10話
マネキンのように真っ白い肌をした、不気味な男の顔の絵が等間隔に飾られている廊下を歩く。オレの一歩後ろにはナマエが居て、しっかりとオレの手を握ってくれている。
静かな廊下にはオレたちの足音だけが響き、他の音も存在もない。もう慣れたはずの空間なのに、先ほど追われていたことが原因なのか、どうにも違和感があって落ち着かない。
二人分の足音が、それぞれのリズムを刻んでいる。だがそれが少しずつずれていき、やがて片方の――オレの足が止まった。
「タカちゃん?」
「わるい……ちょっと――」
「タカちゃんっ!」
膝から力が抜け、床へと崩れ落ちる。まだ意識があるものの、視界はかなりぼやけていて、駆け寄ってきてくれた彼女の顔が上手く見えなかった。
「タカちゃん、立てる!?」
「……ナマエ、肩、貸してくんね?そしたら、歩けそう」
「分かった。とりあえず一旦起こすから。……せーのっ」
彼女がオレの横にしゃがむ。そしてくぐるようにオレの腕を自身の肩にかけ、片腕をオレの体を支えるように添え、掛け声と共に立ち上がった。声に合わせてオレも何とか足に力を入れて立ち上がるが、やっぱり上手く力が入らなくて、思わず彼女の方へと重心が傾いてしまった。
「わるい、重いだろ」
「これくらい、大丈夫。私だって意外と力あるんだから!それじゃあ、ゆっくり歩くからね」
「あぁ」
彼女の一歩に合わせて、オレも何とか一歩を踏み出す。踏み出す一歩の感触を確かめるようにしながら、オレたちはゆっくりと歩き始めた。視界横の壁に掛けられている白い頭の男が、黙ってオレたちを見つめている。ぼやけているものの、その口元には笑みが浮かんでいて、目からは赤い何かが頬を伝って流れ落ちている。
『いやに不気味だ』と思った。
それからしばらく、オレたちは時間をかけながらも真っ直ぐ続く廊下を進んでいた。引きずるようにしながら歩いていたオレだったが、視界のかすみが酷くなってきていて、いよいよ限界だと思った。
こんなところで倒れたら、誰が彼女を守るんだ。そう思って必死に意識を保ってはいたが、もうそれも厳しい。せめて、安全に休めるような場所が、オレの意識が途切れる前に見つかればいいんだが、果たしてそんなに都合よく見つかるだろうか。
「タ■ち■■、大■夫?しっ■■」
彼女の声が上手く聞き取れない。多分オレの心配をしてくれているんだろうけど、もう返事をすることすらままらなくなってきた。上手く口が動かないし、言葉も発せない。正直、今こうして頭の中でアレコレ考えるのも精一杯だ。
視界がかすんでぼやけ、床と壁の境界が曖昧になる。まばたきをしようと瞼が落ちれば、それを上げるのも厳しくなってきた。
早く、はやく、あんぜんな、ばしょに――
「■■■■■っ!!」
オレの意識はそこで途切れた。
◆◆◆ ◇◇◇
目が覚めると、オレは狭くて薄暗い部屋の中に立っていた。辺りを見回しても、薄暗い灰色の壁しかなく、誰もいなかった。
「ここは、どこだ――」
ダンダンダンッ! ダンダンダンッ!
オレが言葉を呟いた瞬間、目の前にある扉を叩く音が響いた。複数の、強く扉を叩く音は部屋の空気を震わせ、オレに確かな恐怖を伝える。
音のした扉の方を見ながら、オレは背を向けないように後退りをした。今その扉が開いたら、音の発信源がこの狭く小さな部屋に入ってくる。そうなったらオレには逃げる場所がない。嫌な汗が背中を伝う感覚がした。
数歩後退りしたところで、背中に何かが当たった。振り返ると、そこには壁の色より少し明るい灰色の扉があった。オレは急いでその扉を開け、奥へと体を滑り込ませた。
扉を閉め、部屋の奥にある新たな扉のある方へと逃げる。先ほどと変わらない見た目の部屋なのにも関わらず、どうしてか部屋が少し小さくなっているように感じた。
目の前の扉が再び強く叩かれる。扉の向こうにいる存在がオレに向ける感情が、怒りなのか、憎しみなのか分からない。どうして追ってくるのか、どうしてこんなに強く扉を叩いているのか、何も分からない。
再び扉を開こうとドアノブを動かす。しかし鍵がかかっているのか、何度扉を開けようとしても開かなかった。
「なんで開かねぇんだよっ!」
ガチャガチャと何度もドアノブを動かす。何度も何度も動かし、ようやく鍵が開く音がした。オレは急いで扉を開け、扉の奥へと進んだ。
「なっ――」
扉の奥に広がっていたのは、小さい、袋小路となった部屋だった。そして、正面に額縁から身体を出している赤い服の女。左には、両手を上げてオレを捕まえようとしている黒いマネキン。右には、闇のように真っ黒な瞳で見つめる真っ白なマネキンの頭がいた。
「なん、で――」
部屋にはもう、新しい扉はなかった。
オレはそのまま後退りして入ってきた扉まで逃げた。とにかくこの部屋から出なければいけない、でなければオレはコイツらに――
「開け、あけよっ!」
ガチャガチャ ガチャガチャガチャ
何度ドアノブを動かしても、押しても引いても、鍵がかかっていてびくともしない。それでもなお、何度も何度もオレはドアノブを動かし、扉を開けようとした。オレの後ろにいる美術品たちがゆっくりと、迫ってきているのが、音と気配で分かる。それを背中でひしひしと感じながら、オレは必死に扉を開けようとしていた。
「開け、開けっ!」
ガチャガチャガチャ ガチャガチャガチャ
「っ!あい――」
オレの肩を、足を、誰かが掴んだ。
◆◆◆ ◇◇◇
「はっ――」
「あっ、タカちゃん!大丈夫?!」
目を覚まし、飛び上がるようにして体を起こすと、オレの体にかけられていた何かが足の上にずり落ちた。このカーディガンは確か、彼女が羽織っていたものだ。
オレが起きたことに気づいたのか、本棚の向かい側にいた彼女が、パッとこちらを見てから駆け寄ってきた。そしてオレのすぐ横にしゃがむと、心配そうな表情でオレを見た。
――すげぇ、心配かけさせちまったな。
「体の方は大丈夫だ、心配かけてごめんな」
「そっか、よかった……」
「ナマエがここまで運んでくれたのか?」
「うん。この部屋、タカちゃんが意識を失った場所からすぐのところにあったんだ」
「ありがとな」
そう言って彼女に笑いかけたが、どうにもさっきの悪夢のせいでか、上手く笑えなかったような気がした。それは彼女にも分かったようで、心配した表情のままオレの方を見ていた。
「……本当に大丈夫?」
「あぁ、問題ねェよ。……ちょっとヤな夢を見ただけだ」
「そう……。あ、そうだ」
何かを思い出したように彼女が自身の肩にかけていたポーチを開け、中に手を突っ込んだ。そして中を漁るように手を動かし、何かを掴んで取り出した。何かが握られた手を、彼女はオレに差し出してきたので、その手の下に受け皿のようにして片手を出せば、「あげる」という言葉と一緒に何かが手の上に落とされた。
「それ、最近よく食べてるアメなの。ちょうど一粒持ってたからさ。ほら、疲れたものには甘いもの、って言うじゃん?……悪夢の疲れが取れるかは分からないけどさ。ほら、タカちゃん、ずっと気を張ってたでしょ。だから、そのアメ食べて、一息ついたらいいんじゃないかなって思ってさ」
手の上に落とされた、可愛らしい包装紙に包まれたそれは、この異様な美術館の雰囲気とは全く異なっていて、必死すぎて忘れていた日常をふっと思い出させた。そういえばルナも、前に同じアメを食べていた。本当につい最近のことなのに、どうにも遠い昔のことのように思える。きっとそれだけ必死で逃げていて、気を張っていて、倒れて悪夢を見るほどに限界だったのかもしれない。
「ナマエ」
「ん?なに?」
「……ありがとな」
この言葉には色々な意味が込められている。本当はもう少し言いたいことがあったが、言葉にしようとしたら、この一言に全てひっくるめられてしまったのだ。そのひっくるめられた言葉の全てが伝わらないだろうけど、全て彼女に対する感謝の言葉だから、『ありがとう』で正しい。
オレの言葉を受けた彼女は、パチパチとまばたきを数回した後、にこりと笑って「お礼なんていいよ」と言った。
「っし。あともう少しだけ休んだら、出発するか」
「分かった」
オレは、かけられていた彼女のカーディガンを簡単に畳んで、彼女に返した。カーディガンを受け取った彼女は「ありがとう」と言い、それを羽織った。
さて、まずはこの部屋を簡単に調査するところからだ。偶然入った部屋だが、この先のヒントがあるかもしれない。それにあの記録用ノート一式もある。だんだんいつもの感覚を取り戻してきた体をグッと伸ばし、立ち上がる。さっき見た悪夢はしょせん悪夢だ。だから何も心配はない。
先ほど彼女からもらったアメをポケットに入れ、オレは部屋の隅にあるノートへと向かった。