涙々
十二年。とても長かった。ようやく、ようやく色々なことが落ち着いた。これでやっと彼女に伝えることができる。
前々から腹は決めていたがオレ自身がかなり忙しく、今の今まで彼女を待たせてしまった。優しい彼女はオレが抗争に行くってなった時も、大事なコンペがあって根詰めていた時も、愛想を尽かすことなく、いつだって隣にいてオレのことを支えてくれていた。
オレとしては長くもあっという間な十二年だったが、きっと彼女にとってはとても長い十二年だったことだろう。オレが待たせてしまっている間に、彼女は何度か友人の結婚式の招待状を受け取っていたし、そこに出席もしていた。そして出席した分だけ幸せそうな花嫁姿や花婿姿をしている友人たちを何度も見てきているはずだ。
オレも彼女も周りから「そろそろ結婚しないの?」と言われる年齢だから、オレの知らないところでそういうことを言われてきたかもしれない。そしてオレもまた、彼女との会話で結婚の話題をあまり出さないまま今に至っている。それでも彼女はオレに愛想を尽かすこともなく、変わらず隣にいて愛してくれていた。たまに喧嘩などもしたが、それでもずっと、オレの傍にいてくれた。
「ただいま」
「あ、おかえり隆くん」
ナマエと二人で暮らす家の玄関を開ければ、リビングから空腹を刺激する美味しそうな匂いが漂ってきた。その匂いに誘われるようにリビングの扉を開けて中に入ると、キッチンで料理をしている彼女の姿があった。
帰ったことを知らせるために声をかけると、彼女はいつもと変わらない優しい笑顔でオレのことを迎えてくれた。彼女は「もうすぐできるよ」と言って再び視線を手元に戻したので、オレは持っていた荷物を、羽織っていたジャケットと共に床に置いて洗面台に向かった。
冷たい流水で手を洗いながら小さく深呼吸する。腹をくくったつもりだったけど、やっぱり改めて伝えるとなると緊張するもんだな。
「……っし」
手を拭いて気合いを入れてからリビングへ戻ると、ちょうどナマエがダイニングテーブルに今日の夕食を運んでいた。オレがまだ運ばれていない料理をテーブルに運べば、彼女が「ありがとう」と言って微笑んだ。
食事を運び終え、取り皿なども全て配置が終わったところでオレと彼女は向かい合って席に座ると、声を合わせて「いただきます」と言い、食事を始めた。
リビングには彼女が料理中にBGMとして付けていたテレビが流れている。どうやらバラエティ番組のようで、出演している芸人らしき人の大袈裟にも思える笑い声が部屋に響いた。
食事をしながら、彼女と他愛もない話をする。今日仕事で何があったとか、夕食の買い出しに行ったら買おうと思っていた野菜が特売で安くなっていたとか、本当に有り触れた話。そんな時間も、今のオレにとってはいつも以上に愛おしくて、優しくて、思わず目元が緩んだ。
「隆くん、何か良いことでもあったの?」
「え?」
「なんか凄く嬉しそうだったから、何かあったのかなーって」
「あー……あぁ、あった。ってかこれからある」
「なにそれ」
彼女がおかしそうに小さく笑う。何度も見てきた姿でも、本当に可愛いし愛おしく思える。
彼女のことは信じているし、お互い愛し合っていると思っている。だからこれからオレが彼女に伝えたとしても、きっと彼女はOKをしてくれるだろう。だけどやはり一抹の不安も過ってしまうのが人間というもののようだ。
オレが先に食事を食べ終え、彼女が食べ終わるのを待っていたが、何だか緊張で喉が渇いてしまったので席を立って冷蔵庫の方へ向かった。
買いだめしていた炭酸水のペットボトルを取り出してキャップをひねる。プシュッという勢いよく炭酸が抜ける音がした。そのまま蓋を開けて中身を一口飲めば、開けたての痺れるほどの炭酸が口の中でも喉でも弾けた。
「ナマエも何か飲む?」
「じゃあ麦茶をもらおうかな」
「ん、わかった」
炭酸水の蓋を閉めて冷蔵庫に戻すと、入れ替えるように麦茶の入った麦茶ボトルを取り出す。そのまま近くの戸棚から彼女がよく使っているグラスを取り出し、中に麦茶を注いで彼女の手元、邪魔にならないところに置いた。ちょうど食事を終えた彼女が「ごちそうさまでした」と手を合わせて言った後、そのグラスを手に取って中身を一口飲んだ。
彼女が一息ついているところを横目に、オレはテーブルの上の食器をシンクの方へ引いた。一旦水に浸けておくし、食器を引き終えたタイミングで言おう。
最後の皿をシンクに引いたところで、ゆったりとテレビを見ている彼女に声をかけた。
「ナマエ、話があるんだけどいいか?」
「うん、いいよ」
彼女は今からオレがする話≠フ内容に気づいていないのか、いつもと変わらない声色でそう答えた。まぁ変に硬い返事とかじゃなくて良かったかもしれない。
オレは帰宅時にジャケットと共に置いていた鞄の方へと向かい、この時のためにと準備しておいたアレ≠取り出し、彼女にバレないように手で隠してテーブルの方へ戻った。
椅子を引いて彼女の向かいに座る。正面にいる彼女は穏やかな顔でオレの方を見ていて、オレが話を始めるのを待っていてくれていた。
大きく深呼吸を一つ。よし、大丈夫。
「その、今までずっと忙しくして、ナマエにはたくさん迷惑や負担をかけたと思う」
「迷惑や負担だったら、私だってかけていたからお互い様だよ」
「ならお互い様、か。……でも言わせてほしい。ありがとう、ナマエ。ナマエがずっと傍にいて支えてくれたから、オレは好きなことに全力を出せたし頑張れた。本当に、ありがとうな」
オレはそっと隠し持っていたアレ≠テーブルの上に置いた。彼女が目を大きく見開いてテーブルの上のアレ≠アと、明るいグレーの小箱を見てから、何かを確かめるようにオレの方に視線を向けた。それに応えるように微笑めば、彼女は自身の片手で口元を覆った。
「何があってもオレが絶対ナマエのことを守るから、だから……これからもずっと、オレの傍にいてほしい。――結婚しよう、ナマエ」
その言葉を受けた彼女は、その瞳を大きく見開いてぽろぽろと涙を零し始めた。泣くほど嬉しかった、って受け取っていいんだろうか。きっといいはずだが……まだ彼女から返事をもらっていないから、何とも言えない。
「なぁ、返事。聞かせてくれね?」
「……もちろん、はい、だよ。ありがとう、隆くん。私、今凄く、すごく嬉しいっ……」
その言葉の後、彼女は小さく嗚咽を漏らしながら更に涙を零した。オレは彼女の返事を聞いてようやく安堵し、小さく息を吐いた。その後、ぽろぽろと綺麗な涙を流す彼女の元へ行き、視線を合わせるために少し屈んだ。
「泣き顔も可愛いけど……オレとしてはそろそろナマエの笑った顔が見たいな」
彼女の左手をそっと取る。そして机の上に置かれた小箱の中にまだ収まったままの指輪を空いているもう片手で取ると、彼女の左手薬指にそっと嵌めた。そして彼女の瞳から未だ少し流れている涙をそっと親指の腹で拭い、未だ涙で潤んで今にも零れ落ちてしまいそうな彼女の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「これからも末長く宜しくな。オレの奥さん」
「……はい。末長く宜しくね、私の旦那さん」
彼女は赤い目元を優しく歪めて微笑む。それが可愛くて愛おしくて、オレはそっと彼女の唇にキスを落とした。