最初で最後のラブレター
拝啓 黒川イザナ様
これを読んでいるということは、家に帰って来たのかな?おかえり。無事に帰ってきてくれて嬉しい。安心した。
きっと私はそこにいないと思う。でも、イザナのことを嫌いになったわけじゃないんだよ。私はイザナの隣にいられて凄く嬉しかった。ただ、今のイザナに、私は邪魔かもしれないと思ったから。だから、離れようと思った。それだけなんだ、ごめんね。
イザナと出会ったのはいつだったかな、って思い出してみたんだけど、もう二年くらい前なんだね。
初めて会った時のことは今でもよく覚えているよ。私がなんとなくふらっと散歩に出かけた公園。そこにあったベンチに、あなたはひとりで座っていた。
あの頃のあなたは、とても寂しそうな雰囲気を背負ってるように見えたから、私はどうしても見て見ぬふりができなくて、思い切って声をかけた。そこから私たちの関係は始まったね。
イザナがどれだけ覚えているかは分からないけれど、私は今でも全部思い出せる。あの時、勇気を出して声をかけて良かったって思っているから。だって、もし私があの時声をかけなかったら、私たちはそれから先もずっと、出会うことはなかったかもしれないじゃない?出会っていたとしても、知人にすらなれなかったかもしれない。そう考えたら、声をかけたことは間違っていなかったなって思うの。
最初の頃は凄い警戒されて、何だか野良猫みたいって思っていたんだ。多分言ったら怒るよな、って思ってたから言えなかったんだけれど、この際だから正直に言っておこうかなと思いました。
でも、少しずつその警戒を解いてくれたことは本当に嬉しかった。手懐けた、とかそういう意味じゃなくて、少しだけでも私を信用してくれたのかな、って思えたから。
ありがとう、私のことを信じてくれて。
少しの間だったけれど、私はイザナの傍にいられて凄く嬉しかったし、楽しかった。出会う前、どうやって過ごしていたのかを忘れてしまうくらい、イザナと一緒にいた日々はキラキラしていた。
世界が変わる、ってこういうことをいうのかなって思ったくらい、私の日々は変わった。
私たちは知人とも、友人とも、恋人とも言えない関係だったけれど、それはきっと、一言では表すことができない特別で、曖昧な関係だったんだろうなって思う。
でも、そんな関係だったからこそ、私たちは一緒にいられたんだろうね。
私はもうイザナの傍にはいられないけれど、遠くでずっとイザナの幸せを願ってます。
喧嘩も抗争も、できればほどほどにね。命あっての物種だからね。
それから、食事もちゃんと食べてね。体が資本だよ。
うざったいと思われるかもしれないけど、これが最後だから。
それじゃあ、さようなら。
これからのイザナの人生に、沢山の幸せがありますように。
ナマエ
◆◆◆ ◇◇◇
二人の関係に名前を付けるとしたら、一体何だったのだろうか。
知人――そう呼ぶにしては、二人はあまりにも気を許し合っていた。
友人――そう言うにしては、二人はあまりにも親密だった。
恋人――そう表すにしては、二人はあまりにも遠すぎた。
二人の関係を一言で表せるような言葉は、おそらく存在しないのかもしれない。一言で表すには、二人はあまりにも複雑に絡み合っていた。
「アイツ……」
入院と刑期を終えたイザナが帰宅すると、ドアポストの中に沢山のチラシが詰め込まれていた。どうせ捨ててしまうから、と適当に引き出すと、チラシの隙間から一つの封筒が落ちた。
封筒は、どこにでも売っていそうな真っ白な封筒だった。表面には見覚えのある細い字でイザナの名前が書かれていたが、裏面には何も書かれていなかった。
表面の字で送り主が分かったイザナは、チラシをその辺に投げ置いて封筒の封を切った。中には丁寧に折りたたまれた便箋と、彼の家の鍵が入っていた。
手紙の内容は「拝啓 黒川イザナ様」から始まっており、彼への感謝や心配の言葉、出会ったときのことが書かれていた。それを読み終えた彼は、舌打ちをしてから手紙と鍵を握りしめ、家を飛び出した。
彼は、手紙の送り主である彼女を探した。彼女が今、どこで何をしているかも分からない。もしかしたら、もうここから離れた場所に引っ越しているかもしれない。それでも彼は、思いつく限りの場所を巡って彼女の姿を探した。
彼女に誘われて仕方なく一緒に入ったカフェ。自宅に来る前に必ず立ち寄っていた近くのスーパー。外で待ち合わせをしたときに、よく待ち合わせ場所として使っていた、ブロンズ像のある広場。他にも思いつく限りの場所の向かったが、どの場所にも彼女の姿はなく、あったのは彼の中にあった、その場所での彼女との記憶だけだった。
「勝手にどっか行きやがって……クソッ」
まだ体力も筋力も戻っていない身体で走り続けた結果、体力も足も限界に近づいて思うように動かなくなった。仕方がないので、近くにあった自販機でお茶を買い、休憩がてら側の公園に入った。
入ってすぐのベンチに腰掛け、買ったばかりのそれのフタを開けて一口飲む。冷たい中身が身体の中を通って彼の上がった体温を少しだけ下げる。軽く肩で息をしながら、ふと周りを見た。
公園の中ではイザナよりもずっと幼い子どもが、親と共に遊んでいたり、小学生くらいの子たちが数人で鬼ごっこをしている。時折楽しそうな声が響いていて、とても穏やかで平和な風景だった。
『あの……良かったらこれ、飲みますか?』
脳裏に過ぎった声。それは彼女と初めて会った時にかけられた言葉だった。
◆◆◆ ◇◇◇
信じていたものが嘘だと知り、信頼していた人から裏切られた。自分の中にあったものが全て壊されたようで、灰のようになって、毎日ただ生きているだけだったある日。たまたま立ち寄った小さくて寂れた公園の、古ぼけたベンチにイザナは腰かけていた。
何をする気も起きなくて、生きている意味も、生きていく意味も分からなくなり、世界の色が抜け落ちていた。だが突然ふっと現れて声をかけてきたその人には、色が少しだけ見えた。灰色だった世界の中で、たった一人、ほんの少しだけ色の付いた人。それが彼女だった。
「あの……良かったらこれ、飲みますか?」
差し出されたのは、何の変哲もないペットボトルのお茶だった。近くの自販機で買ったのか、その表面には水滴が付いている。
突然のことでいまいち理解ができていなかったイザナが、差し出されたペットボトルをぼんやりと見ていると、彼女は一度差し出したそれを引っ込めて、空いていた彼の隣に座り、自身と彼の間に先ほど差し出したペットボトルを置いた。
「突然ごめんなさい。ただどうしても、見て見ぬふりができなくて。お茶、ここに置いておくので、良かったらどうぞ」
彼女は小さく笑った。
イザナは彼女の行動がよく分からないでいた。知り合いならいざ知らず、どこの誰かも知らない、こんな見た目の人間に、わざわざ飲み物を買い、話しかけ、隣に座ってくる。何を目的にしているのか、何の意図があるのか。少しだけ考えてみたが、答えらしいものもヒントらしきものも見当たらず、最終的に考えることを放棄した。
彼女がどんな目的を持っていようと、どうでもいいと思ったのだ。
「えっと……あなたの名前は?」
「……んなの、どうでもいいだろ」
彼は彼女を拒絶した。それでも彼女は困った顔をするだけで、その場から離れようとはしなかった。
その後も、彼女は当たり障りのない内容で彼に声をかけ続けた。だがそれに対して彼が拒絶するような返答を続けた結果、彼女はついに黙ってしまった。
「オマエ、何が目的なんだよ」
ずっとイザナの中に積もっていた一つの気持ちが、口からまろび出た。それを聞いた彼女は少し驚いた顔をしてから数回瞬きをした後、また小さく笑って返答をした。
「何もないですよ。ただ、あなたを見かけたときに放っておけない、って思ってしまって。お節介、というやつですね」
その時、午後五時を告げるチャイムがどこからともなく鳴り響いた。その音を聞いた彼女は、あっ、という表情をしてから立ち上がった。
「私、そろそろ帰ります。それじゃあ、さようなら」
別れの言葉を告げ、彼女は彼に背を向けて公園の出入り口に向かって歩き出した。だが数歩歩いたところで立ち止まり、彼女が振り返った。
「もしまたどこかで会えたら、その時は名前、教えてくださいね」
その言葉を残して去っていく彼女の姿を、イザナはただ黙って見ていた。彼女の姿が見えなくなったところで、彼はふと、自分の隣に置かれたままの未開封のペットボトルを見た。表面に付いていた水滴たちは既に下へと流れ、古びた木のベンチの表面に丸いシミを作っていた。
彼はそれを手に取り、フタを開けて中身を飲んだ。ぬるくなった中身が彼の喉を通って、渇きを潤していった。
全て飲み終えた彼は、空になったペットボトルを片手にふらりと立ち上がった。持っていても使い道のないそれを、その辺に捨てていこうかと一瞬考えたが、なぜかそんな気分にはならず、手に持ったまま公園を後にした。
翌日、イザナの足は自然とあの寂れた公園に向かっていた。公園は昨日と変わらず誰の姿もなく閑散としている。公園に一つしかないベンチには、昨日付いたあの丸いシミは既になくなっていた。
彼自身も、どうしてまたここに足を運んだのか、どうしてまた同じ場所に座っているのか、よく分からなかった。
ただ何となく、本当に何となく、ここに来たらまた彼女に会えるかもしれない。そんな薄い、淡い期待のようなものがあった。
「昨日ぶりですね」
声がした方を向くと、そこには昨日と同じ微笑みを浮かべた彼女が立っていた。
「これ、良かったらどうぞ」
そう言って彼女が差し出したのは、昨日と同じペットボトルのお茶だった。
◆◆◆ ◇◇◇
イザナはベンチから立ち上がると、近くにあったゴミ箱に空いたペットボトルを投げ捨て、再び走り出した。まだ一か所、見ていない場所があったのを思い出したのだ。
途中の自販機でペットボトルのお茶を一本買い、向かった先は小さな寂れた公園。彼女と彼が初めて出会った場所だった。そして公園内唯一のベンチには、一人の女性が腰かけて俯いていた。
「……オイ」
「……な、んで」
声をかけられ、俯いていた女性が顔を上げた。そしてイザナの顔を見た途端、目を見開いた。その様子を気にも留めず、彼は途中で買ったペットボトルをずい、と差し出した。
「これ、やる」
それは、あの時彼女が彼に差し出したものと同じお茶のペットボトルだった。
*
汗をかいたお茶のペットボトル一つを挟んで、二人は並んで座っていた。いつもならあちこちで鳴いている鳥たちは寝静まり、うす暗い街頭一本だけの寂れた公園に立ち寄る人もいない。夜風も特に吹かず、公園内はとても静かだった。
「どうして、ここが分かったの」
黙っていた彼女がそっと口を開いた。イザナは小さくため息を吐いて、その問いに答えた。
「オマエと初めて会った場所だったから」
イザナは背もたれに預けていた上半身を起こし、ずっと握りしめていた手紙を彼女の前に突き出した。それを見た彼女が動揺しているのを見つつ、彼は言葉を続けた。
「こんなくだらない手紙一つ残して、勝手にいなくなるな」
そう言い、彼は握りしめていたそれを彼女の膝の上に落とした。彼女は複雑な表情をしながらくしゃりと歪んだ手紙を丁寧に広げ、折りたたんだ。
彼女が何も言わないことに少しだけ苛立ったイザナが言葉を続けようとしたが、口から出そうだった言葉は、彼女の様子を見て寸でのところで止まった。
彼女は静かに涙を流していた。
「くだらなくなんか、ないよ。これは、この手紙は、私の……」
ぽたりぽたり、と落ちる雫が便箋に落ちてシミを作る。初めて見る彼女の様子に、イザナは言葉を失った。どんな時も彼女は笑っていた。喧嘩で怪我をして帰って来た時も、返り血で汚れて帰って来た時も、数日家を空けていた時も、彼女は泣くことはなかった。ただ眉を下げて、「心配したよ」と言って笑っていた。
彼女は一度だって、イザナの前で涙を見せたことがなかった。
「最後だと思ったのに、もう会わないと思ったのに……」
「勝手に最後にすんじゃねぇ」
「最後だよ。手紙にも書いたでしょ?私はもう要らない。今のイザナには、沢山の仲間がいる。イザナの隣を歩ける人たちがいる。肩を並べられる、同じ道を進める人たちがいる。だけど、私は隣を歩けない、肩を並べられない、同じ道を進めない」
彼女は小さな嗚咽を漏らしながら、身を丸めて泣いた。イザナは、彼女が言っていた言葉の意味が分からず、ただ苛立ちが募るだけだった。
なぜ彼女が泣いているのか。そもそも「自分の隣を歩けない」「肩を並べられない」「同じ道を進めない」というのは一体どういう意味なのか。天竺のメンバーはただの部下、あるいは下僕に過ぎないというのに。彼女の代わりになる存在などいないというのに――。
そこまで思いが巡って、イザナはようやくこの苛立ちの理由に気づいた。
手紙を覆い隠すように身を丸めて泣く彼女の肩に、そっと手を置く。それに驚いた彼女がぴくり、と肩を震わせ、ゆっくりと身体を起こした。
泣き腫らして真っ赤になり、涙で潤む彼女の瞳がイザナを捉えた。彼女の瞳には歪んで写り込んだイザナの顔がある。今にも零れ落ちそうになっていた涙が、はらりと目尻から落ちた。彼が彼女の肩から手を放し、そっとその涙をすくった。
今まで、イザナがこんなにも彼女の体に触れたことはなかった。元々お互い性的欲求は持っておらず、お互いにも向くことはなかった。だからこそ、二人は二人にとって居心地のいい距離感と関係で、今までずっと一緒にいることができたのだ。そしてその距離感と関係を一番望んでいたのは、イザナだった。
だが他の誰でもないイザナが、その距離感を壊した。
「オマエの代わりになるヤツなんかいない。オレはオマエだったから、今まで傍にいることを許していて、オマエだったから、わざわざ家の鍵まで渡した。この意味は、分かるよな?」
その言葉を受けた彼女は、混乱して上手く言葉が出せず、はらはらと涙を零しながら彼を見つめることしかできなかった。その様子を見た彼は、小さくため息を吐いた後、彼女の肩を抱いてそのまま自分の方へと抱き寄せた。そのせいで、二人の間に置いてあったペットボトルが倒れ、足元に落ちて鈍い音を立てた。
「オレの周りに誰がいようと、オレがどんな道に進もうとも、オレと肩を並べていい女はオマエだけ。だから、オレの許可なく勝手にオレの傍から離れんな」
「……そういうこと言われたら、勘違いしちゃうよ」
「しとけ。それでオマエがこの先も、オレの傍にいるならそれでいい」
「……ありがとう」
その時、びゅう、と一陣の夜風が吹いた。その風は彼女の膝の上にあった手紙を宙にさらい、そのまま暗い木々の方へと放り出してしまった。
彼女があっ、という表情をして手紙の消えた方へ手を伸ばした。その手紙は、彼女にとってはただの別れの手紙ではなかった。彼女にとってあの手紙は、最初で最後の、イザナへの精一杯のラブレターだったのだ。
「飛んでいっちゃった……」
「別にいいだろ。どうせもう要らねーもんなんだから」
「……あれ、私からイザナへのラブレターだったんだ」
「……そういうことは早く言えよ。あと、ラブレターだって言うなら『好き』の一言くらい書け」
盛大なため息を一つ吐き、イザナは立ち上がって手紙の消えた木々の方へと足早に向かった。彼女も慌てて立ち上がり、その背を追った。
彼女は自分よりも先に手紙を探してくれているイザナの姿を見ながら、少しだけ微笑んだ。一言とて「好き」と書いていない、別れの言葉ばかりのラブレターらしくないそれを探してくれている事実が、とても嬉しかった。
「ったく……」
「イザナ」
「あ?」
「ありがとう。今までもこれからも、ずっと大好き」
イザナはその言葉に返事をせず、探す手を止めなかったが、その横顔には微笑みがあった。
手紙を探して数分後、木々の根元に生えた雑草に引っ掛かっている手紙を彼が見つけた。手で軽く汚れを払ってから、別の場所を探す彼女に声をかける。手紙が見つかったことを知った彼女は、体を起こして「良かった」と言い、笑った。
「ありがとう。これ、他の人に見られるのは流石に恥ずかしいから……」
「だったらちゃんと持っておけ」
「うん。ごめんね」
そう言って彼女がイザナの手にある手紙を受け取ろうと手を伸ばした時、彼が手紙を持った手をサッと上げて彼女の手を避けた。
「誰が返すかよ。これはオレのだ」
「え、でももう要らないって――」
「気が変わったんだよ。戻るぞ」
イザナは手紙をもう半分に折りたたんで、手と一緒にズボンのポケットに突っ込んで歩き出した。だが数歩進んだところで、足を止めて踵を返し、後ろにいる彼女の方へ片手を差し出した。
「手」
「え?」
「手、貸せ」
彼女が差し出された手に自身の手を乗せると、彼はその手を握って再び歩き出した。まさか手を繋ぐことになるとは思ってもいなかった彼女は、嬉しさと恥ずかしさで少しだけ俯き、彼に着いて歩いた。
ベンチの所まで戻って来た二人は、再びそこに腰かけた。落ちていたペットボトルを彼女が拾い上げ、付いていた汚れや砂などを払い、フタを開けて一口飲んだ。
「オレも」
彼女の返事を聞かずにフタの開いたままのペットボトルを彼女の手から奪い、そのまま彼が一口飲んだ。そして何事もなかったかのようにそれを彼女に返した。
あまりにも唐突だったので、彼女が驚いて一瞬固まったため、ペットボトルを受け取るのが一拍遅れた。
「帰るぞ」
「――あ、うん。もういい時間だもんね」
「鍵、あんだろ」
「鍵?」
「さっき渡しただろ」
彼女は先ほど渡されたときに封筒の中に入れていた鍵を取り出した。飾りも何も付いていないそれは、イザナの家のものだ。いまいち状況が呑み込めない彼女がうろたえていると、彼は小さくため息を吐いてから後頭部を乱暴に掻いて、再び彼女に言葉をかけた。
「今日は泊まっていけ。拒否権はねぇ」
「えっ!?と、泊まりって。私何にも――」
「うるせぇ。さっさと帰るぞ、ナマエ」
彼が彼女の名前を呼んだのは、これが初めてだった。彼女はうっすら目元に涙を浮かべてから笑って、彼の腕にそっと自身の手を添えた。
「あとで買い物と連絡だけさせてね」
「あぁ」
二人は手を繋ぎ、肩を並べて、寂れた公園を後にした。