初夜




部屋の鍵を差し込み、ガチャリと音を立てて鍵が回される。この部屋の主の一歩後ろで少し緊張した面持ちの彼女は、少しだけソワソワした様子で目の前にいる彼の背を見つめていた。

「先、入っていいぞ」
「う、うん。お邪魔します……」

彼、鶴蝶は部屋の扉を開け、扉のふちを掴んでその場で固定し閉じないようにした状態で後ろにいた彼女にそう声をかけた。
彼女がそそくさと彼の腕の下を通って玄関へと入る。彼らしいシンプルでモノの少ない玄関を見て、彼女は改めて彼の家に入ったのだと実感して更に緊張した。

「どうした?」
「え、あ……いや、なんでもないよ。お邪魔します」

緊張でその場に固まっていた彼女の様子が気になった鶴蝶が声をかける。その瞬間に彼女ははっと我に返り、少し慌てた様子で履いていたパンプスを脱ごうとした。少々もたついたものの片足が無事脱げたので、そのままもう片方も脱ごうとしたその時、彼女がバランスを崩し前へ倒れた。

「わっ!」
「……っと。大丈夫だったか?」
「ありがとう……おかげで大丈夫でした」

彼女が床へ倒れ込むその前に鶴蝶が片腕を彼女の腹部辺りに回し、彼女の体を支えた。無事床とゼロ距離でご対面せずに済んだ彼女は、自身の腹部に回る彼の腕に支えられながら体勢を立て直して廊下に立った。
彼を後ろにしながら廊下を進んでいく。単身者の住む部屋のためそこまで廊下は長くなかったので、すぐにリビングへと通じるドアに辿り着いた。ドアノブに手をかけて下へと押し込み、ゆっくりと自分の方へ引いてドアを開け、その先へと進む。

「とりあえず荷物置いた方がいいだろ?」
「うん、そうだね」
「ならその辺に適当に置いてくれ。洗面所は向こうにある」
「わかった。ありがとう」

鶴蝶が指差した場所に自身のカバンを置いた彼女は、彼が教えてくれた洗面所の方へと向かった。
洗面所のドアを開けて中に入った彼女は、その場で大きなため息を一つ吐いた。

「今日の私、大丈夫かなぁ……」

不安の色一色に染まった顔を洗面所の鏡でまじまじと見つめる。今日は泊まりだから、と気合いを入れてきた化粧はそこまで崩れてはいなかったものの、彼女があまりにも不安の色で顔を染めてしまっているため、どこか崩れているように見えてしまう。彼女は手を洗うことも忘れて必死に鏡の自分と睨めっこをしていた。

『ナマエ?』
「ご、ごめん!今行く!」

必死に鏡と睨めっこしていたことで少々時間が経ちすぎてしまっていたらしく、手洗いに行ってから帰ってこない彼女を心配した鶴蝶が控えめに洗面所のドアをノックして彼女に声をかけた。その声で彼女は我に返り、慌てて手を洗って洗面所を出た。
ドアを開けて外に出ると、そこには少し心配した様子の鶴蝶が立っていた。彼は少し視線を泳がせた後、そっと口を開いた。

「やっぱり嫌、だったか?」
「え?」
「オレの家に泊まりに来ること。嫌なら帰っても――」
「違うっ。全然嫌じゃない!むしろ嬉しい!……ただ、これまで恋人の家に泊まるって経験をしたことがなかったから、緊張してて……ごめんね」

彼女の言葉を受けた鶴蝶は一瞬目を見開いた後、ほっとした様子で微笑み「ならいいんだ」と言った。彼女も彼女で自分が緊張していることを伝えたことで、逆に緊張が少しほぐれたのか、先ほど彼女の顔を染めていた不安の色が少しだけ薄らいだ。
鶴蝶が彼女と入れ替わるかたちで洗面所に入ったので、彼女は一足先にリビングへと戻った。改めてリビングを見回すと、大きなものはベッドと筋トレのためのベンチプレス、そして一般的なものと比べると少し小さいダイニングテーブルのセットなどくらいで、それ以外のものはほとんどない。そんなリビングに、最初に見た玄関と同様に彼らしさを感じた彼女は嬉しそうに微笑んだ。
こんなにもモノが少ない部屋を見るに、彼は必要最低限しかモノを持たないタイプなのだろう。だが逆に、その必要最低限≠ノ自分が入っているからこそ、今ここにいる。そう思ったら不安も緊張も全て吹き飛ばしてしまうくらい、嬉しさが込み上げてきたのだ。

「鶴蝶」

リビングに戻ってきた鶴蝶に彼女が振り返って声をかける。その顔にはもう不安の色はなかった。

「どうした?」
「私、今すっごく嬉しい。家に呼んでくれてありがとう」
「……あぁ。実はずっと呼びたかったんだ。ただオレの方が色々忙しかったから、タイミングがなくて」
「知ってる。でも呼ぶタイミングを作って実際こうして呼んでくれた。それも泊まりで。だから凄く嬉しいよ」
「そうか」

鶴蝶は優しく目を細めて微笑み、彼女の頬をそっと撫でた。

* * *

二人でそれぞれ分担して作った夕食を食べ、片付けまで終わった後、第一の問題であるどっちが先にお風呂に入るか問題≠ェ発生した。お互いが相手に先を譲ろうとしているため話は拮抗し、結論が出ないままでいた。結局二人は勝った方が先に入る、というルールのじゃんけんで決めることにした。
結果は鶴蝶の勝ち。ルールに従い、彼が先に風呂へと向かった。一人残った彼女は、ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、携帯をいじりつつも時折窓の外に見える景色を眺めていた。景色と言っても既に時間は夜のため、周りの建物の明かりや街灯、そして空に浮かぶ月が見えるだけだ。そして窓にはぼんやりと外を眺める自分自身の姿が映っていた。

ここにはテレビもラジオもないため、適当なBGMを流すにも流せない。暇潰しをするといっても携帯をいじる用事はもうほとんどなく、夕食の片付けは先ほど全て終わらせてしまった。困った彼女は、なんとなく席を立って自分の姿が映る窓の方へと向かった。

「……なーんも見えないや」

窓に手垢などを残さないように気をつけながらじっと窓の外を眺めるも、やはり見えるものはほとんど変わらない。辺りに立つ住宅などの建物から漏れる明かりと道路に立つ街灯の灯り、そして空に浮かぶ中途半端に丸い月。対して面白味もないが、今いる場所が自身の愛する人の家だからなのか、どことなく綺麗に見えた。

「ナマエ、待たせた」
「あ、鶴蝶。おつか、れ……」

彼女が景色を眺めて時間を潰していると、風呂から上がった鶴蝶が首にフェイスタオルをかけ、上半身裸体の状態でリビングへと戻ってきた。ドアの開く音で彼が帰ってきたことに気づいた彼女が振り返って彼を迎える言葉をかけようとした時、上半身裸体の彼を見て思わず言葉尻が小さくなった。風呂上がりのため少し火照った身体に、同じく火照って少し赤い顔。普段見る彼とは違う様子に、普段感じない色気を感じてしまった彼女は慌てて彼から顔をそらした。

「あー……ナマエも入ってこいよ。タオルとかは出しておいたから、それを使ってくれ」
「は、はい……」

彼女は自分のカバンから着替え一式を取り出すと、それを抱えてそそくさと風呂場へと向かった。
風呂場のドアを開けると、鶴蝶が上がったばかりだったためむわっとした湿気のある空気と共に男物のシャンプーなどの香りが一気に彼女に襲いかかった。清涼感のある香りの中にある明らかな知っている、鶴蝶の匂い。それらを浴びた彼女は思わずその場で顔を真っ赤にした。それと同時に頭に過ぎるのはこの後≠ノ起こるかもしれないこと。彼女は、風呂に入ってもいないのに火照った顔をパタパタと両手で顔を仰ぎながら、急いで脱衣所へと入った。

シャワーを浴び、彼が使ったものと同じものを使って身体を綺麗にしていく。一つの部位を洗う度に彼と同じ匂いが香るので、彼女はその度に彼の存在を意識してしまう自分に気付き、それを誤魔化すようにシャワーを頭から浴びた。

「……お、お待たせ、しました」
「おう。おつか……れ……」

持ってきたパジャマに着替えた彼女がゆっくりとリビングの扉を開けて中に入った。鶴蝶はダイニングテーブルの備え付けの椅子に座り、グラスに入った麦茶を飲んでいたが、彼女が入っていたことに気づいて彼女の方へと視線を向けた。風呂上がりで火照り、少しだけほかほかとした湯気をまとっている彼女を見て、「お疲れ」の言葉尻が小さくなった。
彼は数秒目を泳がせたが、やがて何か覚悟を決めたようにグラスに残っていた麦茶を全て飲み干すと、グラスをテーブルに置いて席を立ち、リビングのドアの前から数歩行った先に立つ彼女の元へと向かった。

「……オレと同じ匂いがするな」
「……ごめん、全部借りちゃった」
「いい。むしろこっちの方が、その……嬉しい」

鶴蝶が顔を赤らめ、視線を少し下に向けてそう言った。その言葉を受けた彼女は顔を赤くし、俯いてしまった。
少しの沈黙。やがて彼が赤い顔のまま彼女の方を見ると、静かに両腕を彼女の方へと伸ばし、そのまま抱き締めた。抱き締めるという行為などかれこれもう何度も行ってきたというのに、今日に限っては初々しい付き合いたてのカップルのようにぎこちなく、固いものとなった。

「ナマエ」

彼女の耳元で、仄かに熱のこもった声で彼女の名前が呼ばれた。

「今夜、いいか?」

彼女からは見えないが、耳の先まで真っ赤にした鶴蝶の一世一代のお誘い≠ノ、彼女は彼の胸元に真っ赤な顔を隠すように埋めながら頷いた。
明日は二人とも仕事を休んでいる。二人の甘い時間はまだ始まったばかりだ。