ねぇ可愛い君。笑顔を見せて?




「ナマエ――」
「嫌だ」
「ンだよ。オレまだなんにも言ってねーじゃん!」
「顔に書いてあるから、何も言わなくても分かるよ」

その言葉を受けた万次郎は大層不服だと言わんばかりの顔をし、自身の彼女であるナマエを見ていた。
彼女と付き合ってから数ヶ月経つが、付き合う前からずっと変わらないことがある。それは彼女が笑わない≠ニいうことだ。
彼女は笑うこと、正確に言うと笑顔が苦手だった。過去に何かがあったわけではなく、単に昔からニコリと笑うような笑顔が苦手なのだ。そのため彼女の普段の表情は真顔か少しだけムッとしているように見える表情だった。

しかし、そんな彼女が一度だけ笑顔を見せたことがあった。
それは花が芽吹き始める春のこと。学校から少し行った先にある河川敷の道から少し外れたところにある一本の桜の木の下に彼女が一人で立っていた。彼女は満開に咲き誇り、柔らかな風に揺れる桜の花を見上げながら微笑んでいた。それを万次郎が偶然にも見かけたことが二人が付き合う理由となっている。たまたまそこに通りかかった彼が彼女の笑顔に一目惚れしたため、彼が彼女にアタックし始めた。そのあまりの猛アタックに彼女が折れて付き合うことになったのだ。

「なーいいじゃんかよー。別に減るモンじゃねーし」
「嫌だって言ったら嫌だ」
「なんでそんなにイヤなんだよ。ナマエの笑った顔、めちゃくちゃ可愛かったけど?」
「――!!そういう恥ずかしいこと、簡単に言わないでよ……!」

彼女は顔から耳の先まで真っ赤にし、ふいっと万次郎から顔をそらした。その様子を見た彼は、彼女の顔を両手で挟んでグイッと自身の方へと向けた。彼に顔を挟まれた上に無理やり向き直された彼女は、少し不恰好な顔になりながらもその顔いっぱいに不機嫌さを露わにしていた。

「オレはあの時見たナマエの笑顔に惚れたんだよ。だから変じゃないしもっかい見たい」
「……あの時は、人がいないと思ってたから出来ただけで……意識的にはどうしても出来ないの」

万次郎の両手から解放された彼女は、未だ赤い顔はそらさず、視線だけ少し下に下げてそう言った。その言葉を受け、彼は「ん゙ー」と唸った後、何かを思いついたようにパッと目を見開いて彼女の手を握った。

「ならさ、オレと一緒にあの桜見にいこーぜ!」

彼女が戸惑いの声をあげているのも聞こえないふりをして、万次郎は彼女の手を引っ張り立ち上がらせてそのまま自室を出た。
バイクで向かうかと考えたものの、彼女とこのまま手を繋いで行きたい気持ちに天秤が傾いたため、今回は珍しく徒歩での移動だ。唐突に連れ出された上に自身の手を掴んだままどんどんどこかへと向かって歩いていく彼に、彼女は戸惑いながらも何とか着いて行った。
見慣れた道を進み、見慣れた土手を歩き、着いた場所は初めて彼と出会ったあの桜の木だった。一応検討は付いていたものの、どうして急にここに行こうと思ったのかが理解できない彼女は、桜の木の前で立ち止まって自身の方を向いた彼に困惑の眼差しを向けた。

「ここならオレ以外の人は来ねーし、ナマエも笑えるだろ?」
「いや、えっと……?」
「それに、ナマエはこの桜を見上げて笑ってただろ?意識的に笑えねーっていうなら、またこの桜を理由に笑えばいいじゃん」
「うーん……」

生憎桜の季節はとうに過ぎ去っており、木は青々とした葉で覆われている。確かに青々とした葉は綺麗ではあるものの、この桜を理由に笑えというのは少々無理があった。
しかし桜の木と彼女の間に立つ万次郎は腕組みをし、催促するような顔で彼女を見ていた。

「……ダメ?」
「流石にこれは単純に難しいかな……」
「そっか」

残念そうな声色でそう言う万次郎に、彼女は少しの罪悪感を感じて胸がチクリと痛んだ。しかし苦手なものは苦手で、できないものはできない。この罪悪感を拭うために嘘を吐いても意味がないことは彼女も分かっていた。しかし自分が好いている人に残念だと思わせてしまう自分も自分で嫌だった。誰だって好きな人には笑っていてもらいたいし、喜んでもらいたい。残念だと思わせたくないし、悲しませたくもないものだ。
悩みに悩んだ彼女は、一度その場で深い深呼吸をして目の前の彼を見た。

「……万次郎」
「ん?」
「今は、これで許してほしい」

彼女は両手の人差し指だけを真っ直ぐ立てると、それを自身の口角に当てた。そして当てた両の人差し指を少しだけ左右にずらしてから上に押し上げた。
それが今の彼女にできる精一杯の人前での笑顔だった。無理やり口角を上げているので不恰好で不自然さがある笑顔だったが、それでも人前で自然な笑顔ができない彼女がこの場で必死に考えて出した答えがこの不恰好な笑顔だった。
それを見た万次郎は目をパチパチと瞬かせた後、嬉しそうな笑みを浮かべて彼女に抱きついた。唐突に抱きつかれた彼女は片足を一歩後ろに下げ、何とか倒れ込むのを堪えた。抱きついた彼は彼女の首元に顔を埋めるような体勢でぎゅぅと彼女を抱き締めてから顔を上げ、彼女の耳横で口を開いた。

「やっぱ可愛いじゃん!ソレ、オレの前以外じゃ絶対やるなよ!」
「えっ?!いや、自分で言うのも何だけど不恰好だったでしょ」
「どんな笑顔でも、ナマエがした笑顔なら可愛いに決まってんだろ?あ、でも――」

言葉を切った万次郎は、彼女の耳横から顔を離して彼女と向き合った。そっと彼女の頬を包むように片手を添え、絵になるくらい綺麗な微笑みを浮かべた彼が言う。

「今はまだ笑えなくても、いつか絶対、ナマエが自然に笑えるようになるくらい、オレがナマエのことを幸せにする」

その言葉を受けた彼女は、再び耳先まで顔を赤くした。そして視線を少し泳がせてから小さく俯き、呟き程度の声量で返答をした。

「……今の言葉だけで、十分幸せだよ」

彼女の真っ赤な顔には、気恥ずかしさと嬉しさが混ざった微笑みが浮かんでいた。