忘れられない愛でした
もし、私と彼が血の繋がったきょうだいであったら、私は彼の還る場所になれたのだろうか。
もし、私が彼にもっと早く出会っていたら、私は彼の隣に立つ資格を得られたのだろうか。
もし、もし――
『オマエはオレの何にもなれねぇよ』
冷たい声を浴びて、ハッと目が覚める。まだ室内が薄暗いので、今が夜であることは分かった。
「……はぁ」
嫌な夢を見た。よりにもよって今日この日に。
大好きだった彼と離れ離れになったのは、もう十数年前のこと。私も彼もお互いまだまだ子どもで、先のことなんてきっとちゃんと、考えられていなかった。
彼が私の元を去った日は大雨が降っていた。ドラマの切ないシーンや悲しいシーンで雨が降る演出が入るが、まさかそんな「演出」が自分の時にも起こるとは思ってもいなかった。
『二度とオレの前に現れるな』
そう言って彼は雨の中、傘も差さずにどこかへと行ってしまった。去っていくその背中はとても小さくて、寂しくて、今にも消えてしまいそうで。雨なんて関係なく、見るからに声を上げて泣いていることが分かるのに、決定的な拒絶の壁を感じて追えなかった。
あの時のことは今でも後悔している。彼は泣いていたのだ。泣いていたのに、弱っていたのに、私は手を握ることができなかった。泣いて震えるその体を抱きしめることができなかった。
本当に弱い人間だった。どうしようもなく弱い人間な自分のことを許せなくて、あの時どうして追わなかったんだろうとずっと後悔して、成人して何年も経った現在もそれを引きずっていた。
「馬鹿馬鹿しい」と自分でもそう思う。それでも、この年齢まで生きてもなお、彼を超えるほど好きになった人も、愛した人も、心を奪われた人もいなかった。出会えなかった。見つからなかった。
私の恋心は、あの時からずっと止まっている。
「ほんと、未練タラタラだなぁ」
水道からくんだ水を一口飲んでから自嘲をこぼす。長い付き合いの友人も少し前に食事に行った時に「そろそろ別の人探したら?」と言った。分かっている、私だっていい加減この想いに区切りを付けなければいけない。いつまでも学生時代の恋愛を引きずっているなんて、年齢的にもどうなんだって思う。
でも、それでも、私はあの日見た彼の小さな背中を忘れることができなかった。
使ったコップをシンクに置いて再び寝室へと戻ると、パラパラと雨が降り始めた音がした。彼から拒絶される夢を見て、彼と別れた日を思い出して、その日と同じように雨が降るだなんて、なんて皮肉なんだろう。
「……元気にしてるかな、イザナ」
久々に口にしたその名前は、雨音の響く室内に溶けて消えてしまった。だけど、やっぱり彼を想う気持ちだけはいつまでも残り続けて、私の首を真綿で締め付けていた。
◆◆◆ ◇◇◇
今日は八月の終わり。夏真っ只中な季節、ではないにしてもそれと同じくらい暑い。九月は目前だが、残暑はまだしばらく続きそうだと考えたらため息がこぼれた。
私は今働いているこの会社にヘッドハンティングをされた。給料も福利厚生も勤務時間も、前職よりもずっと良く、私は二つ返事で転職をした。ちなみにこの会社の社長さんは私より一つか二つほど下なのだが、バリバリのやり手でその名を轟かせているらしい。
私はよく知らないが、どうやら様々な業界に知り合いがいるようで、その中には有名なレーサーやデザイナーもいるんだとか。同じくらいの年齢なのに、ここまで違うのかと考えてしまい再びため息が出る。
「どうしたの?そんなにため息ついて」
「あぁ、いや……。なんか、私って何もないなぁって思って」
声をかけてきたのは、私の隣の席に座る同僚だった。その子は仕事も出来て気配りもできて美人さんで、私と反対にいるような子だった。
別に私だって努力をしていなかったわけではない。仕事だってそれなりには出来ると思うし、資格だっていくつか持っている。身なりにだってそれなりに気を遣っているし、周りを気にかけている。それでも、この同僚を見ていると自分がちっぽけに思えた。
「そんなことないでしょ!資格だって持ってるし、実績だってあるし、フォローが上手だから上司も先輩も後輩も、みんなあなたに信頼を置いてるじゃん」
「……ありがとう。私、ちょっと休憩してくるね」
居た堪れなくなった私は、財布とスマホを手に取って席を立った。
休憩スペースに来た私は、近くの自販機で缶コーヒーを買い、設置されているソファに腰掛けた。ここのソファはクッション部分がとても柔らかく、座ると割と下に沈む。常々思うが、これは腰に悪いのではないだろうか。
カシュとプルタブを引き上げ、開いた飲み口にそっと口をつける。さぁ一口飲もう、と思った瞬間に上階の休憩スペースから話し声が降ってきた。
「次はどこに行くんだ?」
「次は東南アジアの予定だ。二年前に建てた学校の様子を見に行く」
「あぁ、あの学校か」
片方はおそらく社長だろう、しかしもう一人の声は誰だか分からなかった。しかし、どうしてかその声に心が震えてしまって、私はそっと缶コーヒーをローテーブルに置いた。
「そういえば、少し前にウチに入ったヤツがいるんだが、もしかしたらと思って。……あぁ、そうそう。この社員なんだが、アンタが探してたヤツじゃないか?」
私のいるところからよく見えないが、おそらく会話的に社長が話している相手に、少し前にこの会社に転職した社員の何かを見せているようだ。この会社は社員数がそこまでいないとはいえ、一介の平社員である私が全員を把握できるほどの人数ではない。だから、偶然にも私と同じ時期に転職してきた社員がいるのだろう。そう考えていた。
だがその考えは、すぐに壊された。
「あぁ、コイツだ」
カラン、と微かな音が聞こえた。その時、私の頭の中に昔の記憶が色鮮やかに、鮮明に、甦ってきた。
――そうだ、この音は……イザナのピアスの音。
「やっぱりな。対抗企業にいたから、好条件を提示してヘッドハンティングしといたんだ。感謝してくれよな」
「なんだ、飯でも奢れってことか?」
「ンなこと言うかよ。旨い飯ならいくらでも食えるし、わざわざアンタに奢ってくれなんて言わねェよ。言葉のアヤみたいなもんだ」
「……なぁ、コイツ――」
「分かってる。これからアンタの専属にする、後は好きにしろ。あぁでも、ウチから引き抜くっていうなら、飯の一つくらい奢れよな」
楽しそうなやり取りだと思った。それと同時に酷く胸が締め付けられて、思わず唇を噛み締めた。だって相手の声が、あまりにも彼にそっくりだったから。姿は見えてなくて、音しか聞こえていないのに、それでも確信を持ててしまう自分がいるから。人は音の記憶から忘れていくというのに、十年以上経った今も、ピアスの揺れる音まで覚えているから。
閉まっておいた気持ちと、綺麗に色付いて輝く思い出たちが、とめどなく溢れて私の胸を埋め尽くしていくから。
「……イザナ」
胸の内に溢れたものたちは一つに混じって、その一言と成って口からまろび出た。そこで私はハッと我に返り、慌てて缶コーヒーを手に取って逃げるようにその場から立ち去った。
逃げたいと思ってしまった。あんな夢まで見るくらい、忘れられなかったくせに逃げたくなった。あの場に居続けたら、もう一度彼の姿を見てしまいそうな気がして、それがどうしてか怖くて、居ても立ってもいられなくなった。
自席があるオフィスに戻ろうと、胸元にかけていた社員証を手に持ち、壁に設置された認証機にかざしたその時だった。
「逃げるな」
ピピッという機械音が、ドアが開錠したことを知らせた。だが、私はその場から動けなくなってしまった。今、おそらく私の後ろにいるのであろう声の主は、私が振り向くのを待っているのだろう。あぁ、一歩遅かった。
ドクンと胸が痛いほど高鳴った。なんだか目頭が熱ってきたし、視界も若干滲んでいる気がする。
「ナマエ」
その声は昔よりも少しだけ低くなっていて、年齢以上の色気のようなものがあった。私の持ちうる言葉で表現するのは本当に難しくて、数少ない言葉を漁って繋げてできた、声を表す一文は『艶やかで色っぽさもある声』だ。簡単に言えば『私の大好きだった声』。だからこんなの、答えが分かりきっているも同然だった。
「いい加減こっち向け」
私は一度深呼吸をした後、目尻の滲みをそのままにゆっくりと振り返った。そこには、案の定見慣れた、久しぶりの顔があった。
私の記憶の中の彼よりももう少しだけ大きくなって、高そうなスーツもしっかり着こなしている。革靴は丁寧に手入れされているのか、汚れ一つなくて綺麗だった。外見や雰囲気は大きく変わったものの、彼の浅黒い肌や紫水晶のような瞳、絹糸のように細く綺麗な髪とまつ毛、そして両耳に下がる月の札柄のピアスは変わらなかった。
「やっと向いたな」
「……イザナ、なんだよね?」
「オイオイ。オレのこと忘れたのか?」
「いや、だって……。『あの時』に、『二度とオレの前に現れるな』って言ってたから、まさか逆にこっちに来るとか思わなくて、だから、嬉しいけど信じられなくて……よく分からないんだ」
目の前の彼――イザナは、一瞬固まった後、小さく舌打ちをした。そして、困惑して動けないでいる私の元へ、数歩で距離を詰めて私の前に立つと、見下ろした状態でこう言った。
「あの時のオレは、全ての『愛』を信じられなくなっていた。だからオマエにもそんなことを言った。オマエからの『愛』は、確かにオレだけに向けられていた『愛』だったのにな」
自嘲したイザナは、そっと私の顔の方へ手を寄せると、その手で私の片頬を包むようにしてから、目尻を優しく親指の腹で触れた。あぁほら、こういう優しいところがまた胸を締め付けて、しまっておいた彼への想いを絞り出していくんだ。
「……あの時は、悪かった」
イザナが謝るだなんて思ってもいなかった私は、言葉を失い、ポカンとしてしまった。私と別れてから、一体何があったんだろうか。私の覚えている彼は、決して謝ることなんてなかったのに。
私が驚いて言葉を失っていることに気づいたのか、彼は少しだけ眉をひそめてムッとした表情をし、私の頬を軽くつねった。こういうところは十年以上経っても変わらないみたいで、なんだか嬉しくなる。痛いけれど。
「今日の夜、空いてるよな」
「え、うん。空いてると思う」
「なら、夜に飯でも行こうぜ」
夜空いていることは決定事項なのか、なんて一瞬思ったりはしたが、実際空いているのは事実だし、何よりイザナと再会できた上に食事のお誘いをもらったのだ。何かがあってもきっと空けただろう。
私が頷いて返事をすると、彼は微笑んで私の頬をひと撫でして去っていった。
自席に戻った私は、ふと机の上に置かれたノートパソコンのディスプレイの隅を見た。やっぱりそうだ、今日は――
「どうしよう……」
表示されている日付は『八月三十日』、イザナの誕生日当日なのだ。
今からでは何も準備ができない。簡単なプレゼントを準備することも難しい。私はその場で頭を抱えて深いため息を吐いてから、重要な事実に気づいた。
私と彼は、今はもうただの知り合い。恋人でも何でもないし、もしかしたら友人ですらないかもしれない。そんな自分が、仮に何かしらのプレゼントを用意したところで、彼が受け取ってくれるかも、喜んでくれるかも分からない。
――……とはいえ、なぁ。
気付いていない振りをするのは、やはり申し訳ない気がした。せめて、「おめでとう」の一言くらいは言おう。そんなことを考えながら仕事をしていたら、あっという間に午後の時間が過ぎ、定時となった。
私は急いで退勤し、オフィスを出た。いつになく早足なのはきっと、彼と食事に行くことが思っていた以上に楽しみだからかもしれない。
結局私は、あの時からずっと、変わらず彼のことが大好きなのだ。
◆◆◆ ◇◇◇
「イザナ」
「ん、なに」
「誕生日、おめでとう。まさか今日会えるとは思ってなかったから、何にも用意できてないんだ。ごめんね」
「別に、そんなもんに期待なんかしてねーよ。言葉だけで十分だ、ありがとな」
「そ、そう」
「あぁでも、今からでもくれるならもらうぜ」
「え?でも今からじゃお店なんてどこも閉まってるよ」
「モノなんかいらねぇよ。それよりも、オマエがいてくれたらそれでいい」
「それって、どういう……」
「あの時は手放したが、今度は絶対に手放さない。……もう一度、オレの隣にいて」
彼女ははにかんで、その言葉に頷いた。