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「……ははっ、情けねぇな、オレ」
「……あなたも人間だよ。強いままでい続けることは難しいよ。今周りにいる人たちに弱音を吐けないなら、弱い一面が見せられないなら、私が聞く。何も聞かずに、ただ隣に座ってあなたの言葉を聞く。だから、よければ私の前で、少し休んでいかない?」

 必死に考えた部外者の精一杯の言葉だった。部外者だからこそ、一番接点が薄いからこそ、彼が誰にも言えないで抱え続けている辛苦を少しでも吐き出せる場所に。そして吐き出されたものをちゃんと受け止められる場所に、彼女はなろうとした。部外者だからこそできる役割だと考えたのだ。

「ありがとな、ナマエ」

『シンイチロー』は力ない声でそう言い、彼女に寄り掛かった。それを受け止めた彼女は、そっと彼の肩に手を添えて、優しく撫でた。空いていたもう片手も伸ばしたが、途中でその手を下ろし、彼の膝の上にある手にそっと乗せた。これ以上触れることはいけない、と彼女自身が自制をしたのだ。

 少しして、彼はそっと彼女から離れた。その目元はまだ少し赤みが残るが、顔色はほんの少し良くなっていて、それを見た彼女はほっと小さく胸を撫で下ろした。

「なぁ、ナマエ」
「なに?」
「オマエは――」

 そこで『シンイチロー』の言葉が途切れた。正確に言うと、言葉の途中で声がぼやけ始めたのだ。そろそろ現実の彼女が目覚める時間になり、この夢が終わろうとしていた。
 既に視界もぼやけて見えなくなっている。その中でも、彼女は必死に彼に声をかけた。だがその声もちゃんとした音にはならず、まるで水の中で喋っているような声にならない声で、彼には届かなかった。
 彼女はまだ目覚めたくなかった。まだもう少しだけ、この夢にいたかった。せめて、もう少しだけ彼の隣にいて、休める場所でいたかった。だがそれを、時間は許してくれなかった。

 彼女は、自身の意識がどんどん浮上していくのが分かった。もう目の前の人の姿すらまともに見えない。それでも、目の前にいるであろう彼に必死に手を伸ばして、意識の浮上に抗った。

「――はっ」

 抵抗も空しく目を覚ました彼女は、自身の目尻に違和感を覚えてそっと手で拭った。拭った時に水のようなものを感じたため、そこで初めて自分が涙を流していたことに気づいた。

「『シンイチロー』……」

 ただの「夢の住人」でしかないはずなのに、どうしても彼のことが気になって仕方がなかった。ただの夢なのに、どうしてもあの世界が、出来事が、人が、全て「現実」のように思えて仕方がなかった。
 しかしいつまでも夢を引きずってはいられない。今日もまた、彼女は朝から職場へ出勤しなければならないからだ。
 気だるい体を無理やり動かして身支度を整え始める。しかし頭の中は今朝の夢でいっぱいになっていて、意識もどこか上の空になっていた。

 玄関を出て鍵をかけ、今日もまた職場へと向かう。出勤も仕事も、ある程度は流れ作業のようなものだったため、上の空であってもなんとか今日一日の業務を終えることができた。とはいえ、今日も今日とて残業があったため、帰宅する頃には外は真っ暗で、自宅の最寄り駅に着く頃には、駅中のお店も、駅周辺のお店も、大体が閉まっていた。

 どうやら今日は彼女以外にも残業をしていた人たちがいたようで、駅から家までの間にある横断歩道の前では、彼女を含めた十名ほどの人が、疲れた顔をして歩行者用信号が青に変わるのを待っていた。

――あの夢、本当になんなんだろう……。どうしていきなり見るように……。それよりも『シンイチロー』は、大丈夫なんだろうか。

 突然彼女の周りの人たちが一斉に動き始めた。だが彼女はそれに気づくのが一拍遅れた。

「お姉さん逃げてっ!!」
「えっ――」

 瞬間、その場に悲鳴と衝撃音が響いた。彼女はその中で、激しい痛みと濃い鉄の臭いに襲われていた。
 それは酷い事故だった。暴走した乗用車が、信号待ちをしていた人たちの方へと突っ込んだのだ。気づいた人たちは一斉に逃げたものの、気づくのが遅れた彼女に乗用車が激突したのだ。

「お姉さん、しっかり!」
「今救急車呼んだから!」

 突っ込んできた乗用車に追突された彼女は、数メートル先まで吹き飛ばされた。幸いなことと言えば、吹き飛ばされた先が歩道だったことと、壁などに激突しなかったことだろう。だがそれでも、彼女は誰が見ても分かるくらいは重傷だった。
 出血による血溜まりが彼女の下にできていく。それは地面も彼女も侵食していった。それはまるで彼女もろとも周りを飲み込もうとする、赤黒い沼地のようだった。

 朦朧とする意識の中、彼女は自分の死を悟った。その時、心に浮かんだものは「夢のこと」だった。彼女の心残りは、仕事のことでも、自分自身のことでもなく、今朝見た夢の中で泣いていた彼のことだった。

――『シンイチロー』……大丈夫かな……。

 そこで彼女の意識は落ちた。