月夜の邂逅
彼と彼女が初めて会ったのは薄暗い路地だった。
冷たく青白い月光が降り注ぐ夜、彼女が偶然通りかかった細い路地の先に彼が立っていた。月明かりを全身に浴びて静かに佇む彼はそれはそれは綺麗で、実在する人物のようには思えなかった。あまりの非現実的綺麗さに、工場地帯の人工的な光とミッドナイトブルーの空、そして暗闇のような海を背景にした人物画のように見えた。
視線に気づいた彼がゆったりと彼女の方を向く。柔らかい海風が吹いて、月明かりに照らされて冷ややかな光を帯びた刃のような彼の銀髪を靡かせた。
カランカラン、という乾いた小さな音が鳴る。髪の隙間から覗く氷のように冷え切った冷たい紫色の双眸が彼女を真っ直ぐ射抜いた。
彼女は思わずその場で息を呑み、言葉を失ったままただ黙って彼を見つめることしかできなかった。
そのうち彼は彼女に興味が失せたのか、彼女へ向けていた視線を外してどこかへと歩いて行った。
それからしばらくしてあの時と同じくらいの時間。この日も同じように月明かりが降り注ぐ日だった。彼女は名前も知らない彼のことをふっと思い出し、再びあの路地へと向かった。
路地の前にやってきて路地の先の方を見るがそこには誰もいなかった。そんな都合のいいことは起きないか、と思ったものの何となく路地の先へと惹かれ、気づいたら彼女は路地へ入っていた。
路地を抜けた先、あの日銀髪の彼が立っていた場所。そこは人気の少ない海沿いの道だった。広くも狭くもないその道には、海に並行に等間隔で並び立つ街路樹と街頭があった。街路樹と街灯は交互に並び立っていたので、工場地帯からの明かりと相まってさほど暗くはなかったが、いかんせん夜の人気の少ない道だったので、少しだけ怖さがあった。
彼女がその場を離れようかと思ったその時、遠くから微かに音が聞こえた。
音が小さいため上手く聞き取れないが、どうやら誰かがこの辺りで歌を歌っているようだ。気になった彼女がその微かな音を頼りに音の発生源を探して歩き始めた。
音の発生源はすぐに見つかった。彼女が歩き始めて数分もしないうちに見えたベンチ。そこに座っていた人が発生源だった。
月明かりと街灯、それぞれに照らされて冷たい光を帯びた銀髪。細く長く伸びた銀色のまつ毛。銀色がよく映える、漆を塗られたかのようにつるりとして傷ひとつない綺麗な褐色の肌。間違いない、あの日見かけた彼だ。
「……なんだ」
「え、っと……」
彼女の気配に気づいた彼が歌を止め、静かに彼女の方を向いた。あの日と同じく冷たい紫の双眸が彼女を射抜く。
射抜かれた彼女は思わず目を左右に泳がせたが、やがて意を決してゆっくり口を開いた。
「絵に、なりますね」
「……は?」
彼女が絞り出した言葉を聞いた彼は、眉間にギュッと皺を寄せて理解ができない≠ニいう表情をした。その表情を見た彼女は、彼に不快な思いをさせてしまったのではないかと思い、慌てて頭を下げて謝った。
「ごめんなさいっ!実は前に貴方を見かけた時、路地のかたちも相まってまるで額に入った綺麗な人物画に見えて……!今の姿も凄く綺麗だったから、なんか肖像画みたいだな!って思った、っていうか……えっと……」
彼女が矢継ぎ早に言い訳を並べていると、彼はどうでもいい≠ニ言いたげな顔をして小さく息を吐いた。それを見た彼女はハッと我に返ると、再び「ごめんなさい」と一言謝った。
「わざわざそれをオレに言うためだけに、ここでオレを探してたのか?そうなら随分暇だな、オマエ」
「探していたというか、つい惹かれてここに来たというかなんというか……。あはは……」
「……用が済んだならさっさと失せろ」
彼の鋭く冷たい言葉を受けた彼女はサッと熱が下がり、彼に軽く頭を下げてから小走りでその場を去った。
だがその日以降、彼女は今まで以上に銀髪の彼のことが気になって仕方なかった。何をしていてもふと彼を思い出してしまう。名前も素性も何も知らない人だというのに、どうにも彼の姿が頭にこびりついて離れない。
その日の夜も彼の姿が脳裏にちらつくので、彼≠フ姿を探してあの路地の先へ赴いた。
そこは相変わらず静かな場所だった。人は少ないし、雑踏から一本外れたこともあって日々周りに溢れる雑音が遠い。
夜ということ、そして人気が少なく静かであることで何だか不思議な空間に入り込んだような気持ちになった彼女は、早速銀髪の彼を探すことにした。
不思議な雰囲気があるが、その裏には常に暗闇と冷たさがある彼。怖くないと言ったら嘘になるが、それ以上に彼にもう一度会いたい≠ニいう思いが強かった。
「あっ」
彼が腰掛けていたベンチの辺りまでやってくると、彼はあの日と同じように腰掛けていた。ゆるりとしていて、肩口の広い黒のトップスに白のシンプルなパンツ。中には白のタンクトップを着ており、片腕をくの字に折って肘辺りをベンチの背もたれの上に軽く乗せている。
「また来たのか。今度は何の用だ」
彼女に気づいた彼が視線を海の方に向けたままそう言った。彼女は小さく深呼吸をすると、一歩彼に近づいた。
「貴方にもう一度会いたいと思って探してました」
「オマエ、それだけでここに来てオレのことを探してたのか?」
「はい」
「変わってんだな、オマエ。今日は気分がいい、少しくらいなら話に付き合ってやってもいいぜ」
彼はそう言って彼女を一瞥した。少しだけ細められた瞳が彼女を捉える。今までとは違い、冷たさも鋭さもない瞳を見た彼女は、思わず一瞬目を見開いて黙って彼を見つめていた。
黙って見つめられた彼は何も話さない彼女に違和感を覚えたのか、今度はしっかり彼女の方を向いて「何黙ってんだよ」と言葉を投げた。
「やっぱり、貴方は絵になりますね。凄く綺麗で、つい言葉を失ってしまいます」
「イザナでいい。貴方≠ヘ気持ちわりィ」
「えっと、それじゃあイザナさん――」
「さん≠烽「らねェ」
「……じゃあイザナで」
ぶわり、と風が二人に吹き付けた。思わず片手で風を遮って目を細めた彼女は、ふと向けた視線の先にいる彼、イザナの姿を見て目が奪われた。
姿勢を変えないまま吹き付けた風を浴び、銀髪がサラサラと靡く。カランカランとあの時と同じ乾いた音が鳴る。どうやらその音はイザナが身につけているピアスが発生源だったようだ。
風を受けた目は細められているものの、表情は変わらず仏頂面。それなのにどうしてかイザナの姿が美しく思え、釘付けとなってしまったのだ。
風が止み、イザナが細めていた目を元に戻す。彼女も慌てて風を遮っていた手で、乱れた髪を整えてた。
「オマエ、名前は?」
「ナマエ、です」
「ふぅん」
彼はそれ以降黙ってしまった。困惑した彼女は、どうしたものかと頭を抱えたが、このまま離れるのも何だか勿体無いと思い、悩んだ結果彼女は一つの答えを出した。
「前にここで会った時、イザナ、歌ってましたよね?あれはなんて曲を歌っていたんですか?」
「……ボヘミアン・ラプソディ」
「あの有名なバンドの?」
「それ以外何があるんだよ」
「洋楽歌えるんですね。かっこいい」
「……帰る」
「えっ!?あのっ、気を悪くさせたならごめんなさいっ!」
「……明日の同じ時間、ここに来い」
イザナはそれだけ一方的に彼女に伝えると、そのままベンチから立ち上がり、彼女に背を向けて去って行ってしまった。残された彼女は不安と困惑を抱えたまま、とぼとぼとその場を後にした。
そして次の日。イザナが去り際に伝えていった言葉に従って、昨日と同じ時間に同じあのベンチへと向かうと、そこにはまたラフな格好をしたイザナがベンチに腰掛けていた。
「こ、こんばんはー……」
恐る恐る彼女が声をかけるもイザナは彼女の方を見向きもしなかった。困った彼女がその場に立ったままイザナを見ていると、イザナが瞳だけ動かして彼女を見た。
「ここ、座れ」
ベンチの背もたれに乗せた片腕の手の人差し指で指されたのは、イザナの隣の空いたスペース。唐突のことに驚いて一歩も動けていない彼女を見たイザナは、少し深めのため息を吐くと、背もたれにかけていない方の腕で自身の脚の上に頬杖を突き、不機嫌さをあらわにした表情で彼女の方を見た。
「さっさとしろ」
「は、はいっ」
彼女がそそくさとイザナの隣に浅く腰掛ける。自身の隣に腰掛けた彼女を見たイザナは満足したのか、不機嫌だった表情を仏頂面にも思える表情に戻した。
柔らかい風が二人の髪を優しく揺らす。どことなく気まずい空気がイザナとの間に流れ出したため、彼女が何か話題を振ろうとしたその時、イザナが曲を口ずさみ始めた。
「――、――」
それはボヘミアン・ラプソディの冒頭の歌詞だった。
彼女はイザナにボヘミアン・ラプソディのことを聞いてから、毎日一回以上はボヘミアン・ラプソディを聴いていたので、彼が口ずさんだフレーズを聴いた瞬間にすぐそれだと分かった。
彼女は開きかけた口を閉じ、黙ってイザナの歌に耳を傾けた。
静かに波打つ海の音、優しく吹く風が揺らす木の葉の擦れる音、時折響くカランというイザナのピアスの鳴る音、そしてイザナが紡ぐ歌。それら全てが美しく混ざり合い、イザナと彼女がいるこの場所を世界から切り離していた。
しばらくその世界に浸っていると、イザナが曲の最後のフレーズを歌い終わり、口を閉じた。そこで彼女の意識は、切り離された世界から戻ってきた。我に返った彼女は一拍間を開けてから小さく拍手を送った。
「歌、上手ですね。思わずじっくり聴いちゃいました」
「オマエくらいだよ、そう言うのは」
「そうなんですか?」
「あぁ」
「他の方がどう思っているのかは分かりませんが、少なくとも私はとっても上手だと思います。英語の発音も綺麗だし、詰まっているところもないし、歌声も綺麗だし……。それに音程だってしっかり取れていると思います!」
「別に褒めろとは一言も言ってねェだろ。……でもまぁ、悪い気はしねェな」
そう言ってイザナはふっ、と小さく笑った。その顔がまた綺麗で、彼女は改めてイザナは絵になる人だ≠ニ思った。
またしばらくの沈黙。でも今度は特別気まずさなどはないのは先ほどの世界の余韻に浸っているからだろうか。
不意にこの静かな空気を破く機械音が鳴り響いた。驚いた彼女がピクリと小さく体を跳ねさせると、自分の携帯からかと思い、慌てて傍に置いていたカバンの中を漁った。
しかし彼女がカバンの中から携帯を取り出す前に、その機械音が止まった。
「なんだ。……あぁ、分かった」
「ご用事ですか?」
「あぁ。じゃあな」
「はい。今日は素敵な歌、ありがとうございました。お気をつけて」
イザナは立ち上がり、あの日と同じく彼女に背を向けて歩き出した。ただあの日と違ったのは、去り際に小さく片手を上げたこと。それを見た彼女は、何だか胸がくすぐったく感じ、少し浮ついた足取りでその場を後にした。
それからというもの、二人は連絡先も交換していないのに不定期にあのベンチで会うようになった。もちろん、連絡を取り合っていないので同じ時間帯に顔を出してもイザナがいない時もあれば、彼女がいない時もあった。でもそんな距離感がお互いにとってちょうどよく、心地が良かった。
そんな日々がしばらく続き、もうすぐ一ヶ月が経とうとした頃。いつものように二人がベンチに腰掛けて何をするわけでもなくいると、不意にイザナが口を開いた。
「オマエ、ケータイ持ってんだろ。貸せ」
「えっ。何する気ですか」
「いいから早くよこせ」
「……変なことしないでくださいね」
「するかよ」
彼女が差し出した携帯を奪うように取ったイザナは、空いている片手で自身の携帯を持ち、彼女の携帯と自分の携帯それぞれを操作し始めた。
やがて双方の携帯から短い機械音が鳴り、何かしらの操作が完了したことを知らせた。自身の携帯画面を見たイザナがどこか満足気な顔をして、彼女に携帯を投げ返した。
無事携帯をキャッチした彼女は、何をされたのかを確認するべく自身の携帯を開いた。
「何したんですか!?」
「……教えねー」
「えぇ……」
困惑しつつも、先ほど鳴り響いた機械音を思い出し、記憶の中からその音にマッチする操作を探す。見つけた答えは赤外線通信の完了音≠セった。携帯間で赤外線通信を用いた操作となると、思い当たる節は一つ。連絡先の交換だ。
彼女は携帯の電話帳を開いて、誰が追加されたのかを確認した。操作ボタンの下ボタンを連続で押して行を送っていくと、か行の連絡先の中のく≠フまとまりの終わりのところに知らない名前の表記があった。
「黒川イザナ=c…ってこれ!」
「それ、死んでも消すな。消したら殺す」
そう言ってイザナは彼女を横目で一瞥した。彼女はイザナの脅しの言葉に戸惑いつつも、画面に表示されているイザナの名前に胸がくすぐられたような感覚がして、それを噛み締めるように携帯を閉じてカバンにしまった。
「ところでどうして連絡先を?」
「わざわざオレがここに来てやったのに、オマエがいつまで経っても来ない時が何度かあっただろ」
「あー……。それを防止するために、ってことですか?」
「ちげェよ。オレがここに来た時にオマエを呼び出すためだ」
「えっ。そこは事前に連絡とか――」
「オレが連絡したら、すぐに来い。何があろうとな」
「いやそれは流石に無茶ですよ……。私だってそこまで暇じゃないんですよ」
「オレだってそこまで暇じゃねェんだよ」
「……善処はしますけど、できれば前日連絡だとありがたいです」
「ならオマエがしてこい」
「なんて横暴……!」
◆◆◆ ◇◇◇
家の近くだから、という大したことのない理由で度々足を運ぶこの場所はオレの気に入った場所だった。ここは夜になると人気が少なくなり、静かになる。その上気圧も低めだ。
今日もまたいつものようにあの場所、人気の少ない海辺の道のベンチへと向かう。やはり今日もこの場所は人がおらず静かだった。ベンチに腰掛けて前を向けば、遠くにある工場の電気と月明かりに照らされた水面、そして工場の強い明かりで所々が白くぼんやりと明るい夜の空が見える。
柔らかな夜風が吹いてオレの髪を揺らす。この時間はそれなりに好きだ。オレには似合わないくらい穏やかで静かで、平和な時間だが。
ふとオレが強制的に連絡先を交換したアイツのことを思い出す。
正直オレもどうしてあんなことをしたのか、今もよく分かっていない。ただ何となく。本当に何となく、気まぐれに、アイツの連絡先でも手に入れておくかくらいの気持ちで交換した。
「……調子狂うなぁ」
ぼそりと呟いた言葉は風に溶けて消えた。
全く、どうしてオレはあんなことを――。そう思うと、心臓の辺りがゾワゾワと粟立つような感覚がした。でもどうしてかその感覚に対して気持ち悪さなどは感じなかった。
調子が狂う。それも全部アイツのせいだ。
「……今すぐ来い」
アイツのせいだ、と思ったら少しイラッとしたのですぐにアイツの携帯に電話をかけた。コール音が二回なったところでアイツが出たので、間髪入れずに呼び出しの一言を言ってそのまま問答無用で電話を切った。
アイツが来る。そう考えたら自然と口角が上がった。これもまた腹立たしい。
こうもオレを掻き乱すヤツなんて、今までだったら男だろうが女だろうが関係なく潰してきていた。だけどアイツにはどうしてかそれが出来なかった。
ふとあの日を思い出す。あの日、初めてアイツと出会った日。オレがいつものようにここへ向かっている最中、路地の向こうにある表の世界にいたアイツが、薄暗い裏の世界にいるオレを見つけた日。
真っ直ぐ見つめてくるその双眸がどうにも印象的で、その時のナマエの姿はまるで表の世界の喧噪を背景に描かれた人物画のようだった。
人も車も植物も皆ごちゃ混ぜになった騒がしい世界の中でも、どうしてか埋もれずにハッキリと姿が見える存在。どんな派手な見た目の人間がいても、それ以上に目を引く存在。それがナマエだ。
そんな存在、真一郎くらいしかいないと思っていたのに。
「急に呼び出すのは、どうかと思うんですけどっ……!」
「おせェぞ、ナマエ」
急ぎ足で来たらしいナマエは少し息が上がっていた。体力ねェなァ、コイツ。
いつものようにオレの隣の空きスペースに腰掛けたナマエは、カバンからペットボトルを取り出し、蓋を開けて中身を飲み始めた。ラベルが剥がされていて中身はよく見えるものの色がよく見えない。だが何かしらの色がついているように見えるので、少なくともただの水ではないだろう。
――コイツ、オレには飲み物を持ってこないで自分のは持ってンのかよ。
「オイ、ナマエ」
「なんですか?」
「それ、オレにも寄越せ」
「それ……ってこれですか?」
そう言ってナマエは手に持っていたペットボトルを軽く振った。それ以外の何があるってンだよ。
「これ、私の飲みかけですよ?口付けちゃってますよ?」
「オレが寄越せ≠チて言ってんだから寄越せ」
「……後で怒ったりしないでくださいよね」
余計な一言を付け加えて、ナマエは渋々といった様子でオレにペットボトルを差し出した。それを取ったオレは、ペットボトルの飲み口に口を付けず、自分の口の中に注ぎ込むようにして中身を飲んだ。
ペットボトルのなかみが口の中に入った瞬間、ふわりと微かに何とも言えない風味が口の中いっぱいに広がった。飲んだことのない味が一瞬口内に溜まってそのまま喉を流れ落ちていく。一口目を飲み終えた後、オレは思わず眉間に皺を寄せた。
「……何だこれ」
「ジャスミンティーですよ。美味しくなかったんでしょう?返してください。私まだ喉乾いているんです」
その言葉と共にナマエが片手を差し出し、「返せ」という態度を取った。これはこれで何だかムカつくな。
オレはナマエの姿を横目に、残り少なかったジャスミンティーを一気に飲み干してやった。飲み終わってから横にいるナマエの方を見ると、ガーン≠ニいう効果音が付いてもおかしくない程、ショックを受けた顔をしてオレのことを見ていた。ハッ、間抜け面だな。
「なっ……!」
「コレはオレがもらったんだからオレが飲み干しても問題ねェだろ」
「いやいやっ!普通そこは一口で終わりですよね!?全部あげるだなんて一言も――」
「は?そもそもオレを待たせたんだ、これくらいはもらって当然だろ」
「……今度はイザナの分も買ってくることにします。それもう空ですよね?後で捨てるのでください」
そこで今度こそオレは(空になっているが)ペットボトルをナマエに返した。律儀なヤツだ。
受け取ったペットボトルの蓋を閉め、カバンに戻したナマエは不満そうな顔でオレを見た。
「なんだ、何か文句でもあンのか?」
「ありますよ」
「へェ。言ってみろよ」
「急に呼び出ししないでください。事前連絡を、と何度もお願いしましたよね?それから、飲み物が欲しいなら言ってください。ちゃんとイザナの分も買ってきますから」
そう言った後、ナマエは小さくため息を吐いていつもの穏やかな表情に戻った。いつも思っていたが、ナマエは感情が顔に出やすいのかコロコロと表情が変わる。忙しいヤツだ。
「それだけか?」
「……そうですね、それだけです」
「ハッ、くだんねェな」
「結構重要なことなんですけどね、今言ったの。そろそろお願いしますよ、イザナ」
「オマエ如きがオレの行動を制限するのか?いい度胸してるじゃねェか」
「制限ってほどでもないでしょう。これは常識というかマナーというか……そう!思いやり!思いやりですよ、相手への」
ナマエが大真面目な顔をしてそんなことを言うので、耐えきれなくなったオレはとうとう声をあげて笑った。一瞬だったが、こうも声をあげて笑ったのはいつ以来だろうか。
本当にナマエは面白い。
「笑うところじゃないですよ!こっちは大真面目に――」
「あの日、オレを見つけたのがオマエで良かった」
「え?」
「……なんでもねェ。忘れろ」
思わず本音が漏れた。クソ、本当にコイツといると調子が狂う。だけどそれもまた、別に心地が悪いものではなかった。
こんな感覚は、多分生まれて初めてだ。
「私も、あの日たまたまイザナの姿を見ることができてよかったと思っていますよ」
ナマエは跳ね返るようにベンチから立ち上がると、視線の先にある海への落下防止になっている柵の前へと歩いていった。柵に辿り着くと、その場でくるりと踵を返してオレの方に向き直った。絶妙な逆光によってナマエの表情がうまく見えない。
「あの日、たまたまあの路地の前を通りかかり、たまたま路地の先を覗いてみた。そしてそこにたまたまイザナがいた。たくさんの偶然≠ェ重なった結果、イザナに出会えたんです」
相変わらずナマエの表情は影になって見えない。だがこちらを向いて立つナマエは絵になっていて、悪くないと思った。
別に特別絵画などの芸術に興味があるわけではないというのに、どうしてこう思うのか。きっとこれもナマエのせいだろう。
「初めてイザナと出会った日から一ヶ月くらい経ちますが、今もイザナのことはほとんど知らないです。でも私はこれからもイザナとは友達でいたいです」
「友達=Aか」
すっかり忘れていたが、オレはナマエに自分の素性を何一つとして話していなかった。だがそれはナマエも同じだ。
オレたちはお互いの名前以外はほとんど知らない状態でここでずっと会って話をしていた。きっとこんなところを見た鶴蝶たちは驚くだろう。無理もないが。
「嫌でした?」
「……別に構いやしねェ。ただ、おもしれェなって思ってただけだ」
「面白い要素、ありましたかね……?」
「恥ずかしげもなくこれからも友達でいたい≠ネんて、よく言ったもんだよな」
「えっ!?いやそれは本心ですし……。もしかしてその部分がおもしろ要素だったってことですか……」
「さァな」
適当にあしらってやれば、ナマエは「何なんですか!」なんてふざけ半分に声を荒げてから小さく笑った。それに釣られてオレも少しだけ笑った。
柔らかい夜風がオレたちの髪を揺らしていく。ナマエが「相変わらず綺麗ですね」とオレに言った。本当にコイツはブレねぇヤツだ。
「ナマエ」
「はい」
「明日の同じ時間、ここに来い。それからオレの分の飲み物も買ってこい」
「後半の部分、自分でお願いしておいて何ですけどパシリみたいですね」
「あ?オマエが事前に言ってくれ≠チて言うからわざわざ言ってやったんだろ?それなのに文句か?」
「文句じゃないですよ!ただそう思っただけで、ちゃんと買ってきますよ。明日は空いているので同じ時間に来ますね。飲み物は何がいいですか?」
「……今日オマエが飲んでたヤツ」
「ジャスミンティーですね。わかりました」
ふと携帯を開いて見ると、ディスプレイに表示された時間がいつもの解散時間だった。ナマエもそれに気づいたのか、柵の方からこちらへ戻ってきてベンチの上に置いていたカバンを取って肩にかけた。
「それじゃあまた明日。お気をつけて。おやすみなさい」
「あぁ」
別れの挨拶をしてオレたちは背を向けそれぞれ歩き出した。背後に小さく響くナマエの足音がどんどん遠くなっていく。やがてその足音すら聞こえなくなったところで、ふと明日を楽しみにしている自分に気がついた。
「らしくねェな」
ぽつりと呟き短く息を吐く。
本当にらしくない。だが、やはり心のどこかで明日を楽しみにする気持ちがあるのは紛れもない事実だった。
人気のない裏道を歩いて自宅へと向かう。普段は重くも軽くもない足だが、今日はほんの少し軽い気がした。小さく口ずさむはボヘミアン・ラプソディの(おそらく)一番有名な冒頭にある歌詞。
今日は帰ったら少しアコギでも弾くか。気圧も低めで気分もいい。
歌うのはもちろん今口ずさんでるヤツだ。