれでよかった。
「ナマエ、大丈夫だ。オレが先導する。……一緒にここから出るぞ」
「……うんっ」
ナマエは少し乱暴に残っていた涙を手で拭うと、まだ少し潤む目で真っ直ぐオレを見て力強く頷いた。それに応えるようにオレも頷くと、再び前を向いた。
右手側からは既にあの頭のない黒いマネキンや女たちが迫ってきているが、左側にはまだオレたちを見つけられていない女が一体だけ彷徨っていた。
彼女の手を握り直す。覚悟を決めて走り抜けなければいけない。もう一瞬だって迷うことも、戸惑うことも、そして怯えることも許されない。それでもここに留まっていたら死ぬことは確定している。
オレは地面を蹴って走り出した。
* * *
一瞬の迷いが、小さな判断ミスが、オレたち二人の命を危険に晒すものになる。
走って逃げて、先へと繋がる場所を探す。でもどこを見ても見えるのは、見慣れた温度のない灰色の壁と、オレたちを狙って追いかけてくる女やマネキンたちの姿だけだった。
抱いた恐怖は簡単に消えるものではない。逃げているこの間にもオレの心臓を冷たい手で撫でてくる。その度にぞわりと寒気がして身震いしそうになるが、それを堪えてひたすらに走った。
女たちを何とか掻い潜り、この中でも一切動いていない三体のマネキンが壁の終わりに立っているところまで逃げてきた。次の逃げ道を探すために辺りを見回すと、ちょうど三体のうち二体目と三体目のマネキンの間にある通路の奥に、少しだけ開いた扉が見えた。
「扉だ!」
偶然にも扉まで続く通路にはマネキンも女もいなかった。チャンスだと思ったオレは、彼女の手を引いてその扉まで必死に駆けた。
開いた扉が作る隙間に体を滑り込ませるようにして中へと入り、急いで扉を閉める。バタンッと強い音が静まり返る薄暗い灰色の空間に響き渡った。
「……はぁぁ」
扉を叩く音は聞こえない。きっとヤツらはこちらに来ないのだろう。
あの恐ろしい鬼ごっこからようやく解放されたのだと思った瞬間、オレの足から力が抜け、壁に背中を預けてずるずると下へと座り込んでしまった。
情けない。だけど本当に、怖かった。
「ナマエ、大丈夫か?」
「うん。ありがとう、タカちゃん」
「おう。……ってまぁ、こんなんじゃカッコつかねェけどさ」
そう言って力なく笑えば、ナマエもつられて少し笑ってくれた。
もう少しだけ休まないと立ち上がれないな、なんて考えていると、不意に彼女がオレの隣に座った。そして床に預けていたオレの、バラを持っている方の手にそっと彼女が手を重ねてきた。
「どうした?」
「怖かった、ね。さっき」
オレの手に重なるナマエの手が震えている。彼女の下にあるオレの手が震えていなければいいけど、未だバクバクと大きな音を立てて鳴っている心臓の様子からするに、震えていてもおかしくはないかもしれない。
この先にも、さっきみたいなところがあるのだろうか。そう考えたら、恐怖心がまたじわじわと滲み出てきた。情けねェ。
「タカちゃんも、怖かった?」
「――っ」
ここでちゃんと「怖くなかった」と答えられたらよかった。だけどどうしてもその一言が喉元でつっかえてしまい、上手く言葉が出なかった。その様子を見たナマエが察したのか、眉を下げて「そうだよね」と一言言い、オレの肩にそっと頭を預けてきた。
「怖かったよね。きっと私よりずっとずっと、怖かったよね。私の手を引いて前を走ってくれていたから。後を追うだけだった私より、ずっと……」
「……ンな風に言うなよ。確かに少しは怖かったけど……ナマエがいてくれたから、オレは前に進めたんだ。ありがとな」
そう言って肩に乗るナマエの頭を撫でると、彼女は小さく鼻をすすった。
オレがもっとしっかりしなくちゃいけない。この先どんなことがあっても、さっきと同じようにたくさんの美術品たちから追いかけられたとしても、オレの心臓を撫でるこの冷たい恐怖を押し殺して前に進まなければいけない。
それがきっと、ナマエを安心させるから。
「この先、何があっても必ずオレが守る。だからナマエは一歩後ろにいて、オレの手を握っててくれ。そしてオレを信じてくれ。……そしたら、オレはどんなことがあっても絶対にひよったりしねーし、前に進めるからさ」
そう言って笑えば、彼女も笑って頷いてくれた。
「よし、そろそろ進むか。ナマエ、行けそうか?」
「うんっ」
オレたちはその場で立ち上がり、お互いのバラを持っていない方の手を繋いだ。
前を見ると、まだまだ冷たい灰色の廊下が続いていた。
恐怖心はまだオレの中にいて消えていない。でもこの繋いだ手の暖かさと、その先にいるナマエの存在がオレを奮い立たせてくれた。
「よし、行こう」
彼女の手を引き、オレは廊下の先へと一歩踏み出した。