貴方を想って前を向く




それは突然だった。

「なんで……?」

目の前には血の気の引いた肌色をし、静かに目を閉じる彼の姿があった。
ナマエは涙が出ないほどのショックを受け、その場に立ち尽くしていた。

“イザナが死んだ”。その連絡を受けたとき、彼女は家で彼の身を案じていた。連絡を受けた瞬間に弾かれたように家を飛び出し、彼がいる病院へと駆けた。
肌を切りつけるような冷たい空気も一切感じないくらい体が熱い。それだけ全力で駆けていた。心臓が、足が、一秒でも早く彼の元へ辿り着くように彼女を突き動かしていたのだ。

病院に着く頃には、彼女の顔は冷たさと走ったことによって巡りが良くなった血行で真っ赤になっていた。肩で息をしながら院内に入り事情を説明すると、看護師の女性が彼の遺体が安置されている安置室へと案内された。
そして冒頭に至る。

頭を殴られたような衝撃を受けたナマエは、少しずつ呼吸が浅くなっていった。どうして彼がここにいるのか、本当は眠っているだけではないのか。そんな考えが彼女の頭の中を埋め尽くす。

ふらつきながら彼の元へと向かう。何度も隣で見てきた彼の眠った顔にそっくりなその顔を見て、やっぱり眠っているだけじゃないかと思った彼女が、浅い呼吸のせいで痺れた指先でそっと彼の頬に触れた。
彼の頬は人のものとは思えないほど冷たく、そして硬かった。その瞬間、彼が本当にいなくなってしまった事実が彼女の胸を貫き、淡く儚い、縋るような彼女の思いも粉々に砕け散った。

「やだ――」

脚から力が抜け、膝から崩れ落ちる。

「いやだ――」

呼吸がさらに浅くなる。指先が痺れ、視界がブレる。

「イザナ、おいてかないでっ……!」

◆◆◆ ◇◇◇

あの日から彼女は自室に閉じこもっていた。
食事も取れず眠れもせず、ただベッドの上で体を丸めて横になり、彼とのやり取りが全て詰まった携帯を眺め続けていた。
いつの間にか夜が明けて空が白み始めた。閉め切られたカーテンの隙間から少しずつ陽の光が差し込んでくる。それに気づいた彼女は布団を頭まで被って光から逃げた。

件名にたくさんの“Re:”が付いたメールを見返すと、彼と過ごした日々を鮮明に思い出せた。このやり取りはちょうどちょっと喧嘩をして離れていたけど、後に話し合って仲直りした時のもの。あぁこのやり取りは――。

思い返せば本当に幸せな日々だった。時折危ないことに巻き込まれかけたりしたけれど、それも彼が守ってくれたり気を遣ってくれたからこそ回数は少なかった。だから彼と過ごす日々は、喧嘩や抗争などからは遠く離れた平穏なものだった。
ふと何気ない瞬間を思い出す。隣に座っている彼が自分の肩に頭を預けてきたこと、優しく手を握ってくれたこと、穏やかな笑みを向けてくれたこと……。さまざまな瞬間を思い出す度、彼への想いが胸いっぱいに広がって彼女の胸をきつく締め付けた。

『明日の抗争はデカいから、オレも無傷じゃ帰ってこれねぇと思う』

彼が命を落とした抗争の前夜、彼は突然彼女を呼び出した。
夜に呼び出されることは時折あったので、その夜もいつものように出かける準備をして家を出ると、すでに彼がバイクにまたがって待っていた。
その時の彼の様子はいつもと変わりなかったが、彼が向かった先である港の一角に着いた時、彼の様子が少し違っていた。

その場所は、彼との初めてのデートで来た場所だった。曰く“人が少ないから静かな場所”らしく、彼が気に入っている場所だった。
この場所自体には何度か来ていたので特別違和感はなかったが、彼の雰囲気がいつもと違っていたのだ。まるで何か覚悟を決めたような、そんな雰囲気があった。

今思い返せば最後に彼と会ったその夜、自分に何かできたのだろうか。と考えてしまう。そんなこと考えても仕方ないというのに――。

『必ずお前のところに帰ってくるから、待ってろ』

そう言った彼は口端を少し上げただけの硬い微笑みをしてナマエを抱きしめた。彼女はその言葉を信じ、そして彼が無事に帰ってくることを願って抱きしめ返した。

「イザナ……。帰ってくるって、言ったじゃん……」

あれから何日も経ったのにも関わらず、まだ彼がいなくなってしまったことが受け入れられない彼女は、今日も一人涙を流していた。
彼からの連絡を知らせる着メロが携帯から流れるんじゃないか、そう思ってメールの送受信を何度も行っても、届くのは彼以外の人からのメールばかりだった。

「一人に、しないでよ……」

泣き疲れた彼女は、そのまま意識を失うように眠りについた。

◆◆◆ ◇◇◇

眠りが浅くなったことで、彼女は眠りにつくと必ず夢を見ていた。
それはいつも同じもの。優しく心地よい風が吹く小道を、彼と二人手を繋いで歩いていた。時折近くを流れる小川を見てみたり、木陰のベンチに腰掛けて他愛もない話をしてみたり……。
それはそれはどこまでも彼女に優しく、そして残酷な夢だった。

「いざ、な。……また名前、呼べなかったや」

今日も彼の名前を呼ぼうとした瞬間に目が覚めてしまった。彼がいない現実に戻ってきてしまったことが辛くて、再び目を閉じる。
彼女も分かっていた。このままではいけないと。それでもそう思えば思うほど、彼を想ってしまってここから抜け出せなかった。

「もう、涙も出ないや……。泣きすぎちゃった、から……」

今の彼女は、どれだけ悲しくても苦しくても上手く涙が流せなくなっていた。それだけ日々涙に暮れていたのだ。
ようやく食事を取れるようになり、眠りにも少しずつつけるようになった彼女だったが、眠りにつけるようになったことで、毎回眠りにつく瞬間は“このまま彼のところへ行けますように”と無理な願いを抱きながら眠りにつくようになっていた。

「わたしも、つれてってよ……いざな……」

一人呟く。その言葉は彼女以外誰もいない暗い部屋に溶けた。

「ナマエ」

夢の中の彼が愛おしそうに彼女の名前を呼んだ。
ナマエは彼の元へ駆け寄り抱きついた。仄かに香る彼の匂いが彼女の胸を締め付け、枯れた涙腺を突く。
抱きつかれた彼は、穏やかな顔をして自身の胸部に顔を埋めている彼女の頭を優しく撫でた。

「ナマエ、ごめんな」
「……なにが?」
「約束、破っちまっただろ。“必ずお前のところに帰る”って言ったのに、帰ってきてやれなかった」
「……そうだよ。絶対許さないから……。この先、どんだけ謝られても、土下座されても、絶対に許さない……」
「……そうか」

彼はそれ以上言葉を言わず、ただ静かに彼女の頭を撫でていた。
彼女は何となく察した。きっとこの夢が最後になるのだろうと。もう夢の中であっても彼に会うことができなくなると。
受け入れたくなかった。それでもいつか別れが来ることもどこかで分かっていた。ただ“その時”が来ただけ、そう思っても気持ちが認めようとしなかった。

「ナマエ……」

名残惜しそうに、寂しげに彼が名前を呼ぶ。その直後、彼は痛いほど強く彼女のことを抱きしめた。突然のことで驚いた彼女だったが、すぐにそれに応えて彼に回していた腕に少し力を入れ、彼を強く抱きしめた。
彼も、彼女と同じようにこれが“最後”だと分かっていた。だから強く抱きしめ、彼女の存在と温もりを感じたかったのだ。

「ねぇイザナ。私、イザナと一緒にいた日々のことを絶対に忘れない。死んでも忘れないよ。……イザナも、忘れないでいてくれる?」
「当たり前だろ。お前といた日々は、一秒だってどんなものだって忘れるわけねぇ。あの世まで持っていく」
「……イザナ、今まで本当にありがとう。こんなに大好きな人も愛した人も、イザナ以外いない。きっとこの先の人生でも、イザナ以上の人はいないと思う」
「当たり前だ。オレ以上の男がいてたまるか。……でも、もうオレはお前の傍にいてやれない。守ってやることも、幸せにしてやることもできねぇ。だから――」
「言わないで。……分かってるから。でもまだもう少し時間がかかりそうなんだ」

それから二人は少しの間、無言で抱きしめ合っていた。優しく穏やかな風が二人の髪を揺らして通り過ぎる。だがその風が徐々に強くなり始めていった。きっと本当の別れの時間が近づいてきているのだろう。

「ナマエ、こっち向け」
「うん――」

彼女が言われた通り彼を見上げた瞬間、彼に唇を奪われた。
触れるだけのものを数回してから、彼女を求めるように深いキスをする。彼女もそれに応えるように舌を絡ませれば、やがて彼女の口端からどちらのかも分からない唾液が溢れた。

息苦しさから浮かんだ生理的涙で潤んだ瞳を彼に向ける。彼の顔は涙で少しぼやけてはいたが、とても優しくでも寂しげな微笑みをして彼女のことを見つめていた。

「どこの馬の骨とも知らねぇヤツに譲る気はねぇが、仮にお前が“いい”と思ったやつがいたら考えてやるからオレに報告しにこい」
「そんな人、いるわけないじゃん」
「仮に、の話だ。……オレはずっとお前のことをオレで縛り付けておきたいのが本音だけど、それ以上にお前が笑ってる姿が見てぇ」

彼はそう言って彼女の額にそっとキスを落とした。
彼女はその場で言葉を失い、立ち尽くしていた。そんな姿を見た彼は、彼女に向けて言葉を投げかけると、彼女に背を向けて歩き出していった。

『オレはお前の笑った顔が何よりも好きだった。お前の幸せを願ってる』

その言葉が耳に届いた後、彼女は目を覚ました。目元に少し違和感があったのでそっと手で拭ってみると、少し水分が付いた。きっと寝ている時に涙を流していたのだろう。

「最後だって分かってたんだ……」

今までの夢の中ではいつも手を繋ぎ、並んで歩くだけだった。だけど今回はそんなもの一切なく、力強く抱きしめ合いお互いを求めるかのように深いキスをした。
あれらは全て、お互い“あれが最後になる”と分かっていたからだろう。最後だったからこそ、記憶に焼き付けるようなことをしたのだ。口ではあんなことを言っていたが、結局彼は最期まで独占欲が強かったということだ。

「……まだもう少し時間がかかりそうだよ。イザナのせいだからね」

彼女は久々に現実で笑った。それは口端だけを少し上げる、微笑みとも言いにくい小さな笑みだった。
締め切っていたカーテンを少しだけ開け、外を見る。ずっと見たくなくて目を背け、逃げていた外の世界を見ると、ちょうど夜が明ける頃だった。

「イザナ、ありがとう。私、これから少しずつ前を向いていくね」

白み始めた空を見つめながら呟く。昇り始めた太陽が柔らかくも強い陽の光で街を照らしていく。

「ナマエ、ずっと愛してる。幸せにならねぇと許さねぇからな」

夜明けを見つめていた彼女の後ろで、誰かがそう言った気がした。