ピアノの音と恋を紡ぐ
最初、彼女のことはただの“同級生”としか認識していなかった。
特別目立った見た目でもないし、何か目立つようなことをしているわけでもない。
部活は……知らない。そもそも自分自身あまりちゃんと学校に居ないから、誰が何をしてるとかなんて彼女以外の同級生であっても知らない。
だけど、あの日彼女を見かけたことをきっかけに、オレの中で彼女の存在が徐々に大きく、そして明確になっていった。
ある休日のこと。ペケJと遊ぶ際に使っていた猫じゃらしが壊れたため、新しいものを買いに外に出た時のこと。
いつも行くペットショップの隣には大きな楽器店があり、そこでは様々な音楽に関する教室が開催されていた。
その日開催されている教室は、店のガラスに教室名が書かれた紙が張り出されているため、今日は何が開催されているのかが一目で分かるようになっており、ペットショップに寄る時は大体チラッとその張り出しを見ていた。
今日も、いつものように店に入る前にチラッと、紙が張り出されたガラスを見る。
「今日は……アコースティックギター、ピアノ、ジャズピアノ、か。ピアノとジャズピアノ……って何が違うんだ?」
張り出されていたのは“アコースティックギター”、“ピアノ”、“ジャズピアノ”の3つだった。
音楽はもっぱら聴き専―それも好きなアーティストしか聞かないので、ジャンルも狭い―のオレからすると、ピアノとジャズピアノの違いが何なのか全く分からなかった。だってどちらも“ピアノ”じゃないか。
猫じゃらしとついでに買ったオヤツを入れた小袋を片手にペットショップを出ると、同じタイミングで隣の楽器店から誰かが出てきたのが視界の隅に見えた。
気になってそちらの方を見ると、そこには同級生の女の姿があった。
彼女の顔は知っていたので、パッと見で同級生、それも同じクラスの奴だとは分かった。が、あの店から出てきたということは教室に行っていたか、あるいは何か楽器を見に来たかのどちらかなのだろう。
肩には黒のトートバッグが掛かっている。私服、意外と大人っぽい感じなんだな。
「あ……」
つい彼女のことを見つめてしまっていたようで、視線に気付いた彼女がこちらを向いたかと思うと、一瞬驚いた顔をしてから小さく声を漏らして足速にその場を去って行った。
なんか、気になる。
「明日聞いてみるか」
明日覚えていたら聞こう。なんて思いながら、オレは家へと帰った。
休み明けの平日。今日は珍しく早く目が覚めたので、何となくいつもより早めに学校に向かった。後で面倒になったらサボればいいだろ。
自分の教室へ向かっている途中、ふと、遠くから微かな音が聞こえた。
耳を澄ませてみる。これはピアノの音だ。
そこでふと休日にあった出来事を思い出したオレは、音の発生源に向かった。
辿り着いたところは案の定音楽室だった。どうやら今日は吹奏楽部の練習はないのか、パッと見室内には人の姿が見当たらない。
視線を室内のピアノの方へと向ける。そこにはオレと同じ学生服を着たあの女が座ってピアノを弾いていた。
よく授業で聞かされるピアノとは全然違う、少しアップテンポでオシャレなその音は、まるで音がダンスを踊っているように思えた。
「なぁ」
扉を開けて中に入り、声をかける。
すると、ピアノの音が途切れ、楽しそうに揺れていた彼女は石のように固まり、ギギギと音がしそうな程硬い動きでオレの方を向いた。
「あ、あっ……なんで……。この時間だったら絶対人が来ないはずなのに……」
「まぁ、オレもこんな朝早くに学校来るとは思わなかった……」
「お、お願いしますっ!このことは黙っていてくださいっ!私にできることなら何でもしますからっ!」
彼女はガタンと大きな音を立てながら慌てた様子で立ち上がると、オレに向かって思い切り頭を下げ、叫ぶようにそう言った。
確かに不良ではあるが、ほとんど絡みのない人間にそんなにも怯えられると、こう……オレも何と言えばいいのか分からないが、かなり複雑な気持ちだ。
でもまぁ、絡みがないなら確かに怯えられても仕方ない。見た目もそうだが、一応不良として名も顔も知られてるし。とはいってもむやみやたらに、それも女になんて手をあげないんだけど……。
「そんなビビんなよ。別に何もしねぇし」
「で、でもっ――」
「まぁオレも不良だし、ビビんのは分かるけどよ。何もしてねぇ奴に、それも女に、何かすることはねーから」
「そ、うですか……」
「でさ――」
一旦言葉を切って彼女の近くの適当な席に座る。
相変わらずビビって変に力んだ状態で立つ彼女を少し見上げながら、切った言葉を再開した。
「さっき弾いてたピアノ、あれなんだ?聞いたことねー」
「あれはジャズピアノ、です」
「ジャズピアノ……?」
「オシャレなバーとかで流れてるようなものです。ドラマのそういうシーンとか見たことないですか?」
「んー……あるような、ないような」
「そう、ですか……。それじゃあ、うーん……。いわゆる“ピアノ曲”よりも、ちょっと大人っぽいオシャレさがあって、クラシックのような堅さがあまりないもの、とかでしょうか……」
「……わかんねぇ。ってかさ、お前オレと同じクラスだろ?なんでそんな敬語なんだよ。タメでいいぞ。あとさ、良かったら聞かせてくれよ。実際聞いた方が分かる気がするから」
彼女は分かった、と言ってその場で一度深い深呼吸をしてからピアノの前にある椅子に腰掛けた。
鍵盤に両手の指を添えるように乗せ、再び小さく深呼吸。少しの間の後に彼女の細い指が白と黒の鍵盤の上を踊り出した。
ポロンポロン、という優しい音が何個も合わさり、彼女の指の動きに合わせて踊る。
ここに来るまでに少し聞いていた曲とは違い、今の曲は優しくゆったりした曲だった。
先ほどの彼女が言っていた“オシャレなバーとかで流れてるようなもの”という言葉が何となく分かった気がする。
視線を彼女本人に向ける。時に目を瞑り、時にそっと目を伏せ、時にパッと目を開いて前を向き、曲のリズムに合わせてゆらりと身体を動かしている。
その姿がとても綺麗で、見ているだけなのにも関わらず、オレの意識全てがそこに吸い込まれるような感覚がした。
「こんな感じなんだけ、ど……私、なんか変だった?」
「えっ、あ、あー……わりぃ、弾いてるお前がすげー綺麗だったから、つい……」
「えっ!?」
再びガタン、と音を立てて立ち上がった彼女は、真っ赤な顔をして口元を片手で隠した。
「そ、そういうことはっ!その、えっと、簡単に言わない方がいい、んじゃないでしょうか?!松野君、顔とか声とかいいしっ!」
「それ、褒め言葉として受け取っていいんだよな」
「い、いです……。なのでその、簡単にそういうの言わない方がいいよ……。言われる身としても恥ずかしいし……」
「別にそう思ったからそう言っただけだし、何も悪くねーだろ」
「私にとっては大問題なんです!あああ、恥ずかしい……」
彼女はヘナヘナ、と萎れるように再び椅子に座ると、上半身を丸めて完全に顔を伏せてしまった。
顔を伏せた彼女からは“どうしよう”という小さな声が漏れてきている。そんなに恥ずかしがることもないと思うんだけどな……。
その時、音楽室にチャイムの音が響いた。
そろそろ教室に行かなければ遅刻になる。オレはいいとしても、彼女は普通の子だから困るだろう。
「なぁ、そろそろ教室に行かねーと遅刻すんぞ?」
「分かってるんですけど、こんな状態じゃ行けないです……」
「はぁ?何でだよ。別に泣いてるわけでもねーし、問題ないだろ」
「か、顔の赤らみがまだ取れなくて……」
「あー……なら、オレと少しサボるか?遅れた理由はオレが何とか言ってやるから」
「いいの……?」
「あぁ。とりあえずここから移動しようぜ。授業が始まったら人が来るだろ?」
「う、うん」
人が来る前に二人で音楽室を出る。向かう先は人があまり来ない屋上へ続く階段の一番上の踊り場。
特別な授業でもない限りはここに人はやってこない。幸い彼女もオレもカバンを持ったままだったので、教室に取りに行くこと必要がなかった。
二人でそれぞれカバンを持って階段を上がる。特段慣れていないわけでもないのに、今日はいつもと違って彼女という存在があるからか、変に緊張した。
屋上の扉前にある踊り場に辿り着いてからふと思い出す。そういえば彼女の名前ってなんだっけか?
「なぁ、今更でわりぃんだけど……お前、なんて名前だ?」
「ミョウジナマエ、です」
「ミョウジナマエ、ミョウジナマエ……あー。か、顔は知ってたから!一発見ただけでお前だって分かったから!」
「あ、はは……。私、陰薄いので仕方ないと思う……」
「まぁ……その、なんだ……。クラスの奴らにそんな興味もなかったし、ましてや大人しい奴なんか……。で、でも!ナマエのことはちゃんと覚えたから!今!ぜってぇ忘れねぇ!」
「あぁ、気にしてないから大丈夫だよ。覚えてくれてありがとう」
そう言って彼女は微笑んだ。
その顔がオレの胸をギュッと絞めた。苦しくて、何となく心臓の動きが早くなった気がする。
こんなの、まるで少女漫画のヒロインがときめいた時のシーンみたいじゃないか。
「学校サボったの、始めてだからなんか緊張するしソワソワしちゃうや」
「ナマエ、真面目そうだもんな。……今更こんなこと言うのも何だけどさ、良かったのか?サボって」
少し不安だった。オレとは正反対の、いかにも真面目な彼女に授業をサボろうと誘ったのはオレだ。そして頷いたのは彼女だ。
それでも、“良かったんだろうか”と不安になったのだ。
彼女は壁にもたれたオレの前に立ち、ふわりと微笑んで“うん”と頷いた。
「本当は今も凄い怖いし、不安だし、緊張してるけど……。でも、ワクワクもしてるの。特別、って感じがするから。ありがとう、松野君」
だめだ、顔が熱い。顔が真っ赤なのが自分でも分かる。
赤くなった顔を隠すために片手で顔を覆いながら視線を彼女からずらす。名前もまともに覚えてなかった彼女に、どうしてこうも乱されるんだ。
「あのさ」
不意に彼女が口を開いた。
ずらした視線を再び彼女に向ける。彼女は下り階段の手すりに浅く腰掛け、階段の先にある校舎裏が見える大きな窓を見つめていた。
何となく顔が赤いのは、まだ先ほどの赤らみが完全に収まっていないからだろう。
「私がピアノを弾けること、秘密にしておいてくれる?」
「いいけど、さっき音楽室でもそんなこと言ってたよな?なんでだ?ピアノが弾けるなんてすげーことじゃねーか」
「ピアノが弾けるとね、ピアノが必要になった時、必ず弾ける人に白羽の矢が立つんだよ」
「白羽の矢、か……」
「うん。だから、嫌だって言っても変わらないの」
「ふーん。で、それとピアノが弾けることを隠すことと何が関係あんだ?」
「合唱祭ってあるでしょ?あれ、毎年ピアノが弾ける人が問答無用でピアノをやらされるの」
「合唱祭……あー、そんなのもあったな。でもすげーじゃん、それってピアノの腕を認められたからってことだろ?」
「ううん、複数人いたらそうかもしれないけど、基本はそうじゃないの。ピアノが弾ける人がクラスに1人しかいないから、その人がやらざるを得ないの。良くも悪くも目立つし、色々言われがち。だから嫌なの」
彼女の横顔は寂しげだった。
ほとんど初めましての人の過去をあれこれ聞くのは良くないと思ったので聞けなかったが、多分過去にそういうことで何か嫌なことでもあったんだろう。
上手い言葉が出てこなくてあれこれと悩んでいたら、そのうち気まずい沈黙が生まれた。
「ごめんね、初めてちゃんと喋ったのにこんな話……。ピアノが弾けること、褒めてくれてありがとう」
「……何があったかとかは聞かねーけど、きっとナマエはピアノを弾くことは好きなんだろ?今日弾いてもらった時見ててそんな気がした。すげー楽しそうだったし」
「うん。ピアノは好き。ジャズピアノはもっと好き。弾いててすっごい楽しいんだ」
「また聞かせてくれよ、ナマエのピアノ。オレもっと聞いてみてぇ」
「じゃあ、ウチのお店に来る?」
彼女の家はジャズバーを経営しているらしく、店には立派なピアノがあるらしい。
バーは夜に開くため、日中からバーの開店時間前までは自由にピアノを弾いていいと親から言われているので、好きなだけ弾いているのだとか。
「今度のお休みの日とか、もし時間があればだけど……」
「いいのか?いいなら行きたい」
「いいよ。私から誘ったんだし……。それじゃあ明日の朝十時頃、ペットショップ近くの楽器店で待ち合わせしよ?」
「あー、あそこだな。分かった」
そこでちょうど一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ったので、彼女と共に教室に戻った。
教師から遅れた理由を聞かれたので、“金が足りなくてこいつにジュース奢ってもらったついでに彼女を連れてその辺走ってた”と話した。
我ながら無理矢理とは思いつつも、とりあえず彼女が被害者という扱いとなった上に珍しくサッと終わったので、そのままお互い視線も合わさず席に戻った。
そのまま残りの授業は全て寝て過ごし、放課後を知らせるチャイムが鳴ったところでさっさと帰った。
教室から出るその一瞬、ちらりと彼女の方を見やる。彼女は一人、黙々とカバンに荷物を詰めていた。
それから残りの平日は、なんだかんだ少し早く学校に来ていた。
理由は自分でもよく分からない。ただ、学校に来て一つやることが増えた。
それは、自席から彼女の様子を見ること。……そんな見ねーようにはしてるけど。
話しかけたいけど、目立つことが嫌いそうだった彼女に話しかけるのは良くないだろう。
だけど、どうしても彼女のことが気になってしまい気づけば目で追っていた。
それから彼女の声にも少し敏感になった。遠くから彼女らしき声が聞こえるだけで勝手に聞き耳が立ってしまい、気になって視線まで移してしまう。
薄々は気づいていた。多分、いやほぼ確実に、オレは彼女に恋をしているのだろう。
約束の土曜日。ジャズバーというのをよく知らなかったが、多分オシャレな場所だろう。バーってそういうところだろ?
本当は三ツ谷君に頼んで服を選んでもらおうか、なんて思ったけど、それもなんだかちょっと気恥ずかしくて結局自分で選んだ服を着て待ち合わせ場所へと向かった。
「あ、おはよう。松野君」
「はよ」
雰囲気に合った少し大人っぽい私服を着たナマエが、オレに気づいて片手を振って挨拶をしてくれた。
今日の目的地であった彼女の家は、楽器店から少し歩いた先にある路地を曲がったところにあった。
入り口である黒っぽい茶色の木の扉が大人っぽさを感じさせる。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
彼女に案内されて扉の向こうへと行くと、大人っぽい雰囲気のある部屋があった。
右手にはカウンター席、左には背が高い丸型のテーブルが何個か置かれている。椅子があるテーブル席もいくつか見えた。
店の奥には低い階段のような高さの舞台があり、その上に、音楽室にあるピアノと同じようなピアノが置かれていた。
すげぇ、これが“バー”ってやつなのか。
ふと自身の服を見る。どう見てもこの店の雰囲気には合っていない。
「なぁ、ナマエ。オレこんな格好だけど、大丈夫か?」
「え?大丈夫だよ、そんな気にしないで。その服、よく似合ってるよ」
「ありがと……ってそうじゃなくて。こんな大人っぽい店に、こんな格好じゃ合わないだろ……」
「そんな気にしなくていいのに……。松野君はお店のお客さんじゃなくて、私の演奏を聴きに来てくれた、私のお客さん。その格好は私のお客さんとしてはぴったりだから、大丈夫だよ」
「……なら、いいけどよ」
「さっ!お客様、どうぞこちらへ。飲み物は何がいいですか?」
彼女に案内されて座ったのは、ピアノの前にあるボックスタイプのソファ。前にはソファの高さに合った白っぽい正方形のテーブルが置かれている。
「飲み物って何があるんだ?」
「うーん……。オレンジジュースとアイスティーと……あとはアイスコーヒーと麦茶?」
「じゃあアイスティーで……」
「ミルクとお砂糖はいる?」
「だ、大丈夫……」
「分かった、じゃあちょっと待ってて!」
彼女はふわりと笑ってカウンターの方へ向かった。
少しだけ見栄を張ってストレートティーをお願いしてしまったことを少しだけ後悔する。飲めなくはないが……うぅむ。
カウンターの奥にある業務用の冷蔵庫を開いて紙パックを取り出し、近くの棚から背の高いグラスを手に取った。
慣れた手つきで氷を入れ、そこに透き通った赤茶色の紅茶が注がれる。それすら何だか絵になっていて、オレは思わず見惚れてしまった。
「はい、お待たせしました。どうぞ」
丸い紙製のコースターが敷かれ、その上にコトリと紅茶が入ったグラスが置かれた。
グラスの後に置かれたストローの封を切ってストロー本体を取り出してグラスに差して一口飲む。……まぁ、いけなくはない。
彼女はピアノの椅子に座り、鍵盤の蓋を開けた。鍵盤を覆い隠していた濃い赤色の布を取り去り、丁寧に畳んでピアノの上に置く。
「それじゃあ、始めます!」
彼女はオレの方を向いて気恥ずかしそうに笑いそう言うと、一度深呼吸をした。ふぅ、と息が吐かれて一瞬の間が開く。直後、彼女の綺麗な指が鍵盤の上を踊り出し、音を奏で始めた。
「すげぇ……!」
ぞわり、と鳥肌が立つ感覚がした。音楽を聴いてこんな風になるのは初めてだ。
学校で見た彼女も楽しそうだったが、今目の前にいる彼女はあの時よりもずっと楽しそうで、生き生きしていた。
表情もどこか楽しそうに見える。ピアノの音もどこか楽しげだ。
そんな彼女の姿、演奏にオレは釘付けとなってしまい、演奏が終わるまでテーブルの上の紅茶を一口も飲むことはなかった。
「本当はドラムとかギターとかも入るんだけど、ピアノだけだとこんな感じ。どうだった?」
「めちゃくちゃ凄かった!なんかー、こうー……あぁくそっ!上手く言えねぇ!でも、凄かったんだよ!学校で聞いた時よりももっと楽しそうな音で、弾いてるナマエも楽しそうで!音楽のことは分かんねーけど、オレは楽しそうにピアノ弾いてるナマエも、ナマエのジャズピアノ?も、すげー好きだって思った!」
今のこの気持ちは、自分が持つ言葉では上手く表現できなくてもどかしかった。でも“好きだ”と思ったのは事実だ。
だけどこれではまるで彼女に告白しているように思えて、それに気づいた瞬間、顔が燃え上がるように熱くなった。
「あ、これはその、お前のことが好きとかじゃなくて!あ、いや、別にお前が嫌いな訳じゃなくて、えっと……」
「大丈夫だよ。松野君が言いたいことはちゃんと伝わったから。ありがとう、私のピアノを好きだって言ってくれて。すっごい嬉しい」
そう言って彼女ははにかんだ。
オレは先ほどの恥ずかしさで火照った体を少しでも冷まそうと、テーブルの上のグラスを手に取ってストローを咥えて紅茶を飲んだ。
砂糖の甘さもミルクのまろやかさもない、少し苦くて大人っぽい味が口の中いっぱいに広がる。体の火照りは解消されなかった。
「松野君って、不良だって聞いてたからちょっと怖い人なのかなって思ってたけど、全然そんなことないんだね。あの時はごめんね」
「不良だって聞いたら誰だって“怖い”って思うから問題ねーよ」
彼女はピアノの鍵盤に真紅の布をかけて蓋を閉めた。そして椅子から立ち上がり、こちらへとやってきた。
「実はね、松野君が私の初めてのお客さんなんだ」
「オレが、ナマエの初めての客……?」
「うん。発表会は何度かしたことがあるから、そういうところでは聴いてもらったことはあるけど……。そういう場じゃなくて、こうやって普通のお客さんみたいな感じで人に聴いてもらうのは松野君が初めてなんだ」
彼女はそう言って再びはにかんだ。ただ先ほどと違うのは、少しだけ顔が赤くてどこか恥ずかしそうだった。
その姿を見て、胸がギュッと掴まれるような感覚がした。少し苦しくて、でも嫌じゃない。
多分、きっと、そうだ。読んでた少女漫画でもよくある表現だ。“胸が苦しくなる”という感覚、それが今オレが感じているこの苦しみなのだろう。
ということは、やっぱりオレは彼女に――
「今日は本当にありがとう。松野君の褒め言葉のおかげで自信持てたし、これからも頑張れそうだよ」
「あー、うん、そうか。ならよかった」
「……どうかした?なんか変だよ?」
「いや、どうもしてねーよ?」
「そう?ならいいけど……」
そこで彼女は視線をオレから別の場所へ移した。同じ方向へ視線を向けてみると、そこにはこの店の雰囲気によく似合う壁掛け時計があった。
時計が示す時間は昼手前。少し早いが昼飯を食べる時間帯だろう。
「もうこんな時間かー、早いなぁ」
「あ、あのさっ!」
「ん?なに?」
「ナマエ、これから時間、あるか?」
「うん」
「良かったら、これから飯、食いに行かね?」
「うん!私、美味しいオムライスのお店知ってるの!私たちでも出せるくらいの値段のところなんだけど、どうかな?」
「おう。じゃあそこ行こうぜ」
「やった!今準備してくるから、ちょっと待ってて!」
楽しそうな笑顔をしながら、彼女は小走りで店の奥の扉へと消えて行った。
残されたオレは、ソファに座ったままピアノを見つめた。先ほどまで見ていた彼女の演奏が鮮明に思い出され、ピアノの前に座って演奏している彼女の姿が見えた。
人生で初めて、というにはまだまだ若いだろうが、彼女の演奏は人生で初めて、鳥肌が立つほど感動した音楽だった。
好きな音楽はあった。気になるアーティストとかもいた。クラシックとかには特段興味はない、いいなと思う曲があったかどうかくらいだ。なんならジャズなんて聞いたこともなかった。
だけど、彼女の演奏はオレの心を掴んで奪っていった。演奏する彼女の全てから目を離せなかった。そして、今もこうして鮮明に一音一音思い出せるくらいに記憶に焼き付いているのだ。
それだけ、オレは彼女の演奏に、そして彼女自身に、心を奪われたのだ。
「お待たせ!」
先ほど消えていった扉から彼女が出てきた。先ほどと格好は一緒だが、手には服装にぴったりの小さなカバンがあった。
あー……可愛い。学校にいるときはあんなに大人しそうで、なんだったら少しおどおどしてる感じもあるのに、今はこんなにも笑ってキラキラして、全てを楽しんでいるようだった。そのギャップがまたオレの心を掴んで離さなかった。
「ごめんね、待たせちゃって。松野君、お手洗いとか大丈夫?」
「え、あー、あぁ。大丈夫……」
「あ、紅茶どうする?もう飲まないなら下げちゃうけど……」
「あ……わりぃ、今すぐ飲む」
「いや、無理しなくてもいい――」
「の、み終わった!ごちそうさまでした!」
「う、うん。お粗末様でした。じゃあグラス下げてくるね。すぐ行くから先に外行っててもらってもいい?」
「おう」
外に出て数分後、彼女が出てきたので、彼女が言っていた店へと向かった。
店で二人でオムライスを注文して食べ、その後はその辺をぶらっと歩く。なんだかデートをしている気分だ。
彼女が寄りたいと思った店に寄って、オレが気になった店に付き合ってもらい、気づけばもう夕焼けで空がオレンジ色になっていた。
暗くなる前には彼女を家まで送り届けようと思いつつ、まだこうして一緒に居たいと思い、少しゆっくりした足取りで彼女の家へと向かう。
「あっという間だったね。今日は付き合ってくれてありがとう」
「オレがしたかっただけだから気にすんな。というか、こっちこそ誘ってくれてありがとな」
「いえいえ。私の演奏を心から、あんなにも褒めてくれた同級生が松野君が初めてでね、それが嬉しくって今日誘ったの。自分勝手なものだったんだ、ごめんね」
「……あの、さ」
先にオレの足が止まる。そこから一歩先でナマエが止まってこちらを向いた。
夕日に照らされた彼女はオレンジ色の光を反射してキラキラとしていて、少し眩しかった。
「また、ナマエの演奏を聴かせてほしい、んだけど……いいか?」
「……うん!もちろん!松野君なら大歓迎だよ!」
ナマエは今日一番のキラキラした笑顔をしてそう言った。
少女漫画みたいなことなんて、正直起こるとは思ってなかった。憧れがなかったわけではないが、それでもやっぱりどこか“有り得ない”と思っていた。
だけど今のオレの状況は、まさしく少女漫画にあった状況だ。オレは彼女の楽しそうに演奏する姿に惚れ、彼女の奏でる音に心を奪われたんだ。
「なぁ、なんで学校だとあんな大人しいんだ?いや、大人しいっつーか、こう……おどおどした感じ、っていうの?今は全然そんなことねーのに」
「学校だからだよ。学校では学校の私がいるし、休みの日は休みの日の私がいる。それだけだよ」
「じゃあ今、オレの前にいるナマエは?」
「うーん……。松野君の前にいる時の私、だよ」
そう言って笑った彼女の顔は夕日のせいか少し赤くなっていた。
そんなことを言われたら、勘違いしちまいそうになる。勘違いかもしれない。そう思って抑えようと思ったが、限界だった。
気づいたらオレは彼女の名前を呼んでいた。
「ナマエっ!……オレ、ナマエのことが好きだ。少し前に話しただけの奴からそう言われても信じられねーかもしんねーけど……。でも、オレはナマエの演奏してる姿も、演奏も、そしてナマエ自身も、すげー好きなんだ。学校にいる時のナマエも、今オレの前にいるナマエも――」
「す、ストップっ!!ストップ、待って……」
両の手のひらを前に突き出し、首をブンブンと横に振る。何だって言うんだ。
よく見ると先ほどよりも彼女の顔が赤い気がする。いや赤い、確実に赤い。これは夕日のせいなんかじゃない。
一歩、前に踏み出して彼女との距離を縮める。彼女が突き出した両手が触れないギリギリのところで立ち止まり、真っ直ぐ彼女のことを見る。
彼女は真っ赤な顔をしたまま視線を左斜め下へと向けていた。
自分へ突き出された両手をそっと掴んでゆっくりと下に降ろす。手を掴んだまま、再び一歩距離を近づける。
オレよりも身長の低い彼女が頭を下げたままだから、今オレの視界の半分くらいは彼女の頭頂部だった。
小さくて丸くて、女子特有の細くてツヤツヤした髪が、夕日に照らされてキラキラしている。
「ま、まずはお友達からで、お願いします……」
「何言ってんだよ。もうダチだろ?」
「と、友達期間が短すぎない?!私まだ松野君がどういう人か全然知らないし……」
「オレのこと、か……。あー……そうだな、猫飼ってんだ。ペケJって名前のな。あとはー……あ、走りには自信ある。それからー……うーん……」
次に何を出そうか、と考えて言葉に詰まっていると彼女が小さく笑い始めた。
オレは訳が分からなくて、言葉を完全に止めてしまった。
「そうじゃないよ松野君……!そうじゃなくて、これから友達として遊んだり食事したり話したりしてみたい。私がまだちゃんと松野君の気持ちにちゃんと答えられないと思うから」
「分かった……。じゃあまずは友達から、よろしく頼むな」
「うん。……ところで、その、手……」
彼女に言われ、今までずっと彼女の両手を握っていたままだったことに気づき、慌てて手を離した。
悪いことしちまったな……。
それからは、少し気まずさは残ったもののお互いの様々な話をして歩いた。
ちょうど話の途切れ目に彼女の家にたどり着いた。あぁ、この時間が終わってしまう。そう思うと少し寂しさを感じた。
「松野君、送ってくれてありがとう。それから……松野君の都合の時間を教えて欲しいの。私の予定と照らし合わせて、良さそうな日にまた声かけるから、聴きにきてほしいんだ」
「おう!家帰ったらすぐメールすっから!」
「うん!待ってる!」
彼女と別れたオレは、急いで家に帰った。
予定なんて正直大体空いてるようなもんだ。今の時間帯に別れるとなれば、仮に集会があったとしても問題はねぇ。抗争とかがなければ、休日も丸々空いてるようなもんだ。
部屋にある卓上カレンダーと睨めっこしながら、彼女に予定のメールを打つ。
「……あいつのあの姿は、ぜってー誰にも見せたくねーなぁ……」
ぼそりと呟いた言葉に自身でも驚いた。既にそれだけ彼女への独占欲が出てきているのか。
オレはベッドの方へと行き、そのままベッドの上に寝転がった。すると、待ってましたと言わんばかりにペケJがオレの腹部に飛び乗ってきた。
ペケJを撫でつつメールを打って送信する。次に彼女のピアノを聴けるのはいつだろうか。
「次聴かせてもらうときに、また告白……するか……」
そんなことを考えつつ、オレの意識は微睡へ沈んでいったのだった。
実は彼女が前々から千冬のことを気になっていたのはまた別の話。