どうやっても貴方には敵わなかった
これはファッションデザイナーとしての筆を折った彼女と、彼女が筆を折るきっかけになってしまった男の話だ。
彼女は若くからその才能を発揮しており、その才能は周りからも高い評価を受けていた。
幼少期から磨いてきた才能に更に磨きをかけ、彼女は二十代半ばではもう顔も名前も知名度がそれなりにあった。
だがそんな彼女の前に、一人の男が現れた。その男は彼女と同い年の男だったが、とあるモデルの服を作ったのをきっかけにその才能が周りに認められ、高く評価され、今の彼女が手にした知名度を瞬く間に獲得した。
彼女は男に酷く嫉妬した。才能を発揮していたからと言っても、彼女だって努力を惜しまず毎日才能に磨きをかけ、流行やトレンドなどもしっかりチェックし、それらを自身の作品に落とし込んできていた。苦しみ、もがき、足掻きながら、必死に掴み取った今の知名度を、その男は出てきてすぐに獲得したのだ。
彼女は悔しかった。自分がこれまで必死に努力して得たものを、ポッと出の男が瞬く間に獲得したから。
それから彼女はこれまで以上に努力をした。才能もセンスも更に磨き、情報収集も怠らず、業種関係なく様々なデザイナーやアーティストの作品を見て学んだ。
それでも展示会やファッションショーなど、人気が目に見えて分かる場所で男と一緒になると、必ず男の方に人が多くいた。もちろん彼女のところに来てくれる人だってたくさんいたが、それでも男の方がずっと多かった。
「どうしてっ……!」
デスクに置かれたテーブルライトだけが灯った暗いアトリエに、悔しさと嫉妬が滲んだ彼女の声が溶ける。
今日のファッションショーには彼女の嫉妬対象である男、三ツ谷がいた。今回はモデルが着ている服をリアルタイムでネット購入できるものだったので、ランウェイが始まると同時に服の購入が始まった。
ショーが終わった後、たまたま通りかかった部屋から聞こえてきたのは、三ツ谷に対する賞賛の言葉だった。
『今回のファッションショーで一番多く注文が入ったのは三ツ谷くんだったよ!』
『えっ!そうだったんですか?』
『あぁそうだよ!君と同い年だが先に売れていたナマエを抑えての堂々一位!いやー、出てき始めとは言え快挙だよ!』
『あ、はは……。ありがとうございます』
自身の荷物を手にすぐ会場を離れタクシーで真っ直ぐ自宅兼アトリエに戻ったことだけは覚えているが、それ以外のことは一切覚えていなかった。
「どうして」
ガンッ
「どうしてっ」
ガンッ
「どうしてっ!!」
ガンッ
彼女の悲痛な叫びがアトリエに響く。デスクを殴った拳にジンジンとした痛みが広がるが、今はそんなことどうでもよかった。
今回のファッションショーで自分は三ツ谷に完敗だった。その事実が彼女のファッションデザイナーとしての心を粉々に砕いてしまった。
もう勝てない。彼のデザインに勝るものなど生み出せない。自分には何も無くなってしまった。
「……もう、やめよう」
これまで磨いてきた才能、センス、技術、かき集めて得た知識、それらを全て出し切ってもあの男に敵わないのであれば、もう何をやってもあの男に敵うことはない。そう思った瞬間、彼女の中で何かが折れる音がした。もうやめよう。やめてしまおう。
デスクに叩きつけて赤くなった手で持ったのは、彼女がファッションデザイナーになろうと決めた時に買ったペンだった。
このペンはもう使えないものではあったが、彼女のファッションデザイナーとしての原点であったため、何かに詰まった時や壁にぶつかった時などは必ずこのペンを手に取り、初心を思い出して問題や壁を乗り越えてきた。
だからこのペンはファッションデザイナーとしての彼女の命そのものだった。彼女が困難や壁にぶつかっても、それでもなお諦めずに努力をし続けられたのは、このペンがあったからだ。
彼女はそのペンの両端を持ってありったけの力をかけた。
バキリ
両端に力をかけられたペンは、虚しい音を立てて半分に折れた。
◆◆◆ ◇◇◇
オレがデザイナーとして少しずつ名が売れ始めた頃、同年齢のデザイナーとして注目されていた人をたまたま見かけたことがあった。
見かけたのはとあるカフェの店内。その時のオレは仕事の帰り道で、たまたま見かけたそのカフェで少しお茶でもしていこうと思って立ち寄った。
ゆったりしたジャズが流れるそのカフェの一席にその人はいた。その人は店内にいる人たちを眺めながら、テーブルの上に置かれたメモ帳に何かを書き込んで、時折机の下からクロッキー帳を取り出しては何かを描いていた。その人こそ、ナマエさんだった。
彼女が何をしているのか気になったオレは、彼女の席の隣に座ってその様子を気づかれないように気をつけながら見た。
彼女は、店内の人の服装チェックとその人たちの服装の特徴などを書きまとめ、その上で服のデザインを描いていた。
凄いと思った。その努力もそうだが、何よりそれを行っている彼女がとても楽しそうで、人々を見つめる目は爛々と輝いていたところに凄いと思ったのだ。
彼女はコツコツとした努力にすら楽しみを覚えるほどに、心の底からデザイナーという職が好きなのだろう。そうでなければこんなに目を輝かせることはないはずだ。
そんな彼女を見てオレは彼女のファンになり、同時に彼女が目標になった。彼女が手掛けた服が掲載されたものは片っ端から買い集め、ファッションショーや展示会に服を出すというのであれば出来るだけ会場に足を運んだ。
彼女のインタビュー記事を読んで、自分も服やデザインについてもっと学ぼうといろんなものを見るようになった。今まで見てきていなかった他分野のデザインや、アートなどにまで食指を伸ばし、街を行き交う人たちの様子やアパレル店などでのやり取りなどにもアンテナを張り巡らせた。
それだけ彼女の熱意に心奪われ、感化されたのだ。
その努力の結果、彼女がいるファッションショーや展示会にオレも出ることができるようになった。
最初こそあまり人は来なかったものの、回数を重ねるうちに来てくれる人が増えていった。それに伴い、服のオーダーの数も増えていった。
本当に嬉しかった。目標でありファンであった彼女と同じ場所に立てている事実、そして目に見えて増える仕事の数や声をかけてくれる人たちの数、それらがオレのこれまでの努力の成果を示してくれていると思えたから。
だがある時から彼女の様子が少しずつ変わっていった。
あんなにも楽しそうに仕事をしていた彼女から少しずつ笑顔が消えていき、爛々と輝いていた瞳は光を失い濁っていった。
以前展示会終了後にたまたま彼女を見かけたので声をかけようとしたが、彼女は一瞬オレに視線を向けたかと思うと、軽く会釈をするだけですぐにその場を立ち去ってしまった。
最初は“ 彼女はあまり人付き合いをしないタイプの人間なのかもしれない”と思っていたが、オレ以外の同業者とは楽しげに話しているのを見かけてから、彼女はオレにだけああいう態度を取っているのだとわかった。
その事実は悲しかったし、少しの怒りも抱いた。だがどうしても理由がわからなかった。少し前までオレはほぼ無名の新人で、彼女はおろか他の同業者にもほとんど認知などされていなかった。最近ようやく名が売れ始めインタビューなども少しずつ受けるようになってきたが、一度だって彼女のことを悪く言ったことはない。こうして実際に同じ場所にいるのだって数える程度で、彼女とまともに話したことすらない。
それなのに、どうして彼女はオレを避けるのだろうか。何かしてしまったのだろうか。しかし、考えても納得のいく理由は思い当たらなかった。
そんな中、東京で開催されるそれなりに規模が大きいファッションショーに出展できることになった。そこには彼女も出展するそうで、同じテーマで服を作れることが嬉しかった。
ショーが終わり控え室で小休憩を取っているとショーの関係者の人が部屋に入ってきた。今回のショーではモデルが着ていた服をリアルタイムでネット購入できるシステムになっており、その売り上げのトップがオレだったらしく、その人はそれを報告しに来てくれたそうだ。
『今回のファッションショーで一番多く注文が入ったのは三ツ谷くんだったよ!』
『えっ!そうだったんですか?』
『あぁそうだよ!君と同い年だが先に売れていたナマエを抑えての堂々一位!いやー、出てき始めとは言え快挙だよ!』
『あ、はは……。ありがとうございます』
勝手にオレと彼女を比較した上に彼女を下げるような発言をされたオレは内心苛立っていたが、同世代で名が知られているからこそそうやって比較されるのは避けられないことだというのもわかっていたので、愛想笑いをしてお礼を言った。
その時、視界端にちらりと誰かの姿が見えた。一瞬そちらに視線を向けると、暗い瞳をした彼女が足早に去っていくのが見えた。
『すみません!用事ができたので失礼します!』
『えっ?あ、三ツ谷くん!?』
オレは自分の荷物を引っ掴むと、去っていった彼女の後を追った。
見つけた彼女は自身の荷物を持って会場を出ようとしていたので、引き留めたくてオレは後ろから彼女を呼び止めた。
『ナマエさんっ!!』
だがその声は彼女には届かなかったようで、冷たい音とともに閉じた扉がオレと彼女を隔てた。
それから少しして彼女がデザイナーを辞めたことを知った。
嘘だと思った。悪い冗談か何かの間違いだと思った。だけど誰に聞いても皆口を揃えて“彼女はデザイナーを辞めた”と言った。
「なんでっ……」
彼女のデザインセンスはいつだって時代の先端を捉えていて、流行の先読みなども的確だった。彼女が生み出した服が流行になったことだって何度もあった。だからこそ予約が開始されればすぐに予約人数の上限に達し、発売されればすぐに完売していた。
そしてなにより、彼女には[[rb:類稀 > たぐいまれ]]なる才能、努力で磨かれたセンスと技術、そして豊富な知識と経験があった。それから生み出された服はどれも素敵なものばかりで、節々に服に対する愛を感じられた。
そんな彼女がどうしてデザイナーを辞めてしまったのか。辞めた理由は誰にも話していないらしく、誰に聞いても“知らない”という返答しかこなかった。
それからオレは彼女を見かけたあのカフェに足を運ぶようになった。理由はたった一つ。ここに来たらまた彼女に会えるのではないかと思ったから。
そして今日も同じようにあのカフェへと向かう。ここに通うようになってもう数ヶ月は経った。それでも彼女の姿は一度だって見かけたことがない。
どこか諦めを抱きつつも店内に入る。聞き慣れたいらっしゃいませの言葉とともにレジカウンターへ向かって歩いていると、少し離れた席に見覚えのある後ろ姿をした人が座っているのが見えた。
「あれって……」
オレはレジカウンターへ向かう足を止め、そのままその席へと足早に向かった。
「もしかして、ナマエさん?」
◆◆◆ ◇◇◇
彼女がデザイナーを辞めて数ヶ月が経った。現在は友人が経営するアパレルショップでパタンナーとして働いている。デザイナーの頃は既に独立して活動していたため、デザインから仕上げまでの一通りをこなしていた彼女だったが、中でもパターン作成は彼女の得意分野だった。
その腕の良さを知っているからこそ、彼女がデザイナーを辞めて少ししてから友人が“自分の会社のパタンナーにならないか”と声をかけたのだ。
それからの日々はそれなりに充実していた。デザイナーとして服のデザインから完成まで一通り行っていた時も楽しかったが、誰かのデザインを見てそれを汲み取り形にするという今の仕事も楽しかった。
だが、彼に抱いた嫉妬心や悔しさはいつまでも消えることがなかった。
彼女がデザイナー業界から身を引いてから少しして、彼女が筆を折った理由である三ツ谷がどんどん名を轟かせていった。
決定打は人気モデルである柴八戒が彼のデザインした服を着たことだった。
彼のデザインは着用者であるモデルの体型を活かした素晴らしいデザインだった。とても自分には作れないデザイン――。そう考えるだけで彼女の心に未だ残る嫉妬心たちが疼いて彼女を苦しめた。
そんなある日の休日。ふとデザイナーの頃によく通っていたカフェを思い出した彼女は、なんとなくそのカフェに行ってみようかと思った。
本当はデザイナー時代を思い出してしまうから行かない方がいいのではないか、と少し悩んだがそれでも“なんとなく行きたい”という気持ちが勝ったので行くことにした。
見知った道を歩きカフェへと向かう。
今回はいつも頼んでいたアイスティーと一緒にクリームチーズを使ったミルクレープを注文した。
アイスティーのグラスとケーキが乗った皿が乗ったお盆を片手に、あの頃いつも座っていた席へ向かう。
アイスティーを飲みつつケーキを食べていると、自分が無意識に店内にいる人たちのコーデを見て、特徴などを頭の中でまとめていることに気づいた。デザイナーの頃に身についた癖がまだ抜けていない自分がいることに彼女は小さく[[rb:自嘲 > じちょう]]し、アイスティーを一口飲む。
どうやら自分は根っこからデザイナーみたいだ。なんて思いながらミルクレープを一口食べたところで、突然横から誰かが彼女に声をかけた。
「もしかして、ナマエさん?」
その声を聞いた彼女は一瞬肩をビクつかせた後、ゆっくりと横を向いた。そこには自分がデザイナーとしての筆を折った理由である三ツ谷が立っていた。
彼の表情は困惑と驚きが混ざっていて複雑なものだった。対する彼女は驚きで少し目を見開いたまま彼を見つめていた。
「……向かいの席、空いてますか?」
「……空いてます、けど」
「座っても?」
「どうぞ……」
彼女がそう返答すれば、彼は少し嬉しそうな顔をして向かいの席に座った。そこで彼はグラスもなにも持っていないことに気づいた彼女が、彼に声をかけた。
「あの、飲み物とかは?」
「え?あ、あー……。買おうとしたところでナマエさんっぽい後ろ姿を見かけたから買い忘れてました……。レジも混んでるし水取ってきます。ナマエさんはいりますか?」
「いえ、私はいいです」
「わかりました。それじゃあ取ってきます」
彼は眉を下げてはにかんだ後、近くのカウンターに置かれた水を取りに行った。
残された彼女はとても複雑な心境になりながらも、それを抑えるようにミルクレープを一口食べた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、お気になさらず」
ちょうど[[rb:咀嚼 > そしゃく]]したミルクレープをアイスティーと共に飲み込んだところで、水の入ったグラスを持った彼が戻ってきた。
再び彼女の向かいの席に腰掛けた彼は、持ってきた水を一口飲んでから少し気恥ずかしそうに彼女に笑いかけた。
「私に何か用ですか?」
「オレ、ここでナマエさんを見かけてからずっとファンだったんです。それからデザイナーとしての目標でした。ナマエさんがここで店内の人たちのコーデの特徴とかを書きまとめながら、それらを咀嚼してクロッキー帳にデザイン案を描いていく姿を見て、服とかデザインとかがすっげー好きなんだなって思って――」
「要件は、なんですか」
彼の言葉を遮って彼女は冷たくそう言った。その言葉を受けた彼ははっとした顔をした後、困ったように笑ってから再び水を一口飲んだ。
「すみません。ようやくナマエさんとお話しできたので、嬉しくてつい……」
「……そうですか」
「要件、でしたよね。単刀直入に聞きます。……ナマエさん、どうしてデザイナーを辞めたんですか?」
彼の真っ直ぐな視線が彼女を射抜いた。その視線がまるで自分の中を見透かすような気がして、彼女は逃げるように少しだけ顔を逸らした。
見透かされてしまったら、彼に抱き続けていたこのどうしようもない嫉妬心を知られてしまう。そう思ったら申し訳なくて、恥ずかしくて、怖かった。
「何か、あったんですか?」
「……えぇ、少し」
「そう、ですか。……もう、デザインはやられないんですか?」
「えぇ、きっともうやることはないと思います」
彼女のその言葉に彼は一瞬目を少し見開いた後、悲しげな表情をして視線を自身の手元に落とした。
なぜ彼がそんな表情をするのかが分からないナマエは、少し気まずさを感じながらもまだ残っているミルクレープを食べた。
聞こえるのはカフェに流れるゆったりとしたジャズと、周りの人たちの話し声のみで、二人は黙ったままでいた。
「……オレ、ナマエさんの作る服が大好きだったんです」
「え?」
「どの服も着る人を映えさせるものばかりだったし、オーダーメイドで作られたものなんて、その人以外似合わないんじゃないかって思うくらいその人に似合うものだった。それに、服のデザインだって常に流行や時代を捉えつつも奇抜すぎなくて誰もが着やすいものだった。……なにより、どの服にもナマエさんの好きが感じられた」
「……お褒めの言葉、ありがとう」
「本気で言っているんです。オレがもっと頑張ろうって思えたのはナマエさんがきっかけだったんです」
「……そう」
彼女は努めて冷静を保った。だが内心は抱き続けた嫉妬心でぐちゃぐちゃになっていて、少しでも気を緩めたらそれが口から漏れ出そうだった。だがそんなことを知らない三ツ谷は、射抜くような目で真っ直ぐ彼女を見つめたまま言葉を続けた。
「もしまだ服を作ることに携わっているのなら、良ければ今度オレと一緒に服を作ってくれませんか?」
「……あなた、一体なんなの?」
そこが彼女の我慢の限界だった。
逸らしていた視線を怒りを込めて彼に向けた彼女は、静かにそう言った。彼は突然彼女の空気が変わったことと、怒りのこもった強い視線を受けて驚き、その場で固まってしまった。
彼女は怒りに任せて荒げてしまいそうな声を必死に殺しながら、再び口を開いた。
「さっきから聞いていれば……。どれだけ私を惨めな人間にさせるつもりですか」
「いや、そんなつもりは――」
「私がデザイナーを辞めたのは、筆を折ったのは……あなたが理由です。私の全てをかけてもあなたに勝てないと思い知らされたから、だから私はデザイナーを辞めました。あなたが私をどう思っていたかなんて知りませんし興味もないですけど、もう関わらないでもらえませんか?デザイナーを辞めた私には何もないでしょう。正直あなたの顔も見たくなかった」
「……だからいつもオレを避けていたんですね」
その言葉を受けた彼女は口をつぐんだ。図星だった。当時は顔を合わせるだけで嫉妬心が溢れ出そうになっていたから、なるべく彼と顔を合わせず言葉も交わさないようにしてきていた。
彼が寄ってきたと思えば逃げ、近くにいればできるだけ距離を取る……。いち社会人として何年か生きてきたというのに子供くさいことをしていることはわかっていたが、嫉妬心が溢れ出て彼に当たるよりはずっとマシだろうと考えていた。
だがやはり露骨すぎた。もう少し自然にできていれば、彼が覚えていることもなかっただろうに。彼女は過去の自分の行いにダメ出しをしながら、少し乾いた喉を潤すためにアイスティーを一口飲んだ。
「なんとなく避けられているのはわかっていました。だけど、まさかオレがナマエさんの筆を折ったなんて思ってもなくて……。すみません」
「……今のは私が悪かったです、ごめんなさい。感情的にモノを言いすぎました。……私、もう行きますね」
これ以上彼と一緒にいたらいけない。そう判断した彼女が席を立とうとしたその時、彼が席から腰を浮かせ身を乗り出して彼女の手首を掴んだ。
「待って」
「なんですか。私が辞めた理由も話しましたし、もう用はないですよね?」
「まだ、話したいことがたくさんあるんです。聞きたいこともたくさん……」
「もういいでしょう。他に何を聞きたいんですか?もうあなたの知っている“デザイナーのナマエ”はいないんですよ」
「違うっ!オレはっ」
「離してください。もうあなたに話すことは何もないです」
「オレはアンタのことを考えて作った服を着てもらいたいんだ!」
焦った声色でそう言った彼の顔は先程の余裕なんて微塵もなくて、あるのは焦りと不安の混じった顔だけだった。
それを見た彼女は驚きと困惑で眉を[[rb:顰 > ひそ]]めた。どうして彼がこんなに自分に固執するのだろうか。そもそも“自分のことを考えて作った服を着てもらいたい”って一体どういうことなんだ。理解のできないことで頭がいっぱいになった彼女は黙ることしかできなかった。
「最初はデザイナーとしてのナマエさんが好きで尊敬してた。ナマエさんが仕事に、服に、デザインに、真剣に向き合う姿は本当に素敵だったし、常に自分の持っているものを磨く努力をしている姿も格好良かった。だけど、気づいたらナマエさんのことを一人の女性として好きになってたんだ」
「は……?」
「いつかオレがナマエさんと並んでも恥ずかしくないくらいのデザイナーになったら気持ちを伝えようって思ってた。だけど、やっと大舞台で同じところに立てたと思った矢先にナマエさんがデザイナーを辞めたって聞いたから、オレ、どうしようって思って」
「あの、ちょっと話の流れがよく分からないんですけど……」
「あ、えっと……。すみません、急に……」
呆気に取られた彼女は上げていた腰を下ろし、再び席に着いた。それを見た彼は掴んでいた彼女の手首を離して、自身も席に腰を下ろした。
さっきまで二人の間にあった少しピリついた空気はまだ微かに残っている。それでも彼女の前に座る彼はさっきの表情とは打って変わって少し力の抜けた表情をしていた。
「こんなカッコ悪く告白するつもりじゃなかったんですけど、焦ってつい……」
「……さっき仰っていた“私のことを考えて作った服を着てもらいたい”、あれはどういう意味ですか?」
「そのままの意味です。ナマエさんのことを考えていたら浮かんだデザインがあったので、それを形にしたんです。ナマエさんが、着た人を輝かせるような服を作っているのを見て、オレもナマエさんを輝かせるような服を作りたいって思って……」
「……どうして私なんですか?」
「それは、オレがナマエさんのことを一人の女性として好きだからです」
「私のことは雑誌のインタビュー記事くらいでしか知らないでしょうに、よくそんなこと言えますね」
「確かに大半はそうです。だけど、ナマエさんが展示会やファッションショーの準備をしているときや、舞台裏で動いている姿もたくさん見てきました。その姿を見て、オレはナマエさんのことが好きになったんです」
「……本当の私を何も知らないのに、よく言うわね」
彼女がそう悪態をつくと、彼は少しだけ優しく緩んだ瞳で彼女のことを見つめた。その瞳があまりにも優しく温かいので、彼女は再び眉を顰めた。
「そしたら、これからナマエさんのことを教えてください。オレはもっとナマエさんのことが知りたいから」
「……そんなに言うのならいいでしょう、お教えします。私は、私が掴んだ名声や知名度を私のかけた時間よりもずっと短い時間で獲得したあなたに嫉妬していました。どうしようもなく嫉妬して、その中でもあなたに勝てるようなものを作って、今度は勝ってやろう。そう意気込んでは制作に臨んでた。でもダメだった。私が今まで培ってきたもの全てをかけても、あなたには勝てなかった。だからもう筆を折ることにしたんです」
醜いでしょう、これが本当の私よ。そう言って彼女は自嘲した。彼女が言ったことは全て本心だった。醜い嫉妬に塗れた結果、勝手に負けた上に勝手に彼を理由に筆を折った人間だと知れば、きっと彼も幻滅して二度と関わってこないだろう。そう思ってありのままを曝け出したのだ。
だが彼女の予想は大きく外れた。前に座る彼は驚いた顔をしたものの、すぐに目元を緩め優しい瞳で彼女を見つめた。その口元には微笑みがある。
「オレのこと、そんな風に見て思ってくれていたんですね」
「そうよ。幻滅したでしょう?だから――」
「幻滅なんてしないですよ。むしろオレのことをそこまで意識してくれてたなんて嬉しいです。でも、オレがナマエさんの筆を折る原因になったのは本当に申し訳ないと思います。すみません」
「……私が勝手に嫉妬して勝手に負けを感じて勝手に折っただけ。あなたが謝ることじゃないわ」
「……ナマエさん、これから少し時間ありますか?」
「あるけど、まだなにか?」
「オレのアトリエに来て欲しいんです。すぐそこにあるので」
彼は彼女を真っ直ぐ見つめてそう言った。自分を見つめる強い瞳に圧倒された彼女は、少しぎこちなくなったが首を縦に振った。首を横に振れなかったのは、その瞳が“はい”以外の答えを出させてくれなかったから。そのため、行く気なんてなかったのに彼女は首を縦に振ってしまったのだ。
その返答をもらった彼は嬉しそうに微笑み、ありがとうございますと言った。その笑顔があまりにも嬉しそうだったから、なんとなくムカついた彼女は彼から少しだけ視線を逸らした。
◆◆◆ ◇◇◇
「こっちです」
彼のアトリエはとあるビルの最上階だった。コンクリート打ちつけの無機質な内装に、天井にまで届く大きな窓が二つ。その窓からは太陽光が差し込んでおり、室内は電気がなくても明るく暖かかった。
彼に案内されたのは、アトリエの中に設置された大きなカーテンの前だった。彼女が前に立ったところで彼がカーテンを開ける。カーテンの向こうには一着の服を着たトルソーが立っていた。
「これが、ナマエさんのことを一番輝かせるためにオレが作った、ナマエさんのための服です」
「さすがですね。とても綺麗」
「ナマエさんのスリーサイズをちゃんと測れてないから、目測でおおよそのサイズを取った上で調整ができるように工夫をしてみました。……良かったら着てもらえないですか?」
「……分かりました。ここ、少しお借りします」
彼女がトルソーの隣に立てば、彼が嬉しそうに微笑んでからカーテンを閉めて着替えたら教えてください、と声をかけた。
残された彼女は改めて隣に立つトルソーが着た服を見る。その服は袖口がフレンチスリーブとなっているワンピースだった。背中の部分にはリボン結びをされた細い紐がある。おそらくこれでサイズ調整を行うのだろう。
「……目測だって言ってたけど、それでも結構精度高そうね」
服全体を見回して思った。この服は自分のサイズにほぼ合っていて、ほとんどサイズ調整を行う必要がない。
目測でここまで近づけるなんて誰もができることではない。それこそさまざまな人の体に合わせた服を作成したりして、目と感覚をかなり鍛えないとできない。彼女自身もたくさんの人の服をオーダーメイドで作成してきたのでそれなりに目と感覚は鍛えられていたが、目測だけで服を作ったことはなかった。仮にやったとしても、きっとここまで近づけることは不可能だろう。
「本当に、あの男はどこまで私を……」
それに続く言葉は言葉の代わりにため息となって口から零れた。とりあえず着ると言ったのだから着よう。そう思って彼女は自身が着ていた服を脱いだ。
「ナマエさん、着れましたか?」
「今出ます」
シャッとカーテンが内側から開かれ、彼の作った服を身にまとった彼女が姿を現した。その姿を見た彼は思わず目を見開き、片手を自身の口元に当てた。
「目測でここまでサイズを合わせるなんて、さすがですね。私には到底できないことです」
その言葉に彼からの返事はなかった。彼はまるで放心しているかのようにその場で固まったまま、真っ直ぐ彼女のことを見ているだけだった。さすがに彼女もそれだけ見つめられていると何となく気まずさを感じてしまい、ふっと彼から視線を外した。
「もう着替えていい――」
「だめ。着替えないで」
彼女が再びカーテンの奥へ消えようとした時、彼が彼女の手首を掴んでそれを阻止した。突然手首を掴んで止められた彼女が少し驚いて彼の方を向くと、彼は真っ赤な顔をしながら眉を下げ、どこか懇願しているようにも見える表情をしていた。
その顔を見た彼女は彼の手を振り解くことも動くこともできず、その場で固まった。
「その服、すごい似合ってる。もう少しだけ見ていたいから、まだ着替えないで」
「もう着て見せましたよ、十分でしょう」
「お願い、あともう少しだけ」
「……分かりました」
結局折れた彼女は、戻ろうとして一歩踏み出していた足を元に戻して彼の方に向き直った。だが彼は掴んでいた手首を離す気配を一切見せなかった。
「あの、離してもらえませんか?逃げませんし」
「……改めて言わせてください。オレ、ナマエさんのことが好きです」
「……その言葉はありがたく受け取ります。でもお応えはできません」
「理由、聞いてもいいですか?」
「今の私ではあなたの隣に並び立つことはできません。そもそも未だに醜い嫉妬を抱いている人の好意を素直に受け取れるほど、私は出来た人間ではないので」
「……そしたら、友達から始めさせてください」
「友達から、なら……まぁ……」
「よっしゃ!……あっ、あはは……すみません、嬉しくて」
そんな彼の姿を見た彼女は、その子供っぽさに可愛さを感じて思わず小さく笑った。それを見た彼は恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、空いている片手で頭をかいた。
「そうだ、何か飲みますか?コーヒーと水くらいしかないっスけど」
「じゃあお水を」
「はーい。あ、その辺適当に座っちゃっていいので」
その後、彼女は彼からいろいろ質問を受けた。質問の内容は好きな食べ物はなにか、などの一般的なものから、今は何をしているのか、どこで働いているのかなどの少し突っ込んだものまで、多岐にわたっていた。
その会話の中で少し打ち解けた二人は、少し堅苦しかった口調も崩れて今はお互い砕けた口調で話していた。
「あーでもよかったー。ナマエさんがまだこっちの業界にいてくれて」
「どうして?」
「だってこれからもナマエさんが関わっている服を見れるってことだろ?デザイナーを辞めたって聞いた時は、もうナマエさんが作る服を見れないんじゃないかって思ってショックだったんだぜ?……まぁそうなったのはオレのせいだったけどさ」
「……変わった人ね。あんなに自分勝手な嫉妬心をぶつけられてもなお、そんなことを言うなんて」
「見向きも認知もされていないって状態よりはよっぽどいいからなー。こんなこと言うのは悪いけど、あんなにオレのことを意識してもらえてたなんて嬉しかった」
「もしかしてあなた、性格悪いって言われない?」
「言われたことねーけどなぁ。でもまぁこんなこと言うんだから、良くはねーかもな」
◆◆◆ ◇◇◇
「それじゃあ帰るね。お邪魔しました」
「あぁ。あー……その、さ。良かったらこの服、もらってくんね?」
そう言って彼は先ほど彼女が着ていた服が入った紙袋を差し出した。
突然のことに驚いた彼女が小さく言葉を漏らすと、少し視線を泳がせてポリポリと頭をかいた彼が、少し恥ずかしそうな顔で口を開いた。
「この服は他の誰でもない、ナマエさんのために作ったものだからナマエさんにもらってほしいんだ」
「……分かった。ならお言葉に甘えてこの服はいただくことにするね」
彼の思いを無下にすることができなかった彼女が紙袋を受け取り、彼に背を向けてアトリエの玄関のドアノブに手をかけた。ガチャリとドアノブを捻り扉を開けようとした瞬間、彼が彼女の名前を呼んだ。
「オレ、諦めてねーから」
「……そう」
「次会う時、良かったらその服着てきてほしい」
「考えておく」
バタン
「……ふぅ」
扉が閉まり、アトリエ内に残った彼がその場にしゃがみ込んで大きく息を吐いた。
あんな宣戦布告をした彼だったが、内心はかなりドキドキで緊張していた。その証拠がぐっしょりと濡れた手のひらだ。
彼女のことは尊敬していたし、デザイナーとしても一人の女性としても本当に好きだった。だからこそ、本人から直接受けた嫉妬はかなり心が辛かったし、何より自身が筆を折った理由だと聞かされた時は血の気が引いた。
自分のせいで彼女を追い込み、そしてデザイナーとしての命を終わらせてしまった。この大きな事実はどう頑張っても覆せないもので、どうすることもできないものだった。
だがそれと同時に、それだけ彼女に意識してもらえていたことに喜びを感じる自分もいた。
「ほんと、いい性格してんなー。オレ……」
自身に皮肉を言って笑う。
彼女の中の自分の印象はかなりマイナスだということを思い知った彼だったが、それでも彼女を諦める気は一切なかった。
どれだけ時間がかかろうと、必ず彼女を振り向かせる。そう思った彼は立ち上がってよしっ、と気合を入れた。
この日を境に、彼は彼女にさまざまなアプローチをかけ始めた。食事に誘うはもちろん、彼女の勤めている会社が出展するファッションショーがあると聞けば自分もそこに出展し、その会社主催のイベントがあれば参加できれば必ず参加して顔を出した。
「今日のイベント、お疲れ様」
「あら、ありがとう」
会社のイベントが終わった後に開催された立食会。二人は端っこの席に座って取ってきた料理と飲み物を食しながら談笑をしていた。
「今日発表された新作のデザイン、めちゃくちゃ良かったな」
「ありがとう。新進気鋭の三ツ谷さんに褒められるだなんて、光栄ね」
「相変わらずだなーその言い方。……ところであのデザイン、ナマエさんだろ?」
「何言ってるの?私は――」
「嘘。ずっとナマエさんのことを見てきたから分かる。あれは絶対ナマエさんのデザインだ」
彼の強い瞳が彼女を真っ直ぐ見つめる。その瞳に弱い彼女が小さくため息を吐き、観念した様子でそうだ、と答えた。
「三ツ谷さんの仰る通り、あれは私が一からデザインしたものよ。よくわかったわね」
「あの服は今までこの会社が出してきた服のデザインと系統は似ていても全然違ったからなー。あの服のデザインにはナマエさんの想いが細部にまで宿ってるから、見た瞬間に分かった」
「そう言われると恥ずかしいわね。久しくデザインなんてしていなかったからどうかと思っていたんだけど……」
「なんでまた服のデザインをしたんだ?前に聞いた時は“もうする気はない”って言ってたよな?」
「あー……。そう思っていたんだけどね、感化されちゃったのよ」
「……誰に?」
「最近急成長して名前が知れ渡った若手デザイナーさんに」
「誰それ、オレの知ってる人?」
彼が食い気味にそう問うてきたので、面白くなった彼女は小さく笑った。
私はあなたのことを言っているのに。なんて思っているのにも関わらず、それを一切言わずに小さく笑っている彼女を見て、彼は少し不機嫌そうな顔をした。
「ムカつく。ナマエさんの新作が見れたのはすげー嬉しいけど、オレ以外の奴に感化されたってところが気に食わねー」
「そんなに?」
「あぁ。そんなに」
「男か女かも言っていないのに?」
「男だろうと女だろうと気に食わねーもんは気に食わねぇ。もし男だったらもっと気に食わねーけど」
「ふふっ。相当気に食わないのね」
「当たり前だろ。それだけオレはナマエさんのことが好きなんだよ。はぁー、もっと腕磨いてソイツのこと超えねーとな」
「そうね。そうでないと今の自分を超えることはできないもの」
「あぁ。……え?」
「私が感化されたのはあなたよ。三ツ谷さん」
そう言うと、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まった。その様子が面白くて彼女は再び笑った。不意打ちを食らった彼は羞恥で顔を赤くし、片手で口元を覆った。
「前々から思ってたけど、ナマエさんも結構人が悪いよな」
「そう?」
「そうだろ。……っはー、マジで焦ったんだからな?」
「今更あなた以外の人に感化されることはないと思うわ」
「……それ、期待してもいいやつ?」
「えぇ。あなたが懲りずに真っ直ぐぶつかってくるから、嫉妬も何もなくなっちゃった」
彼女が楽しげに微笑んで手元のドリンクを一口飲んだ。その言葉を受けた彼は叫びそうになったところを必死に抑えつつも、その場で小さくガッツポーズをした。
「ナマエさん、この後予定ある?」
「ないわ」
「ならこの後オレと一緒に飲みに行こうぜ」
「いいわよ」
その後、二人で飲みに行ったバーで彼は改めて彼女に告白をし、それに彼女はYESと返事をした。
ファッションデザイナーとしての筆を折った彼女と、彼女が筆を折る原因となってしまった彼女を尊敬している男。
かつては彼女が彼に大きな嫉妬心を抱いて一方的に避けていたため、二人の間には厚い壁があった。だが彼の彼女に対する想いが強く、壁を作られていても諦めずに叩いた結果、その壁は崩れて消えた。
そして今、二人は新しい関係を築き始めたのだった。
「なぁ、ナマエはまたデザイナーとしてやってく気はねーの?」
「ないかなぁ。今回が最後だと思う」
「そ、っか……」
「まぁでも、今回みたいにかたちにするしないは置いといても、デザイン案を考えるのはしてみようかなーってちょっとだけ思ってるよ」
「本当か!?なら、これからデザイン案を描いたらオレに見せてくれよ!」
「えぇ……。現役でしかも大人気のデザイナーさんに見せるのは恥ずかしいから嫌だなぁ」
「オレはナマエのデザインが大好きなんだよ。だから案だけでも見てーんだ。な?いいだろ?」
「……はぁ、わかった。考えとく」
「よっしゃ!楽しみにしてる!」
「……本当に私のデザイン、好きなんだね」
「ナマエのデザインも好きだけど、ナマエのことも好きだ」
「そんなクサい台詞、こっちが恥ずかしい」
「んなこと言うなよ。クサい台詞だろうとなんだろうと、今言ったことは全部オレの本心だ、嘘なんて一つもねぇ」
「……ありがと」
彼女は若くからその才能を発揮しており、その才能は周りからも高い評価を受けていた。
幼少期から磨いてきた才能に更に磨きをかけ、彼女は二十代半ばではもう顔も名前も知名度がそれなりにあった。
だがそんな彼女の前に、一人の男が現れた。その男は彼女と同い年の男だったが、とあるモデルの服を作ったのをきっかけにその才能が周りに認められ、高く評価され、今の彼女が手にした知名度を瞬く間に獲得した。
彼女は男に酷く嫉妬した。才能を発揮していたからと言っても、彼女だって努力を惜しまず毎日才能に磨きをかけ、流行やトレンドなどもしっかりチェックし、それらを自身の作品に落とし込んできていた。苦しみ、もがき、足掻きながら、必死に掴み取った今の知名度を、その男は出てきてすぐに獲得したのだ。
彼女は悔しかった。自分がこれまで必死に努力して得たものを、ポッと出の男が瞬く間に獲得したから。
それから彼女はこれまで以上に努力をした。才能もセンスも更に磨き、情報収集も怠らず、業種関係なく様々なデザイナーやアーティストの作品を見て学んだ。
それでも展示会やファッションショーなど、人気が目に見えて分かる場所で男と一緒になると、必ず男の方に人が多くいた。もちろん彼女のところに来てくれる人だってたくさんいたが、それでも男の方がずっと多かった。
「どうしてっ……!」
デスクに置かれたテーブルライトだけが灯った暗いアトリエに、悔しさと嫉妬が滲んだ彼女の声が溶ける。
今日のファッションショーには彼女の嫉妬対象である男、三ツ谷がいた。今回はモデルが着ている服をリアルタイムでネット購入できるものだったので、ランウェイが始まると同時に服の購入が始まった。
ショーが終わった後、たまたま通りかかった部屋から聞こえてきたのは、三ツ谷に対する賞賛の言葉だった。
『今回のファッションショーで一番多く注文が入ったのは三ツ谷くんだったよ!』
『えっ!そうだったんですか?』
『あぁそうだよ!君と同い年だが先に売れていたナマエを抑えての堂々一位!いやー、出てき始めとは言え快挙だよ!』
『あ、はは……。ありがとうございます』
自身の荷物を手にすぐ会場を離れタクシーで真っ直ぐ自宅兼アトリエに戻ったことだけは覚えているが、それ以外のことは一切覚えていなかった。
「どうして」
ガンッ
「どうしてっ」
ガンッ
「どうしてっ!!」
ガンッ
彼女の悲痛な叫びがアトリエに響く。デスクを殴った拳にジンジンとした痛みが広がるが、今はそんなことどうでもよかった。
今回のファッションショーで自分は三ツ谷に完敗だった。その事実が彼女のファッションデザイナーとしての心を粉々に砕いてしまった。
もう勝てない。彼のデザインに勝るものなど生み出せない。自分には何も無くなってしまった。
「……もう、やめよう」
これまで磨いてきた才能、センス、技術、かき集めて得た知識、それらを全て出し切ってもあの男に敵わないのであれば、もう何をやってもあの男に敵うことはない。そう思った瞬間、彼女の中で何かが折れる音がした。もうやめよう。やめてしまおう。
デスクに叩きつけて赤くなった手で持ったのは、彼女がファッションデザイナーになろうと決めた時に買ったペンだった。
このペンはもう使えないものではあったが、彼女のファッションデザイナーとしての原点であったため、何かに詰まった時や壁にぶつかった時などは必ずこのペンを手に取り、初心を思い出して問題や壁を乗り越えてきた。
だからこのペンはファッションデザイナーとしての彼女の命そのものだった。彼女が困難や壁にぶつかっても、それでもなお諦めずに努力をし続けられたのは、このペンがあったからだ。
彼女はそのペンの両端を持ってありったけの力をかけた。
バキリ
両端に力をかけられたペンは、虚しい音を立てて半分に折れた。
◆◆◆ ◇◇◇
オレがデザイナーとして少しずつ名が売れ始めた頃、同年齢のデザイナーとして注目されていた人をたまたま見かけたことがあった。
見かけたのはとあるカフェの店内。その時のオレは仕事の帰り道で、たまたま見かけたそのカフェで少しお茶でもしていこうと思って立ち寄った。
ゆったりしたジャズが流れるそのカフェの一席にその人はいた。その人は店内にいる人たちを眺めながら、テーブルの上に置かれたメモ帳に何かを書き込んで、時折机の下からクロッキー帳を取り出しては何かを描いていた。その人こそ、ナマエさんだった。
彼女が何をしているのか気になったオレは、彼女の席の隣に座ってその様子を気づかれないように気をつけながら見た。
彼女は、店内の人の服装チェックとその人たちの服装の特徴などを書きまとめ、その上で服のデザインを描いていた。
凄いと思った。その努力もそうだが、何よりそれを行っている彼女がとても楽しそうで、人々を見つめる目は爛々と輝いていたところに凄いと思ったのだ。
彼女はコツコツとした努力にすら楽しみを覚えるほどに、心の底からデザイナーという職が好きなのだろう。そうでなければこんなに目を輝かせることはないはずだ。
そんな彼女を見てオレは彼女のファンになり、同時に彼女が目標になった。彼女が手掛けた服が掲載されたものは片っ端から買い集め、ファッションショーや展示会に服を出すというのであれば出来るだけ会場に足を運んだ。
彼女のインタビュー記事を読んで、自分も服やデザインについてもっと学ぼうといろんなものを見るようになった。今まで見てきていなかった他分野のデザインや、アートなどにまで食指を伸ばし、街を行き交う人たちの様子やアパレル店などでのやり取りなどにもアンテナを張り巡らせた。
それだけ彼女の熱意に心奪われ、感化されたのだ。
その努力の結果、彼女がいるファッションショーや展示会にオレも出ることができるようになった。
最初こそあまり人は来なかったものの、回数を重ねるうちに来てくれる人が増えていった。それに伴い、服のオーダーの数も増えていった。
本当に嬉しかった。目標でありファンであった彼女と同じ場所に立てている事実、そして目に見えて増える仕事の数や声をかけてくれる人たちの数、それらがオレのこれまでの努力の成果を示してくれていると思えたから。
だがある時から彼女の様子が少しずつ変わっていった。
あんなにも楽しそうに仕事をしていた彼女から少しずつ笑顔が消えていき、爛々と輝いていた瞳は光を失い濁っていった。
以前展示会終了後にたまたま彼女を見かけたので声をかけようとしたが、彼女は一瞬オレに視線を向けたかと思うと、軽く会釈をするだけですぐにその場を立ち去ってしまった。
最初は“ 彼女はあまり人付き合いをしないタイプの人間なのかもしれない”と思っていたが、オレ以外の同業者とは楽しげに話しているのを見かけてから、彼女はオレにだけああいう態度を取っているのだとわかった。
その事実は悲しかったし、少しの怒りも抱いた。だがどうしても理由がわからなかった。少し前までオレはほぼ無名の新人で、彼女はおろか他の同業者にもほとんど認知などされていなかった。最近ようやく名が売れ始めインタビューなども少しずつ受けるようになってきたが、一度だって彼女のことを悪く言ったことはない。こうして実際に同じ場所にいるのだって数える程度で、彼女とまともに話したことすらない。
それなのに、どうして彼女はオレを避けるのだろうか。何かしてしまったのだろうか。しかし、考えても納得のいく理由は思い当たらなかった。
そんな中、東京で開催されるそれなりに規模が大きいファッションショーに出展できることになった。そこには彼女も出展するそうで、同じテーマで服を作れることが嬉しかった。
ショーが終わり控え室で小休憩を取っているとショーの関係者の人が部屋に入ってきた。今回のショーではモデルが着ていた服をリアルタイムでネット購入できるシステムになっており、その売り上げのトップがオレだったらしく、その人はそれを報告しに来てくれたそうだ。
『今回のファッションショーで一番多く注文が入ったのは三ツ谷くんだったよ!』
『えっ!そうだったんですか?』
『あぁそうだよ!君と同い年だが先に売れていたナマエを抑えての堂々一位!いやー、出てき始めとは言え快挙だよ!』
『あ、はは……。ありがとうございます』
勝手にオレと彼女を比較した上に彼女を下げるような発言をされたオレは内心苛立っていたが、同世代で名が知られているからこそそうやって比較されるのは避けられないことだというのもわかっていたので、愛想笑いをしてお礼を言った。
その時、視界端にちらりと誰かの姿が見えた。一瞬そちらに視線を向けると、暗い瞳をした彼女が足早に去っていくのが見えた。
『すみません!用事ができたので失礼します!』
『えっ?あ、三ツ谷くん!?』
オレは自分の荷物を引っ掴むと、去っていった彼女の後を追った。
見つけた彼女は自身の荷物を持って会場を出ようとしていたので、引き留めたくてオレは後ろから彼女を呼び止めた。
『ナマエさんっ!!』
だがその声は彼女には届かなかったようで、冷たい音とともに閉じた扉がオレと彼女を隔てた。
それから少しして彼女がデザイナーを辞めたことを知った。
嘘だと思った。悪い冗談か何かの間違いだと思った。だけど誰に聞いても皆口を揃えて“彼女はデザイナーを辞めた”と言った。
「なんでっ……」
彼女のデザインセンスはいつだって時代の先端を捉えていて、流行の先読みなども的確だった。彼女が生み出した服が流行になったことだって何度もあった。だからこそ予約が開始されればすぐに予約人数の上限に達し、発売されればすぐに完売していた。
そしてなにより、彼女には[[rb:類稀 > たぐいまれ]]なる才能、努力で磨かれたセンスと技術、そして豊富な知識と経験があった。それから生み出された服はどれも素敵なものばかりで、節々に服に対する愛を感じられた。
そんな彼女がどうしてデザイナーを辞めてしまったのか。辞めた理由は誰にも話していないらしく、誰に聞いても“知らない”という返答しかこなかった。
それからオレは彼女を見かけたあのカフェに足を運ぶようになった。理由はたった一つ。ここに来たらまた彼女に会えるのではないかと思ったから。
そして今日も同じようにあのカフェへと向かう。ここに通うようになってもう数ヶ月は経った。それでも彼女の姿は一度だって見かけたことがない。
どこか諦めを抱きつつも店内に入る。聞き慣れたいらっしゃいませの言葉とともにレジカウンターへ向かって歩いていると、少し離れた席に見覚えのある後ろ姿をした人が座っているのが見えた。
「あれって……」
オレはレジカウンターへ向かう足を止め、そのままその席へと足早に向かった。
「もしかして、ナマエさん?」
◆◆◆ ◇◇◇
彼女がデザイナーを辞めて数ヶ月が経った。現在は友人が経営するアパレルショップでパタンナーとして働いている。デザイナーの頃は既に独立して活動していたため、デザインから仕上げまでの一通りをこなしていた彼女だったが、中でもパターン作成は彼女の得意分野だった。
その腕の良さを知っているからこそ、彼女がデザイナーを辞めて少ししてから友人が“自分の会社のパタンナーにならないか”と声をかけたのだ。
それからの日々はそれなりに充実していた。デザイナーとして服のデザインから完成まで一通り行っていた時も楽しかったが、誰かのデザインを見てそれを汲み取り形にするという今の仕事も楽しかった。
だが、彼に抱いた嫉妬心や悔しさはいつまでも消えることがなかった。
彼女がデザイナー業界から身を引いてから少しして、彼女が筆を折った理由である三ツ谷がどんどん名を轟かせていった。
決定打は人気モデルである柴八戒が彼のデザインした服を着たことだった。
彼のデザインは着用者であるモデルの体型を活かした素晴らしいデザインだった。とても自分には作れないデザイン――。そう考えるだけで彼女の心に未だ残る嫉妬心たちが疼いて彼女を苦しめた。
そんなある日の休日。ふとデザイナーの頃によく通っていたカフェを思い出した彼女は、なんとなくそのカフェに行ってみようかと思った。
本当はデザイナー時代を思い出してしまうから行かない方がいいのではないか、と少し悩んだがそれでも“なんとなく行きたい”という気持ちが勝ったので行くことにした。
見知った道を歩きカフェへと向かう。
今回はいつも頼んでいたアイスティーと一緒にクリームチーズを使ったミルクレープを注文した。
アイスティーのグラスとケーキが乗った皿が乗ったお盆を片手に、あの頃いつも座っていた席へ向かう。
アイスティーを飲みつつケーキを食べていると、自分が無意識に店内にいる人たちのコーデを見て、特徴などを頭の中でまとめていることに気づいた。デザイナーの頃に身についた癖がまだ抜けていない自分がいることに彼女は小さく[[rb:自嘲 > じちょう]]し、アイスティーを一口飲む。
どうやら自分は根っこからデザイナーみたいだ。なんて思いながらミルクレープを一口食べたところで、突然横から誰かが彼女に声をかけた。
「もしかして、ナマエさん?」
その声を聞いた彼女は一瞬肩をビクつかせた後、ゆっくりと横を向いた。そこには自分がデザイナーとしての筆を折った理由である三ツ谷が立っていた。
彼の表情は困惑と驚きが混ざっていて複雑なものだった。対する彼女は驚きで少し目を見開いたまま彼を見つめていた。
「……向かいの席、空いてますか?」
「……空いてます、けど」
「座っても?」
「どうぞ……」
彼女がそう返答すれば、彼は少し嬉しそうな顔をして向かいの席に座った。そこで彼はグラスもなにも持っていないことに気づいた彼女が、彼に声をかけた。
「あの、飲み物とかは?」
「え?あ、あー……。買おうとしたところでナマエさんっぽい後ろ姿を見かけたから買い忘れてました……。レジも混んでるし水取ってきます。ナマエさんはいりますか?」
「いえ、私はいいです」
「わかりました。それじゃあ取ってきます」
彼は眉を下げてはにかんだ後、近くのカウンターに置かれた水を取りに行った。
残された彼女はとても複雑な心境になりながらも、それを抑えるようにミルクレープを一口食べた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、お気になさらず」
ちょうど[[rb:咀嚼 > そしゃく]]したミルクレープをアイスティーと共に飲み込んだところで、水の入ったグラスを持った彼が戻ってきた。
再び彼女の向かいの席に腰掛けた彼は、持ってきた水を一口飲んでから少し気恥ずかしそうに彼女に笑いかけた。
「私に何か用ですか?」
「オレ、ここでナマエさんを見かけてからずっとファンだったんです。それからデザイナーとしての目標でした。ナマエさんがここで店内の人たちのコーデの特徴とかを書きまとめながら、それらを咀嚼してクロッキー帳にデザイン案を描いていく姿を見て、服とかデザインとかがすっげー好きなんだなって思って――」
「要件は、なんですか」
彼の言葉を遮って彼女は冷たくそう言った。その言葉を受けた彼ははっとした顔をした後、困ったように笑ってから再び水を一口飲んだ。
「すみません。ようやくナマエさんとお話しできたので、嬉しくてつい……」
「……そうですか」
「要件、でしたよね。単刀直入に聞きます。……ナマエさん、どうしてデザイナーを辞めたんですか?」
彼の真っ直ぐな視線が彼女を射抜いた。その視線がまるで自分の中を見透かすような気がして、彼女は逃げるように少しだけ顔を逸らした。
見透かされてしまったら、彼に抱き続けていたこのどうしようもない嫉妬心を知られてしまう。そう思ったら申し訳なくて、恥ずかしくて、怖かった。
「何か、あったんですか?」
「……えぇ、少し」
「そう、ですか。……もう、デザインはやられないんですか?」
「えぇ、きっともうやることはないと思います」
彼女のその言葉に彼は一瞬目を少し見開いた後、悲しげな表情をして視線を自身の手元に落とした。
なぜ彼がそんな表情をするのかが分からないナマエは、少し気まずさを感じながらもまだ残っているミルクレープを食べた。
聞こえるのはカフェに流れるゆったりとしたジャズと、周りの人たちの話し声のみで、二人は黙ったままでいた。
「……オレ、ナマエさんの作る服が大好きだったんです」
「え?」
「どの服も着る人を映えさせるものばかりだったし、オーダーメイドで作られたものなんて、その人以外似合わないんじゃないかって思うくらいその人に似合うものだった。それに、服のデザインだって常に流行や時代を捉えつつも奇抜すぎなくて誰もが着やすいものだった。……なにより、どの服にもナマエさんの好きが感じられた」
「……お褒めの言葉、ありがとう」
「本気で言っているんです。オレがもっと頑張ろうって思えたのはナマエさんがきっかけだったんです」
「……そう」
彼女は努めて冷静を保った。だが内心は抱き続けた嫉妬心でぐちゃぐちゃになっていて、少しでも気を緩めたらそれが口から漏れ出そうだった。だがそんなことを知らない三ツ谷は、射抜くような目で真っ直ぐ彼女を見つめたまま言葉を続けた。
「もしまだ服を作ることに携わっているのなら、良ければ今度オレと一緒に服を作ってくれませんか?」
「……あなた、一体なんなの?」
そこが彼女の我慢の限界だった。
逸らしていた視線を怒りを込めて彼に向けた彼女は、静かにそう言った。彼は突然彼女の空気が変わったことと、怒りのこもった強い視線を受けて驚き、その場で固まってしまった。
彼女は怒りに任せて荒げてしまいそうな声を必死に殺しながら、再び口を開いた。
「さっきから聞いていれば……。どれだけ私を惨めな人間にさせるつもりですか」
「いや、そんなつもりは――」
「私がデザイナーを辞めたのは、筆を折ったのは……あなたが理由です。私の全てをかけてもあなたに勝てないと思い知らされたから、だから私はデザイナーを辞めました。あなたが私をどう思っていたかなんて知りませんし興味もないですけど、もう関わらないでもらえませんか?デザイナーを辞めた私には何もないでしょう。正直あなたの顔も見たくなかった」
「……だからいつもオレを避けていたんですね」
その言葉を受けた彼女は口をつぐんだ。図星だった。当時は顔を合わせるだけで嫉妬心が溢れ出そうになっていたから、なるべく彼と顔を合わせず言葉も交わさないようにしてきていた。
彼が寄ってきたと思えば逃げ、近くにいればできるだけ距離を取る……。いち社会人として何年か生きてきたというのに子供くさいことをしていることはわかっていたが、嫉妬心が溢れ出て彼に当たるよりはずっとマシだろうと考えていた。
だがやはり露骨すぎた。もう少し自然にできていれば、彼が覚えていることもなかっただろうに。彼女は過去の自分の行いにダメ出しをしながら、少し乾いた喉を潤すためにアイスティーを一口飲んだ。
「なんとなく避けられているのはわかっていました。だけど、まさかオレがナマエさんの筆を折ったなんて思ってもなくて……。すみません」
「……今のは私が悪かったです、ごめんなさい。感情的にモノを言いすぎました。……私、もう行きますね」
これ以上彼と一緒にいたらいけない。そう判断した彼女が席を立とうとしたその時、彼が席から腰を浮かせ身を乗り出して彼女の手首を掴んだ。
「待って」
「なんですか。私が辞めた理由も話しましたし、もう用はないですよね?」
「まだ、話したいことがたくさんあるんです。聞きたいこともたくさん……」
「もういいでしょう。他に何を聞きたいんですか?もうあなたの知っている“デザイナーのナマエ”はいないんですよ」
「違うっ!オレはっ」
「離してください。もうあなたに話すことは何もないです」
「オレはアンタのことを考えて作った服を着てもらいたいんだ!」
焦った声色でそう言った彼の顔は先程の余裕なんて微塵もなくて、あるのは焦りと不安の混じった顔だけだった。
それを見た彼女は驚きと困惑で眉を[[rb:顰 > ひそ]]めた。どうして彼がこんなに自分に固執するのだろうか。そもそも“自分のことを考えて作った服を着てもらいたい”って一体どういうことなんだ。理解のできないことで頭がいっぱいになった彼女は黙ることしかできなかった。
「最初はデザイナーとしてのナマエさんが好きで尊敬してた。ナマエさんが仕事に、服に、デザインに、真剣に向き合う姿は本当に素敵だったし、常に自分の持っているものを磨く努力をしている姿も格好良かった。だけど、気づいたらナマエさんのことを一人の女性として好きになってたんだ」
「は……?」
「いつかオレがナマエさんと並んでも恥ずかしくないくらいのデザイナーになったら気持ちを伝えようって思ってた。だけど、やっと大舞台で同じところに立てたと思った矢先にナマエさんがデザイナーを辞めたって聞いたから、オレ、どうしようって思って」
「あの、ちょっと話の流れがよく分からないんですけど……」
「あ、えっと……。すみません、急に……」
呆気に取られた彼女は上げていた腰を下ろし、再び席に着いた。それを見た彼は掴んでいた彼女の手首を離して、自身も席に腰を下ろした。
さっきまで二人の間にあった少しピリついた空気はまだ微かに残っている。それでも彼女の前に座る彼はさっきの表情とは打って変わって少し力の抜けた表情をしていた。
「こんなカッコ悪く告白するつもりじゃなかったんですけど、焦ってつい……」
「……さっき仰っていた“私のことを考えて作った服を着てもらいたい”、あれはどういう意味ですか?」
「そのままの意味です。ナマエさんのことを考えていたら浮かんだデザインがあったので、それを形にしたんです。ナマエさんが、着た人を輝かせるような服を作っているのを見て、オレもナマエさんを輝かせるような服を作りたいって思って……」
「……どうして私なんですか?」
「それは、オレがナマエさんのことを一人の女性として好きだからです」
「私のことは雑誌のインタビュー記事くらいでしか知らないでしょうに、よくそんなこと言えますね」
「確かに大半はそうです。だけど、ナマエさんが展示会やファッションショーの準備をしているときや、舞台裏で動いている姿もたくさん見てきました。その姿を見て、オレはナマエさんのことが好きになったんです」
「……本当の私を何も知らないのに、よく言うわね」
彼女がそう悪態をつくと、彼は少しだけ優しく緩んだ瞳で彼女のことを見つめた。その瞳があまりにも優しく温かいので、彼女は再び眉を顰めた。
「そしたら、これからナマエさんのことを教えてください。オレはもっとナマエさんのことが知りたいから」
「……そんなに言うのならいいでしょう、お教えします。私は、私が掴んだ名声や知名度を私のかけた時間よりもずっと短い時間で獲得したあなたに嫉妬していました。どうしようもなく嫉妬して、その中でもあなたに勝てるようなものを作って、今度は勝ってやろう。そう意気込んでは制作に臨んでた。でもダメだった。私が今まで培ってきたもの全てをかけても、あなたには勝てなかった。だからもう筆を折ることにしたんです」
醜いでしょう、これが本当の私よ。そう言って彼女は自嘲した。彼女が言ったことは全て本心だった。醜い嫉妬に塗れた結果、勝手に負けた上に勝手に彼を理由に筆を折った人間だと知れば、きっと彼も幻滅して二度と関わってこないだろう。そう思ってありのままを曝け出したのだ。
だが彼女の予想は大きく外れた。前に座る彼は驚いた顔をしたものの、すぐに目元を緩め優しい瞳で彼女を見つめた。その口元には微笑みがある。
「オレのこと、そんな風に見て思ってくれていたんですね」
「そうよ。幻滅したでしょう?だから――」
「幻滅なんてしないですよ。むしろオレのことをそこまで意識してくれてたなんて嬉しいです。でも、オレがナマエさんの筆を折る原因になったのは本当に申し訳ないと思います。すみません」
「……私が勝手に嫉妬して勝手に負けを感じて勝手に折っただけ。あなたが謝ることじゃないわ」
「……ナマエさん、これから少し時間ありますか?」
「あるけど、まだなにか?」
「オレのアトリエに来て欲しいんです。すぐそこにあるので」
彼は彼女を真っ直ぐ見つめてそう言った。自分を見つめる強い瞳に圧倒された彼女は、少しぎこちなくなったが首を縦に振った。首を横に振れなかったのは、その瞳が“はい”以外の答えを出させてくれなかったから。そのため、行く気なんてなかったのに彼女は首を縦に振ってしまったのだ。
その返答をもらった彼は嬉しそうに微笑み、ありがとうございますと言った。その笑顔があまりにも嬉しそうだったから、なんとなくムカついた彼女は彼から少しだけ視線を逸らした。
◆◆◆ ◇◇◇
「こっちです」
彼のアトリエはとあるビルの最上階だった。コンクリート打ちつけの無機質な内装に、天井にまで届く大きな窓が二つ。その窓からは太陽光が差し込んでおり、室内は電気がなくても明るく暖かかった。
彼に案内されたのは、アトリエの中に設置された大きなカーテンの前だった。彼女が前に立ったところで彼がカーテンを開ける。カーテンの向こうには一着の服を着たトルソーが立っていた。
「これが、ナマエさんのことを一番輝かせるためにオレが作った、ナマエさんのための服です」
「さすがですね。とても綺麗」
「ナマエさんのスリーサイズをちゃんと測れてないから、目測でおおよそのサイズを取った上で調整ができるように工夫をしてみました。……良かったら着てもらえないですか?」
「……分かりました。ここ、少しお借りします」
彼女がトルソーの隣に立てば、彼が嬉しそうに微笑んでからカーテンを閉めて着替えたら教えてください、と声をかけた。
残された彼女は改めて隣に立つトルソーが着た服を見る。その服は袖口がフレンチスリーブとなっているワンピースだった。背中の部分にはリボン結びをされた細い紐がある。おそらくこれでサイズ調整を行うのだろう。
「……目測だって言ってたけど、それでも結構精度高そうね」
服全体を見回して思った。この服は自分のサイズにほぼ合っていて、ほとんどサイズ調整を行う必要がない。
目測でここまで近づけるなんて誰もができることではない。それこそさまざまな人の体に合わせた服を作成したりして、目と感覚をかなり鍛えないとできない。彼女自身もたくさんの人の服をオーダーメイドで作成してきたのでそれなりに目と感覚は鍛えられていたが、目測だけで服を作ったことはなかった。仮にやったとしても、きっとここまで近づけることは不可能だろう。
「本当に、あの男はどこまで私を……」
それに続く言葉は言葉の代わりにため息となって口から零れた。とりあえず着ると言ったのだから着よう。そう思って彼女は自身が着ていた服を脱いだ。
「ナマエさん、着れましたか?」
「今出ます」
シャッとカーテンが内側から開かれ、彼の作った服を身にまとった彼女が姿を現した。その姿を見た彼は思わず目を見開き、片手を自身の口元に当てた。
「目測でここまでサイズを合わせるなんて、さすがですね。私には到底できないことです」
その言葉に彼からの返事はなかった。彼はまるで放心しているかのようにその場で固まったまま、真っ直ぐ彼女のことを見ているだけだった。さすがに彼女もそれだけ見つめられていると何となく気まずさを感じてしまい、ふっと彼から視線を外した。
「もう着替えていい――」
「だめ。着替えないで」
彼女が再びカーテンの奥へ消えようとした時、彼が彼女の手首を掴んでそれを阻止した。突然手首を掴んで止められた彼女が少し驚いて彼の方を向くと、彼は真っ赤な顔をしながら眉を下げ、どこか懇願しているようにも見える表情をしていた。
その顔を見た彼女は彼の手を振り解くことも動くこともできず、その場で固まった。
「その服、すごい似合ってる。もう少しだけ見ていたいから、まだ着替えないで」
「もう着て見せましたよ、十分でしょう」
「お願い、あともう少しだけ」
「……分かりました」
結局折れた彼女は、戻ろうとして一歩踏み出していた足を元に戻して彼の方に向き直った。だが彼は掴んでいた手首を離す気配を一切見せなかった。
「あの、離してもらえませんか?逃げませんし」
「……改めて言わせてください。オレ、ナマエさんのことが好きです」
「……その言葉はありがたく受け取ります。でもお応えはできません」
「理由、聞いてもいいですか?」
「今の私ではあなたの隣に並び立つことはできません。そもそも未だに醜い嫉妬を抱いている人の好意を素直に受け取れるほど、私は出来た人間ではないので」
「……そしたら、友達から始めさせてください」
「友達から、なら……まぁ……」
「よっしゃ!……あっ、あはは……すみません、嬉しくて」
そんな彼の姿を見た彼女は、その子供っぽさに可愛さを感じて思わず小さく笑った。それを見た彼は恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、空いている片手で頭をかいた。
「そうだ、何か飲みますか?コーヒーと水くらいしかないっスけど」
「じゃあお水を」
「はーい。あ、その辺適当に座っちゃっていいので」
その後、彼女は彼からいろいろ質問を受けた。質問の内容は好きな食べ物はなにか、などの一般的なものから、今は何をしているのか、どこで働いているのかなどの少し突っ込んだものまで、多岐にわたっていた。
その会話の中で少し打ち解けた二人は、少し堅苦しかった口調も崩れて今はお互い砕けた口調で話していた。
「あーでもよかったー。ナマエさんがまだこっちの業界にいてくれて」
「どうして?」
「だってこれからもナマエさんが関わっている服を見れるってことだろ?デザイナーを辞めたって聞いた時は、もうナマエさんが作る服を見れないんじゃないかって思ってショックだったんだぜ?……まぁそうなったのはオレのせいだったけどさ」
「……変わった人ね。あんなに自分勝手な嫉妬心をぶつけられてもなお、そんなことを言うなんて」
「見向きも認知もされていないって状態よりはよっぽどいいからなー。こんなこと言うのは悪いけど、あんなにオレのことを意識してもらえてたなんて嬉しかった」
「もしかしてあなた、性格悪いって言われない?」
「言われたことねーけどなぁ。でもまぁこんなこと言うんだから、良くはねーかもな」
◆◆◆ ◇◇◇
「それじゃあ帰るね。お邪魔しました」
「あぁ。あー……その、さ。良かったらこの服、もらってくんね?」
そう言って彼は先ほど彼女が着ていた服が入った紙袋を差し出した。
突然のことに驚いた彼女が小さく言葉を漏らすと、少し視線を泳がせてポリポリと頭をかいた彼が、少し恥ずかしそうな顔で口を開いた。
「この服は他の誰でもない、ナマエさんのために作ったものだからナマエさんにもらってほしいんだ」
「……分かった。ならお言葉に甘えてこの服はいただくことにするね」
彼の思いを無下にすることができなかった彼女が紙袋を受け取り、彼に背を向けてアトリエの玄関のドアノブに手をかけた。ガチャリとドアノブを捻り扉を開けようとした瞬間、彼が彼女の名前を呼んだ。
「オレ、諦めてねーから」
「……そう」
「次会う時、良かったらその服着てきてほしい」
「考えておく」
バタン
「……ふぅ」
扉が閉まり、アトリエ内に残った彼がその場にしゃがみ込んで大きく息を吐いた。
あんな宣戦布告をした彼だったが、内心はかなりドキドキで緊張していた。その証拠がぐっしょりと濡れた手のひらだ。
彼女のことは尊敬していたし、デザイナーとしても一人の女性としても本当に好きだった。だからこそ、本人から直接受けた嫉妬はかなり心が辛かったし、何より自身が筆を折った理由だと聞かされた時は血の気が引いた。
自分のせいで彼女を追い込み、そしてデザイナーとしての命を終わらせてしまった。この大きな事実はどう頑張っても覆せないもので、どうすることもできないものだった。
だがそれと同時に、それだけ彼女に意識してもらえていたことに喜びを感じる自分もいた。
「ほんと、いい性格してんなー。オレ……」
自身に皮肉を言って笑う。
彼女の中の自分の印象はかなりマイナスだということを思い知った彼だったが、それでも彼女を諦める気は一切なかった。
どれだけ時間がかかろうと、必ず彼女を振り向かせる。そう思った彼は立ち上がってよしっ、と気合を入れた。
この日を境に、彼は彼女にさまざまなアプローチをかけ始めた。食事に誘うはもちろん、彼女の勤めている会社が出展するファッションショーがあると聞けば自分もそこに出展し、その会社主催のイベントがあれば参加できれば必ず参加して顔を出した。
「今日のイベント、お疲れ様」
「あら、ありがとう」
会社のイベントが終わった後に開催された立食会。二人は端っこの席に座って取ってきた料理と飲み物を食しながら談笑をしていた。
「今日発表された新作のデザイン、めちゃくちゃ良かったな」
「ありがとう。新進気鋭の三ツ谷さんに褒められるだなんて、光栄ね」
「相変わらずだなーその言い方。……ところであのデザイン、ナマエさんだろ?」
「何言ってるの?私は――」
「嘘。ずっとナマエさんのことを見てきたから分かる。あれは絶対ナマエさんのデザインだ」
彼の強い瞳が彼女を真っ直ぐ見つめる。その瞳に弱い彼女が小さくため息を吐き、観念した様子でそうだ、と答えた。
「三ツ谷さんの仰る通り、あれは私が一からデザインしたものよ。よくわかったわね」
「あの服は今までこの会社が出してきた服のデザインと系統は似ていても全然違ったからなー。あの服のデザインにはナマエさんの想いが細部にまで宿ってるから、見た瞬間に分かった」
「そう言われると恥ずかしいわね。久しくデザインなんてしていなかったからどうかと思っていたんだけど……」
「なんでまた服のデザインをしたんだ?前に聞いた時は“もうする気はない”って言ってたよな?」
「あー……。そう思っていたんだけどね、感化されちゃったのよ」
「……誰に?」
「最近急成長して名前が知れ渡った若手デザイナーさんに」
「誰それ、オレの知ってる人?」
彼が食い気味にそう問うてきたので、面白くなった彼女は小さく笑った。
私はあなたのことを言っているのに。なんて思っているのにも関わらず、それを一切言わずに小さく笑っている彼女を見て、彼は少し不機嫌そうな顔をした。
「ムカつく。ナマエさんの新作が見れたのはすげー嬉しいけど、オレ以外の奴に感化されたってところが気に食わねー」
「そんなに?」
「あぁ。そんなに」
「男か女かも言っていないのに?」
「男だろうと女だろうと気に食わねーもんは気に食わねぇ。もし男だったらもっと気に食わねーけど」
「ふふっ。相当気に食わないのね」
「当たり前だろ。それだけオレはナマエさんのことが好きなんだよ。はぁー、もっと腕磨いてソイツのこと超えねーとな」
「そうね。そうでないと今の自分を超えることはできないもの」
「あぁ。……え?」
「私が感化されたのはあなたよ。三ツ谷さん」
そう言うと、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まった。その様子が面白くて彼女は再び笑った。不意打ちを食らった彼は羞恥で顔を赤くし、片手で口元を覆った。
「前々から思ってたけど、ナマエさんも結構人が悪いよな」
「そう?」
「そうだろ。……っはー、マジで焦ったんだからな?」
「今更あなた以外の人に感化されることはないと思うわ」
「……それ、期待してもいいやつ?」
「えぇ。あなたが懲りずに真っ直ぐぶつかってくるから、嫉妬も何もなくなっちゃった」
彼女が楽しげに微笑んで手元のドリンクを一口飲んだ。その言葉を受けた彼は叫びそうになったところを必死に抑えつつも、その場で小さくガッツポーズをした。
「ナマエさん、この後予定ある?」
「ないわ」
「ならこの後オレと一緒に飲みに行こうぜ」
「いいわよ」
その後、二人で飲みに行ったバーで彼は改めて彼女に告白をし、それに彼女はYESと返事をした。
ファッションデザイナーとしての筆を折った彼女と、彼女が筆を折る原因となってしまった彼女を尊敬している男。
かつては彼女が彼に大きな嫉妬心を抱いて一方的に避けていたため、二人の間には厚い壁があった。だが彼の彼女に対する想いが強く、壁を作られていても諦めずに叩いた結果、その壁は崩れて消えた。
そして今、二人は新しい関係を築き始めたのだった。
「なぁ、ナマエはまたデザイナーとしてやってく気はねーの?」
「ないかなぁ。今回が最後だと思う」
「そ、っか……」
「まぁでも、今回みたいにかたちにするしないは置いといても、デザイン案を考えるのはしてみようかなーってちょっとだけ思ってるよ」
「本当か!?なら、これからデザイン案を描いたらオレに見せてくれよ!」
「えぇ……。現役でしかも大人気のデザイナーさんに見せるのは恥ずかしいから嫌だなぁ」
「オレはナマエのデザインが大好きなんだよ。だから案だけでも見てーんだ。な?いいだろ?」
「……はぁ、わかった。考えとく」
「よっしゃ!楽しみにしてる!」
「……本当に私のデザイン、好きなんだね」
「ナマエのデザインも好きだけど、ナマエのことも好きだ」
「そんなクサい台詞、こっちが恥ずかしい」
「んなこと言うなよ。クサい台詞だろうとなんだろうと、今言ったことは全部オレの本心だ、嘘なんて一つもねぇ」
「……ありがと」