愛する人よ
※20,000字オーバーのため、かなり長いと思います。
「……ナマエ、今年もここの桜は満開だな」
落としたりしないように、と内側にしまっている胸元のペンダントにそっと服の上から触る。
春らしい柔らかな風が吹いて、オレの髪と頭上の桜が揺れる。今年もまたこの季節になった。そしてオレもまた、生きてこの日を迎えられた。
そっと左手を持ち上げ、薬指に嵌る銀色の細身の指輪を見る。もうこの指輪を持つ人はオレだけになってしまったが、この先オレはこの指輪以外の指輪を左手薬指に嵌めることはない。
人が少ないこの場所で一人桜を見上げる。なんとなく、オレの隣で彼女が同じように桜を見上げているように思えた。
◆◆◆ ◇◇◇
「竜胆っ」
「あーもう、うっせぇな。こっちはもう疲れてんだよ、休ませろ」
この頃のオレは仕事≠ナ少しずつストレスが溜まっていた。部下の尻拭いから始まり、面倒な奴を罠に嵌めるための工作の手伝い、こちらにハニートラップを仕掛けてきた女の所属する組織の調査……本当に面倒臭いことばかりだった。
そのせいで帰りは遅り、結果として睡眠時間も削れて疲れは残り、いつしか大したことないものにすらイライラするようになっていた。
例えばそう、愛する妻であるナマエから「帰り遅いけど大丈夫?」と心配の言葉をかけてもらった時とか。
オレだって自分の現状は分かっているからこそ、彼女に当たらないためにと物理的に距離を取る。と言っても一緒に住む自宅だから、できることと言えばさっさと風呂に入ってしまうことくらいだ。
分かっていた、彼女が心配していることなんて。それでもどうしようもなく苛立ってしまう自分がいるから、彼女にこれ以上当たってしまわないようにと逃げた。
風呂場と廊下を隔てる扉を閉める瞬間に見えた彼女の顔が、酷く辛そうだったことを知っていたのに、オレはそれに気づかない振りをして、自分の現状を言い訳にして、向き合わなかった。
頭を冷やすためにいつもより少し長めに風呂に入っていたオレがリビングへ戻ると、テーブルの上には一人分の食事が用意されていた。申し訳なさで心がチクリと痛む。
料理の載った皿の隣には彼女からの置き手紙があった。
『さっきはしつこく聞いちゃってごめんね。今日もお疲れ様。ご飯は残ったら冷蔵庫に入れておいてください。申し訳ないけど、明日から私も仕事が繁忙期になるので、朝早いから先に寝ます。おやすみなさい。 ナマエ』
「……いただきます」
いつもだったら彼女が向かいの席か、少し奥のソファに腰掛けているのに。同じタイミングで食事ができなくても、同じ部屋にいてくれるのに。それら全てを無くしたのはオレ自身だというのに――。
明日から繁忙期となると、オレと彼女は更に各々の時間がすれ違うことになる。きっとオレももうしばらく忙しいままだろうから、今のが粗方片付いたら休みでもとって彼女と会う時間を作ろう。そう思いながら、少し冷えた料理を食べ始めた。
食事を終え、寝る支度まで整えて自室に入る。それぞれで自室を持っている理由は、一人になれる場所があった方が何かといいだろう、という彼女からの提案だった。
今になって彼女のその提案の素晴らしさが分かる。本当にナマエは色々なことを考えているし、先をしっかり見据えている。オレと同じ年齢だというのに、中身はオレよりも年上の大人≠ノ思える。
本当は彼女の姿を見ようかと思った。だが彼女の朝早い≠ヘ本当に早いため、睡眠の邪魔をするのは悪いと思ったのでやめた。
部屋の明かりをつけずにベッドへ向かい、そのまま倒れ込むようにベッドの上に横になる。横になった身体が重力に従って布団とマットレスに沈んでいく感覚に身を任せながら、オレは目を閉じた。今日はもう疲れてしまった。色々と。
*〜*〜*
次の日からオレと彼女は家の中でさえ会うことがなくなった。同棲を始めたのは結婚するよりもずっと前からだったので、毎年一回はこうやって家ですらまともに顔を合わせることがないくらい、生活リズムがずれることがあった。
だから慣れていると思っていた。大丈夫だと思っていた。それなのに、あの時扉を閉じるあの瞬間に見た彼女の顔がどうにも頭にこびりついて消えなくて、それがオレを更に不安にさせた。
「竜胆、お前あの子となんかあったのか〜?」
「……兄貴には関係ねーじゃん」
「おいおい、ひでェな〜。こっちは弟夫婦の様子を心配して声かけてやったってのに」
仕事と仕事の合間にできた少しの時間。といってもただの移動時間だが。
珍しく「オレが運転する」と言ってハンドルを握っていた実の兄が、赤信号で止まった際に薄く笑ってオレにそう声をかけてきた。
兄貴の性格からして、本気で心配していることなんてほとんどないと言っても過言ではないので、今回もそんなところだろうと思っていた。だが今回の兄貴の心配≠ヘどうやら数少ない本気だったようだ。
「ナマエチャンから連絡もらったんだよ。竜胆は元気か≠チて。ほんっといい子だよなァ?」
「は? なんでオレに直接じゃなくて兄貴に聞いてんの」
「まだ竜胆と喧嘩したままだし、竜胆も酷く疲れてるから今直接連絡したら更にストレスになると思う≠チてことらしいぜ。愛されてんねェ」
その言葉の後、信号が青に変わったのでオレの返答を待たずに兄貴は車を発進させた。
兄貴の言ったことは図星だった。「連絡が来たって苛立ったりしねェ」と反論したかったが、今までのことを思い出すとその言葉に確証が持てなくなり、言おうとした言葉はオレのわがままと強がりに思えてしまった。
その後、予定通りに仕事を終えて三途に連絡を入れた。どうやらこれで今日の分は終わりだったらしく、電話越しに「帰っていいぞ」と言われた。
兄貴にそれを伝えると「なら家まで送ってってやるよ。オレもヤサシイから」と言われ、車に乗るようにハンドサインをもらった。
オレも≠ニヤサシイから≠フ間に、絶対カッコ書きであの子と一緒で≠チて言葉が入っているな、なんて思いながら車の助手席に乗る。ふと夜空を見ると月がなく、控えめな星の光だけしかなくて、少し暗いな、なんて普段の自分らしからぬことを思った。
兄貴の運転で自宅へと向かう。パッと腕時計で時間を確認すると、時刻は二十三時半を示していた。まぁ今の仕事量から考えると、今日は珍しく早く終わった方だろう。
ナマエの方は帰宅しているだろうか。きっと遅くても零時頃には家に帰ってくるはずだから、少し待ってみてもいいかもしれない。何だったらこれから兄貴に言ってコンビニに寄ってもらって、彼女が好きなデザートでも買って行くか。
兄貴に通り掛かりのコンビニに寄ってほしいと伝えると、オレの考えを察したのか一つ返事でコンビニに寄ってくれた。
彼女が好きだと言っていたデザートを買ってコンビニを出て車に戻る。改めてオレの家へ向かうために兄貴が車をバックさせ始めたところで、オレのスマホが鳴った。
社用携帯だったので急用かと思いつつ胸ポケットからスマホを取り出して発信者名を確認する。
発信者名は梵天の息がかかっている都内のとある総合病院だった。こんな時間に病院から連絡だなんて、梵天の幹部の誰かに何かあったんだろうか。
「もしもし」
『灰谷竜胆さんですね?! 至急当院へお越しくださいっ! 奥様が――』
「……兄貴、わりィ。目的地変更してくれ」
「……その病院だな」
「あぁ」
ナマエが車の事故に遭い、病院に救急搬送された。状態は意識不明の重体。事態は一刻を争う
電話越しに伝えられた情報はあまりにも非現実的に思えて、身体からオレの意識が遠くなっていくように思えた。
――ナマエが、意識不明の重体? 誰だよ、ナマエのことを撥ねたヤツは。誰であろうとオレがこの手で殺してやる。
「落ち着け、竜胆」
「……落ち着いていられっかよッ!! アイツがっ、ナマエがっ!! どこの誰とも知らねェヤツのせいで死にそうなんだぞ!?」
「そっちのことはオレの方で調べておいてやる。お前は彼女の傍にいてやれ。間違っても勝手に一人で動くな、いいな?」
「……クソッ!!」
やり場のない思いをぶつけるように自分の膝を殴る。ジンッとした痛みが広がっていくが、それでもこのどうしようもない気持ちは収まらなくて何度も何度も殴った。
自分の無力さは、どれだけ殴っても消えることはなかった。
*〜*〜*
「ナマエ……?」
掠れた情けない声が、オレの口から溢れた。
病院に着いて案内された場所は手術室を見ることができる部屋だった。オレたちを案内した医師からナマエの状態と今後のことを説明してくれたが、オレには一切理解ができなくて、ただただ音が耳を抜けていくだけだった。
「もうすぐ手術が終わります。この後はICUにて容態を見ながら適宜対応していきます」
気の遠くなるくらい長い時間が過ぎ、ようやく手術が終わった。オレたちがここに到着してから一体何時間経ったんだろうか。大きな窓から見渡せる手術室を覗くと、そこにいた医師たちが汗だくになっているのが見えた。本当に、長かったんだな。この手術は。
「ナマエは、助かるんだよな……?」
「……我々も全力は尽くします」
「助けろよ……。助かるって言えよッ! お前ら医者だろッ!?」
「竜胆」
兄貴が医者に掴みかかったオレの手を掴んで、射抜くような視線をオレに向けた。分かってる。医者だって人間だ、100%治せるわけではないからこそ「全力は尽くす」と最大限の答えをしただけだ。だからそれにオレがキレたところで必ず助かるようになるわけではないから、医者もそれ以上何も言えないだろう。
「今後の治療とかについてはオレが聞く。お前は後ろの看護師と一緒に彼女のところに行け、いいな」
「……分かった」
今回の手術は取り敢えず成功したらしく、彼女は手術室からICUに移された。
彼女の姿は、今オレの目の前にあるはめ込み式の窓ガラスと、窓の奥の室内にある彼女のベッドを囲むようにビニールカーテン越しにしか見れない。どちらも透明だから姿はそれなりに見えているし、距離としてはそこまで離れているわけでもないのにどうしてか彼女がとても遠くにいるように思えた。
「……ごめん、ごめんなナマエ……。オレが、もっとちゃんと、気にかけてやれたら……」
窓ガラスに手をつけて彼女の姿を見る。身体中に包帯を巻き、周りの機械やら点滴やらが先に付いている管を身体のあちこちに付けている彼女の姿は本当に痛々しくて、見ているだけで胸が辛くて苦しくて仕方がなかった。
散々人を傷つけて、殺めてきたっていうのに。拷問とかもやってきたのに。ボロボロになって生死を彷徨う彼女の姿を見たらこんなにも苦しくなるのか。
「竜胆」
「兄ちゃん……」
どうしようもない感情を抱えたまま彼女を見ていたら、真面目な顔をした兄ちゃんがやってきた。手には何かが印刷された紙が入ったクリアファイルを持っている。きっとダメになっていたオレの代わりに話を聞いてきたのだろう。
兄ちゃんはカツカツと踵を鳴らしながらオレの隣にやってくると、静かに窓ガラスの向こう側を見た。その横顔からは感情があまり読み取れない。一体何を考えているんだろうか。
「少しは落ち着いたか〜?」
「……あぁ。話を聞くくらいはできそうだと思う」
「なら話が早い。お前の代わりに聞いてきてやった、あの子の現状と今後の治療について簡単に説明してやる。座れ」
そう言って近くに置かれた長椅子に兄ちゃんが視線を投げる。オレは視線を投げられた長椅子に浅く腰掛けた。それを確認した兄ちゃんは、オレの向かい側の長椅子に腰掛けた。
「ナマエは……助かるんだよな」
「医者によると、はっきり言ってお前が望んでいるような助かった状態≠ノなるのはかなり低い。だが命は何とか延命できるんだってさ」
「どういうことだよ、それ」
「全身へのダメージ、そして脳へのダメージ、それぞれがかなり酷かったみたいで、仮に今後快復に向かってもナマエが五体満足で後遺症もなく、今まで通りの生活を行えるくらいの状態まで回復する可能性は限りなく0に近い。それこそ奇跡が起きないと無理だろう、ってさ」
兄ちゃんは持っていたクリアファイルをオレに渡した。怖くて、信じられなくて、思わず中身を取り出そうとする指が震える。
数枚の資料を見つめながら、オレはひたすらに悪い夢であれ≠ニ願った。だけど手元の資料たちは、どれもその願いを否定し打ち砕いていく事実ばかりが記載されていた。
「なんで、アイツだったんだ……。他の誰でもない、ナマエだったんだよ。……そうだ。アレは? ナマエをこんな風にした車の運転手は誰だった? どっかの敵対組織の下っ端だった? それとも――」
「カタギだ。それも、車は事故後大破して運転手も死亡してる」
「――ッ! それじゃあ、オレはナマエをこんな風にしたヤツに復讐もできねェってことかよ……!! ちくしょうッ!!」
やり場のない怒りが込み上げてくるのが分かる。全身を巡る血液が沸騰しそうなくらいの怒りがオレの腹の底からとめどなく湧き上がってきて、思わず資料を持っていた手に力が入る。
悔しい、悔しい、悲しい――。オレは彼女に何一つとしてしてあげられることがないのか。彼女をこんな目に遭わせたヤツを拷問にかけることもできない。同じ目に遭わせることもできない。何も、何もできない。
――オレは、こんなにも無力なのか。
「オレから三途たちに話を付けておいてやる。だからこれから少し休め、いいな」
「は?」
「今のお前じゃ、敵にすぐ殺られそうだしな〜。自分の身も顧みずに突っ込みそうだし、死にに行く気満々って感じするしなァ。オレだって可愛い弟がそんな向こう見ずに突っ込んで無惨に死んでいくのは見たくないんだわ。それに――」
そこで言葉を切った兄ちゃんは、視線をオレから外してICUの方へと向けた。
「彼女のことが気がかりで身も入らねェだろ〜? 今のお前はハッキリ言って邪魔、足手まといだ。分かるよな?」
「……そう、だな。オレも、それくらいは分かる」
「ってワケだから、竜胆。お前はしばらく休んで彼女の傍にいてやれ〜」
「……ありがと、兄ちゃん」
そう言うと、兄ちゃんはいつもの薄い笑みを浮かべてから社用スマホを片手に部屋を出ていった。
残されたオレは、この後のことを考えた。取り敢えずしばらくってことは少なくとも一週間以上の休みがあるということだろう。後に詳細な連絡が来るとしても、その休みの間、オレは一体何をしていればいいんだろうか。
病院に無茶を言えば何週間もここに泊まることは可能かもしれない。そしたら四六時中彼女の傍にいてやれるから、彼女がいつ起きても傍にいてやれるだろう。ならまずはそれから始めてみよう。
*〜*〜*
「すみません。泊まりは可能ですが、一週間が限界です」
「なんでだよ。オレはいつナマエが起きてもいいように、傍にいてやれるように、休みの間はずっとここにいてェんだよ」
「確かに泊まろうと思えば何週間でも滞在は可能です。ですが、他にも様々な事情で泊まる方もいらっしゃいます。それも皆一般人≠ナす」
「だったらソイツらを追い出せばいいだろ」
「……竜胆さんのお気持ちも分かります。でも、そうやって泊まっている方々もまた、竜胆さんと同じ思い≠ネんですよ」
医者からの言葉を受けたオレは、それ以上言葉を紡げなかった。「そんなこと知るか」と言いたかったが、どうにも苦しんで摩耗した精神ではそんな強い反論すらできなかった。
分かってしまった。そうやってオレと同じようにここに泊まるカタギのヤツらの気持ちが。想像する気なんて一切なかったのに想像できてしまった。
「……分かった。なら一週間だけでいい」
「ではお部屋の準備をします。準備ができましたらまた伺います」
医者が静かに部屋を出て行く。スライド式のドアがゆっくりと閉まる音を後ろに聞きながら、オレはただただガラスの向こうにいる彼女を見つめた。
「オレ、これからはちゃんとできるだけ傍にいるから。ちゃんとナマエのこと、見るから。向き合うから。だからっ……」
◆◆◆ ◇◇◇
結果として、オレの休暇は(クビとかではないが)実質無期限だった。時折様子を見に来た兄貴が、オレの様子からして「まだ復帰できる状況じゃない」と判断し、三途たちに交渉してくれたらしい。こういうところは兄貴≠チて感じがする。
こうしてオレは長い長い休暇をもらうことになった。しかしオレの生活は日を追うごとに酷いものになっていった。まず食欲が起きなかった。もちろん小腹程度は空いたりするので多少食べ物を腹に入れてはいたものの、いわゆる十秒飯のような簡単に食べられるものでないと身体が上手く受け付けてくれなかった。
それから睡眠。兄貴ほどではないが、オレもそこらのヤツらと同じくらいの寝つきの良さと睡眠量をとっていた。だが彼女の一件があってから、オレは眠れなくなってしまった。なんとか眠りに就いても眠りが浅く、何度も夜中に目覚めていた。
おかげで心身共に疲弊し、目の下には酷いクマができていた。それを見た兄貴からは「ひでェツラしてんなァ」とニヒルな笑みと共に言われた。
仕方ないだろ。寝てるくらいなら彼女の傍にいたいし、窓ガラス越しであっても彼女を見ていたかった。そんなこと、できやしなかったが。
休暇最初の一週間は約束通り病院で寝泊まりしていたが、その一週間も過ぎ、オレは彼女のいない自宅へと帰った。
「ただいま……」
一週間振りの帰宅。そういえば彼女が事故に遭ったと連絡を受けた日に着替えを取りに行ったっきりだったな、なんて思いながら靴を脱いで自宅へとあがる。
部屋は一週間前に見た時となんら変わりなかった。綺麗に片付けられた食器、丁寧に掃除されたシンクやキッチン。窓辺に干したままの洗濯物。全部あの日から時が止まっていた。
病院に持っていっていた着替えたちが入ったボストンバッグを適当に置き、着ていたスーツのジャケットを近くにあったソファの背もたれに投げ捨てるように引っ掛ける。こんなことしたら、彼女が「シワになっちゃうよ」って言ってくれたっけ、なんて日常の一片を思い出してしまい胸が締め付けられた。
「ナマエ……」
思わず名前を呟く。でもいつまで経ってもそれに対する返事が聞こえてこなくて酷く虚しくなった。
病院を出る際に彼女の担当医から、面会時間を教えてもらっていたため、まずは軽くシャワーを浴び、着替えて病院へ向かうことにした。
一分一秒だって無駄にはできない。いつ彼女が目を覚ますか分からないから。
ザッとシャワーを浴び、適当に髪を乾かしてラフな私服を適当に選び取って着替える。着替えも含めた支度が終わり、数十分前にいた玄関へと再び向かう。靴を履き、家の鍵を手に持ったところでオレはその場で踵を返した。
「いってきます」
返事が返ってくることにない部屋にそう言葉を投げた後、オレは再び病院へと向かった。
*〜*〜*
「なぁ、ICUの中にも入れるんだよな? いつになったらオレも入れるようになんの?」
「もう少し容態が安定してからですね。手術は確かに成功しましたし、経過も良好ではありますが、まだ面会を許可できるほどではないので」
「……そうかよ」
数時間前にいた病院の一室。彼女のベッドが見える窓ガラスの前で静かに彼女を見つめる。
彼女の苦しみは想像もできないくらいのものだっただろう。
後に兄貴から聞いた話だが、彼女の事故はそれはそれは悲惨だったらしい。車通りも人通りもまばらだったら交差点の横断歩道を渡っていた彼女のところへ、信号無視をした猛スピードの車が突っ込んだ。その衝撃で彼女の身体は数メートル先のところまで吹き飛び、車は彼女にぶつかったことで運転手がパニックになったのか、制御を失い近くのブロック塀へ激突。そして車はものの見事に大破し運転手はその場で死亡が確認された、のだそうだ。
何度聞いても腹立たしい事実だった。結局それらも近くにあった防犯カメラなどのデータから分かった状況証拠でしかない。どうしてその車が猛スピードで信号無視をしたのかも、猛スピードで走っていたのかも分からない。憎みたくても殺してやりたくても、もう加害者である運転手は死んでいる。
家族諸共潰してやろうかとも思ったが、下手にカタギに手を出すのはこちらにもリスクがあるから、と九井のヤツに止められたので、オレは更にどうしようもなくなってしまった。
「ナマエ……」
早く目を覚ましてほしい。目を覚ましたらまずはなんて言おうか。「ごめんね」? それとも「おはよう」?
なんだっていい。早く、どうか早く、目を覚ましてほしい。そしてまた、オレのことを見て名前を呼んでほしい。言葉を、声を聞かせてほしい。
「早く、起きてくれよ。ナマエ……」
◆◆◆ ◇◇◇
彼女が入院して二週間が経とうとしたところだった。彼女の容態が安定し、ICUから一般病棟(もちろん個室タイプの病室だ)に移ることになったと担当医から連絡をもらった。
急いで家を飛び出し病院に向かい、顔パスも同然くらいのスピードで受付を済ませてナースステーションへ行けば、もう見知った顔の看護師がオレのところへやってきて「案内します」と彼女が移された個室へと案内してくれた。
「何かありましたらそちらの内線を。緊急の場合は枕元にあるナースコールを押してください」
連絡手段を伝えて看護師は個室のドアへと向かった。ドアを開け、外へ出ようとしたその時、看護師が小さく「あっ」と声を漏らしたかと思うと、くるりと踵を返してオレの方を向いた。
「余計なお世話なことは承知ですが、一応看護師でもあるので言わせていただきます。きっと喉を通らないほどお辛く、眠れないほど苦しいのかもしれませんが、食事と睡眠はできるだけちゃんととってくださいね。でないと、奥様が目覚められた時に今の貴方の姿を見て、凄く心配されると思いますから」
「……そう、だな」
「それでは、失礼します」
静かにドアが閉まったことを確認してから、ベッド横の椅子に腰掛ける。高級そうな医療ベッドに寝かされた彼女は、巻かれている包帯の量が少し減ってはいたものの、あちこちに痛々しい傷跡があった。
思わず傷口に手を伸ばし、すんでのところで手を止める。どうしてか今の彼女に触れたら、ガラスのように砕け散って消えてしまいそうに思えた。
掛け布団の外に出ていた腕の方に視線を向ける。数は減ったとは言えど、相変わらず点滴などの管が彼女の細い腕から伸びていた。心なしかオレの記憶にある彼女の腕よりも一回りくらい細くなっている気がする。それだけ彼女の身体が弱っていたのかもしれない。
「ナマエ、今日はいい天気なんだ」
元々オレよりも小さかったのに、今では更に小さくなってしまった彼女の手にそっと自身の手を重ねる。すっかり痩せ細ってしまった彼女の手には、オレが大好きだった温もりがなく、代わりに少しだけひやりとした温い温度があった。
その温もりが彼女の今の命の灯火の温度を表しているように思えて急に怖くなったオレは、ほんの少しだけ自身の手に力を込めて彼女の手を優しく握った。
――消えないでくれ。オレのところから、いなくならないで。ナマエ……。
そんな願いを込めながら、オレは反応のない彼女にずっと話しかけていた。
*〜*〜*
『ナマエチャンの様子はどうだ〜?』
「取り敢えず今は容態が安定したから、ICUから個室に移った。でもまだ目は覚めてない」
昼過ぎ頃に兄貴から連絡が来た。時間帯的に病院にいるだろうということで、いつもの状況確認のための電話をかけてきたのだ。
兄貴はオレからの報告を聞くと、「よかったな〜」と一言だけ言った。声色は変わらないけど、多分この感じはかなりの確率で本心だ。
『で? お前自体はどうなわけ? 戻って来れそうならさっさと戻ってきてほしいところなんだけど。お前がいないとオレに仕事が降ってくるからさァ』
「……次の月曜から戻る。容態も安定したし、医者も取り敢えずしばらくは大丈夫だと思う≠チて言ってたし」
『そうか。なら三途たちにそう伝えとけ〜』
「わかった。……あと、兄貴」
『ん? どうした?』
「色々、ありがと」
『……はっ。オレはお前の兄ちゃん≠セからな〜。まっ、精々感謝して、復帰後はお前の代わりに働いてたオレの分の仕事もやってくれよな〜』
兄貴との電話が終わり、再び彼女の方を見る。すぐに動きや変化があるかも分からないが、もうどんな小さなことであっても見逃したくなかった。見逃したから、見て見ぬ振りをしてしまったから、だから彼女はこうなってしまったから。
「どれだけ裏社会で力付けても、身体的な力を付けても、武器の扱いが上手くなっても……愛した女のことを守れねェとか、ほんと……」
自分らしからぬ発言だと思う。でも本当に、本当にそう思った。前に兄貴が言っていた「オレたちは大切な存在を作らない方がいいのは嫌でも分かるだろ〜? それでも作るってンなら、それ相応の覚悟をして腹を括れ」と言っていた意味が今ようやくわかった。あぁそうだ、確かにそうだ。
これがもしカタギではなく、オレたちと同じ立場の人間だったなら、オレは間違いなく単身で乗り込んで行っていただろう。そしてきっと彼女も五体満足で帰って来れていたかどうか。下手すれば命がある状態で発見できるかどうか、彼女自身を発見できるかどうかも怪しいだろう。
運が良かった≠ニ言えばそうなのかもしれない。最悪の状況と隣合わせでも、どんな状態にされていたかも分からない裏社会の人間から危害を加えられたわけではなかったことが不幸中の幸いだ。
大切なものというのは必ず人の弱みになる。だから兄貴はオレが彼女を手放さないと決めた時に、ああいう風に忠告したのだ。それくらいの覚悟をして彼女を手放さず、婚約をしたというのに。実際にそういう場面に遭遇したら、こうも自分が使い物にならなくなるとは思わなかった。
「覚悟、してたのにな……」
弱り切った自分に自嘲する。でも今更手放すだなんて無理だ。彼女がいない生活だなんて到底考えられない。それくらいオレは彼女のことを心の底から愛していたし、大切に思っている。
でもだからこそ、オレはそろそろいつも通り≠ノ戻らないといけない。それはオレ自身のためでもあり、組織のためでもあり、何よりこの先目覚めるはずの彼女のためだ。
「ナマエ、オレ頑張るから。次目が覚めた時、ナマエの知ってるオレで会えるようにしておくから。だから早く目を覚ましてくれよ」
彼女の薄くなってしまった手の甲を自分の親指の腹でそっと撫でる。肉が落ちて浮き出た筋の形がはっきりと分かり、その感触が鮮明にオレの記憶に刻まれた。
◆◆◆ ◇◇◇
「おい竜胆」
「なんだよ」
「お前最近おかしいぞ。大丈夫か?」
「は? どこがだよ。いつも通りだろ。仕事の方だってミスもしてねェだろ?」
仕事に復帰してから少しして、経理報告書を渡した時に九井から声をかけられた。
オレは復帰してからまるで冷や水を浴びたかのように頭がスッキリしていた。そして日々淡々と仕事をこなして、ミスもなく書類まで作って出していた。それなのにそんなオレに九井は「おかしい」と言ってきた。なんだってんだ。
「確かに表面上は十分すぎるくらい元通りだ。だがオレからしたら無理してるように見えるぞ」
「はァ? 人に難癖つけンのもいい加減にしろよ。仕事も報告書もきっちりやってるってのに、何が不満なんだよ」
「……まぁいい。お前が平気だと言うならそれで。但し、でかいミスはすんなよ。後処理とかの皺寄せはごめんだからな」
オレは返事の代わりに舌打ちをしてその場を去った。今日の仕事はあの報告書を提出したところで終わったので、そのまま病院へと向かった。事前に連絡は入れてあったので、顔見知りになった看護師に病院の裏口を開けてもらい中へと入る。向かうはもちろん彼女のいる個室だ。
部屋のドアをそっと開けて中に入ると、閉められたカーテンの隙間や裾の辺りから月明かりが差し込んでいた。電気を付けたら彼女が眩しいかもしれないと思い、微かな月明かりを頼りに彼女の眠るベッドへと向かった。
「ただいま、ナマエ」
仕事終わりにはできるだけ病院に寄るようにしていた。理由は彼女に「ただいま」を言うため。今日もちゃんと無事に帰ってきたことを彼女に伝えたかった。
彼女は毎度オレが仕事から帰ってくる度に、安堵した表情で出迎えてくれた。彼女曰く、オレの仕事が仕事だから、毎日無事に帰ってきてくれると安心するんだとか。
確かにオレの仕事はいつ殺されてもおかしくないものだ。そして一般人として日々カタギの世界で生きる彼女からしたら、いつでも死と隣合わせの裏社会の生活など非現実的すぎたのだろう。だからこそ、遅くなったとしても毎日オレが何事もなく帰ってくるだけで、安堵していたのだろう。
仕事柄不安にさせてしまうことは分かっていたし、それは彼女も承知していた。それでもやはり彼女からしたら、毎日心配だったのだろう。本当に沢山心労をかけてしまったな、と今では思う。
だから、たとえ彼女から反応がなくても、彼女に少しでも安心してもらいたくてどれだけ遅くなっても行ける時には必ずこうして彼女の元に来ているというわけだ。
「今日もちゃんと怪我一つなく仕事を終わらせて帰ってきたぞ。ナマエには沢山心配かけてたよな。でもさ、オレこれでも世間を騒がす梵天の幹部だからケッコー強いんだぜ?」
ベッド横の椅子に腰掛け、彼女の手に自身の手を重ね、親指の腹で優しく彼女の手を撫でつつ言葉を続ける。
「心配してくれるのはスゲー嬉しいけど、そんなに心配しないでも大丈夫だから。ナマエのところにちゃんと帰ってくるから。生きて、ただいまって、ちゃんと帰ってくるからさ。だから……」
いつの間にか流れ落ちた涙が彼女の布団の上に落ちる音がした。そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。なんでオレ、泣いてるんだろう。
そういえば、と思い出す。仕事を再開してから、こうして仕事を全て終えた後、彼女に会いに行くとオレは必ず涙を流していた。別に特段悲しかったわけでも、辛かったわけでもない。痛みがあって〜なんていう子供じみた理由もない。
何もないのに、彼女の手をそっと撫でながら話をし始めたら途端に涙が流れるのだ。
「ナマエ、早く起きてくれよ……」
彼女の頭のすぐ横にそっと自分の頭を乗せる。規則正しくもか細い呼吸音がオレのすぐ横で聞こえて、それが彼女が頑張って生きている≠アとを示してくれているように思えた。
◆◆◆ ◇◇◇
仕事を再開して二週間後、病院から電話があった。彼女に関して何か動きがあったのだろうと思い、急いで出ると電話越しから緊張と少しの重々しい雰囲気をまとった担当医の声が聞こえた。
『灰谷竜胆さん、奥様のナマエさんのことで大切なお話があります』
残りの仕事は他の幹部に半ば放り投げ、オレは急いで病院へ向かった。息を切らすくらい乱れた呼吸で全力疾走し、指定された部屋へと向かう。
ドアを開けて中に入ると、そこにはもう顔馴染みになった担当医と、彼女の手術の執刀をした執刀医の二人が椅子に座っていた。
二人はオレが部屋に入ってくるのを見るなり席を立ち、ゆっくりと頭を下げ、オレに向かいの席に座るようにとジェスチャーで促した。
「話って、なんだよ」
椅子に腰掛けての第一声。それを受けた二人は神妙な面持ちでオレの方を静かに見つめた。そして担当医が意を決した様子で一枚の紙を机の上に置くと、そのままスライドさせるようにオレの前に差し出した。
「奥様、ナマエさんの余命は、もって二週間です」
*〜*〜*
――彼女が死ぬ?
受け入れ難い事実を突きつけられたオレは、その後のことは放心状態で聞いていた。
理解できなかった。理解したくなかった。そんな、だって彼女はあんなに長い手術も頑張って、それからの治療とかも頑張って、術後経過だってよかったというのに。容態は安定していたんじゃなかったのか。様々な思いがオレの中を駆け巡り暴れる。
本当は感情に任せて目の前の机をひっくり返し、あれこれ説明をしている担当医と執刀医に銃口を向けて「何がなんでも助けろ」と言いたかった。でもそれはできなかった。彼女の命がもって二週間≠ニいう重すぎる現実によって、オレの中が空っぽになったような感覚になったからだ。
彼女が眠る個室へと向かう。いつものようにベッド横の椅子に腰掛けて彼女の手に触れた。ここに移ってきた時よりも更に細く、そして薄くなってしまったように思える彼女の手はやっぱり少し冷たくて、思わず怖くなった。
「なぁナマエ……」
名前を呼ぶ。普段から彼女の名前を呼んではいたが、こういう状況下になって更に名前を呼ぶようになった。それは彼女を表す名前は元々好きだったこと、そしてこういう状況下になったことで更に愛おしく思えたことも理由ではあったが、一番の理由は沢山名前を呼んだら、それに気づいた彼女が戻ってきてくれるのではないか≠ニいう縋るような、願掛けのような淡い期待だ。
――でもそんな願掛けも、意味がなくなったな。
「なんで、帰ってきてくれねェんだよ……。オレ、あの時の喧嘩のこと謝りたかったのに。謝って、それから沢山抱きしめて、好きだって言いたかったのに。それなのに、なんでっ……」
溢れた涙がオレの頬を伝い下へと落ちていく。
もしかしてあの時の喧嘩に至るまでの間に積み重なってたオレへの不平不満が理由で、オレのことが嫌いになったんだろうか。だから帰ってきてくれないんだろうか。そんなオレらしからぬ女々しいことすら考えてしまう。
「嫌だ。オレは喧嘩したままとか嫌だからな。オレのことが嫌いでもいい、殴りたいくらい腹立ってたなら気が済むまでオレのことを殴ってくれていい。だから、帰ってきてくれ……。オレ、この数週間でナマエのことがメチャクチャ好きなんだって、愛してるんだって分かったんだ。思っている以上にオレはナマエのことが大好きだったって、分かったんだ……だから、だから目を覚ましてくれよ……オレのところに帰ってきてくれよ、ナマエ……」
懇願するように彼女の手をそっと握って呟く。止めどなく溢れる涙がぽたぽた音を立てながら布団に吸い込まれて淡いシミを作っていった。
どうしたら彼女は助かるのだろうか。彼女が助かるならオレはどんなことだってするのに、それを現実が許してくれない。
オレは微かに震える手で兄貴に連絡を入れた。
◆◆◆ ◇◇◇
兄貴に彼女の余命宣告のことを伝え、宣告された余命の二週間だけまた休みを取らせてほしいとお願いした。兄貴からは「貸しひとつな〜」といつも通りの返しをされた後「最期まで一緒にいてやれ。それがお前がこの世界にまであの子を連れてきたことへのケジメだ」と言われた。
――あぁ分かってる。そんなの言われなくたって分かってる。
彼女が事故に遭った日から生まれた、スマホの中に保存された彼女の写真を寝る前に眺める時間は、余命宣告を受けた日から明らかに増えた。
スマホに表示されている彼女はいつだって笑顔で、時に楽しそうに、時に嬉しそうに、そして時に幸せそうに、笑っていた。
写真を見ていると自然と写真を撮った当時の彼女の声や様子が鮮明に思い出されるようになった。
『竜胆!』
記憶にある、オレの名前を呼ぶ彼女の声が頭の中で鮮明に再生される。どうして、なんでこうなってしまったんだ。
彼女の写真で埋め尽くされた画像フォルダを眺めていると必ず思い出すのが、彼女と最後に会話した日のこと。喧嘩をしたあの日を思い出す。
あの時の辛そうな彼女の顔や声ははっきりと覚えている。そして同時に、あの時のオレの態度も。
時が戻せたら――。何度そう思ったことか。でも現実はそれを許してはくれない。どれだけ抗おうとしても、留まろうとしても、時は無情に流れていく。
それならば、最期の時までできるだけ彼女の傍にいたい。そう思ったら居ても立っても居られなくなり、深夜だというのも忘れ、数日分の着替えをボストンバッグに詰め込んで家を飛び出した。
部屋を飛び出した時、ふわりと吹き付けた風がオレの頬を少し冷やす。目元を手の甲で拭って視界をクリアにすると、急いで車へと向かった。
*〜*〜*
病院の方に無理を言って、二週間病院に滞在する許可をもらった。また担当医からの計らいで寝泊まりする場所も彼女のいる個室で良いとなった。
ようやくまた彼女と同じ部屋に居られる。そう思ったら嬉しくて仕方なかった。
「では失礼します」
ベッドを運んできてくれた看護師たちが部屋を出て行った後、オレは荷物をベッドの上に置いて彼女の元へ行った。
包帯の数も随分減ったものだ。痛々しい傷跡は残っているものの、彼女の顔や腕などはほとんどちゃんと見えている。
ピ、ピ、という心電図の電子音が規則的に鳴る。まだ彼女は生きている。
「ナマエ、こうやって一緒の部屋で生活すんのは久しぶりだな」
いつものように彼女の手に自身の手を重ね、声をかける。もちろん反応はない。瞼が震えることも、オレの手を握ることもない。それでも温い彼女の温もりと、規則的な電子音、そして微かな呼吸音がまだ彼女が生きている≠アとを示していた。
「家、さ。ナマエがいねェとスッゲー広いんだ。それに静かだし。それから、帰ってきた時にナマエがおかえり≠チて言って出迎えてくんねェと、帰ってきた感じがしねェんだ……」
彼女の手をオレの両手で包み込む。少しでもオレの体温が彼女に移ってくれたらいいと思った。そしたら、彼女が目を覚ましてくれるんじゃないかと思った。
「そうだ。今度、ナマエが目を覚まして一時退院がいいって言われたら、ナマエが行ってみたいって言ってた場所に行こーぜ。ほら、あの景色が綺麗だってテレビでいってたホテル。休みなら死ぬ気――全力でもぎ取ってくるから」
叶うことなんてない、側から見たら馬鹿なヤツだと思われるような言葉。だけどどうか奇跡が起きて、彼女の余命宣告が覆ればいいと思った。こうやって彼女がこちらに帰ってきたくなるようなことを言ったら、彼女が目を覚ましてくれるんじゃないかって思った。
「あーあと、駅前に出来たカフェにも行こう。ナマエが知った時はまだオープンしたてで人が多かっただろ? 最近はそれも落ち着いて入りやすくなってるからさ。一緒に行こう。それから――」
全部、全部叶わない夢だと分かっている。それでもオレは彼女に未来の話≠し続けた。そうやって話していないとオレがおかしくなりそうだった。
「ナマエ、大好きだ。愛してる。だから、もう一回オレの名前を呼んでくれないか……」
◆◆◆ ◇◇◇
時が経ち、今日は彼女の余命宣告時に言われていた最期の日≠フ前日だ。
オレはいつものように身支度を整えてから彼女のベッド横の椅子に腰掛け、彼女の手をオレの両手で包んだ。
「おはよう、ナマエ」
オレの心は自分でも驚くほど凪いでいた。感情が乱れることもなく、ただただ穏やかで、怖いほど静かだった。
ピ、ピ、と今日も彼女が生きていることを示す、規則的な機械音が鳴っている。
「ナマエはさ、オレと一緒にいて幸せだった? 楽しかった? オレはナマエと一緒にいられて幸せだったし、スゲー楽しかった。……この先もずっと、じいちゃんとばあちゃんになっても、一緒にいられると思ってた」
今まで怖くて触れられていなかった彼女の顔にそっと触れる。柔らかかった頬はそれを失っていて、代わりにデコボコとした傷跡の感触がした。
「辛かったよな。苦しかったよな。……今まで、無理させてごめんな」
そっと、彼女が付けている人工呼吸器に手をかける。これを外せば彼女はもう苦しまなくて済む。そして、オレは彼女の命をこの手で終わらせた≠ニいう事実を背負って生きることになる。
本当は殺したくなんてない。でも、どこの馬の骨ともわからないヤツによって殺されるよりは、オレ自身の手で彼女の命を終わらせたいと思った。そしてその重い業を背負うことで、何があってもオレは彼女を忘れることがないと思った。
これはオレなりの、彼女への最大の愛であり、今のオレが彼女にできる最大限の愛情表現だった。
「……まだもう少し、もう少しだけ待っててくれ。ナマエ」
まだ日中だ、時間はある。だからもう少しだけ、生きている彼女といたいと思ってしまった。
そっと人工呼吸器から手を離し、その手をいつも包んでいる彼女の手へと持っていく。まだ生きていて欲しいだなんて、本当に、つくづく自分がわがままで身勝手な人間だと思う。
その後、いつものように彼女に話しかけていたが不意に眠気が襲ってきた。そういえばまた最近寝付きが悪くなったんだよな、なんて思いつつ眠気に耐えきれなかったオレは、彼女の手を優しく握ったまま眠ってしまった。
*〜*〜*
「竜胆。起きて」
「――ん。ナマエ……?」
「そうだよ。私だよ」
「……ナマエッ!!」
ずっと聞きたかった彼女の声がしたと思って目を覚ますと、目の前に元気な様子の彼女が座っていた。
オレは思わず彼女に飛びつく勢いで抱きしめた。普段は気をつけていた腕の力も上手く制御できずに抱きしめてしまったため、彼女から「苦しいよ」と笑いながら苦情を受けた。
「ナマエ……オレ、ずっとナマエに謝りたかった。ごめんな、本当にごめん。ナマエだって毎日仕事しながら家事もしてくれてたのに、オレの仕事が仕事だから毎日心配してくれてたのに……。オレのこと、いつもちゃんと見てくれてたのに、オレはそれを蔑ろにするような態度取っちまった」
「いいんだよ。それに私もごめんね。竜胆が疲れてるのを分かってたのに、あの時しつこく声かけちゃって本当にごめん」
「そんなの、オレを心配してだろ? ナマエはなんも悪くねェ。心配してくれてたことも、ナマエが疲れてたことも気づいてたのに、それを気づかない振りしたオレが全部悪かった。無理にでも時間を作ってちゃんとナマエに向き合うべきだったのに、仕事が忙しいって言い訳して向き合わなかったオレが悪い。だから怒ってくれていい。気が済むまで殴ってくれてもいい。ナマエが帰ってきてくれるなら、オレはどんなことでも受け入れるから。だから――」
「ごめんね、竜胆。それは出来ないんだ」
彼女がオレの言葉を遮ってそう言った。
なんで。なんでだよ。なんで出来ない≠だよ。だって今、ナマエはこうしてオレの前にいて抱きしめたりもできるし、話もできるのに。それなのに――
「私、明日死んじゃうんだ。竜胆も先生から聞いてるでしょ?」
抱き締めたままの彼女が、オレの耳元でそう言った。声色は普通を装っているが、声の震えや気丈に振る舞っている感じからして、彼女は今涙を堪えているのだろう。この声の感じは、彼女が泣くのを我慢しながら努めて普段通りに話そうとしている時のと一緒だ。
「だから、わがまま言って最後に竜胆に会いに来たんだよ」
「知るかッ!! ンなの、オレが許さねェ! 最後ってなんだよっ……! そんなこと、誰が決めたんだよッ!!」
いい歳した大人が、なんて思う。でも彼女は人生で初めて心の底から愛した人だったから。何があろうと守ろうって思った、傍にいてほしいと思った人だったから。どれだけみっともなかろうが、頭で分かっていようが、オレの心が認められなかった。
分かっている。彼女だって死にたいわけじゃないってことくらい。抗えるのなら抗いたい、帰れるのであれば帰りたいと思っている。だから泣きそうなのにそれを堪えて、気丈に振る舞ったんだ。長年一緒にいたからこそ、そういうところから彼女の思いを汲み取れる。
――あの時も、こうやって汲み取れていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのにな。
「竜胆……」
「ナマエは……ナマエはいいのかよ。ようやくこうして触れられて、声も聞けて、話せるようになったのに、明日死ぬとか。生きるのを諦めなきゃいけねェとか。そんなのに、納得してんのかよ」
「……してるわけ、ない。できるわけないよ……!!」
彼女がオレの首に両腕を回し、ギュッと抱きついてそう言った。
オレは彼女のことを抱き締めたまま片手で彼女の頭を撫でた。そうだよな。それならいっそ、ここで本音を言ってくれ。ここにはオレとナマエしかいない。二人しかいないんだ。だからどれだけ情けない姿を晒しても、お互いしか知ることはない。今まで溜めさせてしまった不平不満とかも全部、ここで吐き出してくれ。オレに教えてくれ。全部受け止めるから。
「死にたくないっ! 私だってもっと、竜胆と一緒にいたかったッ!」
「あぁ、そうだよな。オレもそうだよ」
「もっと沢山やりたいこともあった! 竜胆と一緒に行きたい場所もいっぱいあったし、一緒に食べたいものも、一緒にやってみたいことも、たくさん……たくさんあったッ」
嗚咽混じりに彼女が思いを吐き出す。それを全て受け止める意味を込め、オレはうんうん、と相槌を打ちながら彼女を抱き締める腕に少し力を込めた。
オレよりも華奢な彼女の体がオレの腕の中に収まる。こうしていたら少しでも長く一緒にいられる気がした。そしてもしかしたら、彼女がこちらに帰ってこれるんじゃないかと思った。そんなことはないと頭の片隅では分かっていたけど。
「やだ、いやだよ、竜胆……。死にたくないよ……」
「あぁ。オレだってナマエのことは死なせたくねェよ。……百人殺したら死なないっていうなら、今すぐにでも殺してきてやる。いや、例え千人だろうと何人だろうと、ナマエが戻ってこれるならオレは何人だって殺すし、殺し以外だとしてもなんだってやってやる」
抱き締める腕に更に力が込もる。彼女につられてなのか、気づいたらオレの頬にも水が伝う感覚がした。
それから少しの間二人で抱き締め合ったまま、静かに涙を流していた。お互いどれだけ「嫌だ」と言っても、別れが来てしまうことは分かっていた。ならばせめて、二人だけしかいない今の間だけでも、触れ合えてお互いの声が相手に届く今の間だけでも、空いてしまった期間を取り戻したかった。
「……竜胆」
「どうした?」
「一瞬だけ、腕を緩めてほしい。いい?」
「いいけど……」
泣き止んで落ち着きを取り戻した彼女からそう言われ、オレは彼女を抱き締めていた腕を緩めた。すると今までオレの肩に頭を乗せていた彼女がゆっくりと上半身を起こし、オレと向き合うような姿勢になった。
彼女の目元は真っ赤で、なんなら鼻の頭や頬にも少し赤みが差している気がする。瞳は止まったばかりの涙で潤んでいた。
「ナマエ?」
「竜胆――」
彼女がオレの名前を呼び、大好きだった柔らかい彼女の両手がオレの両頬を包む。それで頭の位置を固定されたオレが真っ直ぐ彼女の方を見ていると、再び泣きそうな表情をした彼女の顔が近づいてきて、気づいた時にはオレの唇に彼女の唇が触れていた。
長くも一瞬のキスだった。久々に触れた彼女の唇は記憶にあるものと全く同じで、オレの目から止まったはずの涙が一粒溢れた。
「今までありがとう。私、竜胆と一緒にいられて幸せだった。喧嘩したあの日だって、寂しかったけど、作り置きしてたご飯を綺麗に食べてくれていたから凄く嬉しかった。……ごめんね、ずっと話し合う努力ができなくて」
彼女が優しく微笑む。直感が叫んだ。彼女がもうすぐいってしまうと。
それでも、オレの両腕は動かなかった。正確に言うと動かせなかった。心の端っこにいたオレが言う。もういいんじゃないか、と。
「もうそろそろお別れだよ、竜胆。もう自分のことは責めないでね。あと、ちゃんとご飯と睡眠は摂るんだよ。不摂生なんて私が許さないから」
「ナマエ……」
「それから、私のことを愛し続けてくれるのは嬉しいけど、あんまり囚われないでね。どこかで区切りをつけて、綺麗な思い出にしてほしいな」
「……無茶、言うなよ。ナマエ」
「あと、私が死んだ後、よかったら私の部屋にある薄紫色のノートを見てほしい。そこに私が伝えたかったこととかが全部書いてあるから」
彼女の体が空気に溶けるように透明になっていく。あぁ、これで本当にお別れなのか。それなら――
「ナマエ」
「ん?」
「オレも、ナマエと一緒にいられて本当に幸せだった。喧嘩した日からずっとすれ違ってたからガラにもなくすげェ寂しかった。でもこうやってちゃんと謝れて、ナマエの気持ちも聞けてよかった。ナマエが死んでも、オレは死ぬまで、いや死んでも、ナマエだけを愛してる。オレが愛するのは生涯、ナマエだけだから。……ありがとう、オレの傍にいてくれて。愛してる」
伝えたかった思いを伝えられるだけ伝えると、彼女は涙を流しながら幸せそうに微笑んだ。その顔があまりにも愛おしかったから、消えかけた彼女の後頭部にそっと手を添え、キスをした。
彼女の唇に触れたその瞬間彼女の姿は消え去り、何もない空間にオレだけが残った。
「……ナマエ」
小さく名前を呼ぶ。これで未練も何もない。きっとこれはオレの意識が都合良く見せた夢かもしれない。それでも、腹をくくるには十分すぎるものだった。
なんとなく意識が浮上する感覚がする。もう少しで目が覚めるのだろう。オレは意識の浮上に身を任せた。
*〜*〜*
目を覚ますと、そこは見慣れた彼女の病室だった。
視線を上へと上げる中でふと彼女の手を包むオレの手が見えた。そっと上に乗せていた片手を外すと、今まで一切何の反応も見せていなかったはずの彼女の手が、ほんの少しだけ、オレの手を握っているように見えた。
「……今までずっと、辛い思いさせてごめんな。ナマエ……」
彼女の手の甲をそっと撫で、椅子から立ち上がる。ベッドの反対側に回り、ぶかぶかになってしまった結婚指輪が嵌まった左手をそっと手に取る。そして指輪を付けた薬指にそっとキスを一つ落として再びベッドの上に戻すと、彼女の枕元へと移動した。
そっと人工呼吸器に手をかける。彼女はまだか細い呼吸を繰り返していた。
ようやく腹をくくれたよ、ナマエ。そう心の中で囁く。そして――
「おやすみ、ナマエ。いつまでも、いつまでも愛してる」
ピピピピ、というけたたましい電子音が心電図を映している機械から鳴り響く。その音をバックに、オレはカサついて痩せ細ってしまった彼女の唇にそっとキスをした。
ぽたり、と彼女の頬に一粒の雫が落ちた。
◆◆◆ ◇◇◇
彼女の葬儀はオレ一人で全て済ませた。彼女の遺骨はオレから業者に頼んで、左手薬指の骨のみ骨粉に変え、一部をオレが今身につけているペンダントの中へ、もう一部は別のケースに入れて彼女の遺影と共に自宅に置いていた。
葬儀などが終わってから彼女の言葉を思い出したオレは、彼女の自室で薄紫色のノート≠探した。結果としてそれは彼女の本棚の隅っこにそっとしまわれていた。
ノートの中身は日記だった。彼女はオレと結婚してから毎日、数行の日記を付けていたらしい。
ある日は竜胆が早く帰ってきてくれた。嬉しい=Aまたある日は珍しく竜胆の髪に酷い寝癖が付いてた。可愛かった≠ニ、何気ない出来事が結婚した日から毎日記述されていた。
そして日記の最後の日。彼女が事故に遭った日の前日。そこにはこう書いてあった。
『×月◯日
竜胆と喧嘩してからしばらく経った。お互い忙しくなってしまって顔も合わせられない。
ちゃんと謝りたい。だから明日は竜胆の好きなものを買って帰ろう。そして竜胆が帰ってくるまで起きていよう。
明日話し合いができなくても、どこかで時間を作ってほしいとお願いする。喧嘩したままなんて嫌だから。仲直りしたい。
大好きだよ、竜胆。直接言えないけど、明日の仕事も気をつけてね』
彼女の日記帳は今でもオレの部屋の本棚にしまってある。彼女がこれまで書き溜めたオレへの想いを処分だなんてできるわけがなかった。
きっと彼女はあっちで恥ずかしがってるかもしれないけど、遅かれ早かれ見つけてただろう。そしてそもそも捨てるなんて選択肢は毛頭なかった。
ふと時計を見る。彼女の日記を読み直していたら家を出る時間になっていた。オレは日記を元の場所へ戻すと、ジャケットを羽織って玄関に向かった。
「いってきます」
広い家にそう言葉を投げ、オレは家を出た。
*〜*〜*
「そういえばそろそろあの日≠セよな〜? 今年はどーすんの?」
仕事終わり。ちょうど信号が赤になったので車を止めると、助手席に座っていた兄貴がそう聞いてきた。
兄貴の言うあの日≠ニいうのは、オレとナマエの結婚記念日のことだ。今までは毎年結婚記念日とプラス一日程、お互い休暇を取って小旅行に行っていた。
旅行先はオレが彼女にプロポーズをしたとある桜の名所。毎年そのすぐ近くにある高級ホテルの一室に泊まっていたのだ。
「今年も行くつもり」
「そ。んじゃあとっとと話付けとけ〜。あ、でも仕事はオレに投げんなよ」
「分かってる。三途か誰かにでも投げとく」
兄貴を自宅へ送り届けた後、オレは三途に今年もいつも通り休むこと、そして休暇中の仕事は兄貴以外に振ることを伝え、自宅へと向かった。
とりあえず帰ったら風呂と飯。その後に荷造りをしよう。
◆◆◆ ◇◇◇
今年も相変わらず満開な桜の下を一人、ゆっくりと歩く。オレより歩幅が小さかった彼女がどんどん後ろへと置いてかれてしまうため、彼女に合わせたこのスピードで歩いていた。
本当はもうそんな必要もないのだが、やっぱりどうにも彼女が傍にいる気がしてならなくて、自然とこのスピードになった。
「綺麗だな」
彼女に言葉をかけるように呟く。きっと彼女もどこかでこの桜を見ている気がするから、オレの言葉も届いているんじゃないだろうか。なんて少しロマンチックなことを思う。それもどれもきっとこの桜のせいだ。そういうことにしておこう。
再びペンダントを服の上から触る。その時、ふわりと優しい風がひと吹きしてオレの髪と頭上にある桜を揺らしていった。
「今年も一緒に来れて嬉しいよ、竜胆」
そんな優しい彼女の声が聞こえた気がして、返事をするように「オレも一緒に来れて嬉しい」と、そっと呟いたのだった。
「……ナマエ、今年もここの桜は満開だな」
落としたりしないように、と内側にしまっている胸元のペンダントにそっと服の上から触る。
春らしい柔らかな風が吹いて、オレの髪と頭上の桜が揺れる。今年もまたこの季節になった。そしてオレもまた、生きてこの日を迎えられた。
そっと左手を持ち上げ、薬指に嵌る銀色の細身の指輪を見る。もうこの指輪を持つ人はオレだけになってしまったが、この先オレはこの指輪以外の指輪を左手薬指に嵌めることはない。
人が少ないこの場所で一人桜を見上げる。なんとなく、オレの隣で彼女が同じように桜を見上げているように思えた。
◆◆◆ ◇◇◇
「竜胆っ」
「あーもう、うっせぇな。こっちはもう疲れてんだよ、休ませろ」
この頃のオレは仕事≠ナ少しずつストレスが溜まっていた。部下の尻拭いから始まり、面倒な奴を罠に嵌めるための工作の手伝い、こちらにハニートラップを仕掛けてきた女の所属する組織の調査……本当に面倒臭いことばかりだった。
そのせいで帰りは遅り、結果として睡眠時間も削れて疲れは残り、いつしか大したことないものにすらイライラするようになっていた。
例えばそう、愛する妻であるナマエから「帰り遅いけど大丈夫?」と心配の言葉をかけてもらった時とか。
オレだって自分の現状は分かっているからこそ、彼女に当たらないためにと物理的に距離を取る。と言っても一緒に住む自宅だから、できることと言えばさっさと風呂に入ってしまうことくらいだ。
分かっていた、彼女が心配していることなんて。それでもどうしようもなく苛立ってしまう自分がいるから、彼女にこれ以上当たってしまわないようにと逃げた。
風呂場と廊下を隔てる扉を閉める瞬間に見えた彼女の顔が、酷く辛そうだったことを知っていたのに、オレはそれに気づかない振りをして、自分の現状を言い訳にして、向き合わなかった。
頭を冷やすためにいつもより少し長めに風呂に入っていたオレがリビングへ戻ると、テーブルの上には一人分の食事が用意されていた。申し訳なさで心がチクリと痛む。
料理の載った皿の隣には彼女からの置き手紙があった。
『さっきはしつこく聞いちゃってごめんね。今日もお疲れ様。ご飯は残ったら冷蔵庫に入れておいてください。申し訳ないけど、明日から私も仕事が繁忙期になるので、朝早いから先に寝ます。おやすみなさい。 ナマエ』
「……いただきます」
いつもだったら彼女が向かいの席か、少し奥のソファに腰掛けているのに。同じタイミングで食事ができなくても、同じ部屋にいてくれるのに。それら全てを無くしたのはオレ自身だというのに――。
明日から繁忙期となると、オレと彼女は更に各々の時間がすれ違うことになる。きっとオレももうしばらく忙しいままだろうから、今のが粗方片付いたら休みでもとって彼女と会う時間を作ろう。そう思いながら、少し冷えた料理を食べ始めた。
食事を終え、寝る支度まで整えて自室に入る。それぞれで自室を持っている理由は、一人になれる場所があった方が何かといいだろう、という彼女からの提案だった。
今になって彼女のその提案の素晴らしさが分かる。本当にナマエは色々なことを考えているし、先をしっかり見据えている。オレと同じ年齢だというのに、中身はオレよりも年上の大人≠ノ思える。
本当は彼女の姿を見ようかと思った。だが彼女の朝早い≠ヘ本当に早いため、睡眠の邪魔をするのは悪いと思ったのでやめた。
部屋の明かりをつけずにベッドへ向かい、そのまま倒れ込むようにベッドの上に横になる。横になった身体が重力に従って布団とマットレスに沈んでいく感覚に身を任せながら、オレは目を閉じた。今日はもう疲れてしまった。色々と。
*〜*〜*
次の日からオレと彼女は家の中でさえ会うことがなくなった。同棲を始めたのは結婚するよりもずっと前からだったので、毎年一回はこうやって家ですらまともに顔を合わせることがないくらい、生活リズムがずれることがあった。
だから慣れていると思っていた。大丈夫だと思っていた。それなのに、あの時扉を閉じるあの瞬間に見た彼女の顔がどうにも頭にこびりついて消えなくて、それがオレを更に不安にさせた。
「竜胆、お前あの子となんかあったのか〜?」
「……兄貴には関係ねーじゃん」
「おいおい、ひでェな〜。こっちは弟夫婦の様子を心配して声かけてやったってのに」
仕事と仕事の合間にできた少しの時間。といってもただの移動時間だが。
珍しく「オレが運転する」と言ってハンドルを握っていた実の兄が、赤信号で止まった際に薄く笑ってオレにそう声をかけてきた。
兄貴の性格からして、本気で心配していることなんてほとんどないと言っても過言ではないので、今回もそんなところだろうと思っていた。だが今回の兄貴の心配≠ヘどうやら数少ない本気だったようだ。
「ナマエチャンから連絡もらったんだよ。竜胆は元気か≠チて。ほんっといい子だよなァ?」
「は? なんでオレに直接じゃなくて兄貴に聞いてんの」
「まだ竜胆と喧嘩したままだし、竜胆も酷く疲れてるから今直接連絡したら更にストレスになると思う≠チてことらしいぜ。愛されてんねェ」
その言葉の後、信号が青に変わったのでオレの返答を待たずに兄貴は車を発進させた。
兄貴の言ったことは図星だった。「連絡が来たって苛立ったりしねェ」と反論したかったが、今までのことを思い出すとその言葉に確証が持てなくなり、言おうとした言葉はオレのわがままと強がりに思えてしまった。
その後、予定通りに仕事を終えて三途に連絡を入れた。どうやらこれで今日の分は終わりだったらしく、電話越しに「帰っていいぞ」と言われた。
兄貴にそれを伝えると「なら家まで送ってってやるよ。オレもヤサシイから」と言われ、車に乗るようにハンドサインをもらった。
オレも≠ニヤサシイから≠フ間に、絶対カッコ書きであの子と一緒で≠チて言葉が入っているな、なんて思いながら車の助手席に乗る。ふと夜空を見ると月がなく、控えめな星の光だけしかなくて、少し暗いな、なんて普段の自分らしからぬことを思った。
兄貴の運転で自宅へと向かう。パッと腕時計で時間を確認すると、時刻は二十三時半を示していた。まぁ今の仕事量から考えると、今日は珍しく早く終わった方だろう。
ナマエの方は帰宅しているだろうか。きっと遅くても零時頃には家に帰ってくるはずだから、少し待ってみてもいいかもしれない。何だったらこれから兄貴に言ってコンビニに寄ってもらって、彼女が好きなデザートでも買って行くか。
兄貴に通り掛かりのコンビニに寄ってほしいと伝えると、オレの考えを察したのか一つ返事でコンビニに寄ってくれた。
彼女が好きだと言っていたデザートを買ってコンビニを出て車に戻る。改めてオレの家へ向かうために兄貴が車をバックさせ始めたところで、オレのスマホが鳴った。
社用携帯だったので急用かと思いつつ胸ポケットからスマホを取り出して発信者名を確認する。
発信者名は梵天の息がかかっている都内のとある総合病院だった。こんな時間に病院から連絡だなんて、梵天の幹部の誰かに何かあったんだろうか。
「もしもし」
『灰谷竜胆さんですね?! 至急当院へお越しくださいっ! 奥様が――』
「……兄貴、わりィ。目的地変更してくれ」
「……その病院だな」
「あぁ」
ナマエが車の事故に遭い、病院に救急搬送された。状態は意識不明の重体。事態は一刻を争う
電話越しに伝えられた情報はあまりにも非現実的に思えて、身体からオレの意識が遠くなっていくように思えた。
――ナマエが、意識不明の重体? 誰だよ、ナマエのことを撥ねたヤツは。誰であろうとオレがこの手で殺してやる。
「落ち着け、竜胆」
「……落ち着いていられっかよッ!! アイツがっ、ナマエがっ!! どこの誰とも知らねェヤツのせいで死にそうなんだぞ!?」
「そっちのことはオレの方で調べておいてやる。お前は彼女の傍にいてやれ。間違っても勝手に一人で動くな、いいな?」
「……クソッ!!」
やり場のない思いをぶつけるように自分の膝を殴る。ジンッとした痛みが広がっていくが、それでもこのどうしようもない気持ちは収まらなくて何度も何度も殴った。
自分の無力さは、どれだけ殴っても消えることはなかった。
*〜*〜*
「ナマエ……?」
掠れた情けない声が、オレの口から溢れた。
病院に着いて案内された場所は手術室を見ることができる部屋だった。オレたちを案内した医師からナマエの状態と今後のことを説明してくれたが、オレには一切理解ができなくて、ただただ音が耳を抜けていくだけだった。
「もうすぐ手術が終わります。この後はICUにて容態を見ながら適宜対応していきます」
気の遠くなるくらい長い時間が過ぎ、ようやく手術が終わった。オレたちがここに到着してから一体何時間経ったんだろうか。大きな窓から見渡せる手術室を覗くと、そこにいた医師たちが汗だくになっているのが見えた。本当に、長かったんだな。この手術は。
「ナマエは、助かるんだよな……?」
「……我々も全力は尽くします」
「助けろよ……。助かるって言えよッ! お前ら医者だろッ!?」
「竜胆」
兄貴が医者に掴みかかったオレの手を掴んで、射抜くような視線をオレに向けた。分かってる。医者だって人間だ、100%治せるわけではないからこそ「全力は尽くす」と最大限の答えをしただけだ。だからそれにオレがキレたところで必ず助かるようになるわけではないから、医者もそれ以上何も言えないだろう。
「今後の治療とかについてはオレが聞く。お前は後ろの看護師と一緒に彼女のところに行け、いいな」
「……分かった」
今回の手術は取り敢えず成功したらしく、彼女は手術室からICUに移された。
彼女の姿は、今オレの目の前にあるはめ込み式の窓ガラスと、窓の奥の室内にある彼女のベッドを囲むようにビニールカーテン越しにしか見れない。どちらも透明だから姿はそれなりに見えているし、距離としてはそこまで離れているわけでもないのにどうしてか彼女がとても遠くにいるように思えた。
「……ごめん、ごめんなナマエ……。オレが、もっとちゃんと、気にかけてやれたら……」
窓ガラスに手をつけて彼女の姿を見る。身体中に包帯を巻き、周りの機械やら点滴やらが先に付いている管を身体のあちこちに付けている彼女の姿は本当に痛々しくて、見ているだけで胸が辛くて苦しくて仕方がなかった。
散々人を傷つけて、殺めてきたっていうのに。拷問とかもやってきたのに。ボロボロになって生死を彷徨う彼女の姿を見たらこんなにも苦しくなるのか。
「竜胆」
「兄ちゃん……」
どうしようもない感情を抱えたまま彼女を見ていたら、真面目な顔をした兄ちゃんがやってきた。手には何かが印刷された紙が入ったクリアファイルを持っている。きっとダメになっていたオレの代わりに話を聞いてきたのだろう。
兄ちゃんはカツカツと踵を鳴らしながらオレの隣にやってくると、静かに窓ガラスの向こう側を見た。その横顔からは感情があまり読み取れない。一体何を考えているんだろうか。
「少しは落ち着いたか〜?」
「……あぁ。話を聞くくらいはできそうだと思う」
「なら話が早い。お前の代わりに聞いてきてやった、あの子の現状と今後の治療について簡単に説明してやる。座れ」
そう言って近くに置かれた長椅子に兄ちゃんが視線を投げる。オレは視線を投げられた長椅子に浅く腰掛けた。それを確認した兄ちゃんは、オレの向かい側の長椅子に腰掛けた。
「ナマエは……助かるんだよな」
「医者によると、はっきり言ってお前が望んでいるような助かった状態≠ノなるのはかなり低い。だが命は何とか延命できるんだってさ」
「どういうことだよ、それ」
「全身へのダメージ、そして脳へのダメージ、それぞれがかなり酷かったみたいで、仮に今後快復に向かってもナマエが五体満足で後遺症もなく、今まで通りの生活を行えるくらいの状態まで回復する可能性は限りなく0に近い。それこそ奇跡が起きないと無理だろう、ってさ」
兄ちゃんは持っていたクリアファイルをオレに渡した。怖くて、信じられなくて、思わず中身を取り出そうとする指が震える。
数枚の資料を見つめながら、オレはひたすらに悪い夢であれ≠ニ願った。だけど手元の資料たちは、どれもその願いを否定し打ち砕いていく事実ばかりが記載されていた。
「なんで、アイツだったんだ……。他の誰でもない、ナマエだったんだよ。……そうだ。アレは? ナマエをこんな風にした車の運転手は誰だった? どっかの敵対組織の下っ端だった? それとも――」
「カタギだ。それも、車は事故後大破して運転手も死亡してる」
「――ッ! それじゃあ、オレはナマエをこんな風にしたヤツに復讐もできねェってことかよ……!! ちくしょうッ!!」
やり場のない怒りが込み上げてくるのが分かる。全身を巡る血液が沸騰しそうなくらいの怒りがオレの腹の底からとめどなく湧き上がってきて、思わず資料を持っていた手に力が入る。
悔しい、悔しい、悲しい――。オレは彼女に何一つとしてしてあげられることがないのか。彼女をこんな目に遭わせたヤツを拷問にかけることもできない。同じ目に遭わせることもできない。何も、何もできない。
――オレは、こんなにも無力なのか。
「オレから三途たちに話を付けておいてやる。だからこれから少し休め、いいな」
「は?」
「今のお前じゃ、敵にすぐ殺られそうだしな〜。自分の身も顧みずに突っ込みそうだし、死にに行く気満々って感じするしなァ。オレだって可愛い弟がそんな向こう見ずに突っ込んで無惨に死んでいくのは見たくないんだわ。それに――」
そこで言葉を切った兄ちゃんは、視線をオレから外してICUの方へと向けた。
「彼女のことが気がかりで身も入らねェだろ〜? 今のお前はハッキリ言って邪魔、足手まといだ。分かるよな?」
「……そう、だな。オレも、それくらいは分かる」
「ってワケだから、竜胆。お前はしばらく休んで彼女の傍にいてやれ〜」
「……ありがと、兄ちゃん」
そう言うと、兄ちゃんはいつもの薄い笑みを浮かべてから社用スマホを片手に部屋を出ていった。
残されたオレは、この後のことを考えた。取り敢えずしばらくってことは少なくとも一週間以上の休みがあるということだろう。後に詳細な連絡が来るとしても、その休みの間、オレは一体何をしていればいいんだろうか。
病院に無茶を言えば何週間もここに泊まることは可能かもしれない。そしたら四六時中彼女の傍にいてやれるから、彼女がいつ起きても傍にいてやれるだろう。ならまずはそれから始めてみよう。
*〜*〜*
「すみません。泊まりは可能ですが、一週間が限界です」
「なんでだよ。オレはいつナマエが起きてもいいように、傍にいてやれるように、休みの間はずっとここにいてェんだよ」
「確かに泊まろうと思えば何週間でも滞在は可能です。ですが、他にも様々な事情で泊まる方もいらっしゃいます。それも皆一般人≠ナす」
「だったらソイツらを追い出せばいいだろ」
「……竜胆さんのお気持ちも分かります。でも、そうやって泊まっている方々もまた、竜胆さんと同じ思い≠ネんですよ」
医者からの言葉を受けたオレは、それ以上言葉を紡げなかった。「そんなこと知るか」と言いたかったが、どうにも苦しんで摩耗した精神ではそんな強い反論すらできなかった。
分かってしまった。そうやってオレと同じようにここに泊まるカタギのヤツらの気持ちが。想像する気なんて一切なかったのに想像できてしまった。
「……分かった。なら一週間だけでいい」
「ではお部屋の準備をします。準備ができましたらまた伺います」
医者が静かに部屋を出て行く。スライド式のドアがゆっくりと閉まる音を後ろに聞きながら、オレはただただガラスの向こうにいる彼女を見つめた。
「オレ、これからはちゃんとできるだけ傍にいるから。ちゃんとナマエのこと、見るから。向き合うから。だからっ……」
◆◆◆ ◇◇◇
結果として、オレの休暇は(クビとかではないが)実質無期限だった。時折様子を見に来た兄貴が、オレの様子からして「まだ復帰できる状況じゃない」と判断し、三途たちに交渉してくれたらしい。こういうところは兄貴≠チて感じがする。
こうしてオレは長い長い休暇をもらうことになった。しかしオレの生活は日を追うごとに酷いものになっていった。まず食欲が起きなかった。もちろん小腹程度は空いたりするので多少食べ物を腹に入れてはいたものの、いわゆる十秒飯のような簡単に食べられるものでないと身体が上手く受け付けてくれなかった。
それから睡眠。兄貴ほどではないが、オレもそこらのヤツらと同じくらいの寝つきの良さと睡眠量をとっていた。だが彼女の一件があってから、オレは眠れなくなってしまった。なんとか眠りに就いても眠りが浅く、何度も夜中に目覚めていた。
おかげで心身共に疲弊し、目の下には酷いクマができていた。それを見た兄貴からは「ひでェツラしてんなァ」とニヒルな笑みと共に言われた。
仕方ないだろ。寝てるくらいなら彼女の傍にいたいし、窓ガラス越しであっても彼女を見ていたかった。そんなこと、できやしなかったが。
休暇最初の一週間は約束通り病院で寝泊まりしていたが、その一週間も過ぎ、オレは彼女のいない自宅へと帰った。
「ただいま……」
一週間振りの帰宅。そういえば彼女が事故に遭ったと連絡を受けた日に着替えを取りに行ったっきりだったな、なんて思いながら靴を脱いで自宅へとあがる。
部屋は一週間前に見た時となんら変わりなかった。綺麗に片付けられた食器、丁寧に掃除されたシンクやキッチン。窓辺に干したままの洗濯物。全部あの日から時が止まっていた。
病院に持っていっていた着替えたちが入ったボストンバッグを適当に置き、着ていたスーツのジャケットを近くにあったソファの背もたれに投げ捨てるように引っ掛ける。こんなことしたら、彼女が「シワになっちゃうよ」って言ってくれたっけ、なんて日常の一片を思い出してしまい胸が締め付けられた。
「ナマエ……」
思わず名前を呟く。でもいつまで経ってもそれに対する返事が聞こえてこなくて酷く虚しくなった。
病院を出る際に彼女の担当医から、面会時間を教えてもらっていたため、まずは軽くシャワーを浴び、着替えて病院へ向かうことにした。
一分一秒だって無駄にはできない。いつ彼女が目を覚ますか分からないから。
ザッとシャワーを浴び、適当に髪を乾かしてラフな私服を適当に選び取って着替える。着替えも含めた支度が終わり、数十分前にいた玄関へと再び向かう。靴を履き、家の鍵を手に持ったところでオレはその場で踵を返した。
「いってきます」
返事が返ってくることにない部屋にそう言葉を投げた後、オレは再び病院へと向かった。
*〜*〜*
「なぁ、ICUの中にも入れるんだよな? いつになったらオレも入れるようになんの?」
「もう少し容態が安定してからですね。手術は確かに成功しましたし、経過も良好ではありますが、まだ面会を許可できるほどではないので」
「……そうかよ」
数時間前にいた病院の一室。彼女のベッドが見える窓ガラスの前で静かに彼女を見つめる。
彼女の苦しみは想像もできないくらいのものだっただろう。
後に兄貴から聞いた話だが、彼女の事故はそれはそれは悲惨だったらしい。車通りも人通りもまばらだったら交差点の横断歩道を渡っていた彼女のところへ、信号無視をした猛スピードの車が突っ込んだ。その衝撃で彼女の身体は数メートル先のところまで吹き飛び、車は彼女にぶつかったことで運転手がパニックになったのか、制御を失い近くのブロック塀へ激突。そして車はものの見事に大破し運転手はその場で死亡が確認された、のだそうだ。
何度聞いても腹立たしい事実だった。結局それらも近くにあった防犯カメラなどのデータから分かった状況証拠でしかない。どうしてその車が猛スピードで信号無視をしたのかも、猛スピードで走っていたのかも分からない。憎みたくても殺してやりたくても、もう加害者である運転手は死んでいる。
家族諸共潰してやろうかとも思ったが、下手にカタギに手を出すのはこちらにもリスクがあるから、と九井のヤツに止められたので、オレは更にどうしようもなくなってしまった。
「ナマエ……」
早く目を覚ましてほしい。目を覚ましたらまずはなんて言おうか。「ごめんね」? それとも「おはよう」?
なんだっていい。早く、どうか早く、目を覚ましてほしい。そしてまた、オレのことを見て名前を呼んでほしい。言葉を、声を聞かせてほしい。
「早く、起きてくれよ。ナマエ……」
◆◆◆ ◇◇◇
彼女が入院して二週間が経とうとしたところだった。彼女の容態が安定し、ICUから一般病棟(もちろん個室タイプの病室だ)に移ることになったと担当医から連絡をもらった。
急いで家を飛び出し病院に向かい、顔パスも同然くらいのスピードで受付を済ませてナースステーションへ行けば、もう見知った顔の看護師がオレのところへやってきて「案内します」と彼女が移された個室へと案内してくれた。
「何かありましたらそちらの内線を。緊急の場合は枕元にあるナースコールを押してください」
連絡手段を伝えて看護師は個室のドアへと向かった。ドアを開け、外へ出ようとしたその時、看護師が小さく「あっ」と声を漏らしたかと思うと、くるりと踵を返してオレの方を向いた。
「余計なお世話なことは承知ですが、一応看護師でもあるので言わせていただきます。きっと喉を通らないほどお辛く、眠れないほど苦しいのかもしれませんが、食事と睡眠はできるだけちゃんととってくださいね。でないと、奥様が目覚められた時に今の貴方の姿を見て、凄く心配されると思いますから」
「……そう、だな」
「それでは、失礼します」
静かにドアが閉まったことを確認してから、ベッド横の椅子に腰掛ける。高級そうな医療ベッドに寝かされた彼女は、巻かれている包帯の量が少し減ってはいたものの、あちこちに痛々しい傷跡があった。
思わず傷口に手を伸ばし、すんでのところで手を止める。どうしてか今の彼女に触れたら、ガラスのように砕け散って消えてしまいそうに思えた。
掛け布団の外に出ていた腕の方に視線を向ける。数は減ったとは言えど、相変わらず点滴などの管が彼女の細い腕から伸びていた。心なしかオレの記憶にある彼女の腕よりも一回りくらい細くなっている気がする。それだけ彼女の身体が弱っていたのかもしれない。
「ナマエ、今日はいい天気なんだ」
元々オレよりも小さかったのに、今では更に小さくなってしまった彼女の手にそっと自身の手を重ねる。すっかり痩せ細ってしまった彼女の手には、オレが大好きだった温もりがなく、代わりに少しだけひやりとした温い温度があった。
その温もりが彼女の今の命の灯火の温度を表しているように思えて急に怖くなったオレは、ほんの少しだけ自身の手に力を込めて彼女の手を優しく握った。
――消えないでくれ。オレのところから、いなくならないで。ナマエ……。
そんな願いを込めながら、オレは反応のない彼女にずっと話しかけていた。
*〜*〜*
『ナマエチャンの様子はどうだ〜?』
「取り敢えず今は容態が安定したから、ICUから個室に移った。でもまだ目は覚めてない」
昼過ぎ頃に兄貴から連絡が来た。時間帯的に病院にいるだろうということで、いつもの状況確認のための電話をかけてきたのだ。
兄貴はオレからの報告を聞くと、「よかったな〜」と一言だけ言った。声色は変わらないけど、多分この感じはかなりの確率で本心だ。
『で? お前自体はどうなわけ? 戻って来れそうならさっさと戻ってきてほしいところなんだけど。お前がいないとオレに仕事が降ってくるからさァ』
「……次の月曜から戻る。容態も安定したし、医者も取り敢えずしばらくは大丈夫だと思う≠チて言ってたし」
『そうか。なら三途たちにそう伝えとけ〜』
「わかった。……あと、兄貴」
『ん? どうした?』
「色々、ありがと」
『……はっ。オレはお前の兄ちゃん≠セからな〜。まっ、精々感謝して、復帰後はお前の代わりに働いてたオレの分の仕事もやってくれよな〜』
兄貴との電話が終わり、再び彼女の方を見る。すぐに動きや変化があるかも分からないが、もうどんな小さなことであっても見逃したくなかった。見逃したから、見て見ぬ振りをしてしまったから、だから彼女はこうなってしまったから。
「どれだけ裏社会で力付けても、身体的な力を付けても、武器の扱いが上手くなっても……愛した女のことを守れねェとか、ほんと……」
自分らしからぬ発言だと思う。でも本当に、本当にそう思った。前に兄貴が言っていた「オレたちは大切な存在を作らない方がいいのは嫌でも分かるだろ〜? それでも作るってンなら、それ相応の覚悟をして腹を括れ」と言っていた意味が今ようやくわかった。あぁそうだ、確かにそうだ。
これがもしカタギではなく、オレたちと同じ立場の人間だったなら、オレは間違いなく単身で乗り込んで行っていただろう。そしてきっと彼女も五体満足で帰って来れていたかどうか。下手すれば命がある状態で発見できるかどうか、彼女自身を発見できるかどうかも怪しいだろう。
運が良かった≠ニ言えばそうなのかもしれない。最悪の状況と隣合わせでも、どんな状態にされていたかも分からない裏社会の人間から危害を加えられたわけではなかったことが不幸中の幸いだ。
大切なものというのは必ず人の弱みになる。だから兄貴はオレが彼女を手放さないと決めた時に、ああいう風に忠告したのだ。それくらいの覚悟をして彼女を手放さず、婚約をしたというのに。実際にそういう場面に遭遇したら、こうも自分が使い物にならなくなるとは思わなかった。
「覚悟、してたのにな……」
弱り切った自分に自嘲する。でも今更手放すだなんて無理だ。彼女がいない生活だなんて到底考えられない。それくらいオレは彼女のことを心の底から愛していたし、大切に思っている。
でもだからこそ、オレはそろそろいつも通り≠ノ戻らないといけない。それはオレ自身のためでもあり、組織のためでもあり、何よりこの先目覚めるはずの彼女のためだ。
「ナマエ、オレ頑張るから。次目が覚めた時、ナマエの知ってるオレで会えるようにしておくから。だから早く目を覚ましてくれよ」
彼女の薄くなってしまった手の甲を自分の親指の腹でそっと撫でる。肉が落ちて浮き出た筋の形がはっきりと分かり、その感触が鮮明にオレの記憶に刻まれた。
◆◆◆ ◇◇◇
「おい竜胆」
「なんだよ」
「お前最近おかしいぞ。大丈夫か?」
「は? どこがだよ。いつも通りだろ。仕事の方だってミスもしてねェだろ?」
仕事に復帰してから少しして、経理報告書を渡した時に九井から声をかけられた。
オレは復帰してからまるで冷や水を浴びたかのように頭がスッキリしていた。そして日々淡々と仕事をこなして、ミスもなく書類まで作って出していた。それなのにそんなオレに九井は「おかしい」と言ってきた。なんだってんだ。
「確かに表面上は十分すぎるくらい元通りだ。だがオレからしたら無理してるように見えるぞ」
「はァ? 人に難癖つけンのもいい加減にしろよ。仕事も報告書もきっちりやってるってのに、何が不満なんだよ」
「……まぁいい。お前が平気だと言うならそれで。但し、でかいミスはすんなよ。後処理とかの皺寄せはごめんだからな」
オレは返事の代わりに舌打ちをしてその場を去った。今日の仕事はあの報告書を提出したところで終わったので、そのまま病院へと向かった。事前に連絡は入れてあったので、顔見知りになった看護師に病院の裏口を開けてもらい中へと入る。向かうはもちろん彼女のいる個室だ。
部屋のドアをそっと開けて中に入ると、閉められたカーテンの隙間や裾の辺りから月明かりが差し込んでいた。電気を付けたら彼女が眩しいかもしれないと思い、微かな月明かりを頼りに彼女の眠るベッドへと向かった。
「ただいま、ナマエ」
仕事終わりにはできるだけ病院に寄るようにしていた。理由は彼女に「ただいま」を言うため。今日もちゃんと無事に帰ってきたことを彼女に伝えたかった。
彼女は毎度オレが仕事から帰ってくる度に、安堵した表情で出迎えてくれた。彼女曰く、オレの仕事が仕事だから、毎日無事に帰ってきてくれると安心するんだとか。
確かにオレの仕事はいつ殺されてもおかしくないものだ。そして一般人として日々カタギの世界で生きる彼女からしたら、いつでも死と隣合わせの裏社会の生活など非現実的すぎたのだろう。だからこそ、遅くなったとしても毎日オレが何事もなく帰ってくるだけで、安堵していたのだろう。
仕事柄不安にさせてしまうことは分かっていたし、それは彼女も承知していた。それでもやはり彼女からしたら、毎日心配だったのだろう。本当に沢山心労をかけてしまったな、と今では思う。
だから、たとえ彼女から反応がなくても、彼女に少しでも安心してもらいたくてどれだけ遅くなっても行ける時には必ずこうして彼女の元に来ているというわけだ。
「今日もちゃんと怪我一つなく仕事を終わらせて帰ってきたぞ。ナマエには沢山心配かけてたよな。でもさ、オレこれでも世間を騒がす梵天の幹部だからケッコー強いんだぜ?」
ベッド横の椅子に腰掛け、彼女の手に自身の手を重ね、親指の腹で優しく彼女の手を撫でつつ言葉を続ける。
「心配してくれるのはスゲー嬉しいけど、そんなに心配しないでも大丈夫だから。ナマエのところにちゃんと帰ってくるから。生きて、ただいまって、ちゃんと帰ってくるからさ。だから……」
いつの間にか流れ落ちた涙が彼女の布団の上に落ちる音がした。そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。なんでオレ、泣いてるんだろう。
そういえば、と思い出す。仕事を再開してから、こうして仕事を全て終えた後、彼女に会いに行くとオレは必ず涙を流していた。別に特段悲しかったわけでも、辛かったわけでもない。痛みがあって〜なんていう子供じみた理由もない。
何もないのに、彼女の手をそっと撫でながら話をし始めたら途端に涙が流れるのだ。
「ナマエ、早く起きてくれよ……」
彼女の頭のすぐ横にそっと自分の頭を乗せる。規則正しくもか細い呼吸音がオレのすぐ横で聞こえて、それが彼女が頑張って生きている≠アとを示してくれているように思えた。
◆◆◆ ◇◇◇
仕事を再開して二週間後、病院から電話があった。彼女に関して何か動きがあったのだろうと思い、急いで出ると電話越しから緊張と少しの重々しい雰囲気をまとった担当医の声が聞こえた。
『灰谷竜胆さん、奥様のナマエさんのことで大切なお話があります』
残りの仕事は他の幹部に半ば放り投げ、オレは急いで病院へ向かった。息を切らすくらい乱れた呼吸で全力疾走し、指定された部屋へと向かう。
ドアを開けて中に入ると、そこにはもう顔馴染みになった担当医と、彼女の手術の執刀をした執刀医の二人が椅子に座っていた。
二人はオレが部屋に入ってくるのを見るなり席を立ち、ゆっくりと頭を下げ、オレに向かいの席に座るようにとジェスチャーで促した。
「話って、なんだよ」
椅子に腰掛けての第一声。それを受けた二人は神妙な面持ちでオレの方を静かに見つめた。そして担当医が意を決した様子で一枚の紙を机の上に置くと、そのままスライドさせるようにオレの前に差し出した。
「奥様、ナマエさんの余命は、もって二週間です」
*〜*〜*
――彼女が死ぬ?
受け入れ難い事実を突きつけられたオレは、その後のことは放心状態で聞いていた。
理解できなかった。理解したくなかった。そんな、だって彼女はあんなに長い手術も頑張って、それからの治療とかも頑張って、術後経過だってよかったというのに。容態は安定していたんじゃなかったのか。様々な思いがオレの中を駆け巡り暴れる。
本当は感情に任せて目の前の机をひっくり返し、あれこれ説明をしている担当医と執刀医に銃口を向けて「何がなんでも助けろ」と言いたかった。でもそれはできなかった。彼女の命がもって二週間≠ニいう重すぎる現実によって、オレの中が空っぽになったような感覚になったからだ。
彼女が眠る個室へと向かう。いつものようにベッド横の椅子に腰掛けて彼女の手に触れた。ここに移ってきた時よりも更に細く、そして薄くなってしまったように思える彼女の手はやっぱり少し冷たくて、思わず怖くなった。
「なぁナマエ……」
名前を呼ぶ。普段から彼女の名前を呼んではいたが、こういう状況下になって更に名前を呼ぶようになった。それは彼女を表す名前は元々好きだったこと、そしてこういう状況下になったことで更に愛おしく思えたことも理由ではあったが、一番の理由は沢山名前を呼んだら、それに気づいた彼女が戻ってきてくれるのではないか≠ニいう縋るような、願掛けのような淡い期待だ。
――でもそんな願掛けも、意味がなくなったな。
「なんで、帰ってきてくれねェんだよ……。オレ、あの時の喧嘩のこと謝りたかったのに。謝って、それから沢山抱きしめて、好きだって言いたかったのに。それなのに、なんでっ……」
溢れた涙がオレの頬を伝い下へと落ちていく。
もしかしてあの時の喧嘩に至るまでの間に積み重なってたオレへの不平不満が理由で、オレのことが嫌いになったんだろうか。だから帰ってきてくれないんだろうか。そんなオレらしからぬ女々しいことすら考えてしまう。
「嫌だ。オレは喧嘩したままとか嫌だからな。オレのことが嫌いでもいい、殴りたいくらい腹立ってたなら気が済むまでオレのことを殴ってくれていい。だから、帰ってきてくれ……。オレ、この数週間でナマエのことがメチャクチャ好きなんだって、愛してるんだって分かったんだ。思っている以上にオレはナマエのことが大好きだったって、分かったんだ……だから、だから目を覚ましてくれよ……オレのところに帰ってきてくれよ、ナマエ……」
懇願するように彼女の手をそっと握って呟く。止めどなく溢れる涙がぽたぽた音を立てながら布団に吸い込まれて淡いシミを作っていった。
どうしたら彼女は助かるのだろうか。彼女が助かるならオレはどんなことだってするのに、それを現実が許してくれない。
オレは微かに震える手で兄貴に連絡を入れた。
◆◆◆ ◇◇◇
兄貴に彼女の余命宣告のことを伝え、宣告された余命の二週間だけまた休みを取らせてほしいとお願いした。兄貴からは「貸しひとつな〜」といつも通りの返しをされた後「最期まで一緒にいてやれ。それがお前がこの世界にまであの子を連れてきたことへのケジメだ」と言われた。
――あぁ分かってる。そんなの言われなくたって分かってる。
彼女が事故に遭った日から生まれた、スマホの中に保存された彼女の写真を寝る前に眺める時間は、余命宣告を受けた日から明らかに増えた。
スマホに表示されている彼女はいつだって笑顔で、時に楽しそうに、時に嬉しそうに、そして時に幸せそうに、笑っていた。
写真を見ていると自然と写真を撮った当時の彼女の声や様子が鮮明に思い出されるようになった。
『竜胆!』
記憶にある、オレの名前を呼ぶ彼女の声が頭の中で鮮明に再生される。どうして、なんでこうなってしまったんだ。
彼女の写真で埋め尽くされた画像フォルダを眺めていると必ず思い出すのが、彼女と最後に会話した日のこと。喧嘩をしたあの日を思い出す。
あの時の辛そうな彼女の顔や声ははっきりと覚えている。そして同時に、あの時のオレの態度も。
時が戻せたら――。何度そう思ったことか。でも現実はそれを許してはくれない。どれだけ抗おうとしても、留まろうとしても、時は無情に流れていく。
それならば、最期の時までできるだけ彼女の傍にいたい。そう思ったら居ても立っても居られなくなり、深夜だというのも忘れ、数日分の着替えをボストンバッグに詰め込んで家を飛び出した。
部屋を飛び出した時、ふわりと吹き付けた風がオレの頬を少し冷やす。目元を手の甲で拭って視界をクリアにすると、急いで車へと向かった。
*〜*〜*
病院の方に無理を言って、二週間病院に滞在する許可をもらった。また担当医からの計らいで寝泊まりする場所も彼女のいる個室で良いとなった。
ようやくまた彼女と同じ部屋に居られる。そう思ったら嬉しくて仕方なかった。
「では失礼します」
ベッドを運んできてくれた看護師たちが部屋を出て行った後、オレは荷物をベッドの上に置いて彼女の元へ行った。
包帯の数も随分減ったものだ。痛々しい傷跡は残っているものの、彼女の顔や腕などはほとんどちゃんと見えている。
ピ、ピ、という心電図の電子音が規則的に鳴る。まだ彼女は生きている。
「ナマエ、こうやって一緒の部屋で生活すんのは久しぶりだな」
いつものように彼女の手に自身の手を重ね、声をかける。もちろん反応はない。瞼が震えることも、オレの手を握ることもない。それでも温い彼女の温もりと、規則的な電子音、そして微かな呼吸音がまだ彼女が生きている≠アとを示していた。
「家、さ。ナマエがいねェとスッゲー広いんだ。それに静かだし。それから、帰ってきた時にナマエがおかえり≠チて言って出迎えてくんねェと、帰ってきた感じがしねェんだ……」
彼女の手をオレの両手で包み込む。少しでもオレの体温が彼女に移ってくれたらいいと思った。そしたら、彼女が目を覚ましてくれるんじゃないかと思った。
「そうだ。今度、ナマエが目を覚まして一時退院がいいって言われたら、ナマエが行ってみたいって言ってた場所に行こーぜ。ほら、あの景色が綺麗だってテレビでいってたホテル。休みなら死ぬ気――全力でもぎ取ってくるから」
叶うことなんてない、側から見たら馬鹿なヤツだと思われるような言葉。だけどどうか奇跡が起きて、彼女の余命宣告が覆ればいいと思った。こうやって彼女がこちらに帰ってきたくなるようなことを言ったら、彼女が目を覚ましてくれるんじゃないかって思った。
「あーあと、駅前に出来たカフェにも行こう。ナマエが知った時はまだオープンしたてで人が多かっただろ? 最近はそれも落ち着いて入りやすくなってるからさ。一緒に行こう。それから――」
全部、全部叶わない夢だと分かっている。それでもオレは彼女に未来の話≠し続けた。そうやって話していないとオレがおかしくなりそうだった。
「ナマエ、大好きだ。愛してる。だから、もう一回オレの名前を呼んでくれないか……」
◆◆◆ ◇◇◇
時が経ち、今日は彼女の余命宣告時に言われていた最期の日≠フ前日だ。
オレはいつものように身支度を整えてから彼女のベッド横の椅子に腰掛け、彼女の手をオレの両手で包んだ。
「おはよう、ナマエ」
オレの心は自分でも驚くほど凪いでいた。感情が乱れることもなく、ただただ穏やかで、怖いほど静かだった。
ピ、ピ、と今日も彼女が生きていることを示す、規則的な機械音が鳴っている。
「ナマエはさ、オレと一緒にいて幸せだった? 楽しかった? オレはナマエと一緒にいられて幸せだったし、スゲー楽しかった。……この先もずっと、じいちゃんとばあちゃんになっても、一緒にいられると思ってた」
今まで怖くて触れられていなかった彼女の顔にそっと触れる。柔らかかった頬はそれを失っていて、代わりにデコボコとした傷跡の感触がした。
「辛かったよな。苦しかったよな。……今まで、無理させてごめんな」
そっと、彼女が付けている人工呼吸器に手をかける。これを外せば彼女はもう苦しまなくて済む。そして、オレは彼女の命をこの手で終わらせた≠ニいう事実を背負って生きることになる。
本当は殺したくなんてない。でも、どこの馬の骨ともわからないヤツによって殺されるよりは、オレ自身の手で彼女の命を終わらせたいと思った。そしてその重い業を背負うことで、何があってもオレは彼女を忘れることがないと思った。
これはオレなりの、彼女への最大の愛であり、今のオレが彼女にできる最大限の愛情表現だった。
「……まだもう少し、もう少しだけ待っててくれ。ナマエ」
まだ日中だ、時間はある。だからもう少しだけ、生きている彼女といたいと思ってしまった。
そっと人工呼吸器から手を離し、その手をいつも包んでいる彼女の手へと持っていく。まだ生きていて欲しいだなんて、本当に、つくづく自分がわがままで身勝手な人間だと思う。
その後、いつものように彼女に話しかけていたが不意に眠気が襲ってきた。そういえばまた最近寝付きが悪くなったんだよな、なんて思いつつ眠気に耐えきれなかったオレは、彼女の手を優しく握ったまま眠ってしまった。
*〜*〜*
「竜胆。起きて」
「――ん。ナマエ……?」
「そうだよ。私だよ」
「……ナマエッ!!」
ずっと聞きたかった彼女の声がしたと思って目を覚ますと、目の前に元気な様子の彼女が座っていた。
オレは思わず彼女に飛びつく勢いで抱きしめた。普段は気をつけていた腕の力も上手く制御できずに抱きしめてしまったため、彼女から「苦しいよ」と笑いながら苦情を受けた。
「ナマエ……オレ、ずっとナマエに謝りたかった。ごめんな、本当にごめん。ナマエだって毎日仕事しながら家事もしてくれてたのに、オレの仕事が仕事だから毎日心配してくれてたのに……。オレのこと、いつもちゃんと見てくれてたのに、オレはそれを蔑ろにするような態度取っちまった」
「いいんだよ。それに私もごめんね。竜胆が疲れてるのを分かってたのに、あの時しつこく声かけちゃって本当にごめん」
「そんなの、オレを心配してだろ? ナマエはなんも悪くねェ。心配してくれてたことも、ナマエが疲れてたことも気づいてたのに、それを気づかない振りしたオレが全部悪かった。無理にでも時間を作ってちゃんとナマエに向き合うべきだったのに、仕事が忙しいって言い訳して向き合わなかったオレが悪い。だから怒ってくれていい。気が済むまで殴ってくれてもいい。ナマエが帰ってきてくれるなら、オレはどんなことでも受け入れるから。だから――」
「ごめんね、竜胆。それは出来ないんだ」
彼女がオレの言葉を遮ってそう言った。
なんで。なんでだよ。なんで出来ない≠だよ。だって今、ナマエはこうしてオレの前にいて抱きしめたりもできるし、話もできるのに。それなのに――
「私、明日死んじゃうんだ。竜胆も先生から聞いてるでしょ?」
抱き締めたままの彼女が、オレの耳元でそう言った。声色は普通を装っているが、声の震えや気丈に振る舞っている感じからして、彼女は今涙を堪えているのだろう。この声の感じは、彼女が泣くのを我慢しながら努めて普段通りに話そうとしている時のと一緒だ。
「だから、わがまま言って最後に竜胆に会いに来たんだよ」
「知るかッ!! ンなの、オレが許さねェ! 最後ってなんだよっ……! そんなこと、誰が決めたんだよッ!!」
いい歳した大人が、なんて思う。でも彼女は人生で初めて心の底から愛した人だったから。何があろうと守ろうって思った、傍にいてほしいと思った人だったから。どれだけみっともなかろうが、頭で分かっていようが、オレの心が認められなかった。
分かっている。彼女だって死にたいわけじゃないってことくらい。抗えるのなら抗いたい、帰れるのであれば帰りたいと思っている。だから泣きそうなのにそれを堪えて、気丈に振る舞ったんだ。長年一緒にいたからこそ、そういうところから彼女の思いを汲み取れる。
――あの時も、こうやって汲み取れていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのにな。
「竜胆……」
「ナマエは……ナマエはいいのかよ。ようやくこうして触れられて、声も聞けて、話せるようになったのに、明日死ぬとか。生きるのを諦めなきゃいけねェとか。そんなのに、納得してんのかよ」
「……してるわけ、ない。できるわけないよ……!!」
彼女がオレの首に両腕を回し、ギュッと抱きついてそう言った。
オレは彼女のことを抱き締めたまま片手で彼女の頭を撫でた。そうだよな。それならいっそ、ここで本音を言ってくれ。ここにはオレとナマエしかいない。二人しかいないんだ。だからどれだけ情けない姿を晒しても、お互いしか知ることはない。今まで溜めさせてしまった不平不満とかも全部、ここで吐き出してくれ。オレに教えてくれ。全部受け止めるから。
「死にたくないっ! 私だってもっと、竜胆と一緒にいたかったッ!」
「あぁ、そうだよな。オレもそうだよ」
「もっと沢山やりたいこともあった! 竜胆と一緒に行きたい場所もいっぱいあったし、一緒に食べたいものも、一緒にやってみたいことも、たくさん……たくさんあったッ」
嗚咽混じりに彼女が思いを吐き出す。それを全て受け止める意味を込め、オレはうんうん、と相槌を打ちながら彼女を抱き締める腕に少し力を込めた。
オレよりも華奢な彼女の体がオレの腕の中に収まる。こうしていたら少しでも長く一緒にいられる気がした。そしてもしかしたら、彼女がこちらに帰ってこれるんじゃないかと思った。そんなことはないと頭の片隅では分かっていたけど。
「やだ、いやだよ、竜胆……。死にたくないよ……」
「あぁ。オレだってナマエのことは死なせたくねェよ。……百人殺したら死なないっていうなら、今すぐにでも殺してきてやる。いや、例え千人だろうと何人だろうと、ナマエが戻ってこれるならオレは何人だって殺すし、殺し以外だとしてもなんだってやってやる」
抱き締める腕に更に力が込もる。彼女につられてなのか、気づいたらオレの頬にも水が伝う感覚がした。
それから少しの間二人で抱き締め合ったまま、静かに涙を流していた。お互いどれだけ「嫌だ」と言っても、別れが来てしまうことは分かっていた。ならばせめて、二人だけしかいない今の間だけでも、触れ合えてお互いの声が相手に届く今の間だけでも、空いてしまった期間を取り戻したかった。
「……竜胆」
「どうした?」
「一瞬だけ、腕を緩めてほしい。いい?」
「いいけど……」
泣き止んで落ち着きを取り戻した彼女からそう言われ、オレは彼女を抱き締めていた腕を緩めた。すると今までオレの肩に頭を乗せていた彼女がゆっくりと上半身を起こし、オレと向き合うような姿勢になった。
彼女の目元は真っ赤で、なんなら鼻の頭や頬にも少し赤みが差している気がする。瞳は止まったばかりの涙で潤んでいた。
「ナマエ?」
「竜胆――」
彼女がオレの名前を呼び、大好きだった柔らかい彼女の両手がオレの両頬を包む。それで頭の位置を固定されたオレが真っ直ぐ彼女の方を見ていると、再び泣きそうな表情をした彼女の顔が近づいてきて、気づいた時にはオレの唇に彼女の唇が触れていた。
長くも一瞬のキスだった。久々に触れた彼女の唇は記憶にあるものと全く同じで、オレの目から止まったはずの涙が一粒溢れた。
「今までありがとう。私、竜胆と一緒にいられて幸せだった。喧嘩したあの日だって、寂しかったけど、作り置きしてたご飯を綺麗に食べてくれていたから凄く嬉しかった。……ごめんね、ずっと話し合う努力ができなくて」
彼女が優しく微笑む。直感が叫んだ。彼女がもうすぐいってしまうと。
それでも、オレの両腕は動かなかった。正確に言うと動かせなかった。心の端っこにいたオレが言う。もういいんじゃないか、と。
「もうそろそろお別れだよ、竜胆。もう自分のことは責めないでね。あと、ちゃんとご飯と睡眠は摂るんだよ。不摂生なんて私が許さないから」
「ナマエ……」
「それから、私のことを愛し続けてくれるのは嬉しいけど、あんまり囚われないでね。どこかで区切りをつけて、綺麗な思い出にしてほしいな」
「……無茶、言うなよ。ナマエ」
「あと、私が死んだ後、よかったら私の部屋にある薄紫色のノートを見てほしい。そこに私が伝えたかったこととかが全部書いてあるから」
彼女の体が空気に溶けるように透明になっていく。あぁ、これで本当にお別れなのか。それなら――
「ナマエ」
「ん?」
「オレも、ナマエと一緒にいられて本当に幸せだった。喧嘩した日からずっとすれ違ってたからガラにもなくすげェ寂しかった。でもこうやってちゃんと謝れて、ナマエの気持ちも聞けてよかった。ナマエが死んでも、オレは死ぬまで、いや死んでも、ナマエだけを愛してる。オレが愛するのは生涯、ナマエだけだから。……ありがとう、オレの傍にいてくれて。愛してる」
伝えたかった思いを伝えられるだけ伝えると、彼女は涙を流しながら幸せそうに微笑んだ。その顔があまりにも愛おしかったから、消えかけた彼女の後頭部にそっと手を添え、キスをした。
彼女の唇に触れたその瞬間彼女の姿は消え去り、何もない空間にオレだけが残った。
「……ナマエ」
小さく名前を呼ぶ。これで未練も何もない。きっとこれはオレの意識が都合良く見せた夢かもしれない。それでも、腹をくくるには十分すぎるものだった。
なんとなく意識が浮上する感覚がする。もう少しで目が覚めるのだろう。オレは意識の浮上に身を任せた。
*〜*〜*
目を覚ますと、そこは見慣れた彼女の病室だった。
視線を上へと上げる中でふと彼女の手を包むオレの手が見えた。そっと上に乗せていた片手を外すと、今まで一切何の反応も見せていなかったはずの彼女の手が、ほんの少しだけ、オレの手を握っているように見えた。
「……今までずっと、辛い思いさせてごめんな。ナマエ……」
彼女の手の甲をそっと撫で、椅子から立ち上がる。ベッドの反対側に回り、ぶかぶかになってしまった結婚指輪が嵌まった左手をそっと手に取る。そして指輪を付けた薬指にそっとキスを一つ落として再びベッドの上に戻すと、彼女の枕元へと移動した。
そっと人工呼吸器に手をかける。彼女はまだか細い呼吸を繰り返していた。
ようやく腹をくくれたよ、ナマエ。そう心の中で囁く。そして――
「おやすみ、ナマエ。いつまでも、いつまでも愛してる」
ピピピピ、というけたたましい電子音が心電図を映している機械から鳴り響く。その音をバックに、オレはカサついて痩せ細ってしまった彼女の唇にそっとキスをした。
ぽたり、と彼女の頬に一粒の雫が落ちた。
◆◆◆ ◇◇◇
彼女の葬儀はオレ一人で全て済ませた。彼女の遺骨はオレから業者に頼んで、左手薬指の骨のみ骨粉に変え、一部をオレが今身につけているペンダントの中へ、もう一部は別のケースに入れて彼女の遺影と共に自宅に置いていた。
葬儀などが終わってから彼女の言葉を思い出したオレは、彼女の自室で薄紫色のノート≠探した。結果としてそれは彼女の本棚の隅っこにそっとしまわれていた。
ノートの中身は日記だった。彼女はオレと結婚してから毎日、数行の日記を付けていたらしい。
ある日は竜胆が早く帰ってきてくれた。嬉しい=Aまたある日は珍しく竜胆の髪に酷い寝癖が付いてた。可愛かった≠ニ、何気ない出来事が結婚した日から毎日記述されていた。
そして日記の最後の日。彼女が事故に遭った日の前日。そこにはこう書いてあった。
『×月◯日
竜胆と喧嘩してからしばらく経った。お互い忙しくなってしまって顔も合わせられない。
ちゃんと謝りたい。だから明日は竜胆の好きなものを買って帰ろう。そして竜胆が帰ってくるまで起きていよう。
明日話し合いができなくても、どこかで時間を作ってほしいとお願いする。喧嘩したままなんて嫌だから。仲直りしたい。
大好きだよ、竜胆。直接言えないけど、明日の仕事も気をつけてね』
彼女の日記帳は今でもオレの部屋の本棚にしまってある。彼女がこれまで書き溜めたオレへの想いを処分だなんてできるわけがなかった。
きっと彼女はあっちで恥ずかしがってるかもしれないけど、遅かれ早かれ見つけてただろう。そしてそもそも捨てるなんて選択肢は毛頭なかった。
ふと時計を見る。彼女の日記を読み直していたら家を出る時間になっていた。オレは日記を元の場所へ戻すと、ジャケットを羽織って玄関に向かった。
「いってきます」
広い家にそう言葉を投げ、オレは家を出た。
*〜*〜*
「そういえばそろそろあの日≠セよな〜? 今年はどーすんの?」
仕事終わり。ちょうど信号が赤になったので車を止めると、助手席に座っていた兄貴がそう聞いてきた。
兄貴の言うあの日≠ニいうのは、オレとナマエの結婚記念日のことだ。今までは毎年結婚記念日とプラス一日程、お互い休暇を取って小旅行に行っていた。
旅行先はオレが彼女にプロポーズをしたとある桜の名所。毎年そのすぐ近くにある高級ホテルの一室に泊まっていたのだ。
「今年も行くつもり」
「そ。んじゃあとっとと話付けとけ〜。あ、でも仕事はオレに投げんなよ」
「分かってる。三途か誰かにでも投げとく」
兄貴を自宅へ送り届けた後、オレは三途に今年もいつも通り休むこと、そして休暇中の仕事は兄貴以外に振ることを伝え、自宅へと向かった。
とりあえず帰ったら風呂と飯。その後に荷造りをしよう。
◆◆◆ ◇◇◇
今年も相変わらず満開な桜の下を一人、ゆっくりと歩く。オレより歩幅が小さかった彼女がどんどん後ろへと置いてかれてしまうため、彼女に合わせたこのスピードで歩いていた。
本当はもうそんな必要もないのだが、やっぱりどうにも彼女が傍にいる気がしてならなくて、自然とこのスピードになった。
「綺麗だな」
彼女に言葉をかけるように呟く。きっと彼女もどこかでこの桜を見ている気がするから、オレの言葉も届いているんじゃないだろうか。なんて少しロマンチックなことを思う。それもどれもきっとこの桜のせいだ。そういうことにしておこう。
再びペンダントを服の上から触る。その時、ふわりと優しい風がひと吹きしてオレの髪と頭上にある桜を揺らしていった。
「今年も一緒に来れて嬉しいよ、竜胆」
そんな優しい彼女の声が聞こえた気がして、返事をするように「オレも一緒に来れて嬉しい」と、そっと呟いたのだった。