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「ナマエっ!」
あちこち探し回って、ようやく彼女を見つけた真一郎は、近くの空きスペースにバイクを停めて彼女の元へと駆け寄った。
交差点の横断歩道の前に立っていた彼女は、ピクリと肩を揺らした。だが後ろにいる真一郎の方を向くことはなかった。
「なぁ……なんで、なんであんな手紙一つ残して出てったんだよ。それも、誰にも何も言わずひとりで。何か困ってるなら相談してくれよ」
真一郎の声は微かに震えていた。彼女は真っすぐ前を向いたまま黙っていた。不思議なほどに人通りも、車通りもない交差点はとても静かで、たとえ彼女が消え入りそうな声で何かを言っても聞き逃すことはないほどだった。だが、彼女はただ黙って前を向いているだけだった。
「……もしかして、『また』居なくなるのか?」
「……どうして、私を見つけちゃったの」
彼女はようやくその沈黙を破った。相変わらず真一郎に背を向けたままではいたが、彼女は言葉を続けた。
「どうして探しに来ちゃったの。私、手紙に書いたよね。『探さないで』って」
「……オマエからの頼みだとしても、それは聞けなかった。オレは、オマエのことが心配で――」
「ありがとう。でもごめん、帰って」
今度は彼女の声が震えていた。それに気づいた真一郎が彼女に近づこうと一歩踏み出した時、彼女が振り返った。
彼女は静かに泣いていた。
「あなたがあの神社で私のことを見つけて、家に置いてくれた十二年前から今日まで、本当に、本当に楽しかった。あなたにも、あなたのお爺さんや兄弟にも、たくさんお世話になった。ありがとう」
「そんな、こと……。この先だってずっと、一緒にあの家で暮らせばいいだろ? オマエはもう、オレたち家族の一員だ。だからウチに帰ろう、な?」
彼女は首を強く横に振った。涙はとめどなく溢れ、彼女の頬を伝って地面に落ちて小さなシミを作っていく。彼女は涙を拭うこともせず、噛み締めていた唇を必死に動かして返答をした。
「もう、帰れないの」
「なんでだよ。もしかして本当の家や家族を思い出せたのか? だったら――」
「私、これからここで死ななくちゃいけないの」
彼女の「ここで死ななくちゃいけない」という言葉に、真一郎は耳を疑った。なぜ? どうして? そんな気持ちが彼の頭の中を埋め尽くしていく。理由を聞きたいのに、上手く言葉が出ない。言葉を出したくても、喉元で言葉がつっかえ、言葉にならないかすれた声だけが彼の口からこぼれた。
「私ね、万次郎君を助けたときに頭を打ったでしょう? その影響で失っていた記憶を思い出したの。それで分かったんだ。この世界は、私がいた世界とは違う世界。私が元の世界でずっと見ていた『夢の中の世界』だって」
「夢の中の世界……? な、なに言ってんだよ。意味わかんねぇよ。オレもナマエもちゃんとここに存在してて、痛みだってなんだって感じてただろ? 夢なんかじゃなくてちゃんと『現実』だ」
「違う、違うの。……真一郎、言ってたよね?『オマエはいつも突然現れるよな』って。あれはね、元の世界にいた私が、この世界の夢を見ていたからなんだよ。この世界の夢を見ている時だけ、私はここにいた。だから夢から覚める時、私はこの世界からいなくなる。突然現れて突然いなくなるのは、そういう理由があったんだよ」
彼女はここで初めて、ボロボロと溢れる涙を必死に拭った。涙が彼女の頬を、手の甲を、指先を、濡らしていく。真一郎はそれをただ茫然と見つめることしかできなかった。誰だって突然「あなたのいる世界は、私が見ていた夢の中の世界です」と言われても理解も納得もできないだろう。現に彼は今まさにそんな状況だった。
「ずっと黙っていてごめんなさい。でも、こんなこと言ったら、真一郎を困らせてしまうことは分かっていたから、ずっと言い出せなかった……」
「……そんなこと、今はどうだっていい」
いつになく真剣な表情をした真一郎が、もう一歩彼女の方へと近づく。そこで二人の距離は、どちらかが手を伸ばせば相手の手を掴めるほどのものとなっていた。
彼がそっと手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。掴まれたことに少し驚いた彼女は、一瞬肩を震わせた後、手首を掴む彼の手に自身の手を重ね、そっと外して押し戻した。彼は苦しそうな、悲しそうな表情をして口を開いた。
「……オマエがオレに話さず、この十二年間過ごしていたのは、今はどうでもいい。今重要なのは、オマエを死なせないことだ。ここで死ぬって分かってんなら、まずはここから離れるぞ」
「そんなこと、できないよ」
「オマエひとりじゃできないっていうなら、オレも手伝う。だから――」
「ダメなんだよ、離れちゃ。私は今日、これからここで死ななくちゃいけない。そうじゃないと、私はどこにも帰れないまま消えちゃうからっ……!」
彼女はそう言って両手で顔をおおい、嗚咽を漏らしながら泣いた。
「消える、って……どういうことだよ。なんで死ぬか消えるかしかないんだよ、そんなのおかしいだろ!?」
「どうして私がここで十二年間過ごせたか分かる? 元の世界の今日、あと数分後、この場所で、車の事故に巻き込まれて死んだからだよ。今の私は生きていない、幽霊と同じなんだよ。今私がここにいるのは、人生のロスタイム。私が未練を残して死んだから、それを解決するためだったんだよ」
真一郎はあまりの衝撃に身体がよろけ、片足分後ろに下がった。彼女は両手で顔をおおったまま俯いていた。
数分後、彼女はこの場所で車の事故に巻き込まれる。それを回避したとしても、彼女は助けられない。それどころか、彼女はこの世界から消えてしまう。どちらを選んでも彼女の命はここで失われる。二人には最悪の結末しかなかった。
「お願い、真一郎……もう、ひとりにして……」
「い、やだ……ふざけんな……。こんなの、おかしいだろ……! 他の誰でもないオマエが死ななくちゃいけないなんて、そんなのおかしいだろっ!」
「真一郎っ!」
彼女は未だ涙が溢れる、赤くなった目で真一郎を真っ直ぐ見つめた。それに彼は少しだけ狼狽えた。彼女がこんなにも強く彼の名前を呼んだのは始めてだった。
「私からの、最期のお願い……。危ないから、今すぐここから離れて」
「ナマエ――」
「真一郎、この十二年間、本当にありがとう。『夢のような』時間だった。でももう、夢から覚めないといけない時間なんだ。ごめんね」
その時、不意に遠くの方から何かが聞こえてきた。その音はだんだん二人の方へと近づいてきていた。真一郎が音の方を見ると、先ほどまでは影も形もなかった乗用車が一台、猛スピードで二人の――彼女のいる場所に向かって一直線で走ってきていた。
真一郎の表情を見た彼女が、目を見開いた。そして――
「あ――」
それは一瞬のことだった。
彼女が笑って何かを言った後、真一郎は思い切り尻もちをつき、直後にドンッと鈍い音がした。
彼の目の前には、地面を侵食していく血溜まりの真ん中に倒れる彼女の姿があった。彼は一瞬息まで止まったが、すぐに彼女の元へと駆け寄るために立ち上がろうとした。しかしどうにも身体が上手く動かず立ち上がれなかった。
「ナマエ……?」
それでも這うようにして真一郎は彼女の元へ行った。彼女から生まれた血溜まりが、彼の服に吸い込まれて赤黒く染めていく。だがそんなことも気にせず、彼は倒れたままでいる彼女の肩に触れ、軽く揺すりながら何度も彼女の名前を呼んだ。
「なぁ、起きてくれよ……。頼む。頼むから、目を覚ましてくれ……」
真一郎はそっと彼女の身体を抱き上げた。先ほどまで泣いて赤らんでいた目元や鼻先は、今は赤い血液を流していた。顔からはどんどん血の気が引いていっており、生気が消えていくのが目に見えて分かり、彼はどんどん焦っていった。
何度声をかけても、揺すっても、名前を呼んでも、彼女のまつ毛も唇も震えなかった。やがて、彼の瞳から涙が零れ落ち始めた。頬を伝ったそれは、静かに彼女へと降って彼女の頬を伝っていった。
「オレ、まだオマエに伝えられてないこと、いっぱいあるんだ。それにほら、この前テレビでやってて行きたいって言ってた所、まだ連れていけてねぇだろ。だから……目を、開けてくれ……」
ザァァという音が二人を包み込んだ。真一郎の悲しみを表すかのように空から雨が降ってきて、二人はずぶ濡れになった。彼女から流れ出た血液は雨と共に側溝へと流れていき、彼女の顔に付いていた血液も落ちて、青白くなった肌だけが残った。
「あ、あああ――――」
真一郎は、冷え切ってしまった彼女を抱き締めて、声を上げて子供のように泣いた。