夢を殺そうと思ったんだ



もう全て諦めようと思った。

「要らない」

燃え尽きて真っ黒になったそれは、先ほどまで彼女の“夢”だったものだ。

「要らない」

周りに否定され続けた夢。それは彼女の長年の夢だった。
だが彼女は全てを諦めることにした。もうほとほとに疲れてしまったのだ。

「要らない」

彼女の夢は作曲家だった。
CDショップで偶然見かけたCDを視聴した時に、その曲に心を全て持っていかれた。歌詞もボーカルの歌声も素晴らしかったが、彼女の心を一番多く奪ったのは曲を構成していた音そのものだった。
漠然と、でも確かに自分の心を掴んで離さないその音たちに魅入られた彼女は、自分の心を奪ったあの音たちを自分でも作りたいと思った。それから彼女は作曲家を目指した。

だが彼女の夢とそれに対する努力は誰にも認めてもらえなかった。
ある人は言った。作曲家もミュージシャンと同じく博打のようなもの、外れたら無職も同然だ。
ある人は言った。お前に音楽の才能はないのだから諦めろ。
ある人は言った。もう少し現実を見ろ。せめてもう少し安定した職を目指せ。

応援してくれた人はほとんどいなかった。それでも彼女は夢を叶えるために日々努力をしていたが、彼女の心は否定によって与えられた負荷によって折れてしまった。

心が折れてしまった彼女は、これまで作曲家になるためにと買い集めた資料や手書きで作った楽譜などを押し込むようにカバンに詰め込んで、近くの空き地にやってくると家から持ってきた百円ライターでそれらに火をつけた。

彼女は真っ暗な瞳で淡々と楽譜に火をつけて燃やしていった。火をつけたところから音もなく灰になっていく楽譜たち。自分の夢を自分の手で殺していく感覚はおおよそ気持ちの良いものではなかったが、それらが灰になっていくことで心の中にあった鉛のようなものが少しずつ消えていくような気がして、ずっと苦しかった胸が少しずつ楽になっていった。

涙なんて出なかった。消えゆく夢への別れの言葉もなかった。今ここにあるのは心が折れて空っぽになってしまった彼女と、夢だったものの残骸だけだ。

「お前、そんなところで何してんだ?」

不意に誰かが彼女に声をかけた。彼女が声のした方を向くと、そこには綺麗な黒髪を靡かせた自分と同じ年齢くらいの男が立っていた。
男は不思議そうな顔をしながら、狼を彷彿とさせる力強い目で彼女を見つめていた。彼女もそれに応えるように数秒男のことを見つめたが、やがて視線を外して再び楽譜を燃やし始めた。

「何燃やしてんだ?あぶねーぞ」

男は彼女の方へと近寄ってきて、彼女のすぐ横にしゃがみ込んだ。彼女は男のことなど気にも留めず、黙々と楽譜に火を付けていた。

「それなんだ?」
「……楽譜」
「楽譜?」
「音楽の楽譜。楽器を演奏に使うやつ」
「なんでそんなの燃やしてんだ?」
「もう要らないから」
「なんでだ?楽譜って演奏に使うんだろ?燃やしたら演奏できねぇじゃねーか」
「……もう必要ないの」

最後の楽譜を燃やし終わったところで、彼女はカバンの中から次に燃やすものを取り出した。取り出されたものはコード本。さまざまな有名曲、話題曲のギターコードが掲載された雑誌の様なものだった。
コード本にはたくさんの色とりどりの付箋が貼られていた。それは彼女の努力そのものだった。

「すげーふせんの量だな」
「もう意味ないけどね」
「それも燃やすのか?」
「要らないからね」
「要らないなら捨てればいいだろ。なんでわざわざ燃やすんだ?」
「……自分で殺すためだよ」

カチカチ、とライターを鳴らして火を起こす。ライターの口から立ち上った火の先端を近づけて炙るように火を付けようとしたが、楽譜とは違い厚みがあるせいか上手く火が付かなかった。彼女はただ無心で火を付けようと何度も本の先に火を近づけて炙ったが、溶けるようにじわりじわりと燃えていくだけで、すぐに灰になることはなかった。
そんな様子をただ見つめていた男は、どうにも彼女の言動と行動が理解できず、再び口を開いて質問をした。

「なぁ。それを燃やして何が殺せんだ?」
「夢」
「夢は殺せねーだろ」
「殺せる。楽譜もこれも、このカバンの中のものも、そしてギターも。全部私の夢だったモノ。それを自分で燃やして壊して、全部終わらせるの」
「……なんで終わらせちまうんだよ。夢なんだろ?」
「あんたには分からないよ」
「あ゛?まだ話してもねーくせに決めつけんな」
「だってそうでしょ。今日初めて会った人に話したところで何が分かるの?……もういいでしょ」
「よくねぇ」
「なんで?関係ないじゃん」
「関係ねーけど、気になんだから仕方ねーだろ」

彼女は男の言葉に返事をするのをやめ、コード本を灰にするべくひたすら端を炙った。
ようやく少し火が燃え移り本の燃えるスピードが上がった。それを確認した彼女はその本をそっと足元に置いてただ黙って灰になるのを見つめていた。

「……早く帰ったら?暇でしょ、こんなところにいても」
「お前がなんで夢を終わらせるのか話してくんなきゃ帰れねーんだよ」
「別にいいじゃない。どうせ明日になったら忘れてるでしょ」
「んー……それは分かんねーけど……」
「会ったばかりの人なんか明日には忘れてるよ。だから早く帰るなりなんなりしたら?」
「あ゛ーめんどくせぇ!お前ちょっとこっち向け!」

男は痺れを切らしたのか乱暴に自身の頭を掻きむしると、彼女の両肩を掴んでむりやり自身の方を向かせた。ぼんやりとして濁った彼女の双眸が彼の方向へと向くが、その視線は彼の足元に向けられていた。
どうやってもこちらを見ない彼女にまたムカついたのか、今度は彼女の顔を両手で掴んで上に向かせて自分と目を合わせた。
彼女の力の抜けた生気のない双眸と、彼の力強く生気に溢れた双眸が合う。彼女は彼の力強さに圧倒されたのか、ぼんやりとした瞳を左右に彷徨わせた。

「離して……」
「なぁ、なんで夢を終わらせたんだ?もったいねーだろ。その本のふせん、すげー量じゃねーか。それだけやってきたんだろ?なのに――」
「どれだけやっても意味がないことだってあるんだよ!」

彼女の瞳から大粒の涙が零れ、男の手を伝っていった。それに驚いた男がぎょっとして、慌てて自分の服の袖で彼女の目元に溜まる涙を少し乱暴に拭った。

「どれだけやったって否定されるものは否定される!親だって応援してくれない!先生だって無理だって言う!それでも諦めずにやってきたよ!でもっ……もう、無理なんだよ。疲れちゃったんだよ」

そう言って彼女は嗚咽を漏らしながら泣き出した。男はどうしたらいいのか分からずおろおろとしていたが、やがて彼女の頭に手を乗せて優しく撫で始めた。その手つきは不器用でぎこちないものだったが、そこには確かに彼の優しさがあった。

「お前のことはよく知らねーから、お前の辛さも分かってやれねーけどさ。そんなに泣くくらい本気で夢に向かって頑張ってた、ってことだろ?なら周りの奴らが何と言おうと、お前はお前の夢に向かって走ればいいんじゃねーの?」
「……でも、誰も応援してくれない。誰も認めてもくれない。そんな中で一人進むのはもう無理、つかれちゃったんだよ」
「ならオレがお前の夢を応援してやる」

男はわしゃわしゃと彼女の頭を撫でてそう言った。撫で回された彼女は驚いて少し男の方を見上げると、彼女の顔を見た男がニッと笑った。その笑顔があまりにも眩しくて、彼女は少しだけ目を細めた。

「センセーやお前の親が応援しねーってんなら、オレが応援してやる。だから夢を殺すとか終わらせるとかすんなよ。頑張ってきたお前がかわいそーだろ」
「……なんで、名前も知らない人にそんなこと言えるの」
「なんでだろーな。でも名前とか知らなくたって、燃やしてた本を見たらお前がどれだけ頑張ってきたかは分かる。それを誰も応援しねーなんておかしいだろ」

そう言って男は微笑んだ。その微笑みを見た彼女は、ぽろぽろと涙を零しながらも真っ直ぐ男の子とを見つめていた。
ぼんやりとしていた彼女の双眸は今はすっかり輪郭を取り戻し、はっきりとしたものに戻っていた。

「そうだ。お前の夢ってどういうのなんだ?」
「作曲家」
「サッキョクカ?」
「そう。曲を作る人、作曲家。昔私の心を奪った曲があって、その曲みたいに誰かの心を奪うような、そんな曲を作る作曲家になりたいの」
「すげーな!カッケー夢じゃねぇか!」
「……ありがと」
「なぁ。今度お前が作った曲、聞かしてくれよ!」
「いいよ」
「じゃあ次もここで会おうぜ」
「わかった」

そこで男は自身の服のポケットから携帯を取り出して何かを見ると、少し慌てた様子でその場を後にした。彼女も彼女で男の様子を見て少し呆然としていたが、男の姿が見えなくなった直後に連絡先を交換していないことに気づいた。
しかし男は既にどこにもおらず、どうしようもなくなった彼女はコード本などが入ったカバンを肩にかけ、自宅へと帰ることにした。

◆◆◆ ◇◇◇

彼女が空き地で名前の知らない男に出会ってから数日が経った。
いつ彼がやってくるかも分からない。そもそも彼があの時のことを覚えているかも分からない。そんな状況の中、彼女はほぼ毎日あの空き地へ向かっては自身が作った曲や既存曲を弾いて男が現れるのを待った。

「……今日も来ない、か」

数曲弾いたところで手を止める。辺りは随分と暗くなっており、あと三十分もしないうちに遠くに見えるオレンジの夕焼けが地平線へ沈み、夜がやってくるだろう。
この辺は女ひとりだと安全とは言い難い場所なので、日が沈み切る前にこの場を離れようと帰る支度を始めた。

「あれ、お前……。もしかしてあの時の女か?!」
「え?」

ギターケースを背負い空き地から一歩出た瞬間、横から強い光が差し込んできた。それと同時に誰かが声をかけてきた。彼女が声のした方へ視線を向ければ、そこには真っ黒な服に身を包んだあの時の男が立っていた。
男は乗っていたバイクから降り、彼女の元へと駆け寄ってきた。その顔は逆光で上手く見えないが、何となく嬉しそうに見えた。

「オレだよ!あの時お前に声をかけた!」
「覚えてるよ、ちゃんと。もう来ないのかと思った」
「わりぃ、補修とか抗争とかが重なって中々行けなかったんだ」
「なんか物騒な言葉が聞こえた気がするんだけど」
「そうか?それよりよ、連絡先交換しようぜ」
「そうだと思うけどなぁ。まぁいいや。うん、交換しよ。あの時交換し損ねたなって思ってたんだ」
「オレもさ、あとで千冬に言われて気づいたんだよなぁ。……よし、これで次はちゃんと連絡取れるな!」

そう言って男はあの時と同じようにニッと笑った。それにつられて彼女もそっと微笑んだ。
その後、男がどうしても送っていくと言うのでその言葉に甘えることにした彼女は、男と並んで住宅街の中を歩いていた。

男としてはバイクの後ろに乗せて送るつもりだったのだが、彼女がギターケースを持っていることもあり乗せる方が危ないとなったため、バイクを押して徒歩で送ることとなったのだ。

「なんかごめんね、送ってもらっちゃって」
「気にすんな。こんな時間に女一人で帰らせるなんてできねーからな」
「あの時もそうだけどさ、あなた結構優しいね」
「そうかぁ?」
「うん」

そこで彼女の家の前に着いた。ちょうど会話も途切れたところだったので、そのまま別れの挨拶をし、二人は別れた。
家の中に入り、交換した男の連絡先を見る。連絡帳の“は”行に追加された“場地 圭介”の名前を見て、少しだけ自分の胸が跳ねたことに気づいた彼女は、頬をポッと赤く染めた。

「……次会うの、楽しみだな」

彼女は携帯を握りしめ、男――場地と会う日に思いを馳せて自然と微笑んだ。