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 月日は流れ、彼女が頭を打って記憶を取り戻した日から十二年が経った。彼女はあの日からも変わらず日々を過ごしていた。
 パッと見では分からないが、彼女は薄々気づいていた。周りの人たちは皆年を取り、成長をしていく中、自分は十二年前と何一つとして変わっていないという事実。それが「自分はとうに死んでいる」ことを意味しているということに。

 彼女の命日は、今日と明日の境目近い時間だった。場所は幸か不幸か、ここから歩いていける程度の距離だった。
 夕食の片付けが終わり、各々が自分の時間を過ごし始める。一番風呂に行ったのは万次郎で、エマは居間でテレビを見ていた。万作は居間のダイニングテーブルに座って、お茶を片手に新聞を読んでおり、真一郎は縁側に座って缶ビールを飲んでいた。

 そして彼女は、あてがってもらった自室にいた。

「ここも、今日で最後なんだ」

 彼女の人生のロスタイムが始まって少ししてから、ずっと使わせてもらっていた部屋は、物は少ないが確かにそこで暮らしていたことが分かるくらいには、生活の跡があった。
 彼女は記憶を取り戻してから、部屋に物を置かなくなった。理由は簡単で、なるべく思い出が残らないように、だった。
 自分がいた痕跡が、限りなく薄くなってほしい。自分と彼らが過ごした日々が、形を持った思い出として残っていてほしくない。そんな思いから、彼女は最低限の物しか部屋に置かなかった。

「……今まで、本当にありがとうございました」

 そんな生活の最終日である今日、彼女は最初で最後の、一番の思い出を形にして机の上に置いた。名残惜しそうにそっと指先で触れれば、十二年間の、溢れかえるほどの思い出たちが涙となって零れていった。
 それを手の甲で拭い、彼女は部屋の壁かけ時計で時間を確かめた。そろそろ家を出て「現場」へ向かわなければならない。

 パチン、と部屋の電気を消せば、室内は真っ暗になって何も見えなくなった。こうしてこの場所での自分の人生は終わったのだと、彼女は思った。
 今は夜と深夜の狭間の時間。今から家を出て向かえば、ちょうどあの時と同じ時間帯になる。そう計算した彼女は、ここに来た時と全く同じ格好をして、そっと家を出た。

 カツカツ、とヒールが地面を叩く音が、人も車もない夜道に響く。いつもなら人はいなくても、車くらいは多少通る時間帯だが、今日は不思議と車すら通ることがなかった。まるで、街頭だけが頼れる明かりの、この暗く静かな姿が、世界の本来の姿であるようにさえ思えた。

 目的地に向かう彼女の足取りは、決して重くはなかった。ただ、覚悟を決めた、しっかりとした足取りだった。
 怖くないのか、と聞かれたら、彼女はきっと首を横に振るだろう。再びあの痛みと苦しみで全身を焼かれながら、死という途方もない恐ろしいものを味わわなければならないのだ。そんなの、誰だって恐ろしいだろう。嫌だと言って逃げたくなるだろう。だが彼女は、真っすぐと「現場」へ向かって歩いていた。

 空はいつしか暗く重たい雲に覆われて、静かに輝いていた月たちの光を隠してしまった。世界はさらに暗闇に包まれてしまった。

 目的地の横断歩道は、人も車もいなかった。ただ静かに、機械的に、車両用信号機と歩行者用信号機がそれぞれ点滅し、切り替わっている。その場所の雰囲気は、さながら一種のホラーゲームだった。

「あと、もう少しかな」

 手元の腕時計で時間を確認する。長針と短針が指示した時間からして、大体あと十分で「その時」が来る。
 彼女は自分がいたところを思い出しながら少し移動し、当時立っていた場所辺りに来たところで、ぐっ、と背を伸ばした。

「私のロスタイムも、これで終わり……かぁ」

 改めて口に出してみると、やはり寂しいものだった。彼女は無理やり口角を上げて笑うと、数分後には自分を撥|《は》ねる乗用車が来る方向を向いた。遠くまで並び立つ信号機たちの明かりが連なっていて、なんだか少しだけ綺麗に思えた。

「最期だから、なのかな」

 彼女は微笑んでいた。いや、微笑むことしかできなかった。無理やり上げた口角は、ずっと上がったまま、彼女に無理やりの笑みを作らせ続けていた。
 ふと、遠くに信号機の明かりとは違う、白い二つの明かりが小さく見えた。その明かりを見た彼女は、その明かりが何なのかが分かった。その明かりこそ、今から彼女に二度目の死を与える車のヘッドライトだった。

「もうすぐ、この夢も終わるんだ。……楽しかったなぁ」

 白く強い光が彼女の姿を照らしながら、どんどん近づいていく。そのうち車のエンジン音も近づいてきた。その中でも、彼女は真っすぐ車の方を見つめながら微笑んでいた。微笑みながら、泣いていた。

「ばいばい、真一郎。みんな。ありがとう、楽しかった」

 車の急ブレーキ音とタイヤが勢いよくこすれる音。そして質量のある何かが車体にぶつかった鈍い音。それらが人気のない交差点に響いた。

 ◆◆◆ ◇◇◇

 気付いた時には、玄関に彼女の靴はなかった。どこを探しても、覗き込んでも、靴は跡形もなく消えていた。
 嫌な予感がした彼は、急いで彼女の自室へと向かった。

「ナマエっ!」

 部屋の中は真っ暗だった。ただでさえ驚くほど物が少ない部屋だというのに、今の部屋の様子を一言で言うなら「もぬけの殻」だろう。
 あくまでもこれは、室内の印象を一言で表すのであれば、なので、実際の意味とは異なる。室内には、彼女が使っていたベッドも、机や椅子も、全て残されたままだった。

 彼は戸惑いつつも彼女の部屋に一歩、足を踏み入れた。普段はエマから「女性の部屋にズカズカ入っちゃだめなんだからね!」と言っていたため、彼もまた、それに従って滅多な理由がない限りは、彼女の部屋に足を踏み入れることはなかった。

 部屋の中に入ると、ふわり、と彼女の香りが彼の鼻腔をくすぐった。確かにここに彼女がいて、長い期間ここで過ごしていた証拠がある。しかし今、彼女は忽然と消えてしまった。誰にも何も言わず、声もかけず、彼女はこの家から消えてしまった。

「ナマエ、どこにいっちまったんだ……」

 フラフラとしながら机の方へと向かう。片手をついて、今にも倒れてしまいそうな身体を支え頭を下げた――と、彼の落とした視線の先に、何かが置かれているのがかすかに分かった。
 うす暗くてよく見えないそれを手に取ってみると、紙製のなにかであることが分かった。目が暗闇に慣れてきたことで、少しずつその正体が見えてきた。

「封筒……?」

 手に取ったそれが、何かが入った封筒だということが分かった真一郎は、急いで部屋の電気のスイッチを探した。ドアのすぐ近くにあったそれを押すと、パッと部屋の明かりが点いた。眩しさに一瞬目が眩んだが、それを気にしている余裕もなく、明かりに目が慣れるよりも先に封筒の封を切った。

 封筒の中には、丁寧に折りたたまれた便箋が入っていた。それを微かに震える手で広げると、そこには彼女の字で綴られた、彼女の真一郎へ向けた思いがあった。
『真一郎へ』から始まっているその手紙の内容は、武蔵神社で声をかけてくれたことに対するお礼から始まっていた。

 彼女からの手紙を読み終えた真一郎は、それを握りしめて部屋を飛び出した。途中で万次郎とエマが、玄関まで走っていく彼に声をかけようとしたが、声を発しかけたところで二人は気づいた。多分今の真一郎は、自分たちの知らない「何か」しか見えていない。そのためにあんなにも急いでいるのだと。

 履き慣れたスニーカーに足を突っ込んで玄関を出ると、外と敷地を隔てている門が、少しだけ開いているのが見えた。急いでそこまで行き、門を開けて外へと出る。夜遅い時間だったため、人通りはまばらで、車などの車両は通ってもいなかった。

 真一郎は焦る頭で必死に、彼女がどこへ向かったのかを考えた。まず移動手段。彼女が取れる移動手段は主に二つ。徒歩か公共交通機関。だが彼女が出かける時はいつも「徒歩」であったことを思い出した彼は、バスなどの可能性を切り捨てた。

「あぁ、クソッ! どこに行っちまったんだよ!」

 頭を乱暴にかき乱す。彼女が手紙の中で書いていた「目的地」について、彼には思い当たる節がなかった。これまでこの周辺だけでも何か所か彼女と一緒に行ったことはあるが、それが手紙の「目的地」にはならないと思った。理由は簡単だ。実際にその場に行った時の彼女の反応を思い出してみても、どの場所に対しても、新鮮さや面白みを感じているだけに過ぎなかった。

 わざわざ手紙を残して行く場所となれば、たとえばそう、自宅に帰るとか。自宅とは別の、彼女にとっては大切な場所だとか。そんな、自分が知らない場所ではないか。となれば、闇雲に探す以外手段がなかった。
 徒歩圏内とすれば範囲は限られるが、そもそも彼女がどこまで徒歩で行くかも分からない。たとえ徒歩で一時間かかったとしても、大切な場所であれば、きっと迷わず行くだろう。そしたら、どこまで探せばいいのか分からなかった。

「そうだ、バイクっ」

 あまりにも気が動転していて、勢いのまま飛び出してしまったが、彼にはバイクという強い相棒がいる。真一郎は急いでガレージに行き、自分の愛車を出して飛び乗り、彼女を探しに向かった。