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一人だったから呟いたはずの言葉に、来るはずのない返事が背後から聞こえた。驚いた彼女が勢い良く後ろを振り向けば、そこには片手にシャワーを持ってもう片手でシャワーの蛇口を捻るイザナの姿があった。
もちろん彼も風呂に入るためにここへ来ているため、肌には何も纏ってはいない。驚きで思わず彼を凝視したまま固まっていた彼女だったが、やがて我に返り慌てて窓の外に向き直った。
「今更恥ずかしがることもねーだろ。何度も見てンじゃねーか」
「そっ、それとこれとは違うっていうか! 心の準備もなしに見るのはちょっと心臓に悪すぎるので! 見れないですっ!」
彼女の背後でシャワーヘッドからお湯が出ている音が響く。彼女は今自身の背後、振り返って手を伸ばせば届く位置にイザナがいることを意識してしまい、どんどん体温が上昇していった。
「オラ、少し開けろ」
「はい、どうぞ……」
彼女がそそそ、と窓のある方の湯船の隅へと移動すれば、ざぶん、と少し勢い付けた水音が聞こえ、その後ざぷんという何かがお湯に浸かる音がした。彼女は分かっていた。最初の音はイザナがこの湯船に足を入れた音。そして次の音はイザナが湯船に自身の身体を沈めた音だということを。
「……お前、分かってンだろ。お前の場所はこっち」
「わっ!」
湯船に浸かったイザナが、隅っこで縮こまっている彼女の腕を掴んで自身の方へと引き寄せる。湯船が音を立てて波打って二人の体にぶつかって小さく弾ける音が浴室内に響いた。
引っ張られた彼女は体勢を崩してしまい、引っ張られた勢いに乗ってイザナの体に倒れ込んだ。湯の温かさに加わる彼の体温が彼女の体温を上げ、顔を赤らめさせる。彼女の心臓はあからさまに速く、そして強く鼓動を打ち始めた。
「ちょっとあの、恥ずかしい……です」
「はぁ? お前、なに今更なこと言ってンだよ」
「いや、恥ずかしいのは恥ずかしくてですね……」
彼女は視線をあちこちに泳がせながらそう言い、イザナの元から離れようとした。しかしそれは彼の腕によって阻止され、逃げ出せなかった彼女は大人しく彼の腕の中に収まることしかできなかった。
開いている窓から風にそよいだ葉の揺れる音が入ってくる。その音が浴室内で優しく響く中、二人は静かに湯船に浸かっていた。イザナの腕の中に収まった彼女は借りてきた猫のように大人しく、そして静かになっていた。対して彼は、先ほど彼女を引き寄せたことによって濡れた彼女の髪先を軽く指で遊んでいた。
「なぁ」
不意にイザナが彼女に声をかけた。すっかり大人しくなっていた彼女がぴくりと肩を揺らしてから、ゆっくりと彼の方を向いた。その顔にはまだ赤さが残っている。
彼女の様子を見たイザナは、二回ほど瞬きをした後に少しだけ目を細めた。その表情を見て彼女は察した。この表情をした時、彼は現状を楽しんでいる。だからこそ、次に起こることはおそらく自分がとても恥ずかしいと思うこと――
「ちゃんとこっち向け」
あぁほら。彼女は心の内でそう呟くと、湯船のふちに手をかけて腰を捻り、真っ直ぐイザナの方を向いた。彼がゆるりと口元をあげ、湯船に浸かっていた片手で自身の前髪をかき上げた。
少しの水分を得たイザナの髪は、半分だけ撫でつけたアシンメトリーな髪型となっている。少ししてはらはらと数束の前髪が落ちてきた。それがまた彼に色気を与えるので、彼女は再び視線を彷徨わせてから少しだけ俯いた。その顔を彼が顎をすくって持ち上げるので、行き場を失った彼女の視線はあちこちに動いた。
「見惚れたか?」
わざとらしく、楽しんでいるような声色でイザナが彼女に問う。彼女が彼の胸元辺りに視線を向けたまま小さく頷くと、彼が小さく笑った。
グッ、とイザナが彼女の顔との距離を縮める。呼吸のタイミングすら簡単に分かってしまいそうなくらいの顔の距離で、彼の強い瞳が彼女の瞳を見つめた。ついさっきまで交わらなかった視線が交わる。この時点で彼女は彼の薄紫の視線から逃れることはできなくなっていた。
一瞬、時が止まる。
湯船からの蒸気により少しの湿り気を帯びたイザナの唇が彼女の唇に重なった。唐突のことで驚いていた彼女が、何が起こったのかを理解する前に再び唇が重なる。彼女の顎をすくっていた彼の手はいつの間にか彼女の後頭部に回っており、彼女の頭を捕らえていた。
何度かの口付けを終えたところで、湯船のふちに添えられていた彼女の手はイザナの肩辺りに置かれていた。
「お前、そんなんでこの後持つのか?」
「このあと、って――」
そこまで言いかけたところで彼女はその言葉の意味に気づいてカッと耳の先まで真っ赤にした。頭の片隅で予想とかすかな期待をしていたことには間違いなかったが、それでも改めて言われると恥ずかしいものなのだ。彼女はぱくぱくと口を小さく開閉して真っ赤な金魚のようになっている様子を、イザナは楽しそうに見つめながらそっと片手を彼女の頬に添えた。
「おもしれー顔」
イザナは喉奥を小さく鳴らし、至極楽しそうに笑った。