あなたの涙は私が拭いましょう
出会った時から、彼は愛を知らないようだった。
「うるせェ。何が愛してる≠セ」
彼に愛を伝えれば、返ってくる答えは決まってこうだった。それでも私は今日も変わらず彼に愛を伝える。
「愛してるよ、イザナ」
彼の生い立ちのことは、彼の腹心のような立場にいる鶴蝶から少しだけ教えてもらった。だから私は所詮その程度のことしか彼を知らない。私は彼からしたら部外者≠ノすぎない。
それでも私は、この短い人生の中で初めて心をごっそり奪われた彼のことが大好きだし、愛している。それが私の身勝手なエゴだとしても、押し付けにすぎないとしても、彼が受け取ってくれなくても、応えてくれなくても。それでも、私は良かった。
私はきっと、イザナに出会って初めて心から人を好きになることを知った。そして今は心から人を愛すことを知った……と思う。
「また、言ってたのか」
「あ。鶴蝶、おかえり」
少しだけ苛立ったイザナが部屋を出て行ってしまい、ぽつんとひとりで部屋にいた私に声をかけてきたのは、トレーニング≠ゥら帰ってきた鶴蝶だった。
鶴蝶は私の向かいに腰掛けると、何とも言い難い目で私を見た。うん、何となくだけど彼の考えてることは分かる。それでも私は何を言われようとやめないと思うよ。
「ナマエ、お前はどうしてイザナのことをそこまで好きになったんだ?」
「え? うーん……どうしてだろう。でも初めてイザナと出会った時に心を奪われちゃったから……多分その時に好きになったんだと思う」
「一目惚れ、ってヤツか」
「うん、そう」
「……外野のオレが言うのも何だが、毎日あんな……その、冷たくあしらわれてるだろ? オレも恋愛とかそういうのはよく分からないが、アレだけ冷たくされてもずっと好きだと言えることがオレには不思議なんだ」
「……そうだね、私も不思議だなって思うよ」
そう、不思議だと自分でも思う。きっと今までの私だったらきっと傷付いて、気持ちが冷めて、諦めて去っていただろう。でも今の私は違う。あれだけあしらわれても、それでもこの気持ちを言葉にして彼に伝えたいと思うのだ。たとえその言葉がどれだけ有り触れて、耳にタコができるほど聞いた言葉であろうと。
力も何もない私が持っているのは、彼への、イザナへの愛だけ。ならば私はそれを精一杯伝え続けたいと思った。
彼だって一人の人間としてこの世に生を受けたのだ、愛される資格だってあるし愛を受ける権利がある。……これもまた私の個人的な考えだしエゴだけど。
「でもね、私はどれだけあしらわれてもイザナのことが大好きだし、愛してる。イザナの過去のことはよく知らないけど……イザナもまた、誰かに想われ慕われていて、そして愛されていい人なんだって、伝えたいの」
エゴだ。そう、これは完全なるエゴ。身勝手で自分勝手なもの。それでも私は、彼に一人ではないことを、自分もまた誰かに愛される人間なのだと、少しでもいいから知ってもらいたかった。
現に今目の前にいる鶴蝶もそう。鶴蝶もまた、イザナのことを心の底から慕っているからこそ、今もここにいて彼に着いて行こうとしている。他の天竺の幹部の人たち、確かそう……極悪の世代? と呼ばれる人たちもそうだろう。
皆彼を慕っている。それは時たま話をするだけの私であっても分かった。だけど彼はそれらを否定する。認めないのだ。
「鶴蝶も、他のえっと……極悪の世代? の人たちも、皆イザナのことを慕ってる。だからこうしてイザナの元に集ってる。だけどイザナはきっとそれを認めない」
「……そうだろうな」
「私は少しでもいいから、イザナにそういうのを受け取らずとも見てほしいなって思うんだ。慕っている人たちの感情を、少しだけでも見てほしい、知ってほしい。……なんて、私の身勝手な気持ちだけどさ」
鶴蝶は黙って視線を僅かに下に下げた。これは困っている時に出る仕草だ。
誰から見てもただの部外者で、戦力にも何にもならない私が何を、と思っているかもしれない。でもそれは正しいことだ。何も知らない、何もできない部外者が不用意にトップの思考などを邪魔することをするなんて、身内からしたら到底許せるものではないだろう。
「……近々、大きな抗争が始まる」
「そう……」
「オレたちの近くにいるのは今まで以上に危険だ。だから抗争が終わるまではオレたち天竺に近づくな」
「……分かった。邪魔にならないようにするね」
「抗争が終わったら連絡する。それまでは、安全なところでイザナの帰りを待っていてくれ」
「うん。イザナのことを迎える準備、しておく。良ければ鶴蝶たち皆のことも、迎える準備をしておく。皆はイザナの大切な――ごめん、これは流石に私が軽率に言っちゃいけないことだね」
「……ありがとな、ナマエ」
「うん。……抗争、気をつけてね。無事に帰ってきてね」
「あぁ」
* * *
鶴蝶から抗争の話を聞いてからしばらく経った。抗争が行われる日が決まったと鶴蝶からメールで連絡をもらった私は、その日は家から一歩も出ずに携帯を常に持って連絡を待っていた。
怖かった。イザナが、皆が、ちゃんと帰ってきてくれるのか分からなかったから。抗争の相手のことは知らないけど、イザナも皆もとても強いことだけは知っているから、きっと無傷でなくともちゃんと帰ってくると信じよう。そう自分に言い聞かせた。
それでも、この胸の中に生まれた恐怖は消えてくれなかった。
「……イザナ」
自室で一人、祈るようなかたちで携帯を握りしめてうずくまる。今日はいつになく時の流れが遅く、時間を潰そうと何かをしようとしたが抗争とイザナのことが頭から離れなくて集中ができなかった。
それでも時は進み、今は深夜。だが携帯は一向に光ることも鳴ることも震えることもしなかった。
「お願い……」
その言葉にはたくさんの思いが込もっている。果たしてその込められた言葉のうち幾つが叶えられるのかは分からない。でもできれば全て叶って欲しかった。
神様がいるのならば、今がその威光を示すべきではないか。力を示して無神論者に神はいるのだと証明すべきではないか。なんて理不尽な怒りにも似た思いが頭の中を駆ける。もう神であろうと何であろうといい。早く抗争が終わって、イザナや皆が無事だという連絡が来てくれたらそれでいい――。
その時、家の外で聞き慣れない音がした。
「バイク……?」
気になってカーテンが閉められた自室の窓から下を見下ろすと、見慣れない金髪の人が大きなバイクに跨っている姿が見えた。
誰だろう、と見下ろしていると視線に気づいたのか、その金髪の人が顔を上げて私の方を見た。暗いので顔があまりよく見えない。でも力強い視線であることだけは分かった。
再びバイクをふかす音が響く。多分これは私を呼んでいるのかもしれない。私は慌てて服を着替え、携帯だけを引っ掴んで自室を飛び出した。
「オマエがナマエ?」
転げ出るように玄関を飛び出すと、金髪の男の子がそう聞いてきた。あれ、なんでこの子私の名前を知ってるんだろう。会った覚えもないし、もしかしてイザナか誰かの知り合いなのかな。
「はい、私がナマエです」
「……後でちゃんと家まで送るから、今からオレと一緒に来て」
薄暗い中でも分かる真っ直ぐで力強い、有無を言わせない視線。思わず息を呑んだ。その視線があまりにもイザナと似ていた。
初対面で名前も何も知らない人なのに、その視線を受けてしまった私は、ただ頷いて彼の元に行くことしかできなかった。
「これ、被り方分かる?」
「ごめんなさい、バイクの後ろに乗るのもヘルメットを付けるのも初めてで……」
「分かった。じゃあオレが付ける。後ろに乗ったらオレの腰にちゃんと掴まって。ちゃんと掴まってないと危ないから」
「分かりました……お願いします」
彼は一度バイクを停めて私にヘルメットを被せると、慣れた手付きで顎下のベルトを締めた。「キツくない?」と聞かれた私が「大丈夫」と答えると、彼はバイクに乗り直して後ろに乗るように、と後ろに視線を投げた。
おそるおそる彼の後ろに跨り、彼の指示に従って両サイドにあるバーに足をかけた。私が後ろのシートに座ったことを確認した彼は、私の手を掴んで自身の腰に持っていき「しっかり、掴まってて」と言った。私は少し強めに彼の腰に腕を回して抱きつくように掴まると、彼が一度バイクをふかし「少し飛ばす」と言ってバイクを発進させた。
彼は宣言通りかなり早いスピードでどこかに向けてバイクを走らせていた。
彼の後ろに乗る時、彼が着ていた服の後ろや腕などに金糸で字が書かれていたあたり、きっと彼も暴走族の一人なのだろうということは何となく予想できていた。だからきっと、彼からするとこのスピードはまだ遅い方なのかもしれない。
しかし、人生初のバイクである私にとっては恐怖心がどんどん膨れ上がるくらい早いスピードだった。
「着いた。……大丈夫?」
「は、はい……何とか……」
怖すぎた私は彼に抱きついて目を瞑っていた。そのため彼がどこを走りどこに着いたのかが全く分からなかった。
彼の言葉を聞いてようやくゆっくり目を開くと、そこは大きな病院の駐車場だった。
「あの、ここって……」
「病院」
「そうですね。でもどうしてここに連れてこられたんでしょうか……」
「……ここにイザナが運ばれた。あと、カクチョーってヤツも」
彼の言葉を聞いた私は思わず目を見開いた。イザナと鶴蝶が運ばれた? この病院に? どうして?
途端に嫌な予感が頭の中に溢れてきて嫌な汗が噴き出てくる。そんな、そんな……。
「オレは行けない。だからここから先はオマエ一人で行って」
「……あなたは、理由≠知っているんですか」
「……」
「……もう一度聞きます。あなたはイザナと鶴蝶がここに運ばれた理由≠、知っているんですか」
彼は少し視線を下に下げ、黙っていた。
私は唇を噛み締め踵を返し、病院の夜間の出入り口へと走った。
嘘だと信じたかった。悪い夢だと思いたかった。だけど未だに私の携帯に誰からも連絡が来ないことが全てを物語っていた。
「こちらでお待ちください」
真っ赤に光る手術中≠フ文字が薄暗い廊下に浮かんでいる。近くの椅子に腰掛けた私は、ひたすら二人の手術が成功することを祈り続けた。
* * *
手術は意識が遠のくくらい長い時間行われていた。音もなくパッと赤いランプが消え、固く閉ざされていた扉が開く音がして、落ちかけていた意識が一気に覚醒した。
「あなたは?」
「二人の友人です。二人とも家族がいなくて、代わりに来ました」
「なるほど、そういうことでしたか」
「あの……手術は。二人の手術は、成功したんですか」
「はい。二人とも成功しました。ですがまだ油断はできません。二人とも出血量と傷が酷く、手術が成功したと言っても予断を許さない状況に変わりありませんので」
「そう、ですか……」
その後、私をここまで案内してくれたナースさんから「今日は一旦帰った方がいい」と言われ、私はナースさんから差し出された書類に自分の名前と携帯番号を書き、病院を出た。
外に出ると、暗かったはずの空が白み始めていた。どうやら本当に長い間手術が行われていたようだ。その空を見て私は大事なことを思い出し、走り出した。
「どうだった?」
私をここまで連れてきてくれた金髪の男の子は、来た時に停まった場所にバイクと共にいた。
「手術は成功しました。ですが、まだ予断を許さない状況みたいです。私は一旦帰りなさいと言われて戻ってきました」
「そっ、か……。ありがと、教えてくれて」
彼はそう言って力なく微笑んだ。
白んできたこともありようやく彼の姿をしっかり見ることができた。顔を見るにかなりボロボロで、微かな血の跡も見える。
ここで私の中に一つの仮説が生まれた。イザナたちが着ていた特服とは違う特服を着ていて、まるで喧嘩後のようにボロボロな顔。そして私がイザナと鶴蝶と関係がある人だと知っていること。つまり――
「あなたは今回の抗争の相手チームの人、だったんですね」
「……そうだよ。そしてオレがそのチームの総長」
「あなたが?!」
「なんだよ。意外?」
「意外というかなんというか……。まさか私のことをここに連れてきてくれた人が、抗争相手の、それも総長さんだなんて思わなくて……」
「そ。……オレ、イザナのこと助けられなかった。ごめん」
彼はそう言って悔しそうに、そして悲しそうに、唇を噛み締め頭を下げた。私は一瞬驚いたものの、その驚きを出さないようにその場で小さくゆっくりと呼吸すると、頭を下げている彼のすぐ前に立った。
「頭を上げてください」
彼はゆっくりと頭を上げ、私のことを真っ直ぐ見つめた。真っ黒なその瞳が揺れる。
私は彼の両手を取ってしっかりと握り、そして真っ直ぐ彼の瞳を見つめて口を開いた。
「私は抗争で何が起きたのかを知りません。でもあなたがそうやって責任を感じているところ、そして私をここまで連れてきてくれたこと。それらにあなたの誠意を感じました。……だから、大丈夫です。あなたがそんな泣きそうな顔をする必要もありません。私と一緒に二人が目覚めるのを信じて待ちましょう」
そう言うと、彼は一瞬目を見開いた後私の両手に握られていた手に、震えるほどの力を込めた。
彼はただの抗争相手のはずなのに、どうしてここまで感情が揺れているのか。どうして私をここに連れてきてくれたのか。私には何一つとして分からない。だけど彼も彼で二人のことをとても心配していることは確かなのは事実。だからそれで良しとしようと思った。
喧嘩だって熱くなりすぎてやりすぎることもあるのだと、イザナの側にいれば嫌でも分かること。
もし仮に彼がやりすぎてしまった≠スめに二人が病院に運ばれ、緊急手術を受けることになったのであれば、それは分かったその時に怒ればいいだけのこと。今目の前にいる彼は不安と自責を抱えているだけの子、そして二人の心配をしている優しい子だ。
なら同じ二人を心配する者同士、二人が目覚めることを信じて待てばいい。
「そうだ、まだあなたの名前を聞いてなかった。あなたの名前は?」
「マイキー。イザナから聞いたことねェ?」
「マイキー? ……あぁっ! そういえば前に一度だけ聞いたことがありますね。でもそれ、あだ名のようなものですよね? 確か名前は……えっと……」
「……万次郎。佐野万次郎」
「そう! 万次郎! そっか、あなたが万次郎≠セったんですね」
イザナが前に一度だけ万次郎≠ノ関する話をしてくれたことがあった。お世辞でもあまりいい話とは言えないものだったが、彼と深く関わりのある人であることは何となく分かったので、いつかその万次郎≠ニいう人に会ってみたいと思っていた。
「私、一度あなたに会ってみたいと思っていたんです」
「……ずーっと思ってたんだけど、その口調ヤダ。普通に話してくんね?」
「うーん、そう……。分かった、じゃあ普通に話すよ」
「ん。……でさ。イザナがオレのことどう話してたのかは知らねーけど、少なくともいい話≠ナはなかっただろ? それなのになんで会いたかったわけ?」
どうやら彼は自身がイザナからよく思われていないことを知っていたようだ。なんでだかは知らないけど。
そうであれば彼の疑問は当然のこと。イザナの傍にいた私が、自分をよく思っていないイザナから自分のことを聞いているとなれば、必然といい話ではないことが想像ついたのだろう。
「確かにいい話とはお世辞でも言えないものだったけど……でも珍しくイザナが名前を出して話していた人だったから、気になってたんだ。彼、普段自分の周りにいる人ですらあまり名前を呼ばないからさ」
「……オマエ、危機感がないって言われたことない?」
「言われたことないけど……」
「マジかよ。……まぁいいや。で、気になっていた万次郎≠ノ会った感想は?」
「うーん……。思っていたよりも厳つい人じゃなかったのと、優しい人なんだなって思った」
「なんだそれ。オマエ、どんなヤツ想像してたんだよ」
「なんかこう……すっごく厳つくて怖い人」
そう答えれば彼、万次郎くんはケラケラと笑った。万次郎くんはちゃんと笑える人なんだ。そう思ったらなんだか安心した。さっきまでは危ういくらい不安でいっぱいの顔をしていたけど、少し元気になっただろうか。
ひとしきり笑ったところで、万次郎くんはパチパチと瞬きをした後に「あっ!」という声と共に見開いた。結構表情豊かなんだなぁ。
「忘れてた! 乗って!」
「うわっ!」
万次郎くんが慌てた様子で私にヘルメットを投げ渡してきた。突然のことで驚いた私がそれを落とさないように必死にキャッチする。その間に万次郎くんはバイクに跨って「早く!」と私を急かした。
慌ててヘルメットを被り、付けたことのない顎下のベルトを付けようと頑張っていると、痺れを切らした万次郎くんが眉間に少しシワを寄せてバイクから降り、私の元へやってきた。
「ベルトの付け方、イザナから教えてもらわなかったのかよ」
「いやっ、だってイザナ、バイク乗ってなかったし」
「……できた。急ぐぞ」
万次郎くんは私の手を掴み、ぐいぐい引っ張って自身のバイクの方へと歩いて行った。そして先にバイクに跨ると、来る時と同じように後ろに視線を投げて「乗って」と言った。
「か、帰りはあんまり飛ばさないでくれると……助かるかな……」
「でも早く帰んねーと親が怒るんじゃねーの? オレはいいけど」
「あ……」
ここで私は、両親に特段説明もせず家を飛び出してきたことを思い出した。これは確かにまずい。本当に早く帰らなければ……。きっと遅くなればなるだけ両親の怒りゲージが上がっていくだろう。
「急ぎで、お願いします……」
「安全運転にはすっから、またちゃんと掴まっとけよ」
「うん。よろしくお願いします」
結果として私は両親にまぁまぁ叱られた。当たり前だ。だけど私が家を飛び出した時のその慌てっぷりや、昨日一日の私の様子を見て察していたのかもしれない。お叱りは思っていたよりも短い時間で終わった。
別れ際に連絡先を交換していた万次郎くんから『どーだった?』と一言だけメールが来ていたので、『叱られたけど、思っていた以上にすぐ終わったよ』と返信をした。
「イザナも鶴蝶も、大丈夫だよね……」
自室でベッドに転がり、天井をぼんやりと見つめながら呟く。二人とも喧嘩は強いし、それに比例して身体も凄く丈夫な人たちのはずだから、きっと大丈夫なはずと信じている。信じているが、でもやっぱりお医者さんのあの言葉を思い出すと不安が暴れ出す。
病院からの連絡が来るまで起きていようと思っていた私だったが、身体は限界を訴えていた。うつらうつらとしてきたと思ってから意識が落ちるまで、おそらく一分かからなかったかもしれない。私は気を失うように眠りに就いたのだった。
* * *
ハッと目を覚まして手に握っていた携帯を確認する。画面には不在着信を示す表示はなかったので電話はまだかかってきていないようだ。
電話をかけてくれるのはどちらかが目覚めた時だとあのナースさんは言っていた。電話がないということは、まだ二人は目覚めていないということ。私はもう一度携帯を手に取り、現在の時間を確認した。
「帰ってきてからまだそんなに経ってない、か」
時刻はまだ午前中。朝方に帰ってきたため時間はそこまで経っていなかった。
お医者さんたちから二人の容態とか、運ばれてきた時の状態などを聞いていないし、万次郎くんには聞きそびれた。……というより、あんな状態の人にそれを聞くのはいささか酷だろうと思って聞けなかった、というのが正しい。
再び携帯を枕元に置いて天井をぼんやりと見つめる。二人はいつ目を覚ますのだろうか。
「二人が早く目覚めますように……」
普段は全く信じない神様だが、今回ばかりはそんな神様に祈ることしかできなかった。
そこから昼が過ぎて夜が来た。夕食時になっても連絡は来ず、お風呂などを済ませた後も連絡は来ず、結局その日は寝るまで連絡が来なかった。
流石に大怪我して緊急手術をしたのだから、一日も経たずに目覚めるわけがない。次の日の朝、目覚めた私は自分にそう言い聞かせた。
何だかんだ学校を二日サボってしまった。上手く学校に話を付けてくれた両親には感謝しかない。しかし二日間の授業の遅れを取り戻すとなると少し大変だろうな。
二日振りの学校の制服に身を包み、カバンとコート、そしてマフラーを持ってリビングへと向かう。朝食を摂りながら朝の情報番組を見ていると、天気予報士のお姉さんが「今日の関東一帯は一段と冷えるでしょう」と、軒並み一桁の気温が並ぶ日本地図の隣で言っていた。寒いのか、嫌だなぁ。
「いってきまーす!」
履き慣れたローファーを履き、外へと出る。玄関の扉を開けたらぶわりと冷たい風が吹き付けてきて、思わず肩を縮こまらせた。本当に今日は寒いんだ。学校に行くのが嫌になる。
家から学校まではそう離れていない。歩いて五分もすれば着くところだ。だけど今日は一段と寒いから歩くのが少し遅くなる。
今日は病院から電話がかかってくるだろうか、と考えながら学校へ向かっていると、同級生の友人が「おはよう!」と言って駆け寄ってきた。
「二日も休んでたけど大丈夫?」
「体調不良だって先生が言ってたけど」
「うん、大丈夫。最近急に寒くなったから、ちょっと身体が付いていけなかっただけみたい」
「そっかそっか。まぁでもあんま無理しちゃダメだよ?」
「病み上がりだしね。あっ、そうだ! 休んでた分のノート、後で見せるね」
「ありがとう! 助かるよ」
二日振りの学校だったからか、下駄箱から教室に入るまでに出会った同級生たちに何度も声をかけてもらった。皆は体調不良で休んだと聞いているようだから体調を気にかける言葉をかけてくれるけど、実際はただのおサボりのため、少し罪悪感を覚えつつもお礼と共に「大丈夫だよ」と返していた。
午前中の授業は滞りなく終わり、昼休みとなった。二日振りに友人と一緒に教室で昼食を摂っていると、机の上に置いていた私の携帯に着信が入った。
慌てて手に取り確認すると、待ち望んでいた病院からの電話だということが分かった。私は慌てて食べていたおにぎりを飲み込み、水筒の中身のお茶を一口飲むと、携帯を片手に教室を飛び出した。
「はい」
『ミョウジ ナマエさんですか? こちら――』
人のいない屋上の扉の前まで行き電話に出る。電話口にいるのは優しい声色のナースであろうお姉さんだった。
ナースさんの話によると、まだ目が覚めていないけど
「その……面会って今日からでも可能ですか?」
『はい、可能ですよ。何時頃お越しになられますか?』
「えっと……そしたら――」
* * *
今日は時間割的に午後の授業が一コマあるだけで終わるので、授業が終わったら即学校を出る。そして待ち合わせをしている万次郎くんと一緒に病院へ面会に行く。そのシュミレートを脳内でしながら午後一の授業を受けていた。
「では、本日の授業はここまで」
その言葉と同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。今日の日直が少し気怠げに号令をかけた。いつもなら気にならない些細なことだが、今日に限ってはかなり急いでいるので「早くしてくれ……!」と心の中で叫んだ。
「「ありがとうございました」」
教室内の空気が授業中のものから一気に放課後特有のゆるくだらりとした空気に変わる。私は急いで机の横にかけていたカバンを机の上に置くと、机の中に入れてある教科書たちをカバンの中に少し乱暴に詰め込み、チャックを閉めた。
「ナマエどうしたの?」
「もしかしてバイト?」
「ううん、違う。でも大事な用事。またね!」
友人たちに簡素な挨拶をし、カバンを肩にかけて小走りで教室を出る。万次郎くんとの待ち合わせの場所は、学校から目と鼻の先にあるコンビニ。走って行けばものの二、三分で着くだろう。
教室から廊下へ流れ出る人たちの合間を縫うように抜け、階段を転げ落ちんばかりの勢いで駆け降り、下駄箱へと向かう。
「スニーカーにしとけばよかったっ!」
どうして今日に限ってローファーで来てしまったんだろうか。いくら履き慣れているとはいえ、ローファーで走るのは少し大変だ。走りにくいし足だって痛くなる。しかしあるのはローファーだけだ。一刻の猶予もないのだから、走りにくかろうが痛くなろうがこれを履いて全速力で走るしかない。
私はローファーを履いて走り出した。
「お、おまたせっ」
「お、来た。……走ってきたの?」
人の間を抜けながらひたすらに走ってコンビニに向かうと、一足先に来ていた万次郎くんがバイクに腰掛けて待っていた。
私が駆け寄ると、万次郎くんはこちらに軽く手を振った。走ってきたことで息も絶え絶えになっていた私は、それに一瞬だけ手を上げるだけの返答しかできなかった。
「そ、うだよ……。だって、イザナと、鶴蝶と……面会でき、るから……」
「でも面会の予約時間、もう少し先だろ?」
「それでも、だよ」
「……ま、とりあえず一旦落ち着けば?」
「……そうする。ごめんね、またせて」
私は呼吸の乱れと早鐘を打つ心臓を落ち着けるべく、その場でゆっくり深呼吸をした。着込んだ上に走ってきたことでじとりと汗をかくほど火照っている私の体に、冬特有の冷たく乾いた空気が入っては出ていく。それを何度か繰り返すことでようやく私の呼吸と心臓は落ち着きを取り戻した。
「お待たせ。行こう」
「ん」
「あ、そうだ。ヘルメットのベルトの締め方、教えてくれる?」
彼からヘルメットを受け取ったタイミングで、私はずっと言おうと思っていたことを言った。万次郎くんの後ろに乗るとなった時、毎度締めてもらうのは申し訳ないと思っていたので、このタイミングで万次郎くんに教えてもらおうと思ったのだ。
それにここで覚えておけば、仮に。もし仮に、イザナが乗るバイクの後ろに乗るとなった場合、彼の手を煩わせることがないと思ったから。……そんな未来が来るかは分からないけれど。
私の言葉を受けた万次郎くんは、私の被るヘルメットのベルトに伸ばしかけた手を止め、パチパチと瞬きをした。その後、小さく微笑んで「オレはいいけど、多分それはオレがやっちゃダメなやつだからムリ」と断られてしまった。
「どういうこと?」
「どうもこうも……。オマエは
「えっ。でも――」
「ま、本当はこーしてるだけでもきっと
その言葉の後、万次郎くんは慣れた手付きで私のヘルメットのベルトを締めた。私は疑問を抱きつつも万次郎くんの後ろに乗るためにカバンをリュックのように背負い、後ろに跨った。
「ちゃんと掴まってろよ」
「うん。今回もお願いします」
「……こーしてるの、
「わかった」
* * *
病院に着き、受付に向かう。受付の人に面会のことを話すと、HCUのナースセンターの場所を教えてもらった。
「あとはここを右に曲がれば……あった! あそこだ」
今日は万次郎くんも一緒に来てくれた。最初は渋っていたのだが、必死の説得により来てくれたのだ。
HCUのナースセンターで面会のことを話すと、おそらくお昼の電話口にいた人であろうナースさんがやってきて病室まで案内をしてくれた。
「どうぞこちらへ。面会時間は十分です」
ナースさんが案内してくれた病室には、あちこちを包帯で巻かれ、ドラマなどでよく見る透明度のある薄緑色の酸素マスクで口から鼻にかけてを覆われた二人が、真っ白なベッドの上に寝かされていた。
「今は少し容態が安定していますが、どうか患者様の身体などには触れないようお願いします」
「……は、い」
ナースさんはその言葉の後、静かにその場を去っていった。残された私と万次郎くんはその場に立ち尽くし、ベッドに寝かされ規則正しい呼吸を繰り返す二人の姿を見つめることしかできなかった。
「……イザナ、鶴蝶」
思わず口から二人の名前が零れた。こんなにもボロボロの姿を見るのは初めてで、二人のベッドの横にある心電図の音と、酸素マスクから聞こえる呼吸音らしき音だけが二人の命の存在を証明しているように思えた。
「……あの時」
ずっと黙っていた万次郎くんが不意に口を開いた。
「あの抗争の時、天竺はオレたち東京卍會に負けた」
万次郎くんが静かに話し始めたのは、ずっと聞くことができなかったあの日の抗争≠フことだった。
あの抗争でイザナが率いる天竺は、万次郎くんが率いる東京卍會というチームと戦い、最後に総長同士、つまり彼と万次郎くんの一騎討ちが行われた。
二人の力はほぼ互角だったものの、結果としては万次郎くんがイザナに競り勝った。だけどその時点で負けを認められなかった彼が銃を取り出し、万次郎くんに向けたらしい。でもそれを鶴蝶が銃を叩き落とすことで止めた。
だが叩き落とされた銃で鶴蝶が撃たれた。鶴蝶が再び撃たれそうになった時、イザナが鶴蝶を庇うように鶴蝶を突き飛ばし前に出て三発、銃弾を撃ち込まれてしまったそうだ。
「そう……。そんなことが、あったんだ」
「そこで抗争はオレが解散を宣言して終わりになった。本当はオレがその場に残ろうと思ったけど、天竺の幹部たちが残るって言ってきて、オレたちのチームはその場を後にしたんだ」
「……だから、皆から連絡がなかったんだね」
「
微かに震えた声。きっと不安なのだろう。
そうだよね、だって万次郎くんは目の前で人が死に近づいていくところを見てしまった。きっとそれは、私やイザナよりも下の年齢であろう万次郎くんには衝撃が大きかったはずだ。そしてその衝撃と恐怖は、私では到底計り知れないほどの大きさのはず。
「……大丈夫。二人と喧嘩したなら知ってるでしょう? 二人がどれだけ強いか。だから今は信じて待とう。それしか今の私たちにはできないから」
「……あぁ。そう、だな」
それから少しして面会時間の十分が経ち、ナースさんが迎えに来た。私たちは未だ目を開けない二人に「またね」と声をかけ、その場を後にした。
「ねぇ、万次郎くん」
「なに?」
「お腹、空かない?」
* * *
万次郎くんを誘ってやってきたのは、病院近くのファミレスだった。先月のバイト代をあまり使っていなかったこともあり、少しお金に余裕があったため、私の奢りでファミレスに寄ることにしたのだ。
「好きなのをどーぞ。……あ、でもあんまり多いと流石に厳しいので、多くても二、三品にしてくれると助かるかな」
「なんでもいいんだよな?」
「いいよ」
「じゃあ――」
それぞれ注文する料理が決まったため席に設置されたベルを鳴らす。少しして男性のウェイターさんが注文を取りにやってきた。
注文を終え、お互い頼んでいたドリンクバーを取りに行く。私はアイスティーを、そして万次郎くんはオレンジジュースをグラスに注いだ。
「ずっと気になってたことがあったの。聞いてもいい?」
「ん、いーよ」
「イザナと万次郎くんは、どういう関係なの?」
「……イザナは、オレの――兄貴だよ」
彼は一瞬何かを言いかけたが、それを飲み込みそう言った。兄貴=c…そうか、彼も独りではなかったのか。そう思ったら物凄い安心感が私を襲ってきて、思わず涙が零れた。
「なんで泣いてんの?」
「ごめん、なんか安心しちゃって……。イザナは独りじゃなかったんだって思ったら」
「……
万次郎くんの言い方が少し気になる。どうして万次郎くんは「家族がいた」と言ったのだろうか。だって万次郎くん自身もイザナの家族≠フはずだ。それなのにまるで自分をイザナの家族≠ニ数えていないような、そんな言い回しだ。
「
彼のどこか寂しそうな口調と眉を下げた笑みを受け、私は何となく察した。あぁきっと、イザナは万次郎くんのことを家族≠ニ認めなかったのだ。万次郎くんは彼のことを家族≠セと思っていたのに、イザナは鶴蝶だけを家族≠ニし、自分に差し出された万次郎くんの手を払ったのだ。
――馬鹿だなぁ、本当に。
「やっぱオレ、次の面会からは行かねーや。送ってって言うなら送ってってやるけど、オレは外か中の待合席とかで待ってる」
「どうして?」
「……きっと
そのタイミングで注文していたフライドポテトが席に運ばれてきた。万次郎くんはついさっきまでの憂いを帯びた表情を元の表情に戻し、揚げたてのフライドポテトを食べ始めた。
「イザナはさ」
「ん?」
「イザナは、愛をよく知らないと思うの。自分が誰かを愛する時の愛も、自分が誰かから愛される時の愛も……。渡す愛も受ける愛もよく知らない。だから実際に愛を受けた時、どう受け取ればいいのか、どう処理すればいいのか、そういうのが分からなくて拒絶をしているんだと思うの」
そこで私はアイスティーをストローで一口飲み、フライドポテトを頬張りながら私の方を見ている万次郎くんを真っ直ぐ見た。
「と言っても、これはただの私の憶測だけどね。でもね、鶴蝶がイザナにとっての家族≠チていうのは私も納得できるの。だって彼、鶴蝶に対してだけ呼び方や対応が他の人たちと違ったから。彼は鶴蝶だけを下僕≠ニ呼んでた。私は二人の過去のことをよく知らないけど、きっとその呼び名は私たちの知っている下僕≠フ意味とは別の意味があるんだと思う」
二人の間には確かな主従関係のようなものがあったのは明白だった。だけどイザナが鶴蝶にだけ使う下僕≠ニいう呼び名には、言葉の本来の意味とは別に、二人の確かな絆を示すものではないかと思っていた。
万次郎くんから「イザナにとっての家族≠ヘ、カクチョーだけだった」という言葉を聞いた時、その情報がストンと私の中に落ちた。あぁ、だから彼は鶴蝶だけを下僕≠ニ呼んでいたのだ。彼が鶴蝶に対して使う下僕≠ノは家族≠ニいう意味もあったのだと、一人勝手に納得した。
でもずっと自分に付き従っていた鶴蝶が、自分にとっての家族≠ナあったと気づいたのであれば、彼はきっとこれから少しずつ変わっていくと思う。自分は独りではないのだと気づいたのだ、きっとこれから変わっていくはずだ。私はそう信じたい。
少しずつ変わって、やがて周りからの様々な愛、好意に触れられていけるようになって欲しい。そんな私の身勝手な願望も多少含まれていると思うが。
「最初はきっと、万次郎くんのことを受け入れられないかもしれない。でもどうか諦めないで欲しいの。鶴蝶も彼の家族だけど、あなただって立派なイザナの
「……でも
「そうかもしれないね。でもそれで万次郎くんはイザナのことを諦めるの? 家族ではない、って思うことにするの?」
「……しねーよ。オレはイザナのことを兄貴だって思ってるし、
「そうでしょ? ならこれからも一緒にお見舞いに行こう?」
そう言うと万次郎くんは小さく頷いてくれた。
◆◆◆ ◇◇◇
それから数週間が経ち、季節は冬から春に移り変わる境目となった。
私と万次郎くんはあの日から週に二、三回ほど一緒に面会に行った。相変わらず目は覚さないけど、お医者さんの話によると二人は快方に向かっているらしい。
「ごめんお待たせ!」
「おせーよ。何かあったんじゃないかって心配したじゃん」
「途中でお婆さんに道を聞かれちゃって……」
「……ま、何事もなかったならそれでいーけど。行くぞ」
「うん」
万次郎くんから投げ渡されたヘルメットを受け取り、頭に被る。流石に十回近く一緒に面会に行っているから、少しばかりベルトの締め方を覚えた。まだまだぎこちなかったり締め切れていなかったりするが、最初よりはずっとマシになったと思う。
「どうかな」
「んー。もうちょい締めた方がいい」
最後の調整をしてもらった後、こちらもまた少し乗り慣れた万次郎くんの後ろに乗って腰に腕を回す。当初から思っていたことだけど、万次郎くんって見た目の割に結構しっかりしてるんだよね。男の子って凄いなぁ。
「じゃ、行くよ」
「うん」
今日も二人でイザナと鶴蝶の面会へと行く。二人はもう少ししたらHCUから一般病棟に移るらしい。私としては一般病棟に移る前に目が覚めて欲しいところだけど、相変わらず病院から「二人が目を覚ましました」という連絡はない。
いつも通る道の信号に捕まってしまい信号待ちをしている時だった。私のカバンから突然微かな振動を感じた。ヘルメットをしているので音などはよく聞こえないため分からないが、おそらくこの振動の正体はカバンの中に入れている携帯だ。
「万次郎くん! あそこのコンビニに寄って!」
信号待ちの間に電話に出るのは少し怖かったので、私はこの信号の先すぐにあるコンビニを指差し、そこに寄ってほしいと万次郎くんに言った。万次郎くんは返事として頷いてくれた。
「どうした?」
コンビニの駐車場に停まってから万次郎くんが私にそう声をかけてきた。私は急いでカバンから携帯を取り出し、画面に表示されている不在着信を確認し、そして万次郎くんに見せた。
「さっき信号待ちしてた時、携帯が鳴った感じがしたんだけど出るに出れなくて。今確認したら病院からの電話だったの!」
「――! ってことはもしかして……!」
「うん、もしかしたら! 今折り返してみる!」
私は喜びと興奮で少し震える手で不在着信履歴の一番上にある電話番号に電話をかけた。数コール鳴り響き、電話が取られる音がする。
「あ、あの! 先ほどお電話をもらったミョウジですが――」
* * *
「イザナっ! 鶴蝶っ!」
折り返し電話で要件を確認したところ、私たちの予想が見事的中した。
『お二人の意識が戻りました』
その言葉を受けた時、私と万次郎くんは喜びのあまり目を見開き、その場でハイタッチをしてから抱き合った。全力のハイタッチによってジンジン痛む両手が夢ではないことを教えてくれて、私の目からは涙が溢れ出た。
すると、泣いた私に気づいた万次郎くんがバッと勢いよく私から離れると「泣くのはまだはえーだろ」とうっすら涙を浮かべた笑顔で言い、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
それからは安全運転で、でも飛ばせるだけ飛ばして病院に向かった。駆け込むように病院に入ってナースセンターに行けば、もう顔見知りになったナースさんが駆け寄ってきてすぐに二人の病室まで連れて行ってくれた。
「よかった……っ。本当に、本当によかった……!!」
「
数週間眠っていた二人は、ぼんやりとした瞳で私たちの方を見た。だけどイザナの瞳だけは、ぼんやりとしているはずなのにどこか鋭さもあって、「あぁ、私の知っているイザナの瞳だ」と思った。
「お二人とも、ずっとお見舞いに来ていたんですよ」
目が覚めた二人に、ナースさんがそう声をかけた。数週間使っていなかった喉からは上手く言葉が発せないらしく、微かに口を動かすだけだったが、鶴蝶が「ありがとう」と言っていたのはわかった。
対してイザナは黙ったまま私と、私の隣にいる万次郎くんに視線を向けるだけだった。
「もう少ししたら、リハビリも始まります。その頃には二人も多少喋ったり、指を動かす程度はできるようになると思いますよ」
「……二人のことを助けてくれて、本当にありがとうございます」
私はナースさんに頭を下げてお礼を言った。本当は二人の手術をしてくれた先生や、HCUで二人の担当をしてくれていた方々にもお礼を言いたかったけど、それは難しいことを分かっていたから、今目の前にいる、顔見知りになるほど私たちの対応をしてくれたナースさんにお礼を言ったのだ。
ナースさんは優しく微笑んで「お二人が患者様が目覚めることを信じてここに通っていたおかげでもありますよ」と返答した。
「あの、少し触れても大丈夫ですか?」
「えぇ、あまり乱暴にしたり、力を込めて握ったりしないのであれば、平気ですよ」
「ありがとうございます」
イザナと鶴蝶の身体からはすっかり包帯は取り去られており、今は少々血色の悪い腕が、点滴のために捲られた袖から見えていた。
私はまずイザナの手にそっと自分の手を重ねた。血色が悪いことで何となく察してはいたが、彼の手は私の手より少しだけ冷たかった。だけど確かな温もりも感じて、彼が今、ここでちゃんと生きているのだということをようやく実感できた。
「イザナ……おかえり」
イザナのぼやけた瞳を見つめてそう言うと、彼はほんの少しだけ眉を顰め、目を細めた。見慣れた表情をする彼を見て、生死を彷徨って帰ってきても彼は彼なのだ。それが何だか嬉しくて、涙が溢れた。
私は持ってきていたハンカチで涙を拭って笑った。きっとイザナのことだ、今の私の顔に対して「不細工」と言って鼻で笑うだろう。
その後、私は万次郎くんと入れ替わり、そのまま鶴蝶のところへと行った。そして先ほどイザナにしたのと同じように、血色の悪い手にそっと自分の手を重ね、「鶴蝶、おかえり」と言葉をかけた。鶴蝶はほんの少しだけ目元を緩め、ぎこちなく「ただいま」と口を動かした。
* * *
「二人って、いつ喋れるようになんだろーな」
「分からないけど……やっぱり一週間くらいはかかるんじゃない?」
「一週間、か……。なげーな」
「でも二人が目を覚ますまで、私たちは数週間待ったんだよ? それに比べたら早い方じゃないかな」
「……それもそっか」
あの後、ナースさんに「二人とも目が覚めて間もないので、申し訳ないですが本日の面会はここまででお願いします」と言われたため、仕方なく二人で帰路に着いた。
二人は明日にもHCUから一般病棟に移るらしい。ナースさんや先生方の粋な計らいで二人は同室の、それも隣同士のベッドになるそうだ。本当に良かった。
「次の見舞いさ、なんか持ってく?」
「まだ二人とも何も食べられないと思うし、手土産はもう少し後がいいんじゃないかな」
「そっかー」
病院のエントランスから外へ出て、万次郎くんのバイクが停まっている場所へと向かう。ふわりと吹く柔らかな春の風が、病院の敷地内で咲き誇る桜の花びらを攫って宙へと放り出す。放り出された花びらたちの舞を見ながら万次郎くんと二人でゆったりとバイクまで歩いた。
二人が春になったところで目覚めるなんて、まるで越冬した植物のようだ。なんて思ったのは秘密だ。でも生命の息吹を感じるこの頃に目覚めるのは、偶然にしてはドラマチックに思える。
早く元気になりますように――。二人がいるHCUの病室がある方を向いて、そう祈った。
◆◆◆ ◇◇◇
「おせェ。何してたんだよ」
「今日も来てくれてありがとな、ナマエ。それにマイキーも」
イザナと鶴蝶が目覚めて一ヶ月程経った。二人はまだまだ本調子ではないようだけど、会話をしたり、多少なら腕や手を動かすことができるようになっていた。そしてリハビリも開始していたので病室からの出歩きも車椅子に乗ってならできるようになっていた。
私と万次郎くんはいつものように二人のベッドの間に置かれた丸椅子に座って二人に声をかけた。
「仕方ねーじゃん。今日は受付が混んでたんだよ」
「ごめんね、遅くなって。でも今日も元気そうでよかったよ、二人とも」
「知るか」
「イザナも二人の見舞いを楽しみにしてたんだ。許してやってくれ」
「オイ下僕。何適当なこと言ってんだよ。殺すぞ」
「はいはい、そこまで。あんまりカッカしないの。傷に響くよ?」
「オマエもオマエだ。なんでよりにもよって
どうやらイザナの怒りの矛先は鶴蝶から私に切り替わってしまったようだ。筋肉量が落ち、少し細くなってしまった彼の手が私の腕を力一杯掴む。握力などもまだ万全には戻っていないので幾らかマシではあるものの、やはり痛いものは痛い。
「だって一緒に行く人、万次郎くん以外いないし。万次郎くんだってイザナと鶴蝶のこと、ずっと気にかけていたんだよ?」
「オレはそんなこと頼んじゃいねェ。それから、いつの間にそんな仲良くなってんだよ」
「そんな怒んなよ
「あ? テメェ……」
万次郎くんは楽しそうに笑っているが、イザナは今にも殴りかかりそうな勢いだ。この場をどうやって収めればいいのかと私が必死に考えていると、後ろから鶴蝶の声が聞こえた。
「あー……あのさ、マイキー。悪いが、オレちょっと外出たいから手伝ってくんねェか?」
「そんなのナマエがやれば――」
「万次郎くん、お願い。私はイザナの怒りを鎮めておくから。ね?」
「……仕方ねーな。いいよ、手伝ってやる」
「悪いな、助かる」
鶴蝶の見事な助け舟により、万次郎くんは鶴蝶と共に病室を後にすることとなった。私が鶴蝶の方を振り返ると、鶴蝶は一瞬こちらを見て口端を一瞬上に上げた。本当に気が利く子だ。
鶴蝶と万次郎くんが病室を出たことで、必然的に私とイザナの二人がここに残った。もちろん他のベッドにも患者さんはいるけれど。
「あんまり怒らないでよ、イザナ」
「……オマエも=A
「え?」
その声はあまりにも弱かった。弱くて、か細くて、消えてしまいそうにさえ思えた。
びっくりした私は、自分が腰掛けていた丸椅子をイザナのベッドの方へと引き寄せて座り直し、私の腕を掴む彼の手に空いている自分のもう片手を添えた。
「誰が万次郎くんのところに行ったのかは分からないけど、私はずっとイザナの傍にいるよ」
「……ハッ。口では何とでも言えるだろ」
私の腕を掴む彼の手の力が緩まった。私は彼の手の中から腕を抜き、そして彼の両頬を私の両手で包んで私の方を向かせた。
馬鹿だね、本当に。私はずっとずっと、イザナに心が囚われたままなのに。今更イザナ以外の人なんて見向きもできないのに。
両頬を包まれて私の方を向けられた彼の瞳には、不安と諦めの色が見えた。今までの私の言葉や、言葉に込めた想いが彼に一切伝わっていないのは分かっていたけれど、まさかこんなにも伝わっていないなんて。そして欠片も彼の心にも記憶にも残っていないなんて。
でも、伝わっていなかったのなら。心にも記憶にも欠片として残っていないのなら、また伝えればいい。
「イザナ。私はずっとずっと、イザナのことが大好き。愛してるんだよ」
「……そんなの、口でならなんとだって言えるだろ」
「ならこれからは行動でも示すよ。イザナにちゃんと伝わるように」
そう言って私は彼の薄くカサついた唇にそっとキスを落とした。ちなみに今までは彼に触れることなど一切なかったので、彼に触れるのはこれが初めてだ。そして何だったらこのキスは私のファーストキスでもある。
「愛してるよイザナ。今までも、そしてこれからも。イザナが死んでも私が死んでも、ずっとずっと愛してる」
イザナはほんの少し目を見開き、その宝石のようにキラキラと輝く薄紫の瞳を震わせた。少しは彼に私の気持ちが伝わった、ということなのだろうか。
私がそっと手を離し、彼の顔を解放する。その場の勢いもあって一連のことをしたけど、今になってだんだんと恥ずかしくなってきた。あぁ顔が熱い。恥ずかしくて彼の顔も見れないから、自然と顔を下に下げて両手でパタパタと顔を仰いだ。
「ナマエ」
彼の口から私の名前が呼ばれた。名前を呼んでもらったのなんていつ以来だっけ。いや、初めてかもしれない。
思わぬ出来事にびっくりしつつも、ゆっくり顔を上げた。視線の先には
彼には失礼だけど、彼がそんな優しい顔をするなんて初めてで。驚きもあったけど、こんな風に優しい顔ができるようになったのか、と思ったら勝手ながら凄く嬉しくて、どんな顔をすればいいのかもどんな言葉をかければいいのかも分からなくなり、変な表情のまま黙って彼のことを見つめた。
そんな私に、イザナはそっと片手を伸ばしてきた。伸ばされた手は私の頬を優しく包む。彼特有のほんの少しだけ低い体温を感じてなんだか泣きそうになってしまう。
「どう、したの……?」
黙ったままの彼に声をかける。彼は黙ったまま私の頬を包む手の親指の腹で優しく頬を撫でた。そして――
「やっと、分かった」
そう言って彼は私の頬から手を離し、私の後頭部に手を持っていくと、そのまま自分の方へと私の頭を引き寄せた。あっ、と思った時には既に彼の綺麗な銀糸のまつ毛と薄く伏せられた紫水晶の瞳が視界に広がっていた。
キスをされたのだと気づいたのは、彼の顔が離れてからだった。
「なっ、あ……」
「ふっ、マヌケな面だな」
イザナは小さく笑いながらそう言った。こういうところは本当に変わらない。でもそこもまた愛おしいのが事実。
「オマエがずっとオレの横でうるせェから、覚えちまっただろーが」
「どういうこと……?」
「……愛してる=Aナマエ。死んでもオレの傍から離れるな」
その言葉を受けた私は、身に余るほどの驚きと喜びで感情がぐちゃぐちゃになってしまい、ぐちゃぐちゃになった感情が涙となって止めどなく溢れ、流れ落ちていった。
「ったく……。オマエ、そんな泣き虫だったのか?」
「ちがっ……。いざなが、急にそんなこと、言うから……!」
私が必死に手で涙を拭っていると、その手をイザナが掴んだ。唐突に掴まれたことで固まった私だったが、涙が溢れ落ちるのは止まらず、なおも涙が頬を伝っていく感覚がした。
「これからオマエは全部オレのモノだ。だから髪の毛一本であろうと誰にも渡さねェ。それと、他のヤツの前では絶対泣くな」
彼が私の頬を伝う涙を指で拭った。その手があまりにも優しくて、胸がキュッと苦しくなった。
「そのぶっさいくな泣き顔も、オレだけに見せろ。……オマエの涙だってオレのだ。だからその涙を拭うのだってオレ以外はぜってェ許さない」
「私の涙くらい、私も拭っていいでしょう?」
「……仕方ねェな。トクベツに許してやるよ。でも、他のヤツらは絶対許さねェ。鶴蝶であろうと、
「分かった。じゃあイザナが泣いた時は私が涙を拭ってあげる」
「あ? オレは泣かねェよ。オマエじゃねェんだから。あぁでも――」
そこで彼は言葉を切った。そして彼の手がそっと私の顎を掬い、親指の腹が私の唇をなぞった。
「オレに触れることは、いつでもオマエにだけ許してやるよ。ナマエ」
そう言って彼は少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
彼らしいその言い回しと表情に、私はまたうっすらと嬉し涙を滲ませたのだった。