寒空の下、ひとり
それはとても寒い冬のある日の夜。吐く息は雪のように真っ白で、ふわふわと宙に浮かんでは消える。どこを見ても冷たく感じるような静まり返るコンテナ置き場に一人の少女がいた。
彼女の名前はミョウジナマエ。どこにでもいる女子高校生だ。
なぜ彼女がこんな場所にいるのかというと、この場所は彼女の秘密の場所≠セからだ。
一人になりたい。静かな場所にいたい。誰とも会いたくない……そう思った時、彼女は必ずここに来ていた。
ここを見つけたのは本当に偶然だった。学校の帰り道にちょっと寄り道した時に見つけたフェンスの穴を越えた先、そこがこのコンテナ置き場の一角だったのだ。
その日以来、彼女はここに一人でやってきてはぼぅっと海を眺めたり、音楽プレーヤーで曲を聴いたり、と一人で気ままに過ごしていた。
ここにはあまり人はやってこない。おそらくコンテナ置き場の中でも隅の方だからだろう。だからこそ、彼女はここにちょこちょこ足を運んでいた。
ここなら誰もいない。そう確信できたから。
だがその日の夜を境に、その状況は一変した。
「誰……?」
事件か事故か。何か警察沙汰になるようなほど大きなことが起こった影響で、しばらくこの場所に来れなくなっていた彼女が久々に足を運ぶと、そこには既に先客がいた。
冬の月を思わせるような綺麗な銀の髪に浅黒い肌。透き通った宝石を彷彿とさせるような大きな紫の瞳。
まるで同じ人間とは思えないほどの綺麗な見た目をした、彼女と同い年くらいの青年が一人、重たい
「オマエ、誰?」
彼女の視線に気付いたのか、青年が彼女の方を向いてそう言った。
直接向けられた青年の瞳はとても冷たい瞳だった。それこそ鉱物のような冷たく硬く誰も受け付けない――そんな瞳だった。
そんな瞳を今まで向けられたことのなかった彼女は、あまりの冷たさに思わずヒュッと小さく喉が鳴った。
「なぁ、聞いてる?」
青年がもう一度声をかける。その声色すらも冷たくて、彼女はただただ青年を見つめることしかできなかった。
声を出そうとしても一言も出ない。まるで全身が凍りついてしまったようだった。
「……黙ってねェでなんか言え」
青年が苛立った声色でそう言った。
「……ミョウジナマエ、です」
「名前なんて聞いてねェけど」
「いや、えぇ……」
◆◆◆ ◇◇◇
青年は黒川イザナ≠ニ名乗った。
彼は多くを語らなかったが、何かしらの事情があるのだろうと察した彼女は、逃げたい気持ちを抱きつつもそれを上回る彼への興味により、その場に留まっていた。
「オマエ、オレのこと怖いんだろ? なんで逃げねェの?」
「えっと……」
「……別に居る分には勝手だけど。オマエがオレの機嫌を損ねるようなことをしない限りはな」
「そうですか……」
「まぁでも、どうせ居るなら退屈凌ぎの相手くらいはしろよ」
「相手……って、何すればいいんですか?」
「なんか適当に話せ。でも面白くねェ話はするな」
つい数分前に出会ったばかりだというのに、理不尽だと言いたくなるような彼の言動に彼女はここに留まったことを少しだけ後悔した。
彼女は必死に頭を回転させ、彼が面白い≠ニ思ってくれそうな話題を探した。だけど出てくるのはどれもこれも変わり映えしない日常の一片ばかり。
それもそうだ。冒頭でも書いた通り、彼女はどこにでもいる普通の女子高生。毎日何かしら事件が起きるなんてことはなく、ただただ変わり映えしない日常を過ごしているのだから無理もない。困り果てた彼女は、思い切って彼に面白い話とはどういうものか≠直接聞いてみることにした。
「……イザナさんの言う面白い話≠チて、例えばどういうのですか?」
「イザナでいい。その呼び方は気持ち悪ィ。あとその口調も。普通にしろ」
「……分かった。それで、例えばどういう話?」
「どっかのチームを潰したとか、カチコミ行ったとか、そういう話」
「いや、ただの女子高生に何を求めてるの」
「つまんねぇヤツだな、オマエ」
「……ごめん」
「謝んな、うぜェ」
沈黙。
彼は彼女の隣に立ち、ただ黙って遠くの光を見つめていた。冷たい海風が二人に吹き付ける。その冷たさに思わず彼女は肩をすくめ、首に巻いていたマフラーに顔を埋めた。
ちらりと隣に視線をやると、とても暖かそうとは思えない格好をしている彼は顔色も表情も一つ変えずに立っていた。
「イザナ、そんな格好で寒くないの?」
「あ? 別に」
「凄いね」
「別に大したことねェだろ」
「私からしたら凄いよ。私、寒さに弱いからこれだけ着込んでもまだちょっと寒いんだ」
「ならこんなところに来なきゃいいだろ」
「それもそうなんだけど……。でも、ここが一番落ち着くところだから」
「……ふぅん」
その日はそこで二人は別れた。以降二人は度々この寒いコンテナ置き場で会うようになった。そして会うと、彼女は必ず彼に温かいモノを差し入れた。
ある日は近くの自販機で買った熱々の缶のココアを、ある日は通りかかった販売トラックで買ったホカホカでほくほくの焼き芋を。それらを彼女から差し出された彼は、少し顔をしかめながら「要らねェ」と断っていた。だが、その度に彼女が少し眉を下げたところを見た彼は今日初めて、不服そうな顔をしながら彼女の手からココアの缶を奪った。
カシュッと音が鳴ってプルタブが開く。そこからゆらゆらと立ち上る湯気の白さが今の寒さを示していた。
「……甘ェな」
「もしかして甘いの嫌いだった?」
「別に」
「そう」
二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに冬の海を見つめていた。彼と会うようになって数日経ったが、彼女は未だに彼のことを名前以外まだほとんど何も知らない。強いて言えば、最近ようやく彼が着ている重たい赤銅色の変わった服が、巷でたまに耳にする暴走族≠ェ来ている特服というものだということを知ったくらいだ。
彼女は隣に立っている彼を控えめに一瞥する。まだ数日程度の仲だが、やはり気になるものは気になるし、聞いてみたい気持ちがどんどん湧き上がってくる。それならば、と彼女は意を決してずっと聞いてみたかったことを彼に聞くことにした。
「イザナはさ、なんでここにいるの?」
「……別に、なんでもいいだろ。オマエには関係ねェことだ」
「関係は……確かにないと思うけどさ。同じ場所で会う同士だし、詳細にとまではいかずとも知りたいとは思うよ」
イザナは彼女の言葉を受けた後、残っていたココアを全て飲み干して真っ直ぐ前を見つめた。その視線は一切彼女の方へとは向けられない。それでも彼女は彼の言葉を待とうと思い、真っ直ぐ彼を見つめていた。
「……ここは、オレの夢≠ェ終わった場所だ」
「イザナの夢=H」
「あぁ。オレにはある夢があった。それを叶えるために戦力になるヤツらを集め、そして空っぽにしてやりたかったヤツが率いていたチームとここでやり合った」
彼の話の大半は彼女からしたら非現実的、それこそマンガの世界の出来事のように思えた。だけど彼の表情と声色から、それらは決して空想上の出来事ではなく、実際にこの場で起きたこと、現実の出来事であることがわかった。
「結果はオレたちの負け。そしてオレは――」
彼の口から放たれた三文字の言葉は、平々凡々で血生臭い暴力の世界とは無縁のところで生きてきた彼女に、大きな衝撃を与えた。それと同時に彼女は彼の正体≠ノ気づいた。
「その後のことは知らねーけど、多分オレ以外のヤツらは全員ムショに行っただろうな。んで、今もきっとムショの中」
彼は持っていた空のココアの缶をノールックで彼女に差し出した。差し出された缶をおずおずと受け取った彼女は、戸惑いを孕んだ瞳で彼を見た。その視線を受けた彼は、そこで初めて彼女の方を一瞥した。
「そんなビビんなよ。オマエにはなんもしねェしする気もねェから。……まぁ、そういうわけでオレはここにいる。これで満足か?」
「……話、してくれてありがとう。まさかそんな事情があるとは知らなくて、私、随分とひどい質問しちゃったね」
「気にすんな、別に構わねェ」
「そう……」
「……あ゙ーうぜェ。なんも関係ねェオマエがそんな辛気くせェツラすんな」
少し苛立った表情で彼はそう言ったが、声にはそこまで苛立ちはこもっていなかった。これは言うなれば不器用な彼の不器用な優しさからの言葉だ。
彼女は彼の言葉を受け、思わず言葉が詰まった。だけど言葉にこもっていた彼の優しさを感じ取ったのか、彼女は怯えることもなく言葉を発した。
「これはただの私の推測なんだけどさ。イザナが今ここにいる≠フは、きっと何か心残りみたいなものがあるから、なのかもしれないね」
「……そうかもな」
「私にはどうすることもできないし、これ以上深く聞くつもりはないけど……いつかその心残りが解消するといいね」
「……そうだな。いつか……」
彼はそこで口を閉じて彼女から視線を戻して前を向き、そのまま少し上を見上げた。彼から吐き出された白い吐息が寒空へと立ち上って消える。
彼女はそんな彼の横顔を見つめながら、彼の心残りが早く解消しますようにと祈った。
◆◆◆ ◇◇◇
約二年の年月が流れた。相変わらず彼女はこのコンテナ倉庫にやってきては彼と他愛もない話をしている。
彼の秘密≠知った日を境に、彼女の彼に抱く気持ちに少しずつ変化が起こっていった。その変化は彼にとっても、そして自分自身にとっても良くないものであると思いながらも、変化し大きくなる気持ちを止める術などなかった。
「なんだかんだ、イザナと出会って二年だね」
「オマエも、よく飽きずに二年もここに来るもんだな」
「なーに言ってんの。私がここに来ているのはイザナの会う前からなんだから、二年以上は余裕で経ってるよ」
「そーかよ」
「……今年は心残り、解消されそう?」
彼女が自身の隣に立つ彼にそう言葉を投げかける。この言葉は昨年も彼に投げかけていたものだったが、彼の回答は「まだだな」だった。
今年こそは解消されてほしい、と思うと同時に、今回も同じ回答であってほしいと願ってしまう自分がいることに気づいた彼女は、心の中で後者の願いを抱いた自分を責め立てた。
「……今年は、気流が変わった。何かが起こるだろうな」
「――そう。それならもしかしたら今年、ようやく解消されるかもね。心残り」
「……かもしれねェな」
彼の回答に彼女は酷く胸を痛めた。だがそれは抱いてはいけない感情を抱いてしまった自分が悪いのだと言い聞かせ、ヂクヂクとした胸の痛みを持ってきていたペットボトルのお茶で流し込んだ。
「ねぇイザナ」
「あ?」
「私、神様とかそういうのって全然信じてないんだけどさ。……またこうして、どっかで会えるといいね。それで、再会したその時はまたこうして友達になろうよ」
「カミサマとかは信じてねェくせに、生まれ変わりやら転生やらを信じてんのか? オマエ」
「あんまり信じてないよ。……でも、そういうのを信じたいなーって思うくらいはイザナのこと……好きなんだよ」
思わず口から溢れた言葉に彼女がハッとする。慌てて「友達として」と言葉を付け加えたが、それがあまりに不自然だったからか、彼は小馬鹿にするような表情を浮かべて彼女を一瞥した。
「ハッ。オマエも大概マヌケだな」
「なっ! いきなり人のことマヌケ呼ばわりは失礼じゃない?!」
「マヌケだろ。上手く隠していたならまだしも、細かいところから漏れてんだよ。詰めが甘いな」
「――っ! ……な、なんのことだか」
「……オレもカミサマだとか転生だとか、そういうのは一切信じてねェ。でも――」
ぶわりと秋の冷たい風が吹き付け、二人の髪をぐしゃぐしゃに揺らす。その強さと冷たさに彼女が思わず両手で顔を庇いながら目を細めて耐えている中、彼女の隣でほとんど姿勢を変えずにいた彼が口を動かした。
「――、――」
彼が何か言ったのは口の動きで分かったが、耳元で風がひゅうひゅう鳴っていたことと彼の声が小さかったことで、彼女の耳に彼の言葉が届かなかった。
風が止み、彼女が先ほどの言葉について聞いてみたが、彼は「教えねェ」の一点張りで頑なに先ほど言った言葉について教えてはくれなかった。
*〜*〜*
九月九日。その日彼女はバイトだったため、帰りが遅くなっていた。そのためあのコンテナ置き場に寄るのはやめようかと考えていた。しかしなぜか今日に限って彼女の直感と本能が「早くあそこに行け」と叫ぶため、悩んだ結果、彼女はコンテナ置き場に向かうことにした。
「で、来ちゃったけど……」
いつもイザナと会っていた場所までやってきた彼女だったが、いつもあるはずの彼の姿がない。人工的な灯りと月明かりの二種類の明かりがあるのに、そのどれもが彼の姿を照らし出してくれていない。
「イザナ……?」
不安が過ぎる。怖くなった彼女は、慌ててあちこちを探し回った。死角になっているところも、普段はあまり行かないところも、くまなく探した。それでもイザナの姿はどこにもなかった。
まさか、と思った彼女が、乱れた呼吸のままいつも二人でいた場所へと戻る。まさか、別れも言えずに彼はいなくなってしまったのだろうか。心残りが解消されて、そして――
「どうしたんだよ、そんな荒い息して。誰か探してンのか?」
「イザナっ!」
彼女の目に涙が滲み始めた瞬間、タイミングを見計らったかのように彼女の後ろから声がした。振り返ると、そこには彼女がついさっきまで必死に探していたイザナの姿があった。
彼の姿は逆光のせいか、影のように真っ黒だった。見える色は風になびき光を帯びて煌めく銀髪くらいだ。
「ここに来てもイザナがいなかったから、私、もしかしてって思って……」
「……オマエの直感は間違ってねェよ」
「え?」
「今日だ。……そんな気がする」
彼の表情は彼女からは全く見えなかった。声はいつも通りのはずなのに、どうしてかどこか寂しげで、でも同時にスッキリしているような感じもする。
彼の短い言葉を聞いた彼女は、全てを察した。この長くも短かった彼との関係は、今日、終わるのだ。彼女の中で様々な感情が湧き上がって混ざり合いそして暴れた。言いたい言葉が次々に溢れて互いにぶつかり合っているせいで、中々言葉が出ない。
顔の見えない彼は、真っ直ぐ彼女の方を見て彼女の言葉を静かに待っていた。
「……そっか。よかったね、イザナ」
絞り出した声はか細く、冷たい風にかき消されてしまいそうなくらいの音量だった。それでも彼はその言葉を聞き漏らすことはなかった。
彼はふぅ、と小さく息を吐いた。白い吐息が風に溶けていく。
「ナマエ」
初めて彼がナマエのことを名前で呼んだ。今までずっとオマエ≠セったというのに急に名前で呼ばれた彼女は驚いて目を見開いた。それと同時に確信した。
今日でイザナと会えるのは最後になるのだ、と。
「オマエの話はいつも変わり映えしなくてつまんなかった」
「なにそれ。ひどいなぁ」
「それでも、話してるオマエは見てて飽きなかった」
「……私、そんなに面白い話し方してたつもり、なかったけどなぁ……」
「この二年間、あっという間だった」
カツカツ、と踵を鳴らしながらイザナが彼女の元へと歩いていく。やがて軽く手を伸ばせば届くくらいの距離までやってきた彼は、静かに自身の片手を彼女に伸ばした。
「なんだかんだ、楽しかったぜ。ナマエ」
「……最後にそれ言うのは、ずるいんじゃない?」
「ズルだろうがなんだろうがどうだっていい。オマエがオレのことを忘れられなくなるなら、それで」
伸ばされた彼の手が彼女の頬に触れる――が、その手は彼女になんの感触も感覚も与えなかった。
彼は彼女と出会った時から既に死んでいた。そのため、今彼女の前にいる彼はいわゆる幽霊≠ニいうものだった。だから生身の人間に触れることができないのだ。
彼の口から「自分は既に死んでいる」と聞いていたため、彼が幽霊であることも、それ故に自分に触れられないことも分かっていた。だがそれを理解した上でも彼が自分の頬に触れようとしたことで、ついにその時≠ェ来てしまったのだと確信し、堪えていた涙が一気に溢れて彼女の頬を次々と伝っていった。
「忘れンなよ」
「忘れられるわけ、ないじゃん……! ずっとずっと。私がお婆ちゃんになっても、ずっと覚えててやるから。例え後になってイザナが忘れろ≠チて言っても、絶対に忘れてなんかやらないから……!!」
「ハッ、上等だ。これで忘れてたら、覚悟しておけよ」
「上等だよ。でも、イザナも忘れないでよね。私のこと」
「……当たり前だ。オマエみたいなヤツ、忘れられるかよ」
一拍の間。
静かに言われた短い別れの言葉の後に、温もりも存在もないイザナの手が彼女の頬から離れる。それが別れの合図だと察した彼女が、彼に手を伸ばそうと片手を少し持ち上げた。しかしその手は彼のところへ伸びる前に降ろされ、元の位置に戻った。
引き止められるわけがなかった。彼女はこの二年あまり、ずっとイザナのことを見てきていた。遠くを見つめていた彼を、寂しげな表情をした彼を、陰の落ちた辛そうな彼を、ずっと隣で見てきたのだ。
「イザナ!」
自身の前で踵を返し、どこかへと歩いていく彼の背に彼女が言葉を投げた。彼の歩みが一瞬止まった。
視線は交わらない。顔すらも合わない。ただ、どこか遠くへ行こうとしている彼に彼女は続けて言葉を投げた。
「またねっ!!」
そう言って彼女は大きく手を振った。それに気づいたのか、彼は彼女に背を向けたまま静かに片手を肩あたりまで上げ、ゆらゆらと小さく左右に振った。
寒空の下、ひとり。残された彼女は優しく微笑みながら涙を流していた。