さよならまたね



 三ツ谷が中学生だった頃、同じクラスにいたある女子に初恋をした。
 彼女は特別目立った子ではなかったが、男女分け隔てなく接する姿と、友人たちと話しているときに見せる笑顔に、彼は心を奪われたのだ。

 だが、その恋は叶うことはなかった。理由は簡単なことだ。彼女が家の事情で引越しをしてしまったのだ。彼が大怪我をして入院している間に、彼女は学校からいなくなってしまっていた。

 彼は自身の想いを伝えられないまま、初恋の人と離れ離れとなってしまったのだ。

 それから十数年が経った。三ツ谷は今じゃ誰もが知る有名デザイナーとなり、同じく名の知れたモデルとなった八戒と共にファッション界を賑わせていた。

 服飾の仕事はもちろんだが、有名となると雑誌インタビューなどの仕事も舞い込んでくる。最優先はデザイナーの仕事なので多くは受けないものの、いくつかのインタビューには答えていた。そのインタビューではほぼ必ず聞かれることがあり、その質問に彼はいつも同じ回答をしていた。

「ここで少しお話が変わりますが、三ツ谷さんの好きな女性のタイプはどのような感じなのでしょう?」
「あー……インタビューを受けると毎度聞かれるんですけど、オレはずっと初恋の人一筋なんで、好きなタイプはその人本人って感じです。すみません」

 社交性も高く、顔も良く、その上デザイナーとしての腕も優秀。下世話な話まで言うと、年収もかなりある。そんな独身男性を、世の女性たちも週刊誌も放っておけるわけなどなく。彼の『初恋の人』を特定すべく、週刊誌はあちこち取材をしており、たまに一緒に仕事をした有名女性モデルなどが彼に直接聞いたりすることもあった。

 ネット上でも色々な憶測が飛び交っていたが、その中には一つとして本当のことはなかった。

 何せ彼本人が、その初恋の人と未だ再会できていないのだから。

「……はぁ」

 作業の手を止めた彼は、一人小さなため息を吐いた。
 彼本人の気持ちとしては、自身が今も想い続けている『初恋の人』に会いたい気持ちが強いが、十年以上も経ってしまっているのだ。彼女に『相手』がいる可能性も考えられる。そうだった場合、下手したら彼女の幸せを壊してしまうかもしれない。そう考えたら、探したくても動くことができなかった。

「アイツ、今どこで何してんだろ……」

 すっかり冷めてしまった元ホットコーヒーを一口飲み、呟く。未だに忘れられない『初恋の人』が、今どこで何をしているのかさっぱり分からなくて、もどかしい。でも自分のモノにしたいというよりは『幸せであってほしい』という気持ちの方が強いからこそ、下手に動けない。それがまたもどかしさを生んで、彼の胸の内を埋めていった。

「……どっかで会えたら、いいのにな」

 そう呟くと、彼はコーヒーを一気に流し込んで作業台へと戻った。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 三ツ谷が長らく望んでいた日は唐突にやってきた。

 それは偶然にも通りかかった大学病院でのこと。なんとなくぼんやりと、病院の出入り口から出入りする人たちを見ていると、その中にひとつ、目を奪われた人の姿があった。

 なんの変哲もない車椅子に乗り、白髪の目立つ髪をひとつに束ねた母親らしき人と共に病院から出てきた若い女性。すぐにでも消えてしまいそうな、儚さのあるその姿に、記憶の中にずっといた『彼女』の面影が見えた。

「まさか……」

 半信半疑だったが、彼は動き出した自分の体を止めることはできなかった。忘れることができなかった人かもしれない。その思いが彼の体を突き動かしていたから。

「あ、あのっ」
「はい?」

 病院の敷地から出てきたところで、彼は二人に声をかけた。車椅子を押していた女性が立ち止まり、彼の方を振り返る。その顔にはあちこちに皺が刻まれていて、パッと見た印象は『疲れていそう』だった。車椅子の女性は上手く体を動かせないのか、彼の方を向くことはなかったが、ピクリと少しだけ体が動いた。

「急にすみません。オレ、三ツ谷隆って言います。もしかして、ミョウジナマエさんのお母さんですか?」
「確かに私はナマエの母親ですが……。失礼ですが、娘とはどのようなご関係で?」
「渋谷第二中学校で、同じクラスでした」
「あぁ! あらあら、凄い偶然もあるものね。ナマエ、三ツ谷くんって男の子、覚えてる?」

 母親はどこか嬉しそうな声色で車椅子に乗る女性に声をかけた。彼女は母親の言葉に小さく頷き、肯定の返事を返した。それを見た彼は、ようやく車椅子の女性が『初恋の人』であるという確信を得た。

 しかしここで大きな疑問が生まれた。彼女はどうして車椅子に乗っているのか、そして、どうして病院にいたのか。彼の記憶の中にいる彼女は、身体が弱い印象などなく、むしろ元気な印象の方が強かった。

「そうだ、よかったらウチに来ませんか? 立ち話もなんですし。すぐそこなんですよ」
「えっ、いいんですか?」
「えぇえぇ。積もる話もあるでしょうし、家の方がナマエもゆっくり話せると思いますから」
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」

 *

 三ツ谷は彼女の自宅まで、彼女の母親の代わりに車椅子を押した。それは彼が母親に頼んでやらせてもらったことだった。理由は簡単で、空白となっていた十数年を少しでも埋めたいと思ったこと、そして彼女の現状を少しでも知りたいと思ったことの二つだ。

「ここまでありがとうございます。どうぞお先に上がってくださいな。私はナマエを室内用の車椅子に乗せ替えますので」
「あの、良ければそれ、オレも手伝います」
「そんな。ここまで押してきてもらったことですし、申し訳ないわ」
「いや、オレが――」

 そこまで言いかけたところで、三ツ谷は母親からの、穏やかでも決定的な断りに気づいて冷静になった。彼は彼女を求める心によって、先走った行動をしかけたのだ。まだ再会して数分の、同級生といえど十数年前に転校してからずっと会っていない。そして極め付けは彼が『男』であることだ。

 抵抗のできない彼女の体に触れさせるなど、出会って数分の男にはさせたくない、というのが母親の感情だ。彼も自身に妹が二人いるため、その気持ちは理解できた。

「……そしたら代わりに、ここで見ててもいいですか?」
「えぇ、いいですけど……」

 母親は少し戸惑いつつも、それを承諾した。三ツ谷は少し離れた場所から、母親が彼女を室内用の車椅子に乗せ替えるところを静かに見ていた。

 母親は彼女に声をかけながら、両脇から腕を差し込んで抱えた。彼女はは母親の動きに合わせて、少しずつ車椅子から立ち上がり、自身の身体を支える母親と共にゆっくり歩いて室内用の車椅子に腰掛けた。

 その一連の流れを見ていた彼は、言葉を失っていた。家までずっと車椅子を押していたので、彼女のことを正面からしっかり見ていなかった。そのため、このタイミングで初めて彼女の姿を正面からしっかり見て、その変容に驚いたのだ。

 ナマエは身長こそ伸びてはいたものの、手足は枯れ枝のように細くなってしまっていて、肌は血の気を感じさせないほどに真っ白だった。顔はかろうじで生気を感じられるものの、あまりにも弱々しくて、少しの風でその灯火が消えてしまいそうに思えた。

「お待たせしました。さ、どうぞこちらへ」
「……はい」

 血の気が引いて冷たくなった腹部に片手を添え、彼は母親の後を追った。

 通された場所は居間だった。作りとしてはパッと見特徴はないものの、よく見てみるとあちこちがバリアフリー化されていて、車椅子に乗っている人が過ごしやすいものとなっていた。
 彼は母親に勧められるままに、ダイニングテーブルのイスに腰掛けた。母親は彼の隣に彼女の乗った車椅子を移動させ、一度居間を出た。

「……久しぶりだね、三ツ谷くん」
「あ、あ……。そうだな」

 母親が居間を出てからすぐに、ナマエが彼に声をかけた。声もか細くはなっていたが、それでもはっきりと彼の耳に届いた。それに彼が少し戸惑いながら返答すれば、彼女は少し困ったように微笑んだ。

「こんな姿で驚いたよね」
「……あぁ」
「私もびっくりしちゃった。まさか自分がこんなことになるなんて、思ってもなかった」
「何があったか、聞いてもいいか?」
「いいよ。……私ね、病気なんだって」

 彼女はそう言って微笑んだ。その微笑みが示す感情が分からず、彼は困惑し、かける言葉を探した。それに気づいた彼女は、一瞬ハッとした表情をしてから、もう一度微笑んで「ごめんね」と一言謝った。

「そんな顔をさせたくはなかった……。ごめんね」
「いや、こっちこそごめん……。オレから聞いたのに、びっくりしてさ……」
「驚くのも無理ないよ。……でも、こうやってまた三ツ谷くんに会えて、本当に良かった。また会いたかったんだ」

 彼女はそう言って、その細く白い手を彼の方へと伸ばした。彼がその手を取り、そっと優しく包めば、彼女は嬉しそうな表情をした。

 彼女の手は血の気が引いたように冷たくて、体温を感じているはずなのに、彼女の薄い皮膚を挟んだ隣に『死』がいるように感じた。

「オレもさ、ずっとミョウジさんに会いたかったんだ」
「そっかぁ、嬉しい。ありがとう」
「……良かったらさ、転校してからのこと、教えてくれないか?」
「いいよ。そしたら、私が転校してからの三ツ谷くんのことも、たくさん教えてほしい。私も知りたいから」
「あぁ。色んなことがあったんだ、話のネタはたくさんある。話し切れないくらいにな」
「そんなにたくさんあるなら、ずっと三ツ谷くんのお話が聞けるね。楽しみ」

 二人はその場でたくさんの話をした。ナマエの転校により離れ離れになって十数年、その長い長い空白を埋め合うように、お互いの話をした。それはそれはとても楽しい時間で、あっという間に太陽が沈む時間となった。

「すみません、つい話し込んでしまって。そろそろ帰ります」
「今日はありがとう。凄く楽しかった」
「いいんですよ。それじゃあ玄関まで。ナマエも一緒に行く?」
「うん。私もお見送りしたい」

 玄関まで行き、二人に見送られながら彼は家を出た。だが、家の敷地を出てすぐ、後ろから彼を呼び止める声が聞こえた。その声に彼が立ち止まり振り返ると、そこにはナマエの母親がいた。

「どうかされました?」
「折り入って、あなたにお願いしたいことがあります。余裕がある時で構わないので、あの子と会ってあげてほしいのです」
「オレも、お母さんがよければナマエさんとまた会いたいと思っていたので、ぜひ」
「ありがとうございます。あの子があんなにも楽しそうに笑う姿は久しぶりで……。きっとあの子も喜びます。よろしくお願いします」

 そう言って母親は深々と頭を下げた。それに驚いた彼は、慌てて母親の元へと駆け寄ってその体を起こした。しかし、母親は泣きそうな顔をしながら、何度も頭を下げては「よろしくお願いします」と彼に言った。

 ナマエの母親と別れた彼は、先ほどの様子を思い出していた。あんなに、何度も頭を下げられることなんて初めてだったのもあるが、加えて何度も「よろしくお願いします」と言われたことにむず痒さに似た何かを感じていた。

「会えるのは嬉しいけど、なんであんなに……」

 アトリエに戻った三ツ谷は、コーヒーを飲みながらそう呟いた。あの母親の様子にはどこか必死さがあって、藁にも縋りたい思いだったところに、縋れる藁を見つけた人のようだと、彼は思った。

「……よくわかんねェけど、オレにできることがあるなら、やるしかねェよな」

 コーヒーを飲み干した彼は、小さく「よし」と呟いて気合いを入れて作業台に置かれた、服の生地に向かい合った。

 *

 三ツ谷がナマエと十数年ぶりの再会をしてから、はや数週間が経った。ナマエの体調は良好で、自宅療養でも調子の良い日が続いていた。

 彼はあの日からほぼ毎日、時間があればたとえ数分であっても彼女に会いに行っていた。もちろん、まとまった時間が取れた時は、その時間いっぱい彼女の側にいて、他愛もない話をして笑い合っていた。

 そして今日。珍しく一日休みが取れた三ツ谷は、彼女へのプレゼントを片手に家へと向かった。

「はよ。今日も調子良さそうだな」
「あ、三ツ谷くん。おはよう。今日も調子いいんだ、ほら見て。血色もいいよ」
「ほんとだ。ここ最近ずっと調子いいんじゃないか? よかったな」
「うんっ」

 ナマエの調子は本当に良く、医師からも「いい方向に向かっていますね」とお墨付きをもらっていたくらいだった。血の気の引いた白い肌には血色が戻り、肉が落ちて枯れ枝のようになってしまっていた手足には肉が少しずつ戻っていた。健康な人と比べたら、まだまだではある。

 三ツ谷の定位置は、彼女のいるベッドの左側。そこに置かれた椅子だった。その椅子は、元々彼女がこの自室で使っていたものだったが、ベッド上での生活が基本となった今は、彼や彼女の母親が主に使っていた。
 椅子に腰掛けた彼は、嬉しそうに笑う彼女の頭を優しく撫でた。彼女がそれに対して気恥ずかしそうな笑みを返せば、つられて彼もまた嬉しそうに目を細めた。

「あ、そうだ。今日はナマエにプレゼントを持ってきたんだ」
「プレゼント?」
「そ。ちょっと待っててな」

 彼は足元に置いていた紙袋の中から、あるもの取り出した。それは女性もののトップスとパンツだった。トップスは、胸元の細かいヒダが特徴的なプルオーバーで、パンツはゆったりとしたシルエットが特徴的なサルエルパンツだった。

「可愛い! どうしたの? これ」
「オレからナマエへのプレゼント。最近調子いいだろ? だから、外に出かけることも多いだろうって思ってさ。車椅子を使う人でも着やすくて、機能性もあって、かつ立っても座っても、全体のシルエットが良くなるようなものなんだ」
「ありがとう! 着てみてもいい?」
「おう。オレは一旦外に出てるから、着替えが終わったら呼んでくれ」

 服一式を渡した三ツ谷は、そう言って部屋を出た。部屋の扉の前で彼が待っていると、ナマエの母親がやってきて、静かに彼に声をかけた。

「あら、もうお帰りに?」
「あぁいえ。実は今日、彼女のために作った服を持ってきていて、今彼女が中で着替えているんです」
「あぁ、そういうこと! あの子、とっても楽しみにしていたんですよ。あなたの服を着られること」
「そうだったんですか」
「えぇ。本当に、着られて良かったわ……」

 そう言った母親は、微笑んで扉の方を見た。その横顔は嬉しそうなのに、どこか悲しげでもあり、彼は不思議に思った。今のやり取りの中では確かに喜んでいたというのに、何が悲しかったのか、と。

 そんなもやもやを抱えていることに気づいたのか、母親は眉を下げた微笑みを三ツ谷に向けると、そっと口を開いた。

「あの子、元気でしょう? でもね、もうもたないのよ……」
「え……?」
「いい方向に向かってはいるけど、遅かったの……」

 母親は声を殺して涙を流した。ナマエの身体はもう限界だったのだ。三ツ谷と再会したあの日には、もう手遅れだったのだ。彼と再会したことで良くなったとはいえ、しょせんそれは最期を少し先延ばしにしただけだったのだ。

「ナマエは、もう助からない、ってことですか……?」
「……黙っていて、ごめんなさい。ただ、あの子もあなたも、あまりにも嬉しそうで、あまりに楽しそうだったから。言えなかったの」
「……いえ、気を遣ってくださり、ありがとうございます。それより、そのことをナマエは……?」
「きっと気づいていると思います。あなたと会ったあの日、ナマエの余命宣告を受けたんです」

 *

「終わったよー!」

 母親が去ってから少しして、扉の向こうからナマエの元気な声が聞こえた。呆然としていた三ツ谷だったが、その声を受けて我に返り、一拍遅れて返事をした。
 室内に入ると、新しい服を身に纏ってベッドに腰掛けるナマエがいた。彼女は心から嬉しそうな顔をしながら、ドアのところに立つ三ツ谷に声をかけた。

「どう? 似合ってるかな」
「……あぁ、似合ってる。凄く、似合ってる」
「ふふ、ありがとう」

 頬を薄く赤色に染めて嬉しそうに笑う彼女を横に、三ツ谷は先ほどの母親の言葉を思い出していた。

――なんで。

 自分にはどうしようもないことなど分かっている。分かっているからこそ、吐き出してしまいたいほどの無力さで、三ツ谷は奥歯を噛み締めた。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 ナマエの命が残り短いと知ってから一週間が経った。彼女は日を追うごとに体調が悪くなり、安定しても、失った体力は戻らず、寝たきりの状態が続いていた。

 医師からは入院を勧められていたが、それをナマエは断っていた。母親も三ツ谷も説得を試みたものの、彼女は断固として首を縦に振らず、結局自宅療養を続けることとなった。

「はよ。調子はどうだ?」
「あ……。おはよ。今日はね、ちょっと調子いいよ」

 一時は肉付きが良くなっていた身体は、すっかり肉が落ちてしまっていた。血色もあまりなく、周りが見る分にはお世辞でも「調子がいい」とは言えない状態だった。だが、弱々しい笑顔であっても笑えていることが、彼女が調子がいいことを示していた。ここ最近は嘔吐症状などもあり、笑顔を浮かべることすらなかったのだ。

「そっか。そりゃよかった」
「三ツ谷くん、ちょっと触ってもいい?」
「あぁ、いいぜ。ほら」
「ありがとう」

 体調の悪化もあり、ナマエの視力は著しく低下していて、近くにいる人の顔もぼやけてしまっていた。そのため、彼女は相手の人がどんな表情をしているのか、どういう格好をしているのか、がよく分からなくなってしまった。それを少しでも補うために、彼女は自身の手で相手の手や顔に触れるようになった。

 三ツ谷はベッドの方へ少し身を乗り出し、彼女の片手をそっと取って自身の頬に当てた。彼女は弱々しい手つきで、そっと彼の頬を撫でた。血の気が引いて冷たくなっているナマエの手に、三ツ谷の体温が伝わる。それが嬉しかったのか、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「いつ触っても、柔らかいね」
「そうか? きっとオレよりもナマエの方が柔らかいよ」
「そんなことないよ。それにね、すごくあったかい。ちゃんと、生きてるね」
「……何言ってんだよ。ナマエだって、ちゃんと生きてるだろ」
「……うん、そうだね。まだ、まだ生きてる」

 ナマエは、そう言って目尻に涙を滲ませた。それに気づいた三ツ谷は、そっと彼女の涙を指で拭うと、優しく頭を撫でた。

「最近ね、すごく眠いんだ。ずっと寝ちゃってて、起きてる時間の方が短くて。……だから、今日はちゃんと起きていられてよかった」
「そっか。オレも起きてるナマエに会えて嬉しいよ。でも無理しなくていいからな。眠ければ寝ていいぞ」
「ううん、ちゃんと起きてるよ。私、もっと三ツ谷くんと話がしたいから」

 そう言って彼女は、彼の頬から手を離し、そのまま彼の片手にそっと自身の手を重ねた。彼は重ねられた手をひっくり返し、優しく彼女の手を握った。

「オレもナマエとたくさん話したいけどさ、それ以上にナマエに無理はして欲しくないんだ」
「そっか……。それじゃあさ、少しだけ寝てもいい?」
「あぁ。起きるまで、ちゃんと側にいるから。安心して寝ていいぞ」
「うん、ありがとう。……おやすみ」

 ナマエは静かに目を閉じた。その呼吸はとても浅く、やがてゆっくりになり、そして静かに止まった。
 三ツ谷が部屋に来てからも、静かに部屋の隅で二人を見守っていたナマエの母親は、静かに涙を流しながら彼に「ありがとう」と一言お礼を言い、頭を下げた。

「あの、一度だけ。……一度だけ、ナマエさんのことを、抱きしめてもいいですか」
「えぇ。ぜひ抱きしめてあげてください。きっとナマエも喜ぶと思います」
「ありがとうございます」

 三ツ谷はそっと立ち上がると、そっとナマエのことを抱きしめた。まだ残る彼女の低い体温を感じ、『寝ているだけではないか』と思ったが、呼吸音も心拍も何も感じなくて、彼は彼女の死を改めて突きつけられ、静かに涙を流した。

「おやすみ、ナマエ。ゆっくり休めよ。……ずっとずっと、大好きだった」

 ◆◆◆ ◇◇◇

 長い夢を見ていた。
 目元の水を拭って時計を確認すれば、仮眠を始めた時間から一時間半ほど経っていた。
 身体を伸ばし、眠気覚ましにコーヒーを淹れようしたところで、ちょうど粉が切れていることを思い出したオレは、外の空気を吸おうと外に出た。

 いつもコーヒーを買う店に行くと、ちょうどレジのところに、新人を示す若葉マークをネームプレートに付けた女性の姿が見えた。
 初めて見る人なのにどうしてか既視感を覚えたオレは、彼女に引き寄せられるようにして店内に入った。

「いらっしゃいませ!」

 ネームプレートにはミョウジという苗字が書かれている。その苗字を見て、自身の過去と夢の内容を思い出し、胸の内がざわつく。注文も忘れてぼーっとしてしまっていたせいで、目の前の彼女が少し困った顔で「あの……」と控えめに声をかけてきた。

「あ、あぁ。すみません。えっと、この豆を二百グラム、粉でください」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 彼女はオレが指定した豆をすくい、カウンターに置かれたはかりでグラム数を計っていた。その様子をぼんやり見ていると、不意に彼女が声をかけてきた。その声でハッと我に返ったオレは、はかりから彼女の方へ視線を移し、返事をした。

「もしかして、渋谷第二中にいた三ツ谷くん?」
「そうだけど……もしかして同級生?」
「うん。ミョウジナマエだけど、覚えてる?」
「ミョウジ、ナマエ……あっ」

 その名前は、かつてオレが密かに好きだった人だった。一度だけクラスが一緒になったことがあったが、そのときはちょうど東卍がデカい抗争をしたりしていて、下手に気持ちを伝えることができなかった。もし万一にもオレの恋人だと知られたら、敵対するチームの奴らが彼女に危害を加える可能性があって、それが何よりも避けたいことだった。

 日和っていたわけではない。ただ、好きだったからこそ、『仲の良い同級生』でいた方が安全だと考えたのだ。だから気持ちを伝えず、そのまま自分の奥底に綺麗な思い出としてしまっていたのだ。

――夢で永遠の別れをした後に、現実で再会するなんてな。

「思い出した?」
「思い出したっつーより、記憶の中のオマエと全然違ったから、気づくの遅れた。ごめん」
「よかった。忘れられてたら、ちょっと寂しかったよ」
「あー……今日っていつまで仕事?」
「今日? 今日は十七時までだよ」
「そっか。……あの、さ。よければ、仕事終わったら食事行かね? こうやって久々に会えたし」

 なるべく自然に。それこそ『久々に再会したから』なんて名目まで付けて、彼女を食事に誘った。好きな女を誘うなんて、恥ずかしながら初めてで、今のオレの姿は、小っ恥ずかしくなるくらいはダセェ姿かもしれない。
 それでも、今この時を逃しては行けないと思った。

「うん。こうして『また』会えたんだもの。『前』はできなかった外食、したいな」

 彼女ははにかんでそう言うと、二百グラムの豆を機械式の大きなミルに流し込み、スイッチを入れた。

「そうだな」

 豆が砕かれる音にそっと言葉を混ぜ、オレは彼女の背を見つめた。『夢の中』でした、彼女との会話をふっと思い出す。

『元気になったら、その時はこの服を着て、三ツ谷くんと一緒に外に出かけたいな』
『いいな。よし、じゃあどこ行くか、今から考えておこうぜ』

 夢の中のオレへ。オマエがナマエとやりたくてもできなかったこと、伝えたくても伝えられなかったこと、それらはきっとオレも同じものを持っていると思う。だから、今ここにいる、ナマエと再会したオレが代わりに叶えてやるよ。
 だから、後はオレに任せておけ。

――なんて、な。

 オレは、自身が内側でぶつぶつと言っていた言葉に対して、小さく笑った。
 どこか遠くの方で、夢の中のナマエとオレが笑っているような気がした。