ある“愛”の話
これからわたしの話をする。
この話は、わたしの“愛”の話だ。
わたしは愛を知らなかった。
幼い頃は母親という存在から愛を受け取っていたと思ったのに、それは幻想だと知った。
だから私は愛を知らなかった。生まれてからずっと、愛がどんなものなのか知らなかった。
そんな中、ある人がわたしに愛を教えてくれた。
その人は、どんなわたしでも受け入れてくれた。そして絶対に見捨てないで一緒にいてくれた。
だけどそれもまた、わたしだけの
誰もわたしだけに愛をくれる人はいないのだと思った。
わたしだけを見てくれるわけではない。わたしだけを愛してくれるわけではない。わたしだけを尊重してくれるわけではない。
誰かの一番になることはできない。
その人と言い争いの喧嘩をしてからしばらく経ったある日、その人が死んだと聞いた。
わたしの心から何かが抜け落ちる音がした。カラン、という乾いた軽い音。それがわたしの心そのものだと知ったのは今になってだ。
死んだように生きる日々だった。あの頃のことは今振り返ってもどうやって生きていたか、記憶が朧げでよく思い出せないところがある。
空っぽのまま、いつもポッカリ空いた穴を抱えて生きていた。何のために生きているかなんて分からなくて、死ぬことすら面倒だと思うくらいで、結果的に今日も生きているという状態だった。
そんな日々の中、とある男がわたしに声をかけてきた。
わたしはその男の言葉に乗り、わたしだけのものだったはずのあの人の愛を分け与えられた“オトウト”に会うことにした。
空っぽにして、空虚にして、同じようにしてやろう――そう思っていた。
そんな中、もう一人の人に出会った。
出会いは偶然だった。たまたまわたしが一人でいるところにその人が声をかけてきたのだ。
本人曰く、その声かけはナンパとかそういうのじゃなく、ただ、一人でいるわたしを見て興味を持ったから声をかけたらしい。
その日を境に、わたしとその人は度々同じ場所で会って一緒にいるようになった。
ある日はぽつぽつと喋り、ある日は全く無言で静かに過ごす。たったそれだけのことなのに、わたしはこの人と過ごす短い時間を重要視し始めた。
その人と会う時間を誰かに邪魔されるだけで、誰であろうと不快で苛立った。それくらいわたしにとってその人と過ごす時間は重要だったのだ。
その人と過ごすようになりしばらく経ったある日のことだった。
その人が「もう会えない」と言ったのだ。その言葉を受けたわたしは言葉を失った。もう会えない、それは一体どういうことなのか。その人を問い詰めても、その人は「もう会えないんだ」としか言わなかった。
酷く苛立った。それと同時にその人に失望した。
ようやく、ようやく出会えたと思ったのに。だけどやはりこの世にはわたしだけを見てくれる人など、気にかけてくれる人など、いやしないのだと思い知らされた。
◆◆◆ ◇◇◇
その人と会えなくなって数ヶ月後のこと。
わたしはとある場所でその人を見つけた。
気づいた時には体が動いていて、わたしに気づかず去ろうとするその人の腕を掴んでいた。
腕を掴まれたその人は驚いた顔をしてわたしを見ると、「久しぶり」と言った。
その人は逃げたりすることはなく、わたしと一緒に来てくれた。
会えなくなった理由ははぐらかされたが、その人と会えただけで十分だった。
もう失いたくない。わたしだけを見てくれる、わたしだけを好きだと言ってくれる、この世でたった一人の存在がこの人だから。
だけどその人はあの時と変わらない顔で言った。「今でも好きだ」と、そうわたしに言ったのだ。
その言葉を受けたわたしは、その言葉を信用できなかった。
前もそう言っていたくせに、結局わたしの前からいなくなったのだ。信じられるわけがない。
「なら、証明して」
その人は小さく笑って「わかった」と答えた。
そっと頬に手を添えられ、その人の顔が近づく。直後、わたしの唇に柔らかい何かが当たる感触がした。
それがその人の唇だということに気づいたのは、その人が顔を離してからだった。
「これが証明」
そう言ってその人は笑った。
ずっと冷たかったはずの胸の内が暖かい。あぁ、これが“愛”というやつなんだろうか。
ならこれを、この先もずっと手元に置いておかなくてはいけないな。
◆◆◆ ◇◇◇
側にいて欲しかったから。もう二度と失いたくないから。
だからこうして側にいるようにした。
やっとのことで手に入れたわたしだけの“愛”。
その人はいつもと変わらない顔でわたしを抱きしめて「好きだ」と言った。
満たされない。満たされない。ずっと空いていたこの穴を満たすには、その“好き”だけじゃ足りない。
あぁほら、またそうやってわたし以外の人を見る。気にかける。
見ないで。気にかけないで。わたしだけを見ていて。
「■には■■■だけだから」
◆◆◆ ◇◇◇
冷たい。寒い。
灰色の空から降ってくる雪がわたしの体の体温を奪っていく。
あぁ、こんな時あの人がいてくれたら。きっと冷たくなっていくわたしの体を抱きしめて暖めてくれるんだろう。
こんなにもがいて変えようと、壊してやろうと思っていたのにな。
失敗したからなんだろうか。それともあの人が今すぐ側にいないからなんだろうか。
どうしてか“寂しい”と思った。
片手を固く握りしめられるから、それに応えて握り返す。
寒いからか上手く力が入らない。
視界がぼやける。あぁ、これが涙か。
わたしが泣くとは思ってもいなかった。
零れ落ちる涙は一瞬だけの温かさをわたしに与えて地面へと落ちていく。
こんな時あの人がいたら、どうしてくれたんだろうか。
やっぱりこんな時でもあの人のことを考えているわたしは、あの人のことを少なからず好きでいて、“愛して”いたんだろう。
愛を知らない人間が誰かを愛すだなんて、てんでおかしな話だが、それでもそれ以外の表現をわたしは知らなかった。
視界がさらにぼやける。わたしを見下ろす“オトウト”の顔すらもう朧げだ。
頭の中に過去の記憶が駆け巡る。
その最後に見えたのは、わたしの“イモウト”とあの人の顔だった。
わたしの人生は苦しくて辛くて冷たさばかりがあった。
だけどあの人と出会って、あの人が側にいたから、わたしの人生がほんの少しだけ変わったんだろう。
「――」
“イモウト”の名前の後にあの人の名前を呟く。だけど喉も口も上手く動いてくれなかった。
だけどきっと、わたしの最期の想いはあの人に届いてくれるだろうと思った。
これが
◆◆◆ ◇◇◇
「寒いね。今日は雪が降るんだって」
とある墓地の無縁仏の墓の前。一人の女性が優しい声で誰かに語りかけるように呟いた。
その言葉と共に吐かれた息は雪のように真っ白な煙となって宙に消えた。
「あの日も雪が降ってたんだよね。寒かったでしょうに」
曇り空から静かに雪が降ってきた。小さな雪は彼女の髪や服に落ちていく。ここいらで降る雪は水っぽいので、雪たちは数秒その場で留まってから溶けて水滴に変わった。
それを気にせず、彼女は持ってきた線香に火をつけて墓の前に置いた。
静かに手を合わせて目を閉じてから数秒の沈黙。その間にも雪は静かに降り、彼女や周りに少しずつ積もっていった。
「ごめんね、側にいられなくて。ずっと側にいるよって言ったのにね」
静かに目を開いた彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。
「私も愛は当時も今もよく分かってないけど、初めて好きだと思った時から今もずっと、イザナのことが好きで、愛しているんだよ」
彼女の瞳から一粒の涙が流れる。
涙の伝った後が冬の冷気によって冷やされる。
「もっとちゃんと伝えておけばよかった。そしたらこんなに後悔もしなかったのに。ごめんね」
ぽろぽろと伝い落ちる涙を拭うこともせず、彼女は目の前の墓を見つめた。
もちろん視線の先にあるのは墓石だけで、誰かがいるわけではない。だけど彼女はそこに“彼”がいると思って、聞いてくれているんじゃないかと勝手に思い込んで、言葉を続けた。
「愛してる。これまでも、これからも、私が死ぬまでずっと」
その言葉の後、彼女はそっと一瞬だけ墓石に触れてからその場を去った。
「……オレも、愛してる」
誰かの声が冷たい風に乗って消えた。